タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

現在、札学鉄研OB会ブログから筆者投稿の記事を移転中です

Top Page › 北海道 › 苗穂工場機関車職場[2] 戦後輸送を支えたボイラー交換と動力近代化
2024-01-08 (Mon) 19:25

苗穂工場機関車職場[2] 戦後輸送を支えたボイラー交換と動力近代化

苗穂工場機関車職場a101

引き続き国鉄苗穂工場が抱えた現業部門「機関車職場」の歴史を取り上げましょう。

既に解説したとおりですが国鉄時代の鉄道工場は現業機関ではなく、鉄道管理局や地方資材部などと同じ「地方機関」(地方において国鉄の業務を分掌している機関であって国鉄の従たる事務所をなすもの)に分類されていました。
故に組織体制は非現業の「本場」と現業の「職場」による二層構造となっていたのです。
そして機関車職場は「鉄道工場に属する現業機関」に当たり、駅長・区長・所長に相当する管理職として「職場長」を置いていました。

今回は戦後の機関車職場を見ていきましょう。



苗穂工機部組織図(1946年9月)a01

1945年8月15日、ラジオの玉音放送が日本全国に終戦を報せました。
これまで国民総決起、一億総武装のスローガンに従い行動してきた国民は一転、抜け殻のように脱力してしまいました。
苗穂工場の職員達とて例外ではなく、同年12月頃から猛烈な虚脱感に襲われるようになり、能率は見る見る低下。
戦時中は7日前後だった機関車の一般修繕日数は、1945年に10.4日、1946年に13日、1947年に15.8日と急激に伸びていき、工場創立以来の暗黒期を迎えました。

深刻な食料難にも直面したため、夜勤者向けの食料を自給するべく1945年11月7日、本場の総務課に「食糧増産係」、現場に「増産職場」を新設。
一部の技工達も製塩・水産・農産の各業務に回され、食料生産の立場から「安心して働ける環境」の整備に取り組みました。


JR北海道 国鉄 JR貨物 苗穂駅 函館本線 千歳線
苗穂工場機関車職場a102

終戦に伴う虚脱状態は日増しに強まり、1946年1月には本業の機関車修繕を差し置いて除雪に精を出す事態となりました。
この月はかつてないほどの大雪だったといいますが、それでも間接作業である除雪にばかり集中する状況は、まさしく戦後の虚脱状態を示すものでした。
そのため一般修繕両数は2両だけに留まり、在場日数は45日と、戦時中の6倍にまで伸びてしまったのです。
出場両数も1945年8月の一般修繕10両、局部修繕23両に対し、1946年1月は一般修繕2両、局部修繕0両という有り様でした。

*****************************************************************
 昭和20年当初における決戦体制で、どうやら持ち続けていた車輛修繕も、終戦を境にしてガラリその様相を変えたものにした。
 然し、これは8月15日という一線を劃して変ったものではなく、その年も押し迫った12月から極端な変化を示したものである。
 例えば、機関車の一般修繕(現在の甲修繕)の在場日数、出場両数を比較しても、その傾向は明らかである。
 又、職場の雰囲気も、この年の11月頃までは戦時中の名残を持越していた。
 例えば、職場の朝会は各助役が分担の人数を把握して、職場長に「頭右」をやった後、人員報告をする・・・いわゆる軍隊調の点呼を実施していたが、これを許容する気持は、終戦後約3ヵ月は消えなかった。このことが機関車修繕にも影響し、上記のような傾向を示したものと思われる。
 ところが12月に入ってからは
  終戦に伴う虚脱状態
  資材不足
  戦時中の車輛ならびに施設の酷使
  物資不足・・・・・・特に食糧
  インフレ
  雪害等
これらの影響により、崖から転り落ちるように機関車修繕事情は悪化したのである。そしてこの極点が昭和21年1月の一般修繕輛数2輛、在場日数45日として現われたため、昭和21年1月は、2輛の機関車を修繕しただけと考えられがちになり、職場の主体作業は他にあった感じがするのである。
 それは、この年の冬は従来に類のないほどの大雪で、職場全員(又は一部)が、毎日のように屋根、通路、線路等の除雪に従事したものである。(札樽間が不通になったのもこの頃で、その大雪の状態は想像されよう。)
 通常の状態では、機関車修繕が主体で、除雪作業は従であるが、これも戦後の虚脱状態を示すものであろう。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.134,135
*****************************************************************



苗穂工場機関車職場a103

1946年春から「国鉄再建の根幹は輸送にあり」と言われ、一日も早く終戦後の虚脱状態から抜け出そうという動きが起こりました。
しかし戦中戦後の混乱で機関車修繕に必要なスパナの多くが消失していたので、まずは工具類の整備に着手する事となりました。
機関車職場の人海戦術でスパナの図面を作り、外注製作に出したのですが、あまりに急いだために完成品の一部が使い物にならないという悲劇が起こりました。

