室蘭本線苫小牧駅から南へ徒歩2分の王子アカシア公園。
多くの樹木が生い茂る閑静な公園の中では、大昔に王子製紙が敷設した軽便鉄道を走った小柄な蒸気機関車と客車が静態保存されています。
2両は現役時代さながらに連結された状態で佇んでおり、定期的に整備されているのかコンディションは良好です。
同じく苫小牧を起点とした苫小牧軽便鉄道(現・日高本線苫小牧~佐瑠太間)が海側に敷設された事から市民に“浜線”と呼ばれたのに対し、王子製紙軽便鉄道(王子軽便鉄道とも)は山側に敷設されたため“山線”と呼ばれ親しまれたのだそうです。
王子製紙軽便鉄道が運行を開始したのは1908年8月の事。
明治後期の日本国内では日清戦争や日露戦争の開戦により報道合戦が展開され、新聞・雑誌の発行部数が急速に増加していました。
当初は需要が見込めなかった製紙業界も勢いづくようになり、1887年には675万ポンドだった洋紙生産量は20年で1億4728万ポンドまで急増。
王子製紙も新聞用紙の国内自給を画策し、経営再建に繋げようと北海道に新天地を求め、大工場の建設地を苫小牧に定めました。
まずは苫小牧工場への電力供給を確保するべく、水が豊富な支笏湖を水源に持つ千歳川に水力発電所を建設する事に。
当初は荷馬車が水力発電所の建設現場へ資材を運搬していたのですが、建設が進むにつれて必要な資材は膨大な量になっていきました。
荷馬車では到底さばけなくなったため、より大量に資材を運搬できる手段として軽便鉄道が敷かれたという訳です。
ウィキペディアには「当初は馬車軌道を敷設した」とありますが、地元・苫小牧の有識者によるとそれは間違いで、実際には開業当初から蒸気機関車を使用していたのだそうです。
JR北海道 国鉄 室蘭本線 千歳線 日高本線 貨物列車 JR貨物 SL 京浜東北線 東北本線
JR北海道 国鉄 室蘭本線 千歳線 日高本線 貨物列車 JR貨物 SL 京浜東北線 東北本線
こうして開業した王子製紙軽便鉄道は苫小牧工場の建設地から北上し、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい/現・千歳市水明郷)まで建設資材を運びました。
運転開始から2年、1910年9月に烏柵舞発電所(現・千歳第一発電所)が完成し、同月中に苫小牧工場も操業開始と相成りました。
1914年には第一次世界大戦の勃発により洋紙需要が一気に好転し、王子製紙は事業拡大を推し進めていくように。
苫小牧工場も生産力の増強が図られ、水力発電所を更に3箇所建設する事になりました。
1915年9月の敷設免許取得を皮切りに、千歳川下流へ軽便鉄道を延伸しながら建設が進められています。
そして1916年3月に千歳第二発電所、1918年3月に千歳第三発電所、1919年12月に千歳第四発電所と段階的に稼動を開始。
軽便鉄道は支笏湖周辺で伐採された原木を輸送する森林鉄道としても活用され、1922年4月には支笏湖観光が人気になってきた事から旅客輸送を開始するまでになりました。
それまでも王子製紙の従業員やその家族に限り乗車を認めてきたそうですが、一般の乗客を受け入れるようになってからは修学旅行にも活用されたといいます。
地元の軽便鉄道に対する期待は高かったようで、1934年4月には千歳村(現・千歳市)が王子製紙に対し、千歳第四発電所付近の上千歳駅から市街地までの延伸を請願しました。
市街地という事は1926年8月に開業した北海道鉄道札幌線の千歳駅(現・千歳線千歳駅)と接続する可能性があったのかも知れません。
1936年10月に中島商事が千歳鉱山の操業を開始すると、軽便鉄道は同鉱山で採掘された金の運搬も担うようになり、一企業の専用線にしては高い公共性を帯びてきました。
1937年に日中戦争が勃発すると王子製紙は本州8工場を軍需工場に転換し、代わりに苫小牧工場の洋紙生産力を増強するため千歳第五発電所を建設し1941年2月に完成。
千歳鉱山も戦時下で金鉱山整備令が出た事により、1943年4月に一時閉山を余儀なくされました。
王子製紙軽便鉄道にとって大きな痛手になったのは終戦後、1950年8月の苫小牧市道支笏湖産業道路(現・国道276号線)の開通。
同時に運行を開始した苫小牧市営バス支笏湖線に乗客を奪われ、更にはトラックが物流の主役になった事で苦境に立たされます。
何しろ苫小牧~支笏湖間の片道所要時間が軽便鉄道の1時間40分(登り坂に弱いため苫小牧駅からだと2時間10分を要したという話も)に対し、バスやトラックは45分と大幅な短縮を実現。
あっという間に自動車へと移行する事となり、支笏湖産業道路の開通から1年も経たない1951年5月、あっけなく廃止を迎えてしまいました。
千歳市街への延伸計画も忘却の彼方へ・・・。
軽便鉄道が廃止された後も5箇所の水力発電所は健在で、絶賛稼働中の苫小牧工場に電力を供給し続けています。
廃線跡はサイクリングロードに転用されていますが、ヒグマが出やすい一帯を通るので通行の際はご注意を。
JR東日本 都電 東京都交通局 東京メトロ南北線
王子アカシア公園に保存されている2両は、軽便鉄道の廃線後に東京都北区の王子駅前にあった「紙の博物館」(現在は飛鳥山公園に移転済み)へと移され、長らく前庭で展示されてきたものです。
それが地元有志の働きかけにより、1996年9月に里帰りが実現する運びとなりました。
もちろん敷かれているレールはナローゲージ(軌間762mm)です。
ツヤのある黒い車体の山線4号機関車は、1935年に小樽の橋本鉄工所で製造されたものです。
「紙の博物館」で展示されていた頃はテンダー(炭水車)がありませんでしたが、苫小牧への凱旋に伴いテンダー機に復元されています。
この4号を含め、廃線まで6両の蒸気機関車が走っていたのだそうです。
メーカーの橋本鉄工所は、北海道炭礦鉄道が1895年に手宮工場で製造した大勝号(後の国鉄7150形)の技術を継承し、森林鉄道・軽便鉄道用の蒸気機関車を専門としました。
面白い事に同社の処女作も王子製紙に納入されているんですね。
1923年製のD形蒸気機関車がそれで、同社がパルプの確保を目的として敷設した日高拓殖鉄道(現・日高本線富川~静内間)に投入されています。
他にも複数両を製造していたそうですが、現存する橋本鉄工所製の機関車は山線4号ただ1両となっています。
いかにも低規格の軽便鉄道向けといった感じの、何だか弱々しそうな足回り。
最高時速は26km/hだそうです。
一方、客車は1916年に自社工場で製造したものを、1922年に貴賓車に改造した代物。
裕仁親王(後の昭和天皇)が発電所をご視察された際に運行しています。
一段上昇式の窓を持つ木造車体ですね。
4号機関車に比べると長いです。
デッキは明治・大正期の客車にありがちなオープンデッキです。
ステップも設けられていますね。
反対側のデッキにはブレーキハンドルが設けられています。
この手の非常ブレーキって円形ハンドルのイメージが強いですが、こちらの物はL型の棒になっています。
車両の傍には解説板が設置されています。
※写真は全て2017年3月18日撮影
(文・写真:叡電デナ22@札幌市在住)
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最終更新日 : 2019-07-02