タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2024-01-26 (Fri) 22:29

志度線塩屋駅 今は無き牟礼塩田と琴電直営海水浴場

塩屋駅(琴電)a01

香川県は高松市牟礼町大町1052-5(旧:木田郡牟礼町大町1052-5)にある、高松琴平電気鉄道の塩屋(しおや)駅。
瀬戸内海に繋がる志度湾の西岸に位置する駅です。
海岸との距離は300mほどで、昭和の一時期は「沿線で海水浴ができる唯一の駅」として知られたそうです。

駅名は「塩屋」ですが、実を言うと現地に同様の地名はありません。
高松市で「塩屋」の2文字が付く地名は2024年1月現在、瓦町駅の北東にある「塩屋町」しか見当たらないですね。
塩屋町と塩屋駅は直線距離にして9.1kmも離れているため、両者に因果関係が無い事は明白です。
では一体どうして「塩屋駅」という名が付いたのかというと、元々この地には塩田が広がっていたのです。
人呼んで「牟礼塩田」といい、江戸時代には「讃岐三白」を象徴する生産拠点として活況を呈したそうです。
この事から「塩屋」という駅名は、製塩を生業とする家々があった事に由来するものと考えられます。


JR四国 ことでん 琴電 高松琴平電鉄 高松琴平電気鉄道 駅名標 東讃電車
塩屋駅(琴電)a02

明治期の1891年2月1日、牟礼の塩業者13戸が「牟礼塩田同業組合」を設立。
言わば購買販売組合であり、組合員の生産した塩を集めて仲買人に一括売却する一方、石炭・縄・叺など製塩に必要な資材を一括購入して組合員に配分しました。

1938年7月26日には「保証責任牟礼製塩工業組合」となり、自前の煎熬工場を持つほどに拡大発展しました。
同組合は全組合員の鹹水(かんすい)を工場に集約し、蒸気釜で煎熬(せんごう)する体制を構築。
生産した塩は専売局に納入し、これと引き換えに得た賠償金から諸費用を差し引いた金額を組合員に分配しました。


私鉄
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1943年10月27日、工業組合は「保証責任牟礼塩業組合」に改組しました。
戦後も組織改正を重ね、1950年7月4日には煎熬方法を蒸気利用式から真空式に変更。
1953年7月31日に塩業組合法が施行されると、翌1954年1月に「牟礼塩業組合」に改組しています。
更に1959年3月31日、塩業整備臨時措置法が施行。
組合も同法に従い同年11月~2月にかけて、直営塩田と煎熬部門を廃止すると共に、鹹水の製造事業を日本化学塩業㈱に譲渡しました。

やがてイオン交換膜法による製塩が確立すると、組合は1971年12月2日に鹹水製造の廃止を申請。
4日後の12月6日に許可を受け、同月15日付で製造を廃止しました。
そして翌1972年3月31日を以って牟礼塩業組合は解散し、江戸時代から続く製塩の歴史に終止符を打ちました。
塩屋駅の約130m北には塩の神様・塩土老翁を祀る「塩竈神社」があり、塩田を盛んに営んだ時代の面影を残しています。



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前置きが長くなりましたが、ここからは塩屋駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
志度線のルーツは1906年11月22日、讃岐電気鉄道㈱による丸亀~高松~志度間の敷設認可の申請まで遡ります。
しかし大部分が国鉄讃岐線(現:JR四国予讃線)と並行するため認可されず、仕方がないので並行しない東半分の敷設を目指したのです。

1908年11月4日に社名を高松電気軌道㈱に改め、高松~志度間の電気軌道敷設と旅客貨物営業の認可申請を行なったところ、翌1909年6月8日付で特許状と命令書が交付されました。
ところが会社設立の直前になって、県内に同じ社名で軌道敷設の特許を受けた会社(長尾線の前身)があると判明したため、同年9月1日付で東讃電気軌道㈱への社名変更願を提出しています。
そして東讃電気軌道は1911年11月18日、今橋~志度間の新規開業に漕ぎ着けました。

