胆振管内は苫小牧市勇払にある、JR北海道の勇払(ゆうふつ)駅。
苫小牧駅から日高本線の普通列車に乗ると、まず最初に停車するのがこの駅です。
勇払駅は1913年10月、苫小牧軽便鉄道の一般駅として開業しました。
苫小牧軽便鉄道は王子製紙の関連会社で、1910年10月に操業を開始した王子製紙苫小牧工場へパルプの原料となる木材を運搬するべく、1909年6月に三井物産が敷設した苫小牧~鵡川間の専用馬車鉄道を前身としています。
ほどなくして専用馬車鉄道は王子製紙に売却され、蒸気機関車への置き換えも実施されました。
当駅の開業に合わせて線路は佐瑠太駅(現・富川駅)まで延伸され、同時に旅客輸送を開始。
この頃、日本国内では日清戦争や日露戦争に端を発する報道合戦の影響を受け、洋紙需要が急激に増加していました。
その流れに乗って王子製紙も事業拡大を推進しており、同社の手で1924年8月には佐瑠太以東にも日高拓殖鉄道が敷かれ、苫小牧工場への木材輸送が更に強化される事に。
こうして敷設された苫小牧軽便鉄道と日高拓殖鉄道は、共に1927年8月に国有化されて日高線と名付けられました。
2社とも軽便鉄道法に基づき敷設されたためナローゲージ(軌間762mm)だったのですが、1929年11月には苫小牧~佐瑠太間が現行の1,067mmへと改軌されています。
JR北海道 国鉄 貨物列車 山陽国策パルプ勇払工場専用線
JR北海道 国鉄 貨物列車 山陽国策パルプ勇払工場専用線
一方、1938年6月に国策会社として国策パルプ工業が設立。
1940年5月には国策パルプ工業の全額出資により、大日本再生製紙が設立されました。
大日本再生製紙は1941年10月に勇払工場を設置し、同時に勇払駅から同工場への専用線が運行を開始しました。
奇しくも王子製紙の競合相手が、王子製紙が敷いた鉄道を貨物輸送に使用するようになったのです。
1943年11月には日高線が日高本線に改称し、終戦後の1945年11月に大日本再生製紙は国策パルプ工業に吸収合併されました。
それから3年後に王子製紙はGHQから巨大独占企業として扱われ、過度経済力集中排除法に基づいて1949年8月に解散を迎えます。
解散後の業務は新たに発足した苫小牧製紙、本州製紙、十條製紙の3社に継承されました。
このうち苫小牧製紙については、1952年6月に王子製紙工業へと改称しています。
1962年12月、苫小牧港(西港)の建設に伴い苫小牧~浜厚真間の線路を付け替え、同時に勇払駅も北側へ移設する事となりました。
それまでの日高本線は苫小牧駅から南東に下り、王子製紙苫小牧港チップヤードを経て臨海南通沿いに線路が敷かれていたそうです。
これに伴い国策パルプ工業勇払工場専用線も付け替えられ、新駅に向けて大きなカーブを描きました。
日高本線の線路付け替え後、臨海南通沿いの一部廃線区間は苫小牧港株式会社線に転用され、共同石油や大協石油などの油槽所と繋がって石油製品の輸送に活用されました。
時はまさに高度経済成長期。
この頃、経済社会の過密化と地方の過疎化が急速に進み、政府は国土の有効活用による発展基盤の全国展開を求めていました。
そこで北海道の広大な土地、豊富な資源に活路を見出し、1970年7月に第3期北海道総合開発計画を閣議決定。
この計画の一環として1971年8月、北海道開発庁の主導により苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画を策定しました。
勇払に広がる原野を大規模な工業地帯に転換し、鉄鋼や石油精製などの資源産業を担う一大拠点を築くものとして期待されていました。
国策パルプ工業も1972年3月、山陽パルプを吸収合併し山陽国策パルプ工業に社名変更しています。
しかし、1973年と1979年の2度に渡りオイルショックが発生し、これが災いして計画は頓挫。
山陽国策パルプ工業勇払工場専用線も1980年に廃止されてしまいました。
国鉄の分割民営化に向けた動きもあり、1982年11月に貨物取扱い、1984年2月に荷物取扱いが相次ぎ廃止。
同年4月には無人駅となり、営業係駅員の配置がなくなりました。
ただし、連査閉塞(苫小牧貨物~勇払間)とタブレット閉塞(勇払~様似間)を取扱う運転主任(民営化後の輸送主任)は引き続き配置され、1986年11月の特殊自動閉塞化(電子符号照査式)まで業務を続けました。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承し、現在は静内駅が管理しています。
山陽国策パルプ工業は1993年4月に十條製紙と合併し、日本製紙になりました。
駅の西にある勇払工場は現在も稼動しています。
日高本線は2015年1月に起きた高波被害(土砂流出)により、鵡川~様似間が運休となっています。
今も勇払駅を含む苫小牧~鵡川間で列車の折り返し運転が実施されており、鵡川駅で代行バスに接続しています。
日本製紙勇払事業所
駅舎は1962年12月の移転に伴い建設された、コンクリートブロック造りの2階建て。
かつての事務室は窓が全て金属板で塞がれています。
駅前道路と駅舎の間には広い未舗装の駐車場があり、第3期北海道総合開発計画が立てられた頃は駅も栄えていただろう事が窺えます。
