空知管内は砂川市東3条南19丁目にある、JR北海道の豊沼(とよぬま)駅。
砂川市街から南下し奈江豊平川を渡った先にある、郊外の集落に位置します。
この集落を指す元々の地名が「豊沼」なのですが、該当する区画の多くは1960年の住所再編に伴い東{1~4}条南{14~22}丁目または西{1・3~7}条南{14~22}丁目と表示するようになっています。
ただし現在も豊沼の名を冠する住所は残っており、函館本線を挟んで西側の「豊沼町」と、石狩川沿岸の「西豊沼」、道央自動車道沿線の「東豊沼」が見られます。
駅の西側には国道12号線(中央国道)が南北に延びているほか、北海道三井化学本社工場、王子コーンスターチ北海道工場、村田施設工業、サンアグロ砂川工場、北海道電力砂川火力発電所、川上鐵工製作所本社工場などの企業が集結し工業地区を構成しています。
一方、駅の東側には戸建て住宅と長屋が集まる小規模な住宅地があり、町の外れには豊沼小学校があります。
JR北海道 国鉄 JR貨物
豊沼駅は1942年2月、既に開業していた国鉄函館本線奈井江~砂川間に信号場として開設されました。
当地には1922年3月にも豊沼信号所(同年4月に豊沼信号場へ改称)が設置されていましたが、1926年12月の複線化に伴い廃止されています。
豊沼信号場が復活したのは隣接する東洋高圧工業北海道工業所(現・北海道三井化学本社工場)が専用線を敷設し、鉄道貨物の取扱いを開始するためでした。
東洋高圧工業専用線の総距離は2.1kmで、原料の受入と製品の発送に使用されました。
また、工場に通勤する工場従業員の便宜を図り、朝夕2本に限り豊沼信号場での停車客扱も実施されました。
同工業所では1946年よりアンモニア合成工場が稼働を開始し、硫安が製造されるようになりました。
更に1948年には世界初となる肥料用尿素の製造が開始され、各国からの注目を集めたといいます。
その間、豊沼信号場も1947年2月を以って一般駅に昇格し、駅前の人口も次第に増加していったそうです。
簡易委託駅 無人駅 JR貨物 JR北海道 国鉄
1955年1月に北海道電力砂川火力発電所の1号機が稼働を開始すると、豊沼駅構内の南側に石炭列車の荷卸場と貯炭場が設けられ、発電所までベルトコンベアを用いて石炭を運搬するようになりました。
ベルトコンベアは国道12号線を跨いでおり、1958年11月に稼働を開始した2号機についても運炭に活用したそうです。
しかし1968年、北電が砂川火力発電所への運炭をトラック輸送に切り替えたため、ベルトコンベアは跡形も無く撤去されてしまいました。
同じ年には東洋高圧工業が三井化学工業と合併し、三井東圧化学(株)に改称。
1969年にはアンモニア、尿素の製造が終了しましたが、同社の専用線は他製品を輸送するため引き続き使用されました。
1984年には肥料部門が三井東圧肥料(現・サンアグロ)に移管され、専用線も三井東圧肥料が引き継いできます。
豊沼駅では1984年2月に荷物取扱いが終了。
1987年4月の分割民営化に伴い、JR北海道とJR貨物が継承しています。
1990年4月、三井東圧肥料砂川工場が専用線による貨物輸送を終了し、豊沼駅における貨物取扱いも全廃される事となりJR貨物が撤退しました。
JR北海道も1991年6月に駅員の配置を取り止め、簡易委託化に踏み切っています。
1993年6月には簡易委託も廃止され、完全無人駅となりました。
現在は砂川駅の管理下に置かれていますが、同駅の窓口営業時間外は運転取扱駅員も勤務しない完全無人状態になるため、当該時間帯の列車遅延に関する問い合わせは滝川駅が引き受けています。
駅舎は1964年8月に建て替えられたコンクリート建築で、高床式の威風堂々とした外観が特徴的です。
砂川市は空知川が石狩川に合流する立地上、水上交通の発展や稲作地帯の造成など恩恵を受ける一方で、氾濫の頻発による大損害を被り続けてきました。
ここ豊沼駅も1961年、1962年の2年連続で集中豪雨による浸水に見舞われたため、水害対策として床の高い駅舎を建てたという訳です。
正面玄関、職員用出入口ともに階段の上に設置されています。
待合室の様子。
外観は大きめですが駅事務室が広い分、待合室は案外狭いですね。
左右に4人掛けベンチが置かれ、掲示物は少なく簡素なインテリアです。
出札窓口・手小荷物窓口は共に板で塞がれています。
チッキ台には雑誌、文庫本、漫画が数冊と、駅ノートが置かれていました。
改札口横には乗車駅証明書発行機と、列車遅延等の問い合わせ先を示す貼り紙が設けられています。
乗車証明書発行機の傍には意味深に奥まった空間が。
