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2017-01-18 (Wed) 22:31

函館本線倶知安駅 道内随一の地価上昇率を誇る町【後編】





海外スキーヤーが大勢訪れるニセコ観光圏に属し、地価の上昇が続く倶知安町にある倶知安駅。
前回記事では駅舎の内外を見たので、今回はホームを見ていきましょう。
現在の倶知安駅構内は1面2線の島式ホームを有しており、駅舎とは跨線橋で繋がっています。
しかし駅舎手前にはどう見ても、線路が撤去された単式ホームがあります。
実はこれ、1986年11月の胆振線廃止に伴い、使用を停止した1番線です。
国鉄時代の倶知安駅は2面3線の複合ホームでした。







現存する島式ホームは2番線・3番線で、旧1番線と2番線の間には待避線が設けられています。
全長は旧1番線が20m車6両分ほど、2・3番線が20m車10両分ほどです。
島式ホームは床面が全面的に舗装されており、視覚障害者誘導用ブロックや滑り止めが敷かれています。
一方、単式ホームは札幌方の2両分ほどが未舗装となっています。

JR北海道 国鉄 北海道新幹線 東北新幹線 JR東日本 臨時列車
JR北海道 国鉄 北海道新幹線 東北新幹線 JR東日本 臨時列車


旧1番線から改札口を見た様子。
手前には北海道新幹線の顔ハメ看板が置かれています。
大抵の駅ではコンコースに置かれているこの看板。
ホームに置かれているのは珍しいと思います。
前回記事でも触れたとおり俱知安駅は北海道新幹線の停車予定駅なので、列車移動中の乗客にもPRしようという狙いがあるのかも知れません。





さて、改札口前にはもう一つ顔ハメ看板がありまして・・・





羊蹄山をバックに金線2本入り赤帯制帽を被った俱知安駅長と、キハ150系の運転士になりきる看板も置かれています。
この手の顔ハメ看板では白い夏服姿に描かれる事の多い駅長ですが、俱知安駅の看板では黒い冬服姿に描かれています。
駅長の手前にいるジャガイモのキャラは、倶知安町のゆるキャラ「じゃが太くん」ですね。
別荘地化が進む倶知安は、ジャガイモの名産地でもあるのです。





駅舎以上に年季が入った木造の跨線橋。
島式ホーム側は前後に階段が設けられているのですが、札幌方の階段は封鎖されています。





跨線橋の中も実に見事な古めかしさです。





島式ホームのうち、外側の3番線は下り列車(余市・小樽・札幌方面)のみ使用。
当駅止まりの下り列車も基本的に3番線の停車です。
内側の2番線は基本的に上り列車(ニセコ・蘭越・長万部方面)が発着しますが、折り返しの下り列車も使用します。
ホームでは定期列車の増解結を実施する事があり、輸送係駅員がワーキングウェアを着て作業に当たります。





跨線橋の手前には雨除け屋根が設けられています。
20m車2両分の長さで、屋根の下にはベンチと自販機が置かれています。





同じ“山線”の小樽駅やニセコ駅にある「むかい鐘」も設置されています。
6個ある鐘は小樽駅の正面玄関にある「むかい鐘」を元にデザインされており、オリジナルに比べて幾分小さくなっています。
明治期から1965年頃までは、列車到着の予報として鐘が使われていました。
この「むかい鐘」は北海道初の鉄道・官営幌内鉄道の開業から、2000年で120年を迎えた記念に複製されたものです。
鐘に付いた鎖を引くと音が鳴るようになっています。





2014年11月まで蘭越~札幌間で運行されていたSLニセコ号。
JR北海道当局は北海道新幹線の開業を優先させる事を理由に、ニセコ観光の目玉だったこの列車を廃止してしまいました。
当時はSL函館大沼号ともども、沿線から廃止に反対する声が上がったものです。
ホームには客車列車用の停止位置目標が残されており、眺めていると在りし日の事を思い出して寂しい気持ちになりますね。





駅名板を支える柱は丸太を象っています。





こちらは名所案内の看板。
羊蹄山とスキーヤーが描かれています。







構内の北西には夜間滞泊に使われる車庫があります。
この車庫には検修員が従事しており、車両の点検・清掃が行われています。
国鉄時代はここに倶知安機関区があり、隣接して小樽車掌区倶知安支区(末期は小樽車掌区倶知安派出所)がありました。





倶知安駅は1907年9月、列車移動中の石川啄木が通りかかった事があります。
当時の啄木は函館大火により勤務先を失い、北門新報社に転職するべく札幌へ引っ越す途中でした。
啄木は真夜中の倶知安駅の景色を見て短歌を詠んでおり、駅前の公園には歌碑と碑文が置かれています。
詠まれた短歌と碑文の解説文を下記の通り抜粋します。

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真夜中の
倶知安驛に下りゆきし
女の鬢の古き痍あと

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 石川啄木が函館から小樽へ向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治四十年九月十四日の午前一時過ぎである。
 啄木はこの時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収めた。
 鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は、実景であったか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったかは、定かではない。
 当時の倶知安村は、開墾が始って十五年たったばかりであった。
 駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。
 この夜駅を降りた人たちの見上げた空に、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきたすばるが輝くまでには、まだすこしの間があった。

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この短歌を詠んだ後に北門新報社に入社した啄木は、僅か半月ほどで同社を退職して小樽へ。
小樽日報社の記者となるも職場でのトラブルに巻き込まれて退職し、釧路新聞での勤務を最後に1908年4月を以って北海道を去りました。
第一歌集『一握の砂』を出版するのはそれから2年後の事ですが、1912年4月に肺結核で他界し26年の短い生涯を閉じています。


※写真は全て2016年10月10日撮影


(文・写真:叡電デナ22@札幌市在住)

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最終更新日 : 2019-07-02

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