タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2024-02-11 (Sun) 11:02

志度線房前駅 「海女の玉取り伝説」に登場する藤原房前

房前駅a01

香川県は高松市牟礼町原622-1(旧:木田郡牟礼町原622-1)にある、高松琴平電気鉄道の房前(ふさざき)駅。
瀬戸内海に繋がる志度湾の西岸に位置する駅で、海岸との距離は約90mです。
先日取り上げた塩屋駅と同様、こちらも現地に「房前」という地名はありません。
ただし駅から約264m北に「房前ノ鼻」という小さな岬があり、これが駅名の由来となっているようです。

では房前の語源は何かと言うと、どうやら志度に伝わる「海女の玉取り伝説」の登場人物・藤原房前にあるそうです。
この伝説によると飛鳥時代末期に藤原鎌足が亡くなり、唐の皇帝・高宗に嫁いでいた娘が父を追善しようと3つの宝物を贈りました。
しかし都への船が志度浦に差し掛かると、その一つである「面向不背の玉」が竜神に奪われてしまいました。
鎌足の息子・藤原不比等は玉を取り戻すべく、身分を隠して志度に向かいます。
そこで地元の海女と恋に落ちて子供を儲けるのですが、その子供が藤原房前だったというのです。





それから数年後、不比等は海女に素性を明かし、玉の奪還を頼みました。
海女は「玉を取り返したら房前を藤原家の跡取りにする」という約束をし、腰に命綱を付けて海底の竜宮へと潜っていきました。
しばらくして命綱を伝い海上に海女の合図があり、不比等が綱を手繰ると手足を食いちぎられた海女が揚がりました。
瀕死の重傷を負った海女の乳房には十文字に切った傷があり、その中に玉を隠していました。

自らの命と引き換えに玉を取り戻し、息子を藤原家の跡取りへと導いた海女。
やがて大臣にまで出世した房前は、母の死の真相を知ります。
それに心を突き動かされ、母を弔うべく自ら志度を訪問。
千基の石塔を志度寺に建立して菩提を弔い、現在は「海女の墓」として20基が境内に残っています。
この伝説は志度寺の由来を記す『志度寺縁起』の一つに伝わり、能の演目「海士(あま)」の題材にもなっています。
面向不背の玉は奈良市内の興福寺に納められましたが、現在は滋賀県長浜市の宝厳寺に移っています


JR四国 琴電700形 ことでん 高松琴平電鉄 東讃電車 名古屋市営地下鉄東山線300形
房前駅a02

ここからは房前駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
志度線のルーツは1906年11月22日、讃岐電気鉄道㈱による丸亀~高松~志度間の敷設認可の申請まで遡ります。
しかし大部分が国鉄讃岐線(現:JR四国予讃線)と並行するため認可されず、仕方がないので並行しない東半分の敷設を目指したのです。

1908年11月4日に社名を高松電気軌道㈱に改め、高松~志度間の電気軌道敷設と旅客貨物営業の認可申請を行なったところ、翌1909年6月8日付で特許状と命令書が交付されました。
ところが会社設立の直前になって、県内に同じ社名で軌道敷設の特許を受けた会社(長尾線の前身)があると判明したため、同年9月1日付で東讃電気軌道㈱への社名変更願を提出しています。
そして東讃電気軌道は1911年11月18日、今橋~志度間の新規開業に漕ぎ着けました。
その中間に房前駅が開設されており、当初は交換設備のある有人駅でした。

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 明治44年秋には、今橋・志度間の線路の敷設が完成し、今橋以西も半分が終って、発電施設もほぼ完成したので、営業規程の認可を申請するとともに従事員教習所を設けて、運転士、車掌の養成に当るなど営業開始の準備をした。
 今橋以東の工事を予定の44年中に完成させるため、昼夜兼行で工事を急いだところ工事は意外にはかどったので、同年11月18日今橋・志度間7.56哩(12.1km)を開業した。当日は関係者多数を招待して開業式を行ない全線に電飾車を走らせた。
 開通当時は珍しいもの見たさの人たちが乗車して盛況であった。当時の運賃は1区3銭で今橋・志度間は通行税を加えて19銭であった。当時今橋・志度間には乗合馬車が走っており、しばらく競争していたが電車に対抗する手段もなく間もなく廃止された。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.28,29
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房前駅構内 無人駅
房前駅a03