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 明治44年秋には、今橋・志度間の線路の敷設が完成し、今橋以西も半分が終って、発電施設もほぼ完成したので、営業規程の認可を申請するとともに従事員教習所を設けて、運転士、車掌の養成に当るなど営業開始の準備をした。
 今橋以東の工事を予定の44年中に完成させるため、昼夜兼行で工事を急いだところ工事は意外にはかどったので、同年11月18日今橋・志度間7.56哩(12.1km)を開業した。当日は関係者多数を招待して開業式を行ない全線に電飾車を走らせた。
 開通当時は珍しいもの見たさの人たちが乗車して盛況であった。当時の運賃は1区3銭で今橋・志度間は通行税を加えて19銭であった。当時今橋・志度間には乗合馬車が走っており、しばらく競争していたが電車に対抗する手段もなく間もなく廃止された。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.28,29
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塩屋駅(琴電)a05

東讃電気軌道は1912年6月27日の臨時株主総会で、香川水力㈱から電力事業経営権を譲り受ける事を決定しました。
香東川の水を利用し安原村に水力発電所を設け、香川郡・高松市に電力を供給したのですが、増収にはいまひとつだったらしく1913年6月12日付で四国水力電気㈱に事業譲渡しています。
以降、東讃電気軌道は四国水力電気から電力供給を受ける事となり、1916年12月25日にはとうとう吸収合併されました。

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 前述のように、当社はその発展のために全力を尽くしたが、創立早々の重役関係の不祥事によって受けた打撃を容易に回復できず、また第一次世界大戦勃発による経済界の一時的混乱もあって経営はますます困難となった。
 そこで電力の受給そのほかで深い関係のあった四国水力に合併することがこの際最も得策であると認め、交渉の結果、東讃電気軌道株式2万株(払込100万円)に対して、四国水力4千株(払込20万円)を交付するとの条件、すなわち5対1の割合で合併することとなった。
 大正5年8月19日会社合併仮契約を取りかわし同年9月5日の臨時株主総会で四国水力との合併を満場一致で可決した。同年12月25日合併手続を完了したので、翌日から四国水力の電車部門として新たに発足することになった。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.31,32
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塩屋駅(琴電)a06

1937年7月7日、北京で盧溝橋事件が勃発。
ここに日中戦争の火蓋が切られ、政府は翌1938年4月1日に国家総動員法を公布しました。
同年12月12日に電力国策要綱が決定し、1938年3月26日には電力管理法と日本発送電株式会社法も成立。
すると四国水力電気も電力統制の対象となり1942年3月31日、水力発電所3ヶ所・火力発電所1ヶ所と附属する送電線を日本発送電㈱に出資しています。

また、1941年8月30日には配電統制令も公布されたため、自社所有の送電線・配電線・屋内電気工作物および電気関係営業設備を全て、1942年4月1日設立の四国配電㈱へ出資する事となりました。
こうして四国水力の事業は鉄道とガスを残すのみとなりましたが、これらにも交通事業調整法とガス事業統制の矛先が向いたため、別個に経営した方が得策との結論に至りました。
そして1942年4月30日、鉄道事業とガス事業を切り離して讃岐電鉄㈱が発足しました。

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 昭和17年3月17日讃岐電鉄株式会社設立の認可を得て、四国水力と高松乗合(営業路線出晴・長尾間、出晴・西植田間)の両会社から現物出資をうけ、同年4月30日資本金180万円をもって創立業務を開始した。創立当時の役員は次のとおりである。

取締役社長  田中 隆
取締役  武田 謙  鎌田 栄  合田 健吉  景山 薫
監査役  塩田 忠左衛門  鎌田 憲夫

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.45,46
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塩屋駅(琴電)a07

