後志管内は余市郡仁木町然別にある、JR北海道の然別(しかりべつ)駅。
函館本線長万部~小樽間の通称「山線」に属しており、余市川沿いの大変ひっそりとした小さな山村に位置します。
駅前には道道755号線が通っていますが交通量が極めて少なく、然別簡易郵便局がある以外は営業中のお店も見当たりません。
余市川を挟んで対岸には農家が点在し、クルマの往来が比較的多い国道5号線(羊蹄国道)が通っています。
国道5号線を南西に下ると仁木町民スキー場のほか、仁木町産の野菜・果物やキノコ等を販売する大型ドライブイン「きのこ王国 仁木店」があります。
・・・何だか某配管工を想起させる店名ですが、関連性は無いはずですw
道東出身・在住の方々なら然別と聞いて、十勝管内の然別湖が真っ先に思い浮かぶ事でしょう。
帯広近郊に母方の実家がある私も、然別湖のイメージを強く持っています。
両者の名前の由来は全く同じで、アイヌ語の「シ・カリ・ペツ」(自分を回す川/意訳すると“回流する川”)から来ています。
然別湖から流れる然別川と、然別駅近くを流れる余市川および支流の然別川を地図で見比べると、何れもうねるように流れている事が分かります。
JR北海道 国鉄
JR北海道 国鉄
然別駅は1902年12月、私鉄の北海道鉄道が然別~蘭島間の延伸開業に伴い一般駅として設置しました。
1903年6月には山道~然別間が延伸されましたが、1904年7月に小沢~山道間が延伸された際に山道駅が廃止されています。
山道駅があったのは現在の函館本線銀山~然別間で、稲穂トンネルの開削工事に使用する建設資材の運搬を目的に設置されたそうです。
ゆえにトンネル開通に伴い使命を全うし、鉄道駅としては非常に短い僅か1年1ヵ月の営業となりました。
北海道鉄道は1907年7月に国有化されました。
1909年10月の国有鉄道線路名称制定に伴い官設線函館~旭川間が函館本線と名付けられ、倶知安駅も函館本線の所属となっています。
1972年3月、比較的早期に貨物取扱いが廃止されました。
この頃には駅周辺の人口減少が顕著になっていたようですね。
1982年3月には荷物取扱いが廃止され、営業係駅員も撤退し無人化されました。
ただし、当駅は単線区間の交換駅であるため、電子閉塞化される1986年11月までの間はタブレット閉塞を取扱う運転主任(民営化後の輸送主任)が業務を続けたものと思われます。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道に継承され、現在は余市駅が管理する無人駅です。
駅舎は1988年に改築されたもので、こじんまりとした山小屋風の木造平屋です。
正面向かって右側が待合室の玄関で、大半のスペースが保線作業員用の物置・休憩室になっています。
そんな小さな駅舎の手前には更地が広がっており、直営駅時代は大きな駅舎を有していた事が窺えます。
更地の端にポツンと佇む自転車置き場の雨除け屋根。
赤錆にまみれた細い柱が支えており、旧駅舎が健在だった頃から建っているようです。
保線作業員用の部屋を広く確保した分、待合室は結構狭いです。
2脚のベンチとゴミ箱が設置されており、壁には駅ノートが入ったケースが吊るされています。
2面2線の千鳥式ホーム。
駅舎側が1番線で下り列車(余市・小樽・札幌方面)が発着します。
向かい側が2番線で基本的に上り列車(倶知安・長万部方面)が発着しますが、1日3本の当駅始発列車も使用します。
ホーム全長は1番線・2番線ともに20m車4~5両分ほどで、床面には砂利が敷き詰められています。
ホーム上の駅名板。
両ホームを繋ぐ構内踏切。
敷板は線路上にしか設けられていません。
構内踏切には遮断機がありませんが、「列車がきます」の文言を表示するLEDランプ付きの警報機が置かれています。
列車の入線・発車時にはLEDランプが赤く点滅します。
構内踏切手前から駅舎を見た様子。
ホーム側にはトイレが設けられています。
ホーム側の待合室出入口をよく見ると・・・
引き戸に錆付いた集札箱(乗車券箱)が付いています。
現在の長万部~小樽間は基本的にワンマン運転ですが、上下2本ずつ運行されるキハ201系(普通列車・快速ニセコライナー)に限りツーマン運転となっており、集札箱が利用される機会は少なかろうとあります。
構内南側には車庫が設けられています。
シャッターが随分と錆びていますね。
札幌方には貨物ホームが残されています。
1972年3月に貨物取扱いが廃止されるまでの間、このホームで貨物の積卸が行われていました。
線路は雑草で覆われている箇所もありますが、レールを見ると意外に状態は良好。
本線に接続する分岐器も残っており、もしかしたら今も保線車両の留置などに活用されているのかも知れません。
今でこそ寂寞とした然別の集落ですがその昔、然別駅から6kmほど北西に大江鉱山がありました。
大江鉱山は1890年に金山として操業を開始し、当初は北海道鉱山株式会社が経営していました。
開山から程なくして銀や鉛なども採掘され急激に発展。
然別には4,000人以上もの住民が暮らし、多数の商店や旅館を抱える鉱山町が形成されたそうです。
然別駅の設置も大江鉱山の存在が大いに絡んでいるものと思われますが、鉄道が敷かれた直後の1903年には銀の価格が暴落。
資源が枯渇した訳ではなかったものの、北海道鉱山(株)は1905年に経営から手を引いてしまいました。
やがて大江鉱山は日本鉱業株式会社の所有になり、1929年に操業を再開。
この頃には従来の金・銀・鉛に代わって菱マンガン鉱が採掘されるようになります。
不純物の混じり具合によってピンク・赤・灰色など様々な色になる菱マンガン鉱。
ここで採掘されたものは綺麗な赤色をしており、積丹半島から名前を取って「積丹ルビー」と呼ばれていました。
菱マンガン鉱は一月当たり1万トンも採掘されていたそうで、大江鉱山はマンガン鉱山として認知されるようになりました。
大量に産出したマンガンは製鉄に用いられ、戦時中は従事員の増員が繰り返されていたそうです。
終戦後は一旦休山された後、1950年には新たに設立された大江鉱山株式会社に継承されて操業を再開。
産出量も戦時中に匹敵し、1970年には隣接する稲倉石鉱山を買収して稼動を拡大。
しかし産出量が縮小を見せるようになり、資源の枯渇を理由に1984年9月を以って閉山されてしまいました。
実は商業活用が期待できるだけの鉱脈が残っているそうですが、会社に採掘を続けるだけの体力は残されていなかった模様です。
聞くところによれば閉山から33年近い月日が経った現在も、この辺りでは「積丹ルビー」が見つかるとの事。
鉱山の稼動が今も続いていれば、然別駅の界隈はもう少し賑わいがあったのかも知れません。
※写真は全て2016年10月10日撮影
(文・写真:叡電デナ22@札幌市在住)
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最終更新日 : 2019-07-02