タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2019-01-14 (Mon) 13:32

根室本線尺別駅 尺別炭鉱の玄関口として栄えた町も今や過疎地



釧路管内は釧路市音別町尺別(旧・白糠郡音別町尺別)にある、JR北海道の尺別(しゃくべつ)駅。
音別市街から西南西に3.8km離れた原野の中に位置します。
駅前には5~6棟ほどの廃墟が見られ、中には倒壊している家屋もありますが、南西に150mほど歩くと生活の気配がある3軒の民家があります。
今でこそ商店も無い限界集落の様相ですが、かつては尺別川の上流にある尺別炭鉱の玄関口として栄え、市街地を形成していました。
尺別駅の歴史も、この炭鉱と密接に関わっています。





尺別炭鉱は田村耕氏によって1909年に発見されたのですが、本格的な採炭に乗り出したのは1918年の事。
鉱業権が椎葉紀義氏に譲渡され、同年10月には尺別に本社を構える北日本鉱業(株)によって開坑しました。
当初は馬車で石炭を運搬していたのですが、程なくして鉄道省の認可を受け1920年1月にナローゲージ(軌間762mm)の尺別軽便運炭軌道を開業。
この運炭軌道は尺別岐線~尺別炭山間11.7kmを結ぶもので、麓の尺別岐線駅は現在の尺別駅と同じ場所に置かれました。
国鉄も北日本鉱業からの請願を受けて3ヶ月後の1920年4月、既に開業していた釧路本線(現・根室本線)直別~音別間に尺別信号所を設置します。
ただし北日本鉱業の運炭軌道とは軌間が異なり直通運転が出来ないため、駅構内に貯炭場を設けて専用線貨車から国鉄線貨車への石炭の積み替え作業を行っていました。
尺別信号所は設置から5年後の1925年2月、一般貨物の取扱いも行うようになりましたが信号所扱いのままでした。
1928年10月、三菱鉱業(株)が尺別炭鉱を買収しましたが、実際の事業運営は子会社である雄別炭礦道(株)に委ねられました
尺別信号所は1930年4月に一般駅の「尺別駅」となり、旅客・荷物も併せて取り扱う事となりました。
信号所から一般駅に昇格するまでの経緯は『音別町史』にも記されています。

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 大正七年に尺別炭砿が開坑、同時に尺別岐線に向けて炭砿軌道が敷設され、石炭がここに運搬されるようになったことから、大正九年四月一日に尺別信号所が設けられ貨車のみ取扱いが開始された。
 十四年二月一日からは一般貨物の取扱いも開始し、昭和五年四月一日付をもって尺別駅に昇格、旅客の取扱いも開始している。

出典:音別町史編さん委員会『音別町史 上巻』(2006年/音別町)p.818
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1936年10月、白糠丘陵の西側で大和鉱業(株)が経営していた浦幌炭鉱も三菱鉱業(株)が買収し、雄別炭礦道(株)の尺別工業所が運営を担当
1938年には浦幌炭鉱~尺別炭鉱間の索道(ケーブルカー)が供用開始となり、浦幌で産出した石炭が運炭軌道を経由し尺別駅まで運ばれるようになりました。
この頃は尺別炭鉱でも生産量は年を追うごとに増加し、1940年には尺別・浦幌あわせて42万トンの採炭となり、運炭軌道の輸送力に限界が見えてきました。
尺別駅での国鉄貨車への積み替え作業も渋滞が相次いだため、三菱鉱業は1938年6月に改軌(762mm⇒1,067m)による専用鉄道の敷設を申請。
1940年8月にも一部ルート変更等で再度申請し、翌1941年12月に免許を取得しましたが、建設は免許の交付を待たず同年初旬から開始していたそうです。
尺別炭鉄道は平坦区間でのルート変更により軌道時代に比べ0.7km短い10.8kmとなり、1942年11月より運行を開始。
これと同時に浦幌炭鉱~尺別炭鉱間の索道も、「尺浦通洞」(尺浦隧道とも)の完成により電車での運搬に変更されました。
ちなみに私の知りうる限り、尺浦通洞は十勝管内に存在した唯一の電気軌道です。

尺別炭鉱は太平洋戦争中の1942~1944年に最盛期を迎え、従事員は1,000人を突破しました。
この頃、専用鉄道の新尺別~尺別炭山間は通勤客で大変な混雑となり、根室本線尺別~釧路間でもノンストップの運炭列車が運行されました。
しかし1944年9月、戦局の悪化により尺別炭鉱は操業休止指定を受けてしまいます。
休止になった尺別炭鉱では保坑(坑道の崩壊を防ぐための施設維持)が為されず、従事員も多くは福岡県の三菱新入炭鉱に配転されたり、明治鉱業(株)赤池鉱業所に転職しました。