作業環境の整備にも取り組み、1947年1月には機関車整備室、機関車・旋盤職場事務室が竣工しています。
この年から能力増加と出来高向上に取り組んでいるのですが、背景には機関車ボイラーの状態悪化による工事量の増大がありました。
そのため機関車を丸ごと外注修繕に出すケースも発生しており、機関車整備室はキャパシティの拡大を期して建設した事が窺えます。



苗穂工場機関車職場a104

当初の外注先は日本製鋼所、室蘭ドックの2社でしたが、何れも機関車修繕の経験が無く、残念ながら業務の迅速化にはつながりませんでした。
そこで外地鉄道引揚者の組織を利用したり、遠方の日本車輌、汽車会社、新三菱重工、三原製作所に機関車を送って修繕してもらう事にしています。

ところが1949年度から国鉄本社の方針で機関車の外注修繕を打ち切る事となり、国鉄部内の郡山工場、土崎工場、長野工場などに委託する体制に変わりました。
苗穂工場から他工場への委託工事は1954年まで続きました。


郡山総合車両センター JR東日本 長野総合車両センター
苗穂工場機関車職場a105

外注修繕と並行して工場内能力の拡充にも取り組みました。
当時、進駐軍は石炭輸送の増強に関心があり、1947~48年にかけて1ヵ月に1回の頻度で鉄道担当官のレイ、ヒル両氏が苗穂工場に来ていました。
彼らは工場職員に対し「輸送の増強が日本再建の根幹であり、そのためには機関車が不足している。ならば機関車修繕の促進を計らなければならない」と説いたのです。
そしてひとたび巡視に来ると、必ず次回巡視までの課題を与えて能力拡充を促したといいます。

苗穂工場ではまず、車輪作業の能力増強を画策。
旋盤職場の機械設備を拡充し、二交代制の実施によって機械能力を最大限に活用し、車輪削正を迅速化しました。



苗穂工場機関車職場a106

続いて1948年から機関車職場の拡充を実施。
機関車関係では戦後3回に渡って拡充方策を取っているのですが、この1948年実施のものは「第一次拡充計画」と位置づけています。
当時の修繕可能両数は一般修繕120両・局部修繕96両でしたが、対して進駐軍の修繕要請両数は一般修繕150両・局部修繕111両でした。
在場日数は一般修繕14.03日で、これらのデータを念頭において拡充計画を立てる事となりました。

*****************************************************************
 機関車入場計画を検討するには、次の二つの要素があって
  第一には、台枠据付数
  第二には、在場日数
である。
 この当時の在場日数は(昭和22年度一般修繕の実績)14.03日で、昭和23年の計画にはこの成績を念頭においてたてられた。機関車の入場両数を多くするには、台枠据付数を多くし、在場日数を短縮することにあるので、この第一次拡充計画もその線で考えられたのである。
 即ち、台枠据付数増加の方策としては、Eクレーンベースにあった運転室、ボイラ被関係作業場を北側下屋に移し、それによって支障するE、Mボイラ附属品関係作業場を旧食堂跡および旧整備室に移設したので、台枠据付数は一躍3輛の増加をみたのである。
 次いで在場日数短縮の方策としては、機関車関係各職場全般にわたる機械施設の増強を行なった。

※注釈:文中のEは機関車職場、Mは旋盤職場を意味する記号である

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.138
*****************************************************************

これらの方策によって1949年の一般修繕両数は137両に増加し、在場日数は9.7日に短縮できました。



苗穂工場機関車職場a109

更に続けて「第二次拡充計画」を敢行。
第一次で実施した施設改良が基礎となって、機関車職場~製罐職場間の下屋拡張、車輪作業場の新設を見ました。

1949年に入ってようやく安定期を迎えましたが、新たな問題として「ボイラー工程の確保」が浮かび上がりました。
北海道の機関車は老朽車が多く、戦中戦後の酷使により限界が来ていました。
そこで本州からの転属機を多数受け入れる事となり、C51形をC55形またはC57形、D50形・9600形をD51形にそれぞれ置き換えています。
これら転属機の修繕に対応するべく、苗穂工場では廃車になった機関車のボイラーを「リンク品」として予め修繕しておき、入場車のボイラーと交換できるようにしました。
この予備ボイラーが初めて使用されたのは1949年6月入場のデゴイチからで、その後50罐以上に渡って使用されました。

製罐職場には「工事量の繁閑調整ができる」と喜ばれましたが、機関車職場では艤装時の現車合わせに苦労し多大の苦情も出たといいます。
それでも予備ボイラーは当面の修繕対策には大いに貢献しました。