一方、政府は1940年1月31日、国家総動員法第8条に基づき陸運統制令を公布。
すると全国各地で鉄道会社・バス会社の戦時統合が起こりました。
讃岐電鉄も国策に従い1943年11月1日、琴平電鉄、高松電気軌道の2社と合併して高松琴平電気鉄道㈱に生まれ変わっています。
もちろん塩屋駅も新会社に引き継がれました。

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 当時は軍需工場の勤務者や軍関係の乗客の増加によって、当社の運輸収入は飛躍的に増加し、経営状態は好転しつつあった。
 昭和16年4月以降は政府補助金の交付をうけなくても、年2分程度の配当金支払が可能となり、昭和18年4月期においては借入金を完済するに至ったのである。しかし一方戦局の進展によって、交通統制の国策に沿う企業統合が当局からいっそう強く要請されたため、香川県東部においては、琴平電鉄を主体として讃岐電鉄、高松電気軌道の3社を統合して、新たに高松琴平電気鉄道株式会社を設立することとなり、同年10月12日千代田生命ビルで、当時の株主636名中354名が出席して、臨時株主総会を開催し、新会社の設立発起人となることならびに当社の運輸事業と、その付属財産を現物出資することに関する誓約書承認の件を決議した。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.90
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塩屋駅(琴電)a08

戦局が厳しくなるにつれ、琴電は鉄道施設の保全に必要な資材を入手するのも困難になっていきました。
挙句の果てには志度線が不要不急線に指定されてしまい、1945年1月26日に塩屋駅を含む八栗~琴電志度間を休止するはめになりました。
以降は戦後まで休止区間の代行バスを運行しています。
他の不要不急線と同じであれば、琴電も志度線の資材を軍需物資として供出させられたのでしょう。

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 当時は長尾線の輸送力を増強することが最も急務であったが、そのための資材は極めて乏しく、特に軌条は自社の撤去軌条を転用するほかなかった。このような情勢下にあったときちょうど昭和19年度第2次鉄道軌道回収指令があったので、20年1月21日志度線八栗・志度間(5.9km)の営業を休止するための認可申請をするとともに、地方鉄道等回収転用実施申請書を提出した。
 同月25日に営業休止の許可を得て、翌日から運転を休止した。この区間の利用客に対してはバスにより代行輸送を行ない、八栗・牟礼学校前・房前・志度間6kmを3区間として、1区運賃は10銭で輸送した。
 休止した区間の施設を撤去する工事は3月から房前駅を境として、東、西2班に分れて行なわれ、その撤去した資材は一応八栗、志度の2ヶ所にそれぞれ集積された。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.132,133
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塩屋駅(琴電)a09

終戦後、沿線地域では志度線の全線復活を求める声が高まり、琴電も営業再開を決意。
1947年8月5日に申請を行ない、1948年11月30日に工事認可を受けました。
そして1949年10月9日、志度線八栗~琴電志度間が運行を再開し、塩屋駅も息を吹き返しています。

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 20年1月26日以来運行を休止していた志度線八栗・志度間5.8kmの路線はようやく戦後の安定期に入って、地元の要望もあり、営業を復活することに決定した。22年8月5日申請を行ない翌23年11月30日工事認可を受けた。
 この路線の復活にあたっては、路盤整地工事を3区に区分し、第1工区を八栗・大町間、第2工区を大町・塩屋間、第3工区を房前・志度間とした。塩屋・房前間の740mは曲線半径90mと100mの部分があり、また風波によってたびたび、運転に支障をきたす区間で、路線を変更することも考えられたので当初の整地計画から一応除外した。そして翌24年1月17日から工事を開始した。
 この工事について、軌道工事、架線工事、建築工事などいずれも資材の入手が困難でなかなか工事がはかどらなかったが、施設関係は同年8月末日にようやく完工した。さきに計画していた国鉄志度線乗り入れ、塩屋・房前間の曲線部の路線の変更などが実現しなかったのは、地元民が工事の早急な完成を要望したこと、用地買収の困難などのためであった、しかし工事用資材はよく吟味して、枕木は栗材新品、軌条は22kg20m熔接軌条、砂利は全線良質砂利を使用し、特に軌条継目部分には砕石を入れるなどしたので撤去前の線路に比べてはるかに良く、その工事費に約1000万円を投入した。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.153
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臨時停車 臨時列車 臨時駅 塩屋海水浴場前駅 東讃電車
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高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.182より引用