昭和の琴電はレジャーに力を注ぎましたが、志度線の前身たる東讃電気軌道も観光集客に取り組みました。
1913年7月には沿線開発事業の一環として、房前駅の至近に自社直営で「房前海水浴場」を開設。
食堂、売店、運動場など各種施設を備えた立派な海水浴場だったそうです。

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 かねて計画を進めていた沿線開発事業の一つとして、房前海水浴場を開設することとなり、大正2年7月、海女の玉取り伝説で有名な房前の海岸付近の土地数千坪を選び、飛込台、休憩所、脱衣場、浴場などのほか木陰のところどころに数十の涼み台を作り、食堂、売店を設備した。また運動場には、遊動円木、回旋塔、鉄棒、ブランコなどの運道具を置いて、各所に電灯をつけるなど当時ではかなり完備した海水浴場であった。特に夜間は突堤から海辺一帯に電飾をほどこしたので美観であった。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.30,31
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房前駅a04

時系列が前後しますが、東讃電気軌道は1912年6月27日の臨時株主総会で、香川水力㈱から電力事業経営権を譲り受ける事を決定しました。
香東川の水を利用し安原村に水力発電所を設け、香川郡・高松市に電力を供給したのですが、増収にはいまひとつだったらしく1913年6月12日付で四国水力電気㈱に事業譲渡しています。
以降、東讃電気軌道は四国水力電気から電力供給を受ける事となり、1916年12月25日にはとうとう吸収合併されました。

その後、房前海水浴場では設備の拡張整備を行ない、「東讃地方随一の海水浴場」と呼ばれるほど賑わったそうです。
1933年7月1日~8月31日には築港・沖松島~房前間の往復乗車に限り、海水浴客向けの割引運賃を適用しました。
なお、琴電の社史『80年のあゆみ』(1989)によると詳細な時期は不明ですが、房前海水浴場は護岸工事の開始に伴い営業停止となったそうです。

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 前述のように、当社はその発展のために全力を尽くしたが、創立早々の重役関係の不祥事によって受けた打撃を容易に回復できず、また第一次世界大戦勃発による経済界の一時的混乱もあって経営はますます困難となった。
 そこで電力の受給そのほかで深い関係のあった四国水力に合併することがこの際最も得策であると認め、交渉の結果、東讃電気軌道株式2万株(払込100万円)に対して、四国水力4千株(払込20万円)を交付するとの条件、すなわち5対1の割合で合併することとなった。
 大正5年8月19日会社合併仮契約を取りかわし同年9月5日の臨時株主総会で四国水力との合併を満場一致で可決した。同年12月25日合併手続を完了したので、翌日から四国水力の電車部門として新たに発足することになった。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.31,32
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房前駅a05

1937年7月7日、北京で盧溝橋事件が勃発。
ここに日中戦争の火蓋が切られ、政府は翌1938年4月1日に国家総動員法を公布しました。
同年12月12日に電力国策要綱が決定し、1938年3月26日には電力管理法と日本発送電株式会社法も成立。
すると四国水力電気も電力統制の対象となり1942年3月31日、水力発電所3ヶ所・火力発電所1ヶ所と附属する送電線を日本発送電㈱に出資しています。

また、1941年8月30日には配電統制令も公布されたため、自社所有の送電線・配電線・屋内電気工作物および電気関係営業設備を全て、1942年4月1日設立の四国配電㈱へ出資する事となりました。
こうして四国水力の事業は鉄道とガスを残すのみとなりましたが、これらにも交通事業調整法とガス事業統制の矛先が向いたため、別個に経営した方が得策との結論に至りました。
そして1942年4月30日、鉄道事業とガス事業を切り離して讃岐電鉄㈱が発足しました。

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 昭和17年3月17日讃岐電鉄株式会社設立の認可を得て、四国水力と高松乗合(営業路線出晴・長尾間、出晴・西植田間)の両会社から現物出資をうけ、同年4月30日資本金180万円をもって創立業務を開始した。創立当時の役員は次のとおりである。

取締役社長  田中 隆
取締役  武田 謙  鎌田 栄  合田 健吉  景山 薫
監査役  塩田 忠左衛門  鎌田 憲夫

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.45,46
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房前駅a06

