タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2017-06-10 (Sat) 23:53

石勝線清水沢駅で開催 「清水沢駅の思い出展 第2期」



2016年8月にJR北海道からの廃止提案を夕張市が受け入れた事により、廃止が決定した石勝線新夕張~夕張間の夕張支線。
夕張市は「攻めの廃線」を標榜する鈴木直道市長の主導の下、2019年秋までに清水沢に交通結節点
(ハブ)を併設した「拠点複合施設」を建設する計画を進めています。
図書館や児童館なども同施設に集約される事となり、完成次第、夕張支線の廃止に踏み切る方針です。
建設状況によっては早くて2019年3月の廃止となる見込みとなっています。
かつては国内有数の炭鉱都市だった夕張の鉄路も、いよいよ終焉の時が迫ってきました。
今日は大雨に見舞われつつも、夕張支線の全駅を巡礼してきました。





このうち清水沢駅の待合室では、「清水沢駅の思い出展 第二期―駅と、まちと、ひとと―」と題した展覧会が開催されています。
同展覧会は市民団体「清水沢プロジェクト」による主催で、三菱大夕張鉄道保存会が共催で関わっているほか、新夕張駅や北海道新聞社夕張支局が協力しています。
開催期間は2016年12月17日~2017年8月(予定)とされており、現時点では具体的な終了日時は決まっていないようです。
1日の公開時間は「始発から最終列車まで」とし、観覧は無料です。
なお、題名については表記揺れがあり、運営側が公式サイトや貼り紙などで「第2期」との表記も用いています。

JR北海道 国鉄 石勝線夕張支線 イベント JR西日本 東海道本線
清水沢駅の思い出展 第2期―駅と、まちと、ひとと―


正面玄関から見て右手の壁際には今回の展覧会に関する前書きと、1972年当時の清水沢の空中写真(国土地理院所蔵)が貼り出されています。
前書きには第2期の展覧会を開催する運びとなった経緯が書かれており、第1期の展示を知った大夕張出身の女性が清水沢プロジェクトに寄せた手紙が切欠であると述べています。
大夕張の住民にとっても交通の要衝だったという清水沢。
周辺地域に暮らした人々の思いも、此度の展示に込められている事が分かります。





背後の掲示板には『ゼンリン住宅地図昭和56年版』より引用された、1981年当時の清水沢駅周辺の地図が掲示されています。
地図の左上には「あなたの思い出を付せんで書き込んでください。一人ひとりの思いが重なって、このまちはできています。」と記されており、駅舎を訪問した人々がコメントを添えた付箋が多数貼られていました。
一部コメントを抜粋してみましょう。

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夕張北高 S50年卒(女性です)
・南部から北高まで、三菱バスと国鉄で通っていました。
・清水沢駅前で、帰りのバスに乗り継ぐのですが、お店がたくさんあって楽しかった。
・今も、年に何度かJRに乗ります。清水沢駅とマチの変化が寂しいです。

40年ぶりに来た
駅、こんなに小さかったかな

長寿庵さん(住みこみで働いていました)
仕出しや宴会、結婚式もありました。
料理人も3人いて、お寿司やラーメン、ソバ、カレー・・・ほんとに何でもありました。

昔、ここのズリ山で2年間働きました。
夏は猛暑、冬は極寒。
地獄の仕事場でした。
(良く生きていたと思います。)
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一つ一つは短い文章ですが、その内容は実体験に基づいたもの。
これらを読んでいると昔の清水沢がどんな町だったのか、いかに活気があったか窺い知る事が出来ますね。
長寿庵は今も駅前に店舗ビルが残っているのですが、食事時でもシャッターが閉まったままの様子から察するに廃業したようですね。





地図の右隣には2015年11月に開催されたトークイベント「中村さんが証言する清水沢駅の42年間」の内容を記録したイラストが展示されています。
国鉄からJR北海道にかけて、清水沢駅に42年間勤務されたという中村賢さんの体験をまとめています。
清水沢駅が無人化される4年前の2011年に退職されたのだそうです。





紙面左下には入社当時の1日の流れが簡単に記されています。
朝8時に出勤しての泊まり勤務。
夜中に空腹を感じると駅前のラーメン屋「天竜」で夜食を取り、午前0時~3時の間に仮眠。
早朝5時にストーブが消えていると先輩に怒られ、朝の通勤通学ラッシュで出札窓口に並ぶ30人もの行列を相手にし、8時になってようやく24時間の勤務が終了。
現在も一般的な駅員は同様の勤務形態ですが、非運転取扱駅でなおかつ窓口営業時間が限られている駅では日勤オンリーになっていますね。

一番下には勤務スケジュールを知らない人から、仕事帰りの姿を見られて「あれ、お兄ちゃん朝帰りかい?」と問われる様子も描かれていますw
これは昭和時代の鉄道職員がよく経験した話らしく、当時の世間では「サラリーマンは朝に出勤して夕方以降に帰宅して当然」という考えが浸透していたといいます。
今でこそ広く認知されていますが、シフト制勤務に対する理解は極めて低かったのだそうです。
大阪車掌区で車掌長をされていた坂本衛さんも、著書『車掌マル裏乗務手帳』(1998年/山海堂)で余暇の辛さを苦々しく語っています。

