タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2024-01-21 (Sun) 11:32

苗穂工場製罐職場 機関車ボイラーの守り手と山男の会「ガマクラブ」

苗穂工場製罐職場a01

石狩管内は札幌市東区北6条東13丁目にある、JR北海道の苗穂工場。
ここは車両の解体を伴う全般検査・重要部検査など大掛かりな製修工事を行なう車両工場です。
「製修」とは国鉄時代から使われている言葉で、「車両や同部品の解体・製作・艤装などの作業と、これらに付随する検査設備の運転操作及び器具・工具の整備」を意味します。

先日は国鉄時代、各種機関車の解体・艤装・車体修繕などを担当した「機関車職場」という現業部門について書きました。
機関車職場の建物は「機関車検修場」として健在で、分割民営化から現在に至るまでJR貨物苗穂車両所が借用しています。

《機関車検修場関連の記事一覧》



苗穂工場製罐職場a02

そんな機関車検修場の東側には、白い外壁と水色の屋根を持つ建屋がくっついています。
この建物はJR北海道の苗穂工場組立科が所管する「旅客車鉄工作業場」で、館内には「安全道場」と内燃機科の「DL変速機検修場」が同居しています。
主に旅客車の台枠、外板などを対象とした板金加工(剪断・溶接・穴あけ等)を行なう訳ですが、元々ここに今回取り上げる「製罐職場」が入っていました。

製罐職場の「罐」は汽罐、すなわちボイラーを意味しており、機関車職場で現車から取り外したボイラーの修繕および製作に当たりました。
ゆえに職場を表す記号として「Boiler」の頭文字を取った「B」の一文字を制服ワッペンに刺繍し、国鉄後期はヘルメットにもステッカーを貼り付けていました。
言わば機関車職場の「下請け職場」であり、他にも車体・台枠の盛金・溶接加工、炭水車の修繕を手がけたといいます。



苗穂工場製罐職場a15
苗穂工場製罐職場の「ボックス屋」による火室修繕
日本国有鉄道苗穂工場(1976)『「なえぼ」号外51.2.1 蒸気機関車とともに』p.19より引用

なお、苗穂工場製罐職場では検修員を複数の組に分け、中でもボイラー内部の火室修繕を担当する組は「ボックス屋」と呼んだそうです。
この通称は火室を意味する英語の「firebox」に由来するようですね。
鉄道工場に数ある職場の中でも、製罐職場は騒音が激しく難聴になってしまう職員も多かったそうです。
また、重量物を取り扱うため労災も多く、それこそ殉職する人も少なくありませんでした。

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 当職場も創立以来SLの最も源動力ともいうべき「ボイラ」修繕が主体で年がら年中、空気器具、工具、先手ハンマー等で騒音が激しく活気に乗った職場で音声の通じない職場で自然に手マネ、足マネで相手の動作を知り仕事を進めて行く勘も養われ、「ツンボ」にならぬと一人前の職員でないともいわれ、このような作業環境で長年育った関係で(122名中30年以上勤続が61名独身者4名)製缶気質が一層強まり、性格も竹を割ったような一本気で筋を通す反面、人情味に厚く負けん気が強い人が多くなる所以であり、ここ一番ともなれば粋な根性が飛び出し、名人肌も仲々多い職場で札幌でも有名な民謡の大家Yさん、将棋の名人Sさん、碁の有段者Tさん、釣りの名人Hさん、スキーではオリンピック役員も2桁と勢揃する程の人材もおり、クラブ主催の各競技も他職場を制覇するエネルギーが生れ更に燃え続けるであろう。

《出典》
石藤唯雄(1973)「製缶手 製缶職場」『なえぼ』1973年9月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.6
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 職場内では、ボイラーの缶胴取替え、缶板取替えなどのステーつぶし、コーキング・ピニング、リベットカラクリ作業で騒音が鳴り止むことがなく、慣れない人が数時間職場内にいると鼻血を出すこともあった。このような騒音の中で作業をしていると耳を悪くする人も多く、声も大きくなるため他職場の人が会話を聞いて「ケンカしているのか」と尋ねられることもしばしばで、騒音があまりに大きいときは、まったく話し声が聞こえないため職場だけで通じる「手話」が生まれ、作業は手話で進められた。しかし、会話も手話も通じない時はイライラが募り、ハンマーやタガネが飛んでくる事もあり「気の荒い職場」という印象があったようで、職場配属になった新人はビクビクの毎日だった。

《出典》
奥岡克則・内藤正浩(1984)「工場のあゆみ 製缶職場(B)」『なえぼ』1984年2月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.3
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苗穂工場製罐職場a12

ここからは苗穂工場製罐職場の大まかな歴史を辿っていきましょう。
なお、冒頭にリンクを貼った機関車職場の記事を先にご一読いただくと、業務体制がよりイメージしやすいかと思います。

苗穂工場は1909年12月8日に「札幌工場」として開設されました。
以降5年間で木工職場・塗工職場・鍛冶職場・仕上職場・旋盤職場・製罐職場・組立職場の現業7部門と、事務掛・工事掛の非現業2部門を開設しています。
このうち製罐職場は1914年5月に鉄筋コンクリート造りで竣工し、建坪2,244㎡、建築費28,500円となりました。
その後は札幌工場手宮派出所(旧:手宮工場)からの配転者を受け入れて、同年12月15日より機関車修繕作業を開始。
主管職場である組立職場(後の機関車職場)と連携し、最初に手がけた蒸気機関車はB6形(2120形)でした。

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 大正2年12月、白雪の中に偉容な姿をあらわした建物、当時としては珍らしい鉄骨造りの組立職場であるが、これと対立するかのように赤レンガ造りの木工職場が、仲よく建っていた。翌3年5月に製罐、鋳物職場が竣工し、12月になって初めて機関車修繕作業のハンマーの音が高々と流れたのである。
 創立当初は、札幌工場と呼ばれたこの工場へ、手宮、岩見沢の両工場から続々転勤してきた職人達は、希望に胸をふくらませながら、力強くハンマーを振ったことが想像される。
 機関車修繕者の第一陣は、手宮工場から組立工、製罐工の13名が札幌駅に着いたといわれ、最初に手がけた修繕車は2120形、通称B6という機関車であったが、出場するまで1ヵ月以上もかかったといわれる。ガランとした機械らしいものとて無い職場で、ほとんどが手作業で行なわれたのであるから、いまから考えるとよくやったものと感歎するのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.98,99
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苗穂工場組織図(1915年2月)a01