一方、政府は1940年1月31日、国家総動員法第8条に基づき陸運統制令を公布。
すると全国各地で鉄道会社・バス会社の戦時統合が起こりました。
讃岐電鉄も国策に従い1943年11月1日、琴平電鉄、高松電気軌道の2社と合併して高松琴平電気鉄道㈱に生まれ変わっています。
もちろん房前駅も新会社に引き継がれました。

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 当時は軍需工場の勤務者や軍関係の乗客の増加によって、当社の運輸収入は飛躍的に増加し、経営状態は好転しつつあった。
 昭和16年4月以降は政府補助金の交付をうけなくても、年2分程度の配当金支払が可能となり、昭和18年4月期においては借入金を完済するに至ったのである。しかし一方戦局の進展によって、交通統制の国策に沿う企業統合が当局からいっそう強く要請されたため、香川県東部においては、琴平電鉄を主体として讃岐電鉄、高松電気軌道の3社を統合して、新たに高松琴平電気鉄道株式会社を設立することとなり、同年10月12日千代田生命ビルで、当時の株主636名中354名が出席して、臨時株主総会を開催し、新会社の設立発起人となることならびに当社の運輸事業と、その付属財産を現物出資することに関する誓約書承認の件を決議した。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.90
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房前駅a07

戦局が厳しくなるにつれ、琴電は鉄道施設の保全に必要な資材を入手するのも困難になっていきました。
挙句の果てには志度線が不要不急線に指定されてしまい、1945年1月26日に房前駅を含む八栗~琴電志度間を休止するはめになりました。
以降は戦後まで休止区間の代行バスを運行しています。
他の不要不急線と同じであれば、琴電も志度線の資材を軍需物資として供出させられたのでしょう。

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 当時は長尾線の輸送力を増強することが最も急務であったが、そのための資材は極めて乏しく、特に軌条は自社の撤去軌条を転用するほかなかった。このような情勢下にあったときちょうど昭和19年度第2次鉄道軌道回収指令があったので、20年1月21日志度線八栗・志度間(5.9km)の営業を休止するための認可申請をするとともに、地方鉄道等回収転用実施申請書を提出した。
 同月25日に営業休止の許可を得て、翌日から運転を休止した。この区間の利用客に対してはバスにより代行輸送を行ない、八栗・牟礼学校前・房前・志度間6kmを3区間として、1区運賃は10銭で輸送した。
 休止した区間の施設を撤去する工事は3月から房前駅を境として、東、西2班に分れて行なわれ、その撤去した資材は一応八栗、志度の2ヶ所にそれぞれ集積された。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.132,133
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房前駅a08

終戦後、沿線地域では志度線の全線復活を求める声が高まり、琴電も営業再開を決意。
1947年8月5日に申請を行ない、1948年11月30日に工事認可を受けました。
そして1949年10月9日、志度線八栗~琴電志度間が運行を再開し、房前駅も息を吹き返しています。

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 20年1月26日以来運行を休止していた志度線八栗・志度間5.8kmの路線はようやく戦後の安定期に入って、地元の要望もあり、営業を復活することに決定した。22年8月5日申請を行ない翌23年11月30日工事認可を受けた。
 この路線の復活にあたっては、路盤整地工事を3区に区分し、第1工区を八栗・大町間、第2工区を大町・塩屋間、第3工区を房前・志度間とした。塩屋・房前間の740mは曲線半径90mと100mの部分があり、また風波によってたびたび、運転に支障をきたす区間で、路線を変更することも考えられたので当初の整地計画から一応除外した。そして翌24年1月17日から工事を開始した。
 この工事について、軌道工事、架線工事、建築工事などいずれも資材の入手が困難でなかなか工事がはかどらなかったが、施設関係は同年8月末日にようやく完工した。さきに計画していた国鉄志度線乗り入れ、塩屋・房前間の曲線部の路線の変更などが実現しなかったのは、地元民が工事の早急な完成を要望したこと、用地買収の困難などのためであった、しかし工事用資材はよく吟味して、枕木は栗材新品、軌条は22kg20m熔接軌条、砂利は全線良質砂利を使用し、特に軌条継目部分には砕石を入れるなどしたので撤去前の線路に比べてはるかに良く、その工事費に約1000万円を投入した。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.153
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房前駅a33