昔はここに売店があったんでしょうね。
無人駅となって久しい現在では使用されないでしょうが、古めかしい蓋を持つ暖炉が残されています。
白塗りの蓋には「八號」と示されていますね。
ホーム側から駅舎を眺めた様子。
緩やかな傾斜の青いトタン屋根を持ち、壁の一部にはブルーグレーの帯が2本引かれています。
高床式の駅舎に合わせ、ホームも築堤の上に設けられています。
改札口にはコンクリート製の簡易的なラッチが残されています。
有人駅時代は左右に駅員が立って改札業務に当たっていたのでしょう。
現在は集札箱が1個だけ設置されています。
改札口の脇には「上り」、「下り」と書かれた2つのツマミが設置されており、ツマミを左に捻ると「入」、右に捻ると「切」とあります。
他所で見た事のないタイプですが、おそらくは運転取扱担当の駅員が場内信号の操作に使っていたものと思われます。
流石に現在は作動しないと思いますが、万に一つを考えて触らないようにしましょう。
2面2線の相対式ホーム。
上下線ともに番線表示はありませんが、隣の奈井江駅、砂川駅の番線を見るに、駅舎側の上り本線が1番線、反対側の下り本線が2番線で間違いないでしょう。
両ホームとも全長は20m車10両分ほどと長いですが、床面を見ると未舗装部分が多め。
停車するのは普通列車のみで、転轍機は貨物取扱い廃止により撤去されています。
2番線ホームは国鉄時代、1面2線の島式ホームとして使用されていました。
ホーム外側の線路は撤去されてしまいましたが、雑草が生い茂る広い更地を見ると何本もの側線が敷かれた貨物輸送拠点であった事が窺えます。
2番線ホーム上には赤錆に塗れた3番線の停止位置目標が残されています。
この停止位置目標ですが上り列車用しか無い上、設置場所からホーム端まで1.5両分の長さしかありません。
豊沼駅で通過列車を待ち合わせるか、或いは豊沼駅始発の1両単行の気動車列車でも設定された事があったのでしょうか?
これはじっくり調べてみたいですね・・・。
両ホームを繋ぐ跨線橋。
屋根の付かない歩道橋タイプです。
跨線橋の設置時期は判然としませんが、改札口前を見ると構内踏切の跡が確認できます。
構内踏切跡のブロックには黄色いチョークで「指差称呼」と書かれており、駅員が踏切番をしたり横断する際に安全確認を怠らないよう徹底させていた事が窺えます。
踏切跡のすぐ傍には「豊沼駅中心」と書かれた標識があり、この場所が豊沼駅構内のちょうど真ん中である事を示しています。
駅舎側は左側のブロックが新品に交換されてしまったため、「指差」の2文字が無くなり「称呼」だけになってしまったのが少し残念。
車掌 白服 盛夏服
2番線に停車した721系と、ホームに降りて安全を確認する車掌。
ホーム上の駅名標。
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最終更新日 : 2019-07-02
No title * by bun*****
跨線橋ができたのは、スーパーホワイトアロー785系が130㎞運転がはじまったころだったと思います。
No title * by 札学鉄研OB会
>らんちゃんさん
どうも、こんにちは。
ご友人のご実家があるのですか。
10年以上前ですと私はまだ高校生でしたね。
記事をお楽しみ頂けたようで、こちらこそありがとうございます。
(叡電デナ22@札幌市在住)
どうも、こんにちは。
ご友人のご実家があるのですか。
10年以上前ですと私はまだ高校生でしたね。
記事をお楽しみ頂けたようで、こちらこそありがとうございます。
(叡電デナ22@札幌市在住)
No title * by 札学鉄研OB会
>bun*****さん
スーパーホワイトアローが走り出した頃という事は1990年ですね。
専用線の廃止とJR貨物の撤退に伴い、運転取扱担当の駅員(輸送係・輸送指導係・輸送主任)が勤務を終了したタイミングで構内踏切を廃止したのかも知れませんね。
(叡電デナ22@札幌市在住)
スーパーホワイトアローが走り出した頃という事は1990年ですね。
専用線の廃止とJR貨物の撤退に伴い、運転取扱担当の駅員(輸送係・輸送指導係・輸送主任)が勤務を終了したタイミングで構内踏切を廃止したのかも知れませんね。
(叡電デナ22@札幌市在住)
豊沼駅、素通りや停車は数知れずですが、乗降は1回のみ。この駅の近くに友人実家宅があり、遊びに行ったんです。もう10年以上前です。楽しかったことを覚えています。
駅の中外はじっくり見ていなかったので、いろいろ教えて頂き、ありがとうございます🙇