JR北海道 国鉄 雄別炭礦道 雄別炭礦尺別道 貨物列車 尺別炭山駅 JR貨物


戦後の1946年9月にはGHQの指令を受けて三菱財閥が解体される事となり、これに伴い雄別炭礦道(株)が三菱から独立しました。
当時の政府は石炭産業を戦後の経済復興の柱と捉えており、補助金に与かる事となった雄別炭礦鉄道は尺別に炭住を次々と建設。
尺別炭礦鉄道も1948年以降は融資を受けて西武鉄道から客車(ハ1~4)、土佐電気鉄道から蒸気機関車(C12001)を購入するなど、車両の増備を展開。
1954年10月に浦幌炭鉱が閉山すると年間出炭量は13万6000トンに落ち込んだものの、1960年には挽回して25万トンを突破しました。
炭鉱町は石炭の増産に伴って拡大を続け、沿線の林産物・農産物も増加してきたため、開業以来の専用鉄道だった尺別炭礦鉄道は1956年1月より地方鉄道への変更申請を開始。
この間の1959年6月、雄別礦鉄道は雄別礦(株)に社名を改め、同年9月に鉄道部門を分社化し雄別鉄道(株)としました。
そして足掛け6年、尺別炭礦鉄道は1962年1月を以って地方鉄道に変更される事となり、名称も「雄別炭礦尺別鉄道」となりました。
翌1963年には年間出炭量が30万トンに達し、雄別礦尺別鉄道の貨物輸送も1963年度は35万9000トン、1965年度も34万2000トンと好調でした。

しかし当時は「エネルギー革命」の真っ只中で石油の値下がりが続く一方、石炭は採掘コストの上昇、ストライキの多発による供給の不安定化といった問題を抱えていました。
1966年には政府の諮問機関である石炭鉱業審議会が出炭計画の大幅な縮小(年間5千万トン体制)を打ち出すものの、同年度の尺別炭鉱における出炭量は34万トンを数え、炭鉱マン達は逆境に負けまいと日々踏ん張っていたといいます。
ところが1969年4月、同じく雄別礦(株)が経営する茂尻炭鉱でガス爆発事故が発生し46名が死傷。
保安上問題があるとして同年5月に閉山を迎えましたが、この事故対応により雄別礦の資金繰りは急激に悪化します。
もはや会社の存続が不可能と見た経営陣は、1970年2月を以って湧別、尺別、上茶路の全炭鉱の閉山に踏み切りました。
当時の尺別は約4,000人の住民が暮らす音別町内最大の集落で、突然の閉山により人口の大量流出が発生したほか、新尺別駅前の町営住宅が放棄されて町役場職員のリストラも実施されるなど混迷を極めたそうです。
雄別炭礦尺別鉄道は炭鉱を去る人々を引っ越しの荷物と共に送り出した後、1970年4月を以って泣く泣く廃止を迎える事となりました。

1970年12月には根室本線厚内~東釧路間が自動閉塞化され、尺別駅におけるタブレット閉塞の取扱いが終了。
尺別に残った住民は非常に少なく、1971年10月に貨物・荷物取扱いを廃止し完全無人化されました。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承。
現在は音別駅の管理下に置かれています。
かつての隆盛は何処へやら、今や周辺住民が極端に少ない尺別駅は来たる2019年3月ダイヤ改正を以って廃止される事が決定しました。
単線区間の交換駅なので、廃止後は信号場として再利用するものと思われます。





駅舎は木造モルタル造りで、平屋にしてはやけに高い片流れ屋根を有しています。
道外では割とよく見かける片流れ屋根の駅舎ですが、道内においては少数派だと思います。
開業当初の尺別駅の写真を見る限り、この駅舎はどうやら2代目のようですが建替え時期は不明です。
外壁はベージュ色と茶色のツートンカラー。
ここ7~8年の間に駅舎のリフォームが実施されており、ベージュ色部分はサイディング張りとなっています。
以前のひび割れた白壁の方が年輪を感じられて好きだったんですけどね。
正面玄関は二重構造になっていません。





正面玄関の窓ガラスに貼られた「開放厳禁」の注意書き。
「スズメバチや蚊が進入し刺されることがあります」との文言は、同じく音別駅の被管理駅である直別駅にも貼られていましたね。







待合室の様子。
リフォーム前は緑色の壁材を張っており薄暗く感じられたものですが、今や一転して明るいホワイトベージュの塗装を施しています。
左右に橙色の4人掛けベンチを配置しているのは以前と同様です。
出札窓口・手小荷物窓口は跡形もありませんが、駅事務室内に連動装置を設けているため通用口が残されています。