札幌工場は1915年4月1日、現名称の「苗穂工場」に改称しました。
当時から組織体制は「本場」と「職場」に分かれており、本場には「事務掛」と「工事掛」の非現業2部門を設けていました。
現業は組立職場、旋盤職場、仕上職場、製罐職場、鋳物職場、木工職場、塗工職場、鍛冶職場、原動室(後の動力職場)の9部門があり、力を合わせて車両の修繕に当たりました。

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 昭和9年に苗穂工場へ就職して「工場技工を命ず、日給1円10銭を給す」の辞令をもらって最初に勤務したのが製缶職場でここで電気溶接の仕事をすることになった。
 当時は今と違って、ガス溶接にたよる方が多く、電気溶接に従事する人達は僅かで、総勢十数名と記憶しているが、入ったばかりの私は専ら練習に勉め、ようやく3ヵ月後に一人前になり、現車の仕事をすることになった。
 最初は炭水車と台枠廻りの仕事で、初めて手掛けたのが水槽底板の当板溶接であったが、基本作業しか憶えていない私は、練習の際、何度も溶接箇所に歪が出ないようにと作業掛にやかましく言われていたので、正直にこれを守って型通りの溶接をしたが、修繕を終っていよいよ水圧試験することになった。
 水槽に水を張りはじめたが、何しろ現車で初めての仕事なのでどうなるのかと胸がわくわくしているうちに、漸く水も満杯となった。
 しばらくしてから検査掛がやって来て、彼方、此方と見廻りいよいよ当板箇所の検査となったが、何んの検査をするのかと見ていると、点検ハンマーの先で当板部分をポンと叩いて穴を開けた。ところが、叩いた穴から水がポタリ、ポタリと洩れ出し、当の私は面目丸潰れとなり早速、先輩のお出ましを願って穴の部分を手直してことなきを得たが、これが仕事での最初の失敗であった。
 また、仕事の分担としてエンヂン台枠の溶接盛金もあり、あるとき、その仕事に出掛けたところ、シリンダから台枠の後まで糸が張ってあって、ところどころを紙で結んであった。これが台枠心出しのためのシリンダ中心線とは露知らぬ当時の私は最初、これをさけて仕事をしていたが、そのうち遂に忘れてこれを切ってしまい、ボックス屋の棒心にひどく叱られた。

《出典》
白幡幸夫(1965)「仕事の思い出」『なえぼ』1965年4月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.15
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苗穂工場製罐職場a16
製罐職場で修繕工事を受ける機関車の台枠
日本国有鉄道苗穂工場(1976)『「なえぼ」号外51.2.1 蒸気機関車とともに』p.20より引用

さて、1961年発行の公式書籍『苗穂工場五十年のあゆみ』を開くと、製罐職場の歴史は意外にも単独で語られる事が少なく、だいたい機関車職場や旋盤職場などと共に「機関車修繕」の一括りで記述されています。
それでも製罐職場独自の動向を探ってみると、1929年に早稲田大学出身の山田広が製罐職場長に就任してから、氏の影響で山スキーが流行ったのだといいます。
そこに旋盤職場の面々も加わって「ガマクラブ」なるアウトドアサークルを結成し、休暇には道内各地の山々でスキーや登山を楽しむようになったそうです。

当時の苗穂工場ではスポーツに興じる職員が増え始めており、ガマクラブはその中心的存在だったのだとか。
やがて構内東端に野球場、本場事務所の西にバレーコートやテニスコート、弓道場が造成されました。
そしてガマクラブの顧問的存在だった機関車係長・星源蔵は、転勤して郡山工場長、大阪監督官事務所長を歴任。
在外研究員としてアメリカ、ドイツに留学してから苗穂工場に舞い戻り、1937年10月20日付で11代目苗穂工場長へと見事に栄転しています。

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 昭和4年B1に早大出身の名ジャンパー山田広さんが赴任以来、吾々の使用していたアルパイン式スキーがノルウェー式に改められ、山スキーが盛んになり、我も我もと50歳を越えた人でもスキーを楽しみ、苗工の半数以上はスキーに参加したであろう。当時の若者の中で山田さんのコーチを受けた神成、梅津、富田、高橋の諸氏がリーダー格で、その後当時のM高橋、原田、住田、遠藤、相川、土岐の諸氏が合流して、その名もガマクラブと命名した山男の会ができて、札幌近郊は勿論、ニセコ、十勝、大雪、狩勝等夏冬の山を大いに楽しんだものである。当時機関車係長(現在の機関車課長)の星源蔵さんが一役買って出たが、ガマの連中にとっては荷物になった。奥さんが又非常に意気な方で、何時も山に出掛けるときは、主人のリュックサックに正宗1本を忍ばせてくれることを吾々は知っていた。山での行進は何時も星さんを真中にはさみ、その前後には御守役を決めておいた。疲れて来るとゴロリと雪の上に転がって“オイ、水だ、水だ”と叫ぶので、御守役は例の正宗を差出すとニンマリと笑っていた。吾々はこの水に魅力があったので、もうそろそろ“休め”の号令がかかりそうなものと狸の皮算用をしていた。
 苗工に運動熱を盛り上げた初期であり、以後大川さん、山田道彦さんと移り、カップ争奪戦の全盛期を作った。その陰にはこのガマクラブの連中が中心となっていたことを銘記したい。
 その後星さんが工場長となって来られ、製罐の事務室で宮森職場長と話しているとき、私が後から、“オイ丈平さん、一般の罐が大分遅れているぢゃないか”とドナッタとたん、後を向いたのは星工場長であった。後姿が当時のB1助役の大村丈平さんに良く似ていた。星さんつけ加えて“オー相変らずイ気がいいな、どうだ勉強しているか、その内に試すからな”とね。

※注釈:文中のB1チは「製罐職場長」、Mチは「旋盤職場長」を意味する略号である

《出典》
原田政一(1961)「うらばなし」『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.153
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苗穂工場製罐職場a03

1936年10月2日には北海道地方陸軍特別大演習が行なわれ、これに伴う御召列車の修繕を苗穂工場が引き受ける事となりました。
そしてD51形596号機、D51形562号機の2両を修繕し、見事に送り出したのです。
御召列車の成功は機関車職場の職人達にとって誉れでしたが、1937年7月7日に日中戦争が勃発すると軍需産業に人手を回されてしまい、その影響で修繕在場日数も伸びるようになりました。

