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2024-02-18 (Sun) 16:00

北陸本線春江駅[1] 特産の絹織物やレーヨン製品を発送した駅

春江駅a01

福井県は坂井市春江町中筋1-1(旧:坂井郡春江町中筋1-1)にある、JR西日本の春江(はるえ)駅。
2006年3月20日の合併まで存在した自治体・春江町(旧:春江村)の中心部に置かれた駅です。
福井県では古来より絹織物の生産が盛んで、県外にも「越前織」の名が広く知れ渡っています。
県内の年平均湿度は76%で、絹織物の生産に最適な気候だといいます。
絹織物は湿度が高くじめじめした環境だと、金筬と絹糸の間に静電気が起こらず織りやすいのだとか。

ここ春江も元来、機織りで栄えた土地だったといい、「春江ちりめん」と呼ばれる絹織物は人気がありました。
春江ちりめんの興りは戦国時代(天文~永禄年間)、越前朝倉氏に仕える武士が春江に落ち延び、農民達に織物技術を伝えた事によるそうです。
この頃、越前国では九頭竜川の氾濫が相次いだために米の不作も多く、かといって冬は深雪で仕事が少ないという二重苦に直面していました。
水害と雪害に悩む農民達にとって、機織りは魅力的な副業だった事でしょう。


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春江駅a02

春江村では明治中期の1888年、地元在住の寺島秀松が村内で初めて2、3台のバッタン機を導入しました。
これらを駆使して白地羽二重の試織を行なったところ、程なくしてバッタン機が近在の機織業者にも普及。
生産量の増加、品質の均等化を為していきました。
更に1890年、岡崎利作が糸繰機と手織り機械を購入して「岡利工場」を創業すると、後に続けとばかりに坪金工場、坪内外吉工場、島崎工場などが操業を開始しています。
こうして春江は県内屈指の生産地へと発展を遂げ、中でも村内西部の江留上(えどめかみ)地区は職工3,000人、戸数600余の一大工場街を形成しました。

岡崎利作は生産技術の研究に余念が無い人だったらしく、1909年には春江村で初めて力織機を購入。
動力によって12台の織機を動かし羽二重を織りました。
近郊では森田が春江より先に電灯が点きましたが、動力の導入は春江が一足先だったといいます。
岡利工場は大正期に200台の織機を配備するほど大規模になり、息子の岡崎利市は福井県織物同業組合の評議員として活躍しました。


木造駅舎 木造建築 無人駅
春江駅a03

今回取り上げる春江駅も歴史を紐解くと、機織りと深く関わっている事が分かりました。
まず開設からして春江村在住の機業家・坪内鶴吉が働きかけたというのです。
坪内鶴吉は「春江信用購買販売組合」という生糸の仕入・供給および絹織物の販売を担う団体の長で、自身も手織機を使い製織に当たってきました。
彼は有志と共に福井県出身の政治家、山本条太郎と熊谷五右衛門に直談判。
機業を支える物流拠点とするべく、春江駅の誘致を成功に導きました。
こうして春江駅は1926年5月1日、既に開業していた北陸本線森田~丸岡間に一般駅として開設されました。

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 当春江をはじめ日本海岸地方に絹織物業が盛行する自然条件の第一は湿度が多いと絹繊維の弾力性を増進する。第二にその帯電性を減少する。第三に生絲の切断を防止する。第四に毛立ちを防ぐ。第五に相互反撥を防止して製織能率を高める。第六に緯絲の打込をよくして仕上り後の地締を優秀にする。更に機業組織を強化し坪内鶴吉・西畠数栄らが相はかり組合員の製織品を販売する期間として株式会社春江商店を設立する事になり、当時開田商社在勤中の大関清を起用して常務とし坪内鶴吉を社長として資本金50万円にて発足し、大正8年12月輸出部と仲買部を特設して活動を開始した。
 又、大正8年頃組合員の一部と坪内鶴吉・島崎正一等は相はかり原糸及製織品の保管・運輸の為、福井絹糸倉庫を設立し、自動車を購入して業務を開始した。
 こうして春江地域が絹織物生産地として飛躍的な発展によって、貨客の往来物資の取扱量が漸次増大するに伴ない必然的に国鉄北陸線にこの地区の停車場の創設の必要性を痛感し、春江組合長坪内鶴吉は有志と共に時の県選出衆議院議員山本条太郎並びに熊谷五右衛門を動かして最短最近の距離に森田駅があるにもかかわらず大正15年5月1日春江駅を新設せしめ得たことは春江町発展の為にまことによろこばしい事であり、多大の功績というべきである。