滝宮納涼、岡本遊園地など、戦前からレジャーに力を入れてきた琴電は、戦後もやはり行楽客の誘致に力を注ぎました。
1951年7月10日、志度線塩屋~房前間の海岸に自社直営の海水浴場を開業。
以後、毎年7月10日~8月30日の51日間に渡って営業し、塩屋駅から300m志度寄りに「塩屋海水浴場前駅」という臨時駅も開設しました。

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 26年7月電車志度線の塩屋・房前間に塩屋海水浴場前駅を臨時に設けて、当社直営で本格的な海水浴場を開設した。最初は有料休憩所1棟10室、無料休憩所2棟で出発したが、救護所、シャワー室、浴場など当時高松市近郊には珍しい施設の良さと「電車を降りるとすぐ砂浜」のキャッチフレーズが功を奏し大盛況であった。
 その後、毎年海水浴期間中は電車を臨時運転するとともに各種の催物を行なって宣伝につとめたので年を追って盛大となり、施設も拡充された。また28年の夏には当時準ミスユニバース小島明子嬢を招いて写真撮影大会を開催し大好評であった。

《出典》
高松琴平電気鉄道株式会社社史編さん室(1970)『60年のあゆみ』(高松琴平電気鉄道)p.p.182,183
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なお、琴電の社史『80年のあゆみ』(1989)によると、塩屋海水浴場は1970年8月を以って営業を終えています。



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塩屋駅(琴電)a12

塩屋駅の出入口は構内東端にあり、踏切と接しています。



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この踏切の正式名称は「塩屋踏切」。
非常時の連絡先として瓦町駅東にある「運転営業所」が指定されています。
運転営業所は鉄道事業本部運輸サービス部に属する現業部門で、駅員・車掌・運転士・指令員を統括すると共に、非常時における工務所・車両所への連絡を受け持っています。
琴電は2022年度から踏切の場所を正確に把握するため、全ての踏切にナンバリングを実施。
塩屋踏切には「S56」のナンバリングを施しています。



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1面1線の単式ホーム。
塩屋駅は開業以来の無人駅で、一貫して交換設備を設けた事がありません。
ホーム全長は15m車3両分ほどで、東半分は盛り土式、西半分は桁式となっています。



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ホーム東端には旅客上屋が建っています。
屋根下には前駅発車案内標を備えています。




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出入口にはICカードリーダーと集札箱を設置。



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簡易自動券売機も備えていますが、結構年季が入っていますね。



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ゴミ箱は「安全と衛生管理の観点およびゴミの減量化に取り組む」という名目で使用中止状態です。



塩屋駅(琴電)a23

7日間2,200円(税込)からの料金を払えば、上屋の掲示板にポスターを貼る事が出来ます。
問い合わせ先は琴電本社の地域開発本部で、平日9:00~17:00に営業しています。



塩屋駅(琴電)a22

上屋の東隣にはトイレがあります。
男女共用でこじんまりとしています。


琴電600形 名古屋市営地下鉄東山線 名古屋市交通局250形
塩屋駅(琴電)a25

塩屋駅を出発する琴電志度行きの600形621F(元・名古屋市営地下鉄東山線250形)。
踏切前ではお遍路さんが小柄な電車を眺めていました。


※写真は特記を除き2023年5月3日撮影
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最終更新日 : 2024-01-26

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