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 かくして、当工場には北海道地方陸軍特別大演習のための軍隊輸送に活躍する機関車、客車、貨車が続々入場したため、各職場は日夜修繕作業に追われたのであるが、約1ヵ月に亘った大演習も無事終了して、当工場で慎重に修繕、整備された御召機関車もその大任を果したのである。なお、この頃になって各工場が霸を競った修繕日数の棒比べも次第にかげをひそめ、また昭和6年の満州事変を契機として、軍部の専横な産業政策、インフレ政策により、軍需産業重工業が非常に発達し、軍需景気のために技工の移動が目立ち、そのため技工が不足になって自然に修繕日数も多くなった理由もみのがせない事実といわなければならないのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.109
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苗穂工場製罐職場a04

1937年7月7日に日中戦争が勃発すると、日本軍は凄まじい勢いで中国を侵攻し続け、国内には軍需景気が到来しました。
外地軍事目的で転出した機関車もあり、国内ではその補填と貨物の輸送力確保が急務となったため、国鉄工場でもD51形蒸気機関車を製造する事となりました。
苗穂工場も1938年度に年間3両の計画を立て、デゴイチ新製に着手しました。
その記念すべき1両目がD51形237号機で、工事着手に先立ち職人達が浜松工場まで勉強に行ったそうです。

その後は本場の機関車係が音頭を取り、機関車職場、製罐職場、鋳物職場、旋盤職場、工具職場、工機職場の現業6部門で車体・各種部品の製造に打ち込みました。
当時は鋳鋼品を大宮工場、鷹取工場、小倉工場などに依存していたため、ひとたび青函航路がシケると滞貨が生じ、デゴイチの台枠に必要な材料の入庫が遅れてしまったそうです。
旋盤作業でも数多の苦難がありましたが、それらを乗り越えて1938年9月5日、遂に苗穂工場初の新製SLが完成を見ました。

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 画期的な事業としてのD51機関車の新製第1号D51237号が、職員注目の中に起枠式が昭和13年9月5日、機関車職場中央において神式により行なわれたのである。機関車係長(現在の機関車課長)佐野技手司会の下に、局長、運転、工作関係者を始め、機関車関係職員が参列して見守るうちで、手塚局長、森工作部長、星工場長と、それぞれネーム入り渡金リーマボルトが台枠前鋳物に打ち込まれたが、このときのハンマーは砲金製バフ磨きで、その後も久しく保存されていたのである。
 越えて10月25日、14番線(現在の25番線)において落成式が行なわれたが、本省からは紀伊工作局長来場し、関係者多数が見守る中で手塚局長の手で汽笛が鳴らされ、徐々に加減弁は開かれ、黒光りする巨体の動き出すのを眺める人の目は自然とうるんでくるのをどうしようもなかったのである。ここにわが手をかけた機関車が誕生して、力一杯鉄道精神の歌が遠く流れていった。その後、つぎつぎと苗工製のD51機関車が12輛落成したのであるが、このD51機関車の完成後は、昭和19年に日本製鋼所の入換小型機関車2輛の新製を行なった以後は、国内情勢の変化によって、全く新製は行なわれなくなったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.118
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苗穂工場組織図(1942年3月)

苗穂工場は1940年4月、事務分掌を改正。
これに伴い「工場限り」として鉄工職場と運搬職場が発足しました。
鉄工職場は後に「第2製罐職場」となる現業部門で、主に客車や貨車に使う台枠などの製作・修繕をしていたそうです。
当時、民間のメーカーは軍需に追われ、鉄道の車両や機械を製作できなくなっていたため、国鉄部内で自給自足する方針が立てられました。
この鉄工職場も客貨車の量産体制を強化すべく生まれたもので、機関車関連の製罐職場(後の第1製罐職場)とは対照的な存在だったそうです。

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 鋼製客車を製作したのは、高橋正男氏が客貨車課長時代の昭和15、6年頃で、船野健次郎氏が客車新製の担当者であったが、スハ32形式をスハ32846号からスハ32849号の4輛を製作した。また杉本栄一氏が鉄工職場長(第2製罐)であって、回転治具による台枠の反りの問題などで苦労しておられたが、この客車は現在小樽に配置されている。

( 中 略 )

 苗穂工場における車輛製作の殿りを承ったのは、トキ900形式の無蓋貨車であるが、これまでにも貨車の製作は、各種の雪掻車をはじめ、ワム23000形式有蓋車などの製作を毎年何輛かづつを施行していたが、最後にこのトキ900形式の製作が計画されたのは昭和18年である。工事計画も急がされたが、これ程悲壮な気持でやった仕事もかつてなく、戦争は愈々苛烈になり、吾が方必ずしも有利ではなかった。当時の合言葉で「1艦でも1機でも多く」というのが国民の念願で、兎にかく生産を上げることのみに懸命の時代であったから、一塊でも多くの石炭を輸送したいというのである。ここに考え出されたのがトキ900形式であるが、3軸車で台枠は全熔接の木製無蓋車であり、安かろう(工費)、早かろう(工程)、弱かろう(強度)という代物で、一度激突させたらお陀仏だといわれたものである。それでもよいから兎に角石炭を運ばなければならないときであり、当時の私は鉄工職場(第2製罐)でこの台枠の製作を担当し、谷井名助役がいて台枠の回転治具の製作やら、軸箱守の固定治具の考案等に余念がなかった。職場の体制は所謂「撃ちして止まむの」気概で張り切っていても、肝心の鋼材の入庫が思うようにゆかず全く閉口したのである。

《出典》
開発友秋(1961)「苗穂工場の思い出」『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.p.389,390
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苗穂工場製罐職場a05

1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。
日を追うごとに戦局は厳しさを増し、機関車修繕に必要な資材も不足しました。
かつてない危機に瀕する中、軍国政府の要求もより苛烈になっていきました。
大変な材料不足にも拘らず国民総決起、一億総武装を合言葉に迅速な製修の施工を鉄道工場に求めてきたのです。
そのため苗穂工場もフルスロットルで稼働し、一般修繕を7日前後で完遂するというスピード感を維持しました。
もちろん現場の苦心は計り知れず、1日4時間以上の残業が常態化するほどでした。
車両の整備不良も深刻となって輸送に支障を来たし、次第に社会は疲弊していきました。