《出典》
齋藤與次兵衞(1969)『春江町史』(福井県坂井郡春江町役場)p.p.803,804
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木造駅舎 木造建築 無人駅
春江駅a04

さて、春江駅の開設より7年前、1919年11月6日に島崎織物㈱が発足しました。
同社は島崎五三次郎が1891年4月に創業した島崎織物合名会社を前身とする株式会社です。
力織機50台を駆使し満州産の柞蚕糸(さくさんいと)で絹紬織物を作り、その輸出化に成功。
しばらくして精練染色の設備を整え、製織・染色の一貫作業による製品は好評を博したといいます。

この島崎織物は春江駅の貨物フロントを利用し、貨物列車で製品を全国各地へと発送していました。
もちろん輸出品の発送にも貨物列車を使っています。

昭和初期には人絹(レーヨン)が天然絹糸の代用品として普及したため、島崎織物も人絹織物(平地・紋・撚糸)の生産に転換。
1930年に私設保税工場の特許権を受けてから、福井県で唯一の直輸生産工場となりました。
織機も400台に増加し、撚糸・精練・染色などの設備を完備しています。

私設保税工場の特許を得た事により、大阪税関敦賀支所の職員1名が島崎織物に派遣され、工場内に常駐しました。
これで糸の輸入税を納めなくても良く、税関の検査なしで輸出免状を作れるようになりました。


木造駅舎 木造建築 無人駅
春江駅a05

保税のおかげで鉄道貨物に回せる予算が増えたのでしょうか、島崎織物は春江駅でダントツ一番の貨主にまでなったようです。
書籍『春江町史』(1969)には「国鉄春江駅の1年間の発送人絹布「約590瓲」の8割をこの会社の工場でもった」(p.p.847,848)と書かれています。
近傍に多数の同業者が集まる中で8割を占める訳ですから、他社を差し置いて原材料の輸入税を保税できた効果はそれほど大きかったのでしょう。

『春江町史』に掲載された「春江駅の営業状況」(p.787,788)によると、1935年当時の春江駅における発送貨物は4,185トンです。
このうち機業製品を抜き出すと絹織物156トン、人絹織物1,234トン、人絹撚糸155トン、合わせて1,545トンとなります。
全体の1/3強を機業が占めていたのですから凄いですね!
参考までに他の発送貨物を挙げると、酒270トン、織機46トン、米1,414トンでした。

逆に到着貨物は木材1,223トン、石炭3,407トン、人絹糸559トン、絹糸136トン、セメント386トン、力織機364トン、肥料755トン、瓦312トン、その他1,179トン、合わせて8,321トンに上ります。
このうち織物の原材料は人絹糸559トン、絹糸136トンの計695トン。
製品の発送合計1,545トンに比べ、半分以下の量というのが気になるところですが、おそらくは貨物自動車など他の手段でも原材料を仕入れていたのでしょう。

余談ですが瓦312トンは全て近郊の細呂木駅から発送されてきた物です。
春江駅まで北陸本線で直行、その輸送距離は13.3kmですね。



春江駅a32
齋藤與次兵衞(1969)『春江町史』(福井県坂井郡春江町役場)p.890より引用

1937年に福井県全体の人絹織物生産量は10億平方ヤードを越え、世界一に躍り出ました。
県庁が取りまとめた「人絹の生産と輸出表」によると1930年から急激な右肩上がりを続けています。
しかしその後は日中戦争や太平洋戦争の勃発、第一次から第五次に及ぶ企業整備が影響してか、1937年をピークに急激な右肩下がりとなっています。
戦時下で大量の織機をスクラップにして軍需に供出するはめにもなり、県内2,803戸を数えた機業家が2/5の1,034戸にまで減少しました。

春江町も「機業の受難」に直面。
先述の岡利工場をはじめ機業12社が企業整備の対象となり、日本国際航空工業㈱春江工場に生まれ変わりました。
そして畑違いの軍需産業を担う事となり、陸軍航空機のプロペラを生産するようになったのです。