室内には駅ノートに加え、雄別炭礦尺別鉄道を今に伝えるプリントが多く貼られています。
これらプリントの大半は明らかに複数の書籍から引用したコピーで、ご丁寧にラミネートまで施しているのですが、出典を明記していない物ばかりでいただけないですね・・・。
他人の著作物を拝借する訳ですから、著者名、書籍名、出版年、出版社名といった書誌情報を示すのはマストでしょう。





尺別駅に生息するモジャくん。
2019年3月の廃止を以って務めを終える事となります。




尺別駅 駅舎 駅本屋 根室本線


ホーム側から駅舎を眺めた様子。
片流れ屋根には青いトタン屋根を張っています。
庇周りの構造のおかげで、こちら側から見た方が一層レトロな雰囲気を楽しめますね。





改札口の様子。
ラッチが設置されていた痕跡は見られず、正面に風除けの衝立を設けています。
手前の運転事務室はホームを見晴らせるように窓を出っ張らせていますが、改札口の衝立が邪魔して見づらかったんじゃないだろうか・・・と思う次第。





駅舎の北側、駅事務室の勝手口の脇にはテコ小屋(信号テコ扱所)の跡と思しき基礎があります。




尺別駅構内 相対式ホーム

尺別駅構内 ホーム


2面2線の相対式ホーム。
列車接近警報装置が設置されており、列車の停車・通過時には接近放送と警報音が流れるようになっています。
発着するのは普通列車のみで、特急・貨物列車は全て通過します。
駅舎側が1番線で上り本線(帯広・新得方面)、反対側が2番線で下り本線(白糠・釧路方面)として使われています。
ただし1番線は折り返し運転に対応しており、出発信号機・停止位置目標とも双方向分が設けられています。
ホーム全長は1番線が20m車4両分ほど、2番線が20m車6両分ほどです。
床面は何れも未舗装となっています。





2番線ホームには雨除け屋根が設けられています。







2番線ホームの外側に広がる荒地は、雄別炭礦尺別鉄道のヤード跡地。
ホーム上にも意味深な直線状の縁石が見られ、どうやら2番線ホームは尺別鉄道の乗り場を兼ねていたようです。





両ホームを繋ぐ屋根なしの跨線橋。
『音別町史 上巻』(2006年/音別町役場)には「国鉄合理化の関係から跨線橋を設置して、昭和四十六年十月二日付で無人駅となっている」(p.818)とあるので、どうやら完全無人化の直前に設置された物のようです。





跨線橋から駅構内を俯瞰した様子。





跨線橋の手前には構内踏切の跡が残っています。





夕暮れ時の尺別駅に入線するキハ40系2連。


※写真は全て2017年8月15日撮影


(文・写真:叡電デナ22@札幌市在住)


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最終更新日 : 2019-07-02

No title * by rak*a*05*4
ご苦労様です!
鉄研現役時代に夏キャンプで尺別に泊まりました。
当時10件くらい住んでいたように見えましたが、夜は真っ暗でしたね。
なつかしく歴史もある尺別も廃止とは、時代の流れでしょうか。
(OBいしかわ@関東支部)

No title * by 叡電デナ22
お疲れ様です!

その頃でも10軒が残るのみだったんですね。
聞いた話では尺別炭鉱の閉山後に今のような景色になったそうですから、閉山前から暮らす住民が残っているのでしょう。
釧路炭田の盛衰を伝える駅なだけに、廃止されるのは寂しいですね。

お隣の直別駅も廃止されますが、そちらには一度も降り立つ事はなく…。
駅舎が2000年代になって建て替えられたので行く気にならなかったのですが、何だか勿体無い事をしたような気もします。

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No title

ご苦労様です!
鉄研現役時代に夏キャンプで尺別に泊まりました。
当時10件くらい住んでいたように見えましたが、夜は真っ暗でしたね。
なつかしく歴史もある尺別も廃止とは、時代の流れでしょうか。
(OBいしかわ@関東支部)
2019-01-19-11:14 * rak*a*05*4 [ 編集 * 投稿 ]

No title

お疲れ様です!

その頃でも10軒が残るのみだったんですね。
聞いた話では尺別炭鉱の閉山後に今のような景色になったそうですから、閉山前から暮らす住民が残っているのでしょう。
釧路炭田の盛衰を伝える駅なだけに、廃止されるのは寂しいですね。

お隣の直別駅も廃止されますが、そちらには一度も降り立つ事はなく…。
駅舎が2000年代になって建て替えられたので行く気にならなかったのですが、何だか勿体無い事をしたような気もします。
2019-01-23-23:04 * 叡電デナ22 [ 編集 * 投稿 ]