琴電は1953年10月20日、ダイヤ改正に伴い琴平線築港~栗林公園間を自動閉塞化。
四国の鉄道としては最初の自動信号となり、これを皮切りに3路線の自動閉塞化を推進していきました。
志度線では長らく票券閉塞を施行してきましたが、1963年9月3日に今橋~春日川間を単線自動閉塞化。
続いて1964年12月23日、春日川~琴電屋島間を単線自動閉塞化しています。
更に1969年10月28日、房前駅を含む琴電屋島~琴電志度間の単線自動閉塞化を果たし、同時にダイヤ改正を実施しました。
房前駅については票券閉塞の取扱い終了と共に、無人化と交換設備の撤去を行なったそうです。

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 当時の信号保安装置は琴平線タブレット閉塞式(瓦町・琴平間)、築港線(瓦町・築港間)双信閉塞式(複線)、長尾、志度線はともに票券閉塞式を採用していた。28年10月に当地で第8回国民体育大会が開催されたので、かねて計画していた志度線の築港乗り入れを実現した。これによって築港線は琴平線、志度線の単線並列運転となったので、この間の保安を重視して、最も保安度の高い単線自動閉塞装置の工事を行なった。
 これは当時四国で最初の自動信号であったので注目された。なおその後は全線にわたって順次自動閉塞方式を採用することとなった。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.172
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 長尾線にあった川島口駅は勾配と曲線にかかり、立地条件が悪く連結運転に支障があったので、44年4月6日駅を廃止した。これに伴い車両の増結、スピードアップが可能となったので長尾線全線の運行ダイヤを改正して乗客の便宜を図った。また志度線についても国道11号線の交通緩和のため志度線に並行して高松北バイパス道路が新設されることとなり、この計画により琴電屋島・古高松間の約920mの線路移設工事が同年10月2日に完了した。ついで琴電屋島・琴電志度間の運行ダイヤを改正し、最高8分のスピードアップを図ることができた。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.233,234
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房前駅a12

単式ホーム1面1線。
有人駅時代の駅舎は残っていません。
ホーム全長は15m車3両分ほどで、北側の15mは1977年に延長工事を施した部分だそうです。
延長部分のみ縁端部に滑り止めのゴムが付いています。



房前駅a30

ホームはカーブを描いており、足元に列車との隙間が大きくできるので注意書きを貼っています。



房前駅a16

房前駅a15

駅舎こそありませんが、ホーム中間には上屋が建っています。



房前駅a17

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屋根下の待合室。
壁際にベンチと簡易券売機を備えています。
手前のゴミ箱は使用停止中です。



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房前駅a14

有人駅時代は相対式ホーム2面2線を備えた房前駅。
構内には廃止済みのプラットホームが残っています。



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房前駅には南北2ヶ所の出入口があります。
こちらは南口で、通路脇に集札箱とICカードリーダーを備えています。



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南口からは通路が伸びており、踏切に繋がっています。
踏切の東には房前漁港、西には国道11号線と道の駅「源平の里むれ」があります。
道の駅では琴電3000形335号車が静態保存されています。

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房前駅a32

この踏切の正式名称は「房前踏切」。
非常時の連絡先として瓦町駅東にある「運転営業所」が指定されています。
運転営業所は鉄道事業本部運輸サービス部に属する現業部門で、駅員・車掌・運転士・指令員を統括すると共に、非常時における工務所・車両所への連絡を受け持っています。
琴電は2022年度から踏切の場所を正確に把握するため、全ての踏切にナンバリングを実施。
房前踏切には「S59」のナンバリングを施しています。



房前駅a21

房前駅a22

一方、こちらはホーム北端。
あまり目立ちませんが駅の外に出る階段があります。



房前駅a23

住宅地側から北口を眺めた様子。
階段の横幅は1人分しかありません。



房前駅a24

階段前にはトラ模様の注意書きが1つ。



房前駅a25

「きけん 線路内立入禁止」と書かれています。



房前駅a26

房前駅a27

よく見ると線路向かいに砂利道が見えますね。
どうやらここは近隣住民が作った「勝手踏切」らしく、無断で線路を横断する人が後を断たないようです。
そのため琴電は注意書きを設置し、勝手踏切を使わないよう喚起している訳ですね。



房前駅a28

せっかくなので房前踏切から正攻法で回り込み、反対側から勝手踏切を見に行きました。
勝手踏切の砂利道は小さな畑の脇にあります。



房前駅a29

こちらも線路の手前に注意書きが立っています。




※写真は全て2023年5月3日撮影
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最終更新日 : 2024-02-18

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