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 昭和16年12月8日勃発した大東亜戦争も、年の経つとともに始めの戦果は夢のように消え、生活も苦しくなると同時に修繕資材も不足してきたのである。まず第一に困ったのは煙室戸の石綿パッキンであるが、石綿の生産はアフリカであるため、容易に手に入る筈も無く、例え手に入ってみたところで、全てが軍関係のみであった。昭和18~19年となると全くのお手上げ状態となり、工場はともかく機関区では、毎日使用する機関車の保守に、あの手この手と考えて、結局多く使用したものは粘土であった。上等の方では古いマニラロープにこの粘土を塗りつけて煙室戸に入れたのである。この方法で一交番走ってくると、粘土は乾きロープは燃えてしまうので、また新たに入れ替えが行なわれたのである。しかし、マニラロープのあるうちはそれで良かったが、これも無くなると遂には縄となり、運転途中で焼けて煙室戸の気密が保たれず、そこから空気が入って煙室内のシリンダーが燃焼して、煙室戸が真赤になってしまったことが数知れなかったのである。
 このため煙室戸は曲って、ますます気密保持不可能となり、この煙室戸の修繕に工場から出張修繕を実施したが、局では近辺の機関区の不良機関車を集めて、当時六検を行なっていた機関区で、曲り直しを実施したのである。そして、石綿パッキンの代用として、色々な乾草を縄状にあんで使用したが、結局、資材が無いということは、原始に返ることだったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.125,126
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苗穂工場組織図(1944年11月)

鉄道省は1942年9月11日、地方組織の改正を実施。
所管する全ての鉄道工場が「工機部」へと一斉に改称しました。
苗穂工場も右ならえで「苗穂工機部」に改称し、同時に石炭荷役機械の修繕を担うべく工機職場に「室蘭派出所」(後の室蘭機械区)と「小樽築港派出所」(後の小樽機械区→札幌機械区→札幌設備所)を設置しています。

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 昭和17年にはつぎのような改正を行なった。
 1月に所管行政の考査一般に関する事務を分掌する考査室を大臣官房に新設した。3月に鉄道技術研究所官制が公布され、大臣官房研究所にかわって鉄道技術研究所が鉄道大臣の管理下に置かれ、これに1課6部1場を置いた。同月札幌工事事務所に旭川工事事務所を統合した。日華事変の発生以来官庁事務は急激な増加をしたため、その機構も複雑となり職員も増加したので、11月から簡素化する旨の閣議決定が6月に行われたが、鉄道省はこれとは別個に、できるだけすみやかに現業事務の体制を整える必要があったので、9月にその趣旨を織り込んで鉄道大臣の権限でできる範囲内で、つぎのような地方組織の改正を行なった。
 ア 鉄道局の部課 運輸部・運転部および監督部を統合して業務部(東鉄・大鉄はこのほかに電気部)とし、工作部と経理部とを廃止して資材部とし、船舶部(広鉄・札鉄)は従来どおりとしたので、資材部は3課または4課、列車部は2課、電気部は2課または3課、船舶部は2課としたので、課の数は236が169となった。
 イ 鉄道局地方官署 運輸事務所と保線事務所とを原則として統合し管理部と改称し、新橋・上野・大阪の運輸・保線・電力の各事務所はそのまま事務所を部と改めた。また工場を工機部と改めた。これにより鉄道局地方官署の数は110が70となった。なお管理部に総務・輸送・施設の3課(下関・函館に限りこのほか船舶課)を置いた。

《出典》
日本国有鉄道(1958)『鉄道辞典 下巻』p.1413
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苗穂工場製罐職場a06

やがて首都圏や京阪神が空襲に見舞われると、本州の車両メーカーも機関車の製造に着手できなくなっていきました。
すると苗穂工場に日本製鉄㈱室蘭製鉄所(後の富士製鐵㈱室蘭製鉄所)から専用線で使用する機関車の製造依頼が来ました。
これを受注して1944年、製鉄所用の入換機関車2両を新製の上、納品しています。
国鉄が初めて私鉄(専用線を含む)に新製機関車を供出した事例だそうな。
当時の国鉄としては金銭を受領するよりも、物々交換の方が車両検修を行なう上でありがたかったといい、日本製鉄からも代金代わりに鉄板・アングル等の鋼材を受け取っています。



苗穂工機部組織図(1946年5月)

1945年8月15日、ラジオの玉音放送が日本全国に終戦を報せました。
これまで国民総決起、一億総武装のスローガンに従い行動してきた国民は一転、抜け殻のように脱力してしまいました。
苗穂工場の職員達も猛烈な虚脱感に襲われ、能率が大幅に低下。
工場創立以来の暗黒期を迎えました
深刻な食料難にも直面したため、夜勤者向けの食料を自給するべく1945年11月7日、本場の総務課に「食糧増産係」、現場に「増産職場」を新設。
一部の技工達も製塩・水産・農産の各業務に回され、食料生産の立場から「安心して働ける環境」の整備に取り組みました。



苗穂工場製罐職場a07

1949年2月1日、苗穂工場は現業部門の組織改正を実施しました。
製罐職場は「第1製罐職場」、鉄工職場は「第2製罐職場」にそれぞれ改組。
機関車関係の製罐・台枠溶接などは第1製罐、客貨車の車体製作・台枠溶接などは第2製罐に振り分けています。
同年6月1日には第2製罐職場が客車鋼体化工事を開始し、ミスを防ぐため部品の切り込みには全て型板を使い、各部品の取付についても治具の使用を徹底しています。

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 当時の木製客車は車令30年を超えるものが多く、車体は疲労に疲労を重ね保守に難渋していたが、これを廃車にして鋼製車を新造することは、国鉄の財政上困難なことであった。それで木製客車3輛を以って鋼製客車2輛に改造し、5ヵ年計画で木製客車を無くすことにしたのである。そして試作段階の1年は、苗穂、大宮、長野の3工場が選定されたが、その成績は期待にそむかぬ好成績を収めたため、玆に「鋼体化5ヵ年計画」はその巨歩を進めたのである。まことに画期的計画といわねばならない。
 当工場は、全国最高の179輛の改造を成し遂げ、その改造車は海峡を越えて本州にまで進出し、苗穂工場の技術は広く喧伝されたのである。

(中 略)

 ○物尺を使用させなかったB2
  如何に注意を払っても人間は誤りを起す。まして照明も不十分な第2棟での作業は尺目を読むのが一苦労であり、誤ちも発生したので部品の切込みはすべて型板で行ない、現車作業では各部品の取付けは総べて治具を使用したのである。これを略記すれば右票の多きに上っている。

車体関係 約70種
窓関係  約20種
台枠関係 2基
その他  約20種
計    約112種

※本文中のB2とは「第2製罐職場」を意味する記号である
 
《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.185
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 「おーい、中村君」こと中村武夫氏は、わが職場では「課長」と皆は呼んでいる。
 厚い眼鏡を通して見る目、やや、あごが張って角張った顔、肩を左右に振って歩く格好は、いかにも課長然としているところからつけられたニックネームらしい。
 同氏のニックネームは、はじめから課長ではなく、以前は「一番スコップ」であったが、この名前にしてもいわく因縁があるのである。
 というのは、昭和24年からはじまった客車鋼体化の折、側板歪取り作業で鋼板のでこぼこを調べるのに、手の平でなで廻すため、いつの間にか手の平の小さな筋線が消え、太い筋線のみが残ってテカテカに光り、その手の大きさや皮の厚さから人これを呼んで一番スコップと名付けたのである。