木造駅舎 木造建築 無人駅
春江駅a06

終戦後の1945年12月、GHQが生糸および絹織物の凍結命令を出しました。
ここから2年間、日本国内の絹織物は全て政府の指定生産となり、繊維貿易公団によって一元的に統制されました。
反面、民需衣料品は極端に欠乏していたので、春江の機業家達は屑繊維糸をかき集めて様々な織物を作っていきました。
そこに新興の織物ブローカーが参入して各地に製品を流通させたため、需要の激増とインフレの昂進が相乗効果を起こして「糸へんの黄金時代」を築きました。

かつての活況を取り戻そうとする中、1948年6月28日に福井地震が発生。
福井平野の各所に甚大な被害をもたらし、織機全体の45.7%に当たる16,440台と工場717ヶ所が壊滅するという惨い事態となりました。
春江駅も駅舎と貨物上屋が崩壊し、根軸部を残すのみとなってしまいました。
その後、駅舎の建て替え工事が行なわれ、現在の瓦屋根を持つ木造建築に生まれ変わっています。


木造駅舎 木造建築 無人駅
春江駅a07

機業家達による再興の努力も空しく、1950年代に入ると福井県内の機業界では企業の零細化・小規模化・弱小化が顕著になってきました。
工場1ヶ所が保有する織機の平均台数は、1949年の32.6台に比べて1951年度は24台強にまで減少。
設備台数20台未満の工場については、県内全機業者2,145名のうち、その73%を占めたほどです。
原糸も全国的に見て3割が不足しており、多くの機業家が入手難に喘いでいました。

挙句の果てに1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。
朝鮮特需によって人絹会社は好況を謳歌しましたが、織布業者は原料高と製品安の板ばさみに遭い次々と廃業したそうです。
何しろ事変直後に人絹糸が100%騰貴を示したにも拘らず、織物は55%に止まっていたのです。
これでは商売上がったり、もう続けられない・・・と悲観的になっても仕方ないでしょう。

この頃には春江駅の発送貨物も米と藁ばかりになり、特産の織物はすっかり鳴りを潜めてしまったそうです。
そして1961年10月1日、遂に貨物フロントを廃止。
近傍の森田駅に貨物取扱を集約し、駅種別を一般駅から旅客駅に変更しました。
営業範囲は旅客、手荷物、小荷物(不配達)に改正しています。


木造駅舎 木造建築 無人駅
春江駅a08

1963年4月20日、春江駅を含む北陸本線福井~金沢間が交流電化。
当日の春江駅構内には小学生や沿線区長などが集まり、盛大に祝賀会を開催しました。

その後は直江津までの電化工事と並行して線増工事を進め、1964年9月26日に春江~丸岡間、1966年3月16日に森田~春江間が複線化しています。
なお、この線増工事では春江駅に工事事務所を設置したといいます。
おそらく「春江工事区」または「福井保線区線増助役派出所」といった名称を定めていたのだろうと思います。

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 北陸本線福井―金沢間(76.8km)は、昨37年6月の福井電化開業に引続き工事中であったが、このたび完工、4月20日から電気運転を開始した。これで北陸本線は米原―金沢間176.8kmが電機運転(交流20kv)されることになった。
 この工事で、粟津・金沢の2変電所、大聖寺及び寺井の2き電区文所さらに延長約157kmに及ぶ電車線路が新設されたほか、信号・通信・電灯電力の各設備新設並びに改修が行なわれた。
 また、車両も471系交直両用電車84両がこの電化に投入され、大阪―金沢間に直通急行電車が4往復運転されたうえ、これまでよりも運転時分は大幅に短縮された。
 ところで、北陸本線の電化工事はひきつづきすすめられ、昭和39年度中に富山(貨物は富山操車場)まで完成の予定である。

《出典》
交通技術編集委員(1963)「北陸本線米原―金沢間電気運転開始」『交通技術』1963年6月号(財団法人交通協力会)、p.216
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 北陸線福井・金沢間が4月20日より複線電化され、明治30年以来の蒸気機関車とも67年で別れ、いよいよ待望年久しい電気機関車が脚光をあびて颯爽として登場したのである。この日春江駅構内に於いて、春江小学校児童300名と同校鼓笛隊並びに沿線関係区長が参加し盛大に祝賀の記念行事が行なわれたのである。その後昭和39年10月1日金沢富山間電化となる。