苗穂工場機関車職場a108

1949年9月には検査修繕規程が改正され、一般修繕・6ヵ月検査・局部修繕の3部体制が甲修繕・乙修繕・丙修繕・臨時修繕の4部体制に切り替わりました。
この改正ではボイラー修繕の強化に重きを置いたそうです。

一方、当時の苗穂工場では客貨車職場の工事量が少ないため、機関車職場で受け持っている炭水車修繕の移管を検討。
1950年4月1日付で正式に客貨車職場が炭水車修繕を受け持つ事となりました。

1954年4月、室蘭機関区にDD11形3号機が配属されました。
DD11形は国鉄初の液体式ディーゼル機関車で、その3号機はまさしく道内国鉄線としても初のDLでした。
同年11月に「臨時修繕」として苗穂工場に入場しており、これがディーゼル機関車修繕の第一歩となりました。



苗穂工場機関車職場a110

1955年11月、長万部機関区に所属するD51形237号機のボイラー載せ替え工事を実施。
これを皮切りとして1959年までに蒸気機関車49両のボイラーを交換し、保安度の向上につなげました。

*****************************************************************
 戦後、機関車修繕の施策は修繕技術、能力増強が主体となって推移したが、この時期に入ってからは様相が根本的に変化したのである。
 これは、蒸気機関車と言えども新しい時代にふさわしい性能を具備しなければならないという時代の要請が反映したものであるが、それはそれとして、このような考え方が戦前を凌駕する状態となって現れでたといっても間違いではないのである。
 このような観点から、第一に着手されたのは、ボイラのせ替工事である。
 戦時製作のボイラは、当時の国内事情を反映し、その材料の不良、製作技倆の未熟に併せて、戦時、戦後の酷使に耐えきれず、全国各所で爆発事故が発生し、その数は昭和34年までに40罐以上の多きに渡ったのである。
 このうち、苗穂工場受持車も8罐の爆発事故をみているので、大々的にボイラのせ替工事を施行しなければならない時期に遭遇していたのである。そして昭和30年試験的に3輛施行したが、31年から計画的に施行され、この工事が一応完了した昭和34年までに49罐施行したのである。
 第1輛目は、昭和30年11月、長万部機関区のD51237号機で、乙修繕併施で施行された。この機関車は苗穂工場で、D51形式を新製した当時の第1輛目であったが、ボイラのせ替工事の第1輛目であることも、くしき因縁と言うよりほかはなかったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.144
*****************************************************************



苗穂工場機関車職場a107

ボイラ載せ替え工事の最中、全国的な施策として輪縁塗油器、清かん剤送込装置(完水位式)の取付工事が始まりました。

輪縁塗油器はタイヤフランジ磨耗防止のために作られた部品で、機関車がカーブを曲がる時、内側車輪のフランジがレールに接触すると、車輪に対して自動的に特殊な油を塗るというものです。
苗穂工場においては準備期間が無いまま1957年1月、突然工事を開始する事になったそうです。
そのため入場中の機関車に取り付ける余裕が無く、結局は3月まで先送りとなりました。

清かん剤送込装置は戦後、ボイラー防蝕のために使用された「清かん剤」を送り込む装置です。
当初、清かん剤は炭水車のマンホールから必要な量を投入していましたが、補水によって濃度が薄くなり、おまけにその水はレール等の不要箇所にも撒かれてしまうという欠点がありました。
そのため注水器、給水ポンプからボイラーに送水される水量に合わせ、自動的に清かん剤を送り込む機構に改めたという訳です。
こちらの取付工事は1958年12月、小樽築港機関区のC57形41号機を皮切りに順次施行していきました。



苗穂工場機関車職場a111

SLの運転室に「耐寒工事」を施したのもこの頃です。
これまで寒冷な北海道の環境に相応しい仕様の機関車は無く、機関士達は寒々とした運転室で真冬の乗務をこなさなくてはなりませんでした。
そこで乗務環境を改善するべく運転室特別整備工事(密閉化)、旋回窓取付工事を実施。
1956年11月、新得機関区のD51形865号機を皮切りとして「耐寒モデル」への改造を推し進めていきました。