西方には日本製紙の社宅が建ち並び、東方には勇払小学校・勇払中学校と市営勇払団地があります。
南方には一軒家の集まる住宅地が広がっており、ビジネスホテルや旅館もいくつか見られます。
格子が印象的な正面玄関。
開口部が横に広いのがオツですね。
駅前に置かれている道南バス(旧・苫小牧市営バス)のバス停。
「学生専用」と明記されている事からも分かるとおり、これはスクールバス用の乗り場ですね。
道路向かいには路線バス(道南バス勇払線)の勇払駅前停留所が設けられています。
待合室の様子。
何だか殺風景ですね。
苫小牧市街への移動に利用する住民が多い事もあり、駅ノートの類は置かれていません。
出札窓口と手小荷物窓口は見事なまでに封じられています。
棚さえも残されていません。
そういえばSTVのテレビ番組『ブギウギ専務』において、“ウエスギ専務”ことTHE TON-UP MOTORSのVocal.上杉周大さん(我々鉄研OB会と同じ札幌学院大学出身)が「ブギウギ奥の細道・第二幕」の道中に訪問されていましたね。
確か日が暮れてきた頃で宿泊場所を探さなければならず、宿の情報があるかも知れない・・・と期待して駅に来たはいいものの、何も無く意気消沈したように記憶していますw
あの番組は面白くて毎週欠かさず見ていまして、当OB会員ですと他にもTJライナーさんとLewisさんも視聴されていますね。
道民や首都圏の一部ファン(チバテレビ・テレビ埼玉・テレビ神奈川でOA中)にしか分からないと思いますけど。
奥尻島北追岬から根室納沙布岬を目指し、ひたすらに歩き続ける「ブギウギ奥の細道・第二幕」。
一昨日の回では旧・広尾線の幸福駅に立ち寄り、男2人で土産屋の制帽を被って記念撮影していたものです。
道行く人に出身校を訪ね、その人の母校を実際に訪問しつつ上杉さんご自身の母校を目指す看板企画「母校への道」も大学編に突入。
特例として専門学校卒業者への聞き取りも認められ、札幌学院大学の最寄り駅・大麻駅をスタートしたものの案の定、道内外を巡る事態に。
ただ、一向に北海道に帰れず本州を駆けずり回った過去に比べると、コンスタントに道内大学出身者を見つけ出しており幸先が良い感じはしますね。
しかし油断は禁物なのが、この企画の恐ろしいところではありますけどw
無事に我らが母校の札学に凱旋される事を願うばかりです。
さて、一見すると味気ない勇払駅ですが、面白いところがありましてね・・・
・・・駅舎とホームが大きく離れているんですよね。
両者の間には長い長いアスファルト舗装の通路が築かれています。
何でこんなに構内が広いかと言うと、先述したように製紙工場の専用線があったものですから、貨物側線が敷かれていたという訳です。
今となっては側線は1本も残されておらず、草木も茂って原野然といった雰囲気です。
ホーム側から駅舎を眺めた様子。
少し前までは改札口の手前に大きな庇が設けられていました。
1面1線の単式ホーム。
元々は島式ホームで、先述のとおりタブレット交換が実施されていました。
駅舎側が1番線、反対側が2番線だった訳ですが、1番線の線路が撤去された具体的な時期は不明。
少なくとも特殊自動閉塞化された1986年11月以降である事は確かです。
ホーム上の様子。
有効長は20m車4両分ですね。
床面の大半は未舗装ですが、旧2番線寄りは2両分だけブロックが敷き詰められています。
旧1番線寄りに1個だけ、「タシカニ」の4文字と足跡マークが記されたブロックが敷かれています。
このブロックは運転主任や助役が、タブレット交換を行う際の立ち位置として使用していたものですね。
「タシカニ」は列車の出発時に確認すべき事項をまとめた国鉄時代の安全標語で、タは「タブレットはよいか?」、シは「信号はよいか?」、カは「客扱いはよいか?」、ニは「荷物扱いはよいか?」を意味します。
言わずもがな「確かに」と掛けており、これら4項目に問題がなければ列車を発車させる事ができるという訳です。
地方での自動閉塞化や駅の無人化が進行した現在、こんな貴重な物が残っているのは有意義な事だと思います。
まさしく駅輸送業務が強い存在感を放っていた時代の置き土産。
末永く残っていてくれると嬉しいですね。
上り列車(苫小牧方面)の停止位置目標は、1・2両編成用と3両編成用が設置されています。
1・2両編成用にはワンマン運転用バックミラーが付属しますが、3両編成用にはありません。
数年前までは日高本線でも平日朝ラッシュ時に見られた3連運用。
もしかしたら根室本線新得~池田間や宗谷本線旭川~蘭留間などのように、車掌の補助乗務が実施されていたのかも知れませんね。
一方、下り列車(様似方面)の停止位置目標は1箇所にまとめられています。
苫小牧方のホーム先端には留置線が1本だけ残されており、保線車両の滞泊に利用されています。
日高色のキハ40系350番台が停車した様子。
※写真は全て2017年3月18日撮影
(文・写真:叡電デナ22@札幌市在住)
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最終更新日 : 2019-07-02