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 「国鉄は毎日休みでよろしいなあ」と皮肉られるのはまだよいほうだ。近所に婿養子に来た国鉄職員は気の毒だった。家族にさえも勤務の特殊性を理解してもらえず、徹夜明けでも昼寝すらできなかった。彼は帰宅して朝食をすますと、必ずクワを担いで農園に出向いた。天気のよい日は畦を枕に、雨の日は野小屋のなかで休養をとったという。でも農園という駆け込み寺があるうちはまだいい。もうひとりの婿養子に来た機関士は「ええ若いモンが、昼寝なんてするヤツがあるか。この極道者ッ」と、酒に酔った義父に殴られたという笑うに笑えない話もある。

(『車掌マル裏乗務手帳』p.82より引用)
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清水沢駅展覧会「清水沢駅の思い出展 第2期」


駅務掛、連結(構内掛・連結手)、改札、出札、配車・・・と泊まり業務の仕事内容も書かれています。
中村さんが最も長く経験したのは配車業務で、炭鉱からの要請を受けて石炭車(貨車)を手配する仕事だったそうです。
国鉄時代に配車掛という職名があったのでしょうか・・・少し調べてみましたが情報が引っかかりませんでした。
鉄道ファンにもあまり認知されていない業務なのかも知れませんね。
ところで連結の業務内容を見ると、「線路をきり変える業務」とあります。
明らかに間違っていますね、これは・・・。





配車(配車掛?)の業務内容は絵でも表されています。
炭鉱会社から要請を受けた両数の石炭車を手配できない場合、足りない分をトラックで補っていたそうです。
しかも石炭車は1両あたり30tの石炭を運搬できるのに対し、トラックは1台あたり10tと1/3の輸送量に。
おかげで石炭車1両分の石炭を3往復して運ばなければならず、スケジュール管理が大変な仕事だったんでしょうね。





国鉄末期には50名の駅員が勤務したという清水沢駅。
しかし分割民営化を前に退職者が相次ぎ、職を失う事への不安を抱いていました。
・・・「平成元年に鉄道がJRへ」とありますが、西暦に直すと1989年なんですよね。
分割民営化されたのは1987年4月、和暦で言えば昭和62年の出来事ですから、元駅員さんからの証言をまとめたにしては不自然だと感じてしまいました。





それが模造紙の右下に小さく但し書きが添えてありまして、「トークイベント中に即興で筆記したため、事実と異なる記述もありますので、ご了承下さい」とあります。
なるほど、中村さんの話をリアルタイムで聞きながら描いていたから、うっかり間違えてしまったという訳なんですね。
確かに話を聞きながら書くメモって、後で見返すと変な事が書いてあったりしますものね。
但し書きは正誤表になっており、「平成元年に鉄道がJRへ→昭和62年」、「KIYOSUKU→KIOSK」、「連結:線路を切り替える仕事→車両をつないだり切り離したりする仕事」と訂正されています。

・・・「本当に中村さんは鉄道職員だったのだろうか」と疑った事を白状します。
中村さん、すみませんでした。





正面玄関から見て左側の壁には「頑張れ夕張!」の貼り紙と共に、清水沢駅の歩みを伝える写真が多数展示されています。







左半分は1960年代~1970年代前半の写真が集められており、モノクロ写真が多め。
炭鉱都市として栄えていた頃の夕張の雰囲気に触れる事が出来ます。





1965年に撮影された写真。
清水沢駅前の交差点では毎朝、大勢の小学生が横断歩道を渡る光景が見られたんですね。
現在では市民の半数以上が高齢者になってしまった夕張市ですが、当時は若い世代が多く暮らしていた事が感じられます。





1970年の元旦に撮影された写真。
初詣の参拝者でしょうか、入挟を受けた客が次々と列車に乗り込んでいきます。
この頃は駅構内も活気がありました。







右半分は1970年代後半~2000年代に撮影された写真を集めています。
1981年に北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生し、石炭産業の衰退に拍車がかかっていきました。





1977年当時の清水沢駅待合室を記録した写真。
この頃から炭鉱の閉山が相次ぎましたが、待合室にはまだまだ活気がありました。





1982年5月の炭山祭を捉えた写真。
お祭りこそ賑わっていますが、この頃の住民達は先の見えない不安を感じていた事でしょう。





運炭列車が走らなくなった後も、長く実施されてきた清水沢駅でのタブレット閉塞取扱。
助役と同じ金線1本入り赤帯制帽を被った輸送主任が、ホームに出てタブレット交換を担いました。
北海道では最後の取り扱いだった石勝線新夕張~清水沢間のタブレット閉塞ですが、当該区間が特殊自動閉塞(軌道回路検知式)化される事になり2004年3月を以って終了。
同時に輸送主任の配置も終了し、終日勤務した駅員は平日・土曜の日中のみの勤務に縮小されました。
2015年10月には完全無人化され、分岐駅の新夕張駅を除いて夕張支線から直営駅(社員配置駅)が消滅しました。





清水沢駅は腕木式信号機が最後まで使用された駅でもありました。





以上、清水沢駅の思い出展 第二期―駅と、まちと、ひとと―」の様子を紹介しました。
2ヵ月後には終了が予定されているイベントですので、興味のある方はお早めの訪問をオススメします。


※写真は全て2017年6月10日撮影


(文・写真:叡電デナ22@札幌市在住)


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最終更新日 : 2019-07-02

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