《出典》
苗穂工場第2製缶職場(1965)「職場の大将 中村武夫氏」『なえぼ』1965年6月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.34
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苗穂工場製罐職場a08

1949年には戦後の虚脱状態から抜け出して安定期を迎えましたが、新たな問題として「ボイラー工程の確保」が浮かび上がりました。
北海道の機関車は老朽車が多く、戦中戦後の酷使により限界が来ていました。
そこで本州からの転属機を多数受け入れる事となり、C51形をC55形またはC57形、D50形・9600形をD51形にそれぞれ置き換えています。
これら転属機の修繕に対応するべく、苗穂工場では廃車になった機関車のボイラーを「リンク品」として予め修繕しておき、入場車のボイラーと交換できるようにしました。
この予備ボイラーが初めて使用されたのは1949年6月入場のデゴイチからで、その後50罐以上に渡って使用されました。

第1製罐職場には「工事量の繁閑調整ができる」と喜ばれましたが、機関車職場では艤装時の現車合わせに苦労し多大の苦情も出たといいます。
それでも予備ボイラーは当面の修繕対策には大いに貢献しました。



苗穂工場製罐職場a09

第1製罐職場は機関車職場と連携して1955年11月、長万部機関区に所属するD51形237号機のボイラー載せ替え工事を実施。
これを皮切りとして1959年までに蒸気機関車49両のボイラーを交換し、保安度の向上につなげました。

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 戦後、機関車修繕の施策は修繕技術、能力増強が主体となって推移したが、この時期に入ってからは様相が根本的に変化したのである。
 これは、蒸気機関車と言えども新しい時代にふさわしい性能を具備しなければならないという時代の要請が反映したものであるが、それはそれとして、このような考え方が戦前を凌駕する状態となって現れでたといっても間違いではないのである。
 このような観点から、第一に着手されたのは、ボイラのせ替工事である。
 戦時製作のボイラは、当時の国内事情を反映し、その材料の不良、製作技倆の未熟に併せて、戦時、戦後の酷使に耐えきれず、全国各所で爆発事故が発生し、その数は昭和34年までに40罐以上の多きに渡ったのである。
 このうち、苗穂工場受持車も8罐の爆発事故をみているので、大々的にボイラのせ替工事を施行しなければならない時期に遭遇していたのである。そして昭和30年試験的に3輛施行したが、31年から計画的に施行され、この工事が一応完了した昭和34年までに49罐施行したのである。
 第1輛目は、昭和30年11月、長万部機関区のD51237号機で、乙修繕併施で施行された。この機関車は苗穂工場で、D51形式を新製した当時の第1輛目であったが、ボイラのせ替工事の第1輛目であることも、くしき因縁と言うよりほかはなかったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.144
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苗穂工場組織図(1953年4月)

1950年1月10日、機構改正によって苗穂工機部は元の「苗穂工場」へと改称しました。
1951年4月には食糧自給を担った増産職場が廃止となり、いよいよ「もはや戦後ではない」と言われるほどの発展期に差し掛かっていきます。
第1製罐職場でも設備の拡充を図り、同年5月に建屋を増築したほか、1952年3月に「ガス発生器室」の増改築を行なっています。



苗穂工場製罐職場a10

1958年2月17日、国鉄本社に「動力近代化調査委員会」が置かれました。
同委員会は蒸気機関車からの脱却、すなわち電車・電気機関車・気動車・ディーゼル機関車の導入拡大に向けた調査審議に着手。
そして1959年6月19日、国鉄総裁に報告書を提出しました。
報告書では「国鉄は、遅くとも15年以内に主要線区約5,000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行ない、昭和50年度初めまでに、蒸気運転を全廃すべきである。これは、国鉄経営上必須であるばかりでなく、国民経済上からもきわめて望ましい」との結論を示しています。

こうして動力近代化計画が始動した訳ですが、苗穂工場では一足早い1958年12月14日、自動車職場を「内燃機職場」に改組。
北海道支社も1959年2月、DF50形・DD13形の耐寒試験を追分で実施しています。
それから半年後の10月からDD13形2両を室蘭機関区に配属し、苗穂工場も動力近代化の屋台骨を担う事となりました。

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 国鉄主要幹線の電化とディーゼル化が進むとともに、蒸気機関車の姿は次第に追われて影を薄くしているが、それでもなお国鉄全体の動力車からみると、そのしめる比重は大きい。動力近代化15年計画により昭和50年までに蒸気機関車は一応姿を消すが、近代化のテンポが早まるとともに、「老兵」はさらに消えゆく速度をはやめそうである。
 国鉄がいま保有している蒸気機関車は約3,900両で全機関車両数の約78~9%を占めている。また蒸気機関車は電車、ディーゼルカーなどを含めた全車両キロの50%を占めており、電気機関車列車28%、ディーゼル機関車列車2%、電車列車15%、ディーゼルカー列車5%にくらべ、いぜん大きな勢力を占めている。
 一方、蒸気機関車は昭和23年以降、新造されておらずその後の輸送増に対する所要車、老朽廃車に対する代用車は動力近代化によってうみだされた蒸気機関車を転用することでまかなわれてきたが、動力近代化のおくれのために早急にとりかえを望まれる老朽車がふえている状況である。
 このため国鉄は、このほど新5ヵ年にもとづく新規蒸気機関車転用廃車計画をまとめ、40年までは、年間平均300両、41年以降には年間平均300両を廃車。昭和40年には無煙化を終えることにしている。
 この計画によると昭和40年までに廃車となる形式はC10、E10、C51、C54、C59などで、次の45年までにはC50、C55、C61、C62、D50、D60、D62などが廃車され、46~50年の最後の5ヵ年間まで残ると予想される形式の蒸気機関車は、C11、C12、C56、C57、C58、C51、C61、これらは非電化区間の貨物用と入換用に使われ、最後の蒸気機関車として消えていくものにはC56、C58、D51のいずれかになるとされている。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1962)「老兵は消え行くのみ 動力近代化と国鉄蒸気機関車」『なえぼ』1962年6月号、p.14
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苗穂工場製罐職場a13