*****************************************************************
 機関車が北海道に使用されてからすでに80年を経過しているが、北海道向きの特別装備機関車は残念ながらなかったのである。
 ただこの間、耐寒工事と称して、冬期の使用に最低限度耐え得る改造を施行していたが、このため、修繕協議会、改修会議で、いつも運転側からこの苦衷が訴えられていたのである。このため苗穂工場では昭和31年11月、新得機関区のD51865号機をはじめとして、以後4輛の耐寒モデル車を出場させ、昭和32年2月、小樽築港機関区のC5720号機を展示に供したのである。その内容は運転室を密閉式に改造するとともに、各附属機関が凍結しないで作用する装備をほどこしたのである。
 細い個所の一例をあげると、機関車の各階段は冬期になると氷結し、乗務員、連結手が滑べるので、ゴムの滑り止めを取り付けるなど、細いところにも神経を行とどかせたもので、これが基礎となって、本社でも予算化を計り、現在まで工事が施行されているのである。
 旋回窓は、特に冬期の降雪の場合、機関士が前方の見透しに困難を感ずるので、この対策として運転室前窓に装備されたのである。
 従来は、これに相当するものとして、見透し窓、見透し小窓が使用されていたが、乗務員の必要最低限度を維持するだけのものであったのである。そのため、船舶関係では早くから容易されていた旋回窓が選定されたのである。(これも昭和33年2月、急に予算化されたため取敢えず区送りで取付けている)

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.145
*****************************************************************



苗穂工場機関車職場a112

1958年2月17日、国鉄本社に「動力近代化調査委員会」が置かれました。
同委員会は蒸気機関車からの脱却、すなわち電車・電気機関車・気動車・ディーゼル機関車の導入拡大に向けた調査審議に着手。
そして1959年6月19日、国鉄総裁に報告書を提出しました。
報告書では「国鉄は、遅くとも15年以内に主要線区約5,000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行ない、昭和50年度初めまでに、蒸気運転を全廃すべきである。これは、国鉄経営上必須であるばかりでなく、国民経済上からもきわめて望ましい」との結論を示しています。

こうして動力近代化計画が始動した訳ですが、苗穂工場では一足早い1958年12月14日、自動車職場を「内燃機職場」に改組。
北海道支社も1959年2月、DF50形・DD13形の耐寒試験を追分で実施しています。
それから半年後の10月からDD13形2両を室蘭機関区に配属し、苗穂工場も動力近代化の屋台骨を担う事となりました。

*****************************************************************
 昭和32年以降は、機関車のうち蒸気車は斜陽的存在となる風潮が強くなったが、このことは本社が国鉄合理化の一端として、動力近代化委員会を設置し、将来の動力車の種類、検修方式等を検討した結果、電気機関車、ディーゼル機関車の採用が決定されたためである。
 このような本社施策の現われとして、早くも昭和34年2月、ディーゼル機関車の代表として、本線用はDF50形式、入換用はDD13形式が追分で耐寒試験を実施し、超えて昭和34年10~11月にわたり、DD1351号DD1352号機が室蘭機関区に配属されたのである。ともあれ、北海道の機関車も徐々に新らしい未知の分野に入りはじめたことは明らかである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.148
*****************************************************************



苗穂工場組織図(1961年)a01
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.391より引用

蒸気機関車のボイラーは機関車職場と製罐職場が修繕してきましたが、ディーゼル機関車のエンジンは新進気鋭の内燃機職場が修繕する事となりました。
機関車職場においては引き続き主管職場として、ディーゼル機関車の解体・艤装と車体修繕を引き受けています。

*****************************************************************
 さて工場の中には19の職場があるが、その筆頭が機関車職場である。総員286名、機関車の主管職場として、主として解体・修繕・組立てを受持っている。国鉄の最大使命である、安全輸送確保のため、車両事故防止に取組み、陣頭指揮しているのが五十嵐職場長である。
 氏は大正12年生の生粋の道産子。「忍路高島およびもないが・・・・・・」の追分で名高い高島で生まれた。昭和18年米沢高工出身である。苗穂工場の鍛冶・製罐・旋盤の各職場長を歴任したエキスパートで、経験と知識の伴なった、理路整然とした話術にはほれぼれする。身体は小さいが馬力が強く、デゴマル(D50)というニックネームは、全くそのものずばりだ。道産子のド根性というのは氏のそれを指していうのであろう。
 昨年十二指腸かいようで手術をして、それ以来自粛をしているが、それでも興趣至れば得意のソーラン節の踊りが飛び出す。またあまり上手ではないスポーツが好きで、職場員からオヤジとして慕われている。幼ななじみで、美人の誇高い夫人との間に3人の男子があり、人の羨む円満な家庭だ。
 北海道は蒸気機関車の墓地であろうか。老い行く蒸気を保守し、今後急増するディーゼル機関車の受入れに対処し、さらに車内警報装置取付などの一連の事故防止対策の緊急工事に取組み、すべてが予定通り、順調に進行しているのも、職場長を中心とした職場全員の努力の賜であり、氏の手腕を高く評価されるところである。今後もご健斗を祈るものである。

※注釈:文中の「高島」とは小樽市高島のこと

《出典》
交通技術編集委員(1964)「バトンタッチを見守る 苗穂工場機関車職場 五十嵐幹夫氏」『交通技術』(財団法人交通協力会)1964年11月号、p.36
*****************************************************************



苗穂工場機関車職場a113

さて、上の引用文にもありますが機関車職場では