  註一 森田・丸岡間複線工事開始
 北陸線の春江町に関係する区間の複線工事は、昭和37年(1962年)8月よりいよいよ調査が進められ、金沢鉄道管理局より春江町当局へ次のような連絡があった。
一、森田・丸岡間複線化の拡張工事は、現在線の西側4米の予定であり、部分的に変更する場合もあるが、8月中旬から測量を開始して今年中に買収の承諾を得たい。
一、複線工事の完了は、昭和39年(1964年)3月即ち昭和38年度末を予定し、工事担当の事務所は春江駅構内に設置される。
一、この事業のための一切の交渉、斡旋及び事務的なことがらについては春江町を経由することになる模様である。

《出典》
齋藤與次兵衞(1969)『春江町史』(福井県坂井郡春江町役場)p.1116
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駅名看板 駅名板
春江駅a09

国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
春江駅でも小荷物フロントを廃止し、窓口営業を旅客に絞りました。

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR西日本が春江駅を継承。

1995年10月1日には福井地域鉄道部が発足し、北陸本線南今庄~大聖寺間、越美北線全区間において駅・乗務・検修・保線・電気の各業務を統轄する事となりました。
春江駅も福井地域鉄道部に編入されています。


2018年9月15日にはICカード「ICOCA」の運用を開始しました。

2021年12月20日、春江駅は11時に窓口営業を終了。
翌21日より完全無人駅となりました。
この無人化は北陸新幹線開業後の並行在来線移行に向け、効率的な体制を構築して引き継ぎに備えたものです。

そして来る2024年3月16日、いよいよ北陸新幹線金沢~敦賀間が延伸開業します。
これに伴い春江駅を含む北陸本線敦賀~大聖寺間は、新会社の「ハピラインふくい」に移管される予定です。


木造駅舎 改札口 集札口
春江駅a10

駅舎の南側には上屋と離れがあります。


木造駅舎 改札口 集札口 ラッチ
春江駅a11

上屋は元々、降車専用の集札口だったようです。
現在は柵で通路が塞がれています。



春江駅a12

こちらはトイレ。
男女別に分けています。
福井高専のデータベースを見る限り、どうやら1948年の福井地震で無事だった建屋のようです。


木造駅舎 待合室
春江駅a13
木造駅舎 待合室
春江駅a14
木造駅舎 待合室
春江駅a15
木造駅舎 待合室
春江駅a16

待合室の様子。
天井はかなり高めで広々としています。
ベンチその他調度品が壁際にしかないせいで、かなりがらんどうな印象を受けます。



春江駅a17

待合室から駅事務室方向を眺めた様子。
左側の手小荷物窓口はチッキ台すら残っていません。



春江駅a18

出札窓口は板で塞がれておらず、カーテンを閉めただけの状態。
窓枠も往時の姿を留めています。
手前にはICカード対応の券売機を備えています。



春江駅a21

改札口は引き戸の配置からして3本の通路を設けていた事が窺えますが、現在は精算所前の1ヶ所しか通れません。
鉄格子のスライドドアとICカードリーダーを備えています。



春江駅a19

無人化後の春江駅には「お客様用連絡電話」を増設しています。
最寄りの直営駅である福井駅との直通電話で、列車遅延情報などを問い合わせる事が出来ます。
蓋が付いた姿はまるで鉄道電話機(鉄道職員が使う業務用電話機)のようですね。



春江駅a31

こちらは南面の窓際に設置された気温計。
かなり年季が入っていますね。



春江駅a20

こちらは正面玄関の脇に置かれた「春江地区まちづくり協議会コーナー」です。
地域のパンフレット類を常備しています。



春江駅a22

こちらは同じく南面に設置された掲示板。



春江駅a23

春江駅a24

春江駅a25

春江駅a26

注意書きと一緒に可愛らしいポップが貼られています。



春江駅a27

改札口の掲示板にもコミカルなポップが2枚。



春江駅a28

こちらは春江駅の窓口営業終了を知らせる貼り紙。
訪問当時は2022年10月9日でしたが、無人化から1年近く経っても貼り紙が残っていました。



春江駅a29

こちらは分割民営化して間もない頃に作られたと思しきポスター。
乗り越し運賃の精算方法、乗車券類に関する注意事項、危険品等の持ち込み禁止について書いています。


駅員 改札
春江駅a30

本文からイラストまで、コーポレートカラーの青で印刷しているのが面白いですね。

長くなったので今回はここまで。


※写真は全て2022年10月9日撮影
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最終更新日 : 2024-02-24

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