1950年から続いてきたディーゼルカーの量産も本格化。
北海道向けに耐寒構造を採用した気動車が登場し、これまで客貨車の板金加工に携わってきた第2製罐職場も気動車を迎え入れています。
第1製罐職場から第2製罐職場に転属した検修員も少なからずいて、同じ溶接でも蒸気機関車と客貨車・気動車では勝手が違い大いに苦戦したそうです。
1968年8月28日に函館本線小樽~滝川間が電化すると、電車の車体・台枠などに対する板金加工も第2製罐職場が引き受ける事となりました。

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 苗穂工場に入ってから、機関車関係の職場だけで過ごしてきた私であったが昨年の3月の異動で第2製罐職場に転じ、はじめて客貨車関係の作業にたずさわった。それだけに貨車、気動車作業に追い廻され、自分の計画どころか予定さえも立てられず、本当に面目ない年に終ってしまった。不勉強が身にしみた次第である。

《出典》
江黒好道(1965)「古き因習」『なえぼ』1965年2月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.25
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苗穂工場製罐職場a14

さて、苗穂工場の記念誌『60年のあゆみ』(1970)と『70年のあゆみ』(1981)、毎月発行の機関誌『なえぼ』を読む限り、1960年代に「製罐」の表記を「製缶」に変更しています。
つまり第1製罐職場は「第1製缶職場」、第2製罐職場は「第2製缶職場」に改称しているのですが、詳細な時期については記載が無く不明です。
少なくとも1962年には改称済みだった事が当時の記事から窺えます。

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 去る7月4日13時から職員集会所に職員の奥さん方をお招きして、職場の安全家族懇談会を開いた。席上荒井職場長から次のような挨拶があった。
「第1製缶職場は他職場にくらべ、騒音の中で重量物を扱う作業環境のため、ケガの多発職場と云われているが、私達は毎日元気なご主人方を職場に迎え、元気な身体で夕方家路についていただくために、安全作業にいろいろ気を使っておりケガが少なくなるよう努力しております。しかし、安全というものは、職場のみが力を入れていてもダメなもので、家庭のよき理解と協力があってこそ、より一層の効果が挙るものなので、この点について常々ご家族の方々にお会いして、色々とお話を伺いたいものと考えていましたが、その機会が無く過してきました。
 幸いにも本日安全週間の一環として、こうした会合を持つことができ、すべての物には裏表があるように、話にも裏と表があると思いますが、本日は裏話でも結構ですから、遠慮のないご意見を伺いたいものです。」

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1962)「和気あいあいの家族安全懇談会開かる」『なえぼ』1962年8月号、p.9
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苗穂工場の組織図(1971年)
国鉄苗穂工場(1971)『工場あんない』1971年度版より引用

1970年3月1日、苗穂工場は現業部門の組織改正を実施。
これに伴い第1製缶職場が「製缶職場」、第2製缶職場が「鉄工職場」と元の名前に戻りました。
記号についても製缶職場は「B1」から「B」、鉄工職場は「B2」から「T」に改めています。
この改正は記念誌『70年のあゆみ』や当時の見学者用パンフレットで確認できます。

ところが国鉄の公式雑誌『交通技術』1966年3月号では、組織改正前にも拘らず「苗穂工場製缶職場」の表記があるのです。
これは単純に第1製缶職場の表記ミスで、本文の内容も機関車関係の話題です。

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 北の国、北海道の中心地札幌は、美しい若い町として知られている。そしていま、北海道開発計画によって急激な発展をとげている。その札幌市の東北に苗穂工場がある。明治42年広漠たる石狩の原野に15万坪の敷地をもって誕生してから56年、蒸気・ディーゼルの各機関車、ディーゼル動車・貨車の車輛修繕を受け持ち、道内全般のエンジン・鋳物・鍛造・バネ・空制弁の集中集約など文字通り、北海道の中心工場として発展した。そして屯田兵で飾られた北海道開発の1ページから、誰が今日の姿を予想し得たであろうか。ディーゼル化の推進、昨年末待望の電化着工も行なわれ、北海道開拓100周年を期して電化開業というから、今後さらに大きく変ぼうするだろう。
 しかし、やがてはその栄光ある歴史をとじる蒸気機関車であるが、最後の1両が煙を吐かなくなる時、国鉄から蒸機が姿を消す時、それを見守るのは苗穂工場職員のはずである。なかでも製缶職場は蒸機の心臓ともいうべきボイラを保守する職場であり、老朽して行く車を守り通すため陣頭指揮しているのが武上職場長である。
 氏は大正13年バーブ佐竹と同じ釧路市に生れた。昭和19年盛工専機出身である。釧工製材・鉄工の各職場長及び車両課主席を歴任したエキスパートで、祖父・父3代国鉄マンであったことは有名で、それだけに国鉄を愛する気持は誰にも負けない。業務研究発表で支社長表彰4回、さらに最近「DD14形ディーゼルロータリーの除雪性能向上策」の研究発表を行ない、総裁表彰の栄誉に輝いたのも、氏の卓越した手腕のあらわれであろう。

《出典》
交通技術編集委員(1966)「老朽化の蒸気と斗う 苗穂工場製缶職場 武上政二氏」『交通技術』(財団法人交通協力会)1966年3月号、p.36
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苗穂工場製罐職場a11

さて、鉄工職場では1970年代前半に重大なヒューマンエラーが起こったそうです。
酸素ボンベを車に載せて運搬していたところ、誤って運搬車ごとピットに落としてしまったのです。
万が一、落とした衝撃で酸素ボンベが破裂すると、近くで作業中の検修員に破片が直撃する危険性もありました。
幸いにも大事を免れましたが、職場内では再発防止のためピットの切欠部に平鋼を溶接し、ピット幅を狭くする事で運搬車の転落を防いでいます。

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 話は少し古くなるが、私の職場でピットに酸素ビン運搬車を落とし、危うく重傷害になるような事があった。原因はピットの渡り板が白ペンキで標示されている定位置から外れピット内の照明取付けのため切欠を設け、幅が約50粍広くなっている位置に移動されていたためであった。渡り板が何故移動されたかを考えると、前日入場した特急気動車検修の際、側面の出入口が片側にしかなく反対側から車両に出入するには妻側から昇降しなければならなく、ピットの上に渡り板を置き踏段を掛ければ昇降が容易となるので、近くを見ると渡り板があるのでつい移動させたものと思われる。人情としては仕方のないことかも知れない。しかし、結果として移動されたまま何人もが渡り、酸素ビン運搬車も往きは無事に渡り、帰りも当然安全となにびとの疑いもなく渡りはじめたところ、切欠が手前側にあり渡り板は前方へ押され、わずか幅のせまかった渡り板は、運搬車もろとも大音響をたてピット内へ転落するはめとなった。
 幸い人間には傷害がなくすんだが、後から話を聞いた私は、冷汗三斗の思いであった。直ちに皆んなで対策を検討し、誤って渡り板を移動した場合でも安全であるように、ピットの切欠部に平鋼を溶接し、ピット幅をせまく改善した。

《出典》
中井健二(1975)「安全点検」『なえぼ』1975年7月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.p.10,11
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苗穂工場製罐職場a17
日本国有鉄道苗穂工場(1976)『「なえぼ」号外51.2.1 蒸気機関車とともに』p.3より引用

1975年10月3日、滝川機関区所属のD51形603号機が中間検査を終えて出場しました。
これは動態保存を除き「国鉄最後の検査出場」として大いに注目を集めました。
同日には苗穂工場内で「SL全国工場最終出場式」を盛大に開催しています。
そして引退迫るデゴイチは最後のお勤めを果たすべく、滝川機関区へと戻っていきました。
苗穂工場製缶職場もSLボイラーの製作・修繕をする事は無くなりました。

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 今回工場から最後のSL出場車となったのは“D51603号機"で、同機は昭和16年2月23日山口県の日立製作所笠戸工場でつくられ、宇都宮、高崎、柳井、岡山、姫路、敦賀、金沢、稲沢と北関東をふりだしに山陽、北陸路で貨物の輸送に活躍し、昭和39年1月12日に滝川機関区に配属となり、これまでに2,377.426km(9月末現在)を走ってきた。これは地球を60周も走ったことになる。
 最後の出場機となった同機は、9月16日中間A検査のため工場入りし、関係職員の入念なオーバーホールを受け、きれいに化粧直しをしてもらい、先頭には日の丸、そして「さようならSL」のプレートをつけ黒光りのする晴れの姿でこの日を迎えた。
 出場式には津田工場長をはじめ1,512名の職員全員と来賓として本社工作局関調査役(工作局長代理)、関川北海道総局長、OB津守巧氏、吉田忠三郎参議院議員など約1,800人が出席した。
 旭川車両センター吹奏楽団の演奏、北海道鉄道学園工作一科生による工場歌の斉唱で式典が始まり、このあと工場長が「明治5年新橋―横浜間に陸蒸気の汽笛一声が鳴り響いて以来103年、わが国の発展の原動力となってきたSLも今年限りで姿を消すことになった。わが苗穂工場のSL検修も大正3年以来61年間続けてきたが、今日このD51603号機をもって検修作業が終ることになったことは感慨無量のものがある。
 最後の整備を受けたSLよサヨウナラ、栄光あるD51よサヨウナラ」とお別れのあいさつをした。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1975)「SL全国工場最終出場式開催 D51最後のおつとめへ」『なえぼ』1975年11月号、p.2
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苗穂工場製罐職場a18

以降は製缶職場の業務内容も大きく変わり、ディーゼル機関車の車体および動力関連部品の修繕、機関区に対するリンク品の貸出を担うようになりました。
動力近代化が進む中で業務過多となった内燃機職場を助ける意図があったようですね。
それでも主管職場である機関車職場の「下請け職場」という性格は相変わらずです。

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 今日1日は朝の体操から始まる。職場の平均年齢は47歳、これを上回る我が身にこれ以上老化現象をきたさないよう、思い切り足、腰、腕の屈伸をする。
 その後はいつものように職場内巡視である。大正3年製缶職場誕生いらいその名のとおり、ボイラー修繕に専念していたものが、今はその内容もすっかり変り、DL用変速機、SGボイラー、エンジン部品、機関予熱器、循環ポンプ、保温ポンプ、送水ポンプ、車体の修繕等、また間もなく空気圧縮機修繕も仲間入りで多種多様である。それに伴う設備工事、自職場使用の置台製作、新検修に対する技術の習得等、そしてきめられた工程の確保。現在まで本当に一人一人の努力が感じられるが、更に安全で働きやすく明るい職場にするよう考えるのである。
 事務所に戻ると電話が待っている。朝の電話は気が重い。これは以前機関車課で事故担当をしていた関係か?さいわい今日の電話は機関区より物品の借用である。直ちに現物の確認後送付を指示、区との連絡をとる。車両の故障及び待ち車は、工場と区が協力しなければ絶対に減少させることはできず、減車、欠車ではお客にサービスできないことを痛切に感じているため、できるだけの努力は惜しまない。

《出典》
紅葉和美(1977)「助役の職場日誌 製缶職場」『なえぼ』1977年5月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.7
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苗穂工場製罐職場a19

蒸気機関車の引退によって伝統技術は鳴りを潜めましたが、文化的な伝統はしっかりと根付いていました。
戦前の「ガマクラブ」結成については既に書いたとおりで、これに端を発するスキー文化が製缶職場には浸透していたのです。
DL化後も職場内の親睦を深めるため「スキー大会」を続け、他部門から異動してきた助役も真っ先に洗礼を受けたといいます。

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 “五十の手習”当職場の助役に赴任した途端、レクのスキー大会に駆り出され、難しさをしみじみ味わった時の諺である。休日の度に近郊のスキー場で特訓が始まる。2冬後にはその努力が実り入賞にこぎつけた。最近は、スキー用具もハイクラスになり、1台ではあき足らず雪質や体重に合せて装備する等、技術の高度化と共にスタイルもプロ並みである。一級、いな指導員検定を目標に“脚”を磨く程の熱の入れようである。職場レクもニセコ連峰、北の峯等に遠征、一汗後ジンギスカンで舌つづみを打ち、いで湯で疲れを癒し、はだかの付合いをし、冬を楽しんでいるが、バツグンなスタミナをいやという程見せつけられるのもこのシーズンで、5月の連休、焼付く陽差しの中、笑声はニセコ連峰にこだまし、乗納めとなる。彼のエキゾチックなマスクには長い年輪が刻まれている由来である。彼は名カメラマンでもある。その傑作は朝日新聞を初め多くに掲載され、道展入選等数多く賞を獲得している。

《出典》
製缶職場吉田(1979)「我がスーパーマン!!製缶職場 工藤 澄氏」『なえぼ』1979年9月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.6
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苗穂工場の組織図(1986年)
国鉄苗穂工場(1986)『工場あんない』1986年度版より引用

苗穂工場では1984年2月10日に大規模な組織改正を実施し、これまでの15職場を第1組立職場・第2組立職場・貨車(輪西)職場・検査職場・第1部品職場・第2部品職場・内燃機職場・鉄工職場の計8職場に圧縮再編しました。
製缶職場についてはポンプ関連を「第1部品職場」、DL変速機・エンジン関連を「内燃機職場」にそれぞれ引き継いで解散。
鉄工職場については鋳物職場・工機職場・動力職場・輸送職場の4部門を吸収合併し、エンジン関連のみ内燃機職場に移管しています。



苗穂工場の組織図(1992年)
JR北海道苗穂工場(1992)『工場ごあんない』1992年度版より引用

苗穂工場は1987年4月1日、分割民営化に伴い「JR北海道苗穂工場」と「JR貨物苗穂車両所」に組織を分割しました。
そして「本場」と「職場」による二層構造の組織体制に終止符を打ち、運転所などと同じ「科長制」を敷いた現業機関に改組しました。
これに伴い第1部品職場・内燃機職場・鉄工職場をJR北海道が継承し、それぞれ「部品科」「内燃機科」「鉄工科」に改めています。

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 まず、各会社の組織の細部(各機関の内部部課等)については、従来のタテ割、セクト主義の弊害を打破し、簡素で効率的な体制を実現することとなった。具体的に国鉄時代と比較して主なポイントを述べると以下の通りである。まず、本社及び地方における部課を極端に整理し、肥大化した組織の徹底的な簡素化を行い、意思決定の迅速化、責任体制の明確化を図るとともに、非現業要員の縮減に資することとした。また、従来運転と車両部門に分かれていた検修部門を一元化するとともに、大組織であった工場の本場部分をなくし、駅、保線区、電力区等と同様の一つの現業機関とすることとした。

《出典》
夏目誠(1987)「各承継法人の組織決定」『国有鉄道・国鉄線』1987年3月号(財団法人交通協力会)p.18
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苗穂工場製罐職場a20

折りしも分割民営化当日、SL列車の動態保存運転を実現するべく「北海道鉄道文化協議会」(通称:鉄文協)という民間団体が発足。
ゲーム会社の㈱ハドソン、UCC上島珈琲㈱などの企業がスポンサーとなり、小樽築港機関区で眠っていたC62形3号機の復元に乗り出しました。
この復元工事は苗穂工場のパートナーである札幌交通機械㈱が受注しましたが、ノウハウを失いつつあったので機関車職場や製缶職場などのOBにも協力を頼み込んだそうです。

そして図面収集を皮切りに工具類の準備、車体外装の解体、動輪削正、台車整備、足回り修繕、炭水車修繕、電気配管・配線作業などを行ない、1988年3月23日に晴れて落成出場。
寄附金を運行経費に充てる動態保存列車として、1988年4月29日より「C62ニセコ号」が運行を開始しました。
以下に当時の苗穂工場長、竹内清さんの記述を引用しましょう。

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・・・復元工事中にはボルト類の固渋が多く解体に時間を要したり、解体とともに腐蝕が予想以上に進んでいる部分も多かった。特にボイラが予想以上に傷んでいたりステータップ、エキスパンダなどの専用工具が少ないことも苦労のタネだった。主動輪板バネに傷を発見したときは代替品がなく、全国に問い合わせたりした。また自動給炭機は当初復元しないとしていたが、やはり復元ときまって図面を探したりした。
 しかし総体的には主たる部分がほぼ部分加修ですみ、新たに鋳物でふいたりしなくてすんだのは幸いであった。

(中 略)

 冒頭に述べたように復元工事の主役はOBの人たちで、昔とった杵柄で大きな力を発揮していただいた。若手の現役もさすが先輩とその技術力には感嘆の声をあげていたが、特に中心となっていただいた7人のサムライは次の方々である。
 ボイラ関係の石藤唯雄氏、缶付属品の永井良夫氏、走り装置では大島元氏、テンダと重油併燃装置の南信綱氏・福盛田昇氏、さらに全体の現場責任者として鈴木一雄氏が担当されていたが、工事途中の12月、惜しくも御逝去され、完成の日に御一緒できなかったのはかえすがえすも残念なことであった。

《出典》
竹内清(1988)「C62 3復元のあゆみ」『驀進!C62ニセコ C62 3の本格的“動態保存”と栄光の急客機C62の軌跡』(鉄道ジャーナル社)p.p.60,61
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苗穂工場製罐職場a22

製缶職場が使っていた建物は「旅客車鉄工作業場」に転じ、現在まで組立科が電車・気動車・客車の台枠修繕に当たっています。
組立科も担当業務別に組を分けており、旅客車鉄工作業場については「1組」の受持ちだといいます。
館内では1組主任を「たい積粉じん清掃責任者」に指定しています。



苗穂工場製罐職場a23

館内南西には「溶接トレーニング室」があります。
ここで新人が溶接の練習をするそうです。
製缶職場時代も同様の練習場所を設けていたのでしょうか?



苗穂工場製罐職場a21

一方、第2製缶職場をルーツに持つ鉄工科については、1999年4月1日に鋳物作業を札幌工営㈱に委託。
それから4年後の2003年4月1日、構内入換を札幌工営、工機作業を札幌交通機械㈱(通称:SKK)に委託した事により廃止となりました。
なお、札幌工営は2018年4月1日を以ってSKKに吸収合併されました。
現在、苗穂工場における検修関連の業務委託はSKKの1社のみとなっています。

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 移行時の苗穂工場からの転出については、JR貨物会社や本州JR他社への移籍、公務員、清算事業団等への転出があった。一方で、旭川車両センター、釧路車両所、青函船舶局、運転所等他部門からの転入者もあったが、国鉄時代の昭和61年度に863人いた職員がJR移行後の昭和62年度には457人とほぼ半減した。
 これ以降については社員数の大きな変化は見られないが、主な増減要因は以下の通りである。
・平成5~7年度の減員
・・・本社・運転所等他部署への転出、出向等
・平成9年度の減員
・・・北海道ジェイ・アール・サイバネット㈱設立による技術開発部門への出向等
・平成11年度の減員
・・・鋳物作業を札幌工営㈱へ委託したことに伴う出向
・平成15年度の減員
・・・入換作業を札幌工営㈱へ委託したことに伴う出向
    工機作業を札幌交通機械へ委託したことに伴う出向
    弱電部品作業を北海道ジェイ・アール・サイバネット㈱へ委託したことに伴う出向
・平成16年度の減員
・・・機械加工作業を札幌工営㈱へ委託したことに伴う出向

《出典》
苗穂工場百年史編纂委員会(2010)『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』p.74
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以上、長くなりましたが苗穂工場製罐職場の歴史を取り上げました。


※写真1~2枚目、6~13枚目、18枚目、21~23枚目は2023年9月9日、一般公開中に撮影
※写真4枚目、14~16枚目、19枚目は2024年1月13日、ライジング苗穂の駐車場から撮影
※写真20枚目は2015年9月26日、一般公開中に撮影
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最終更新日 : 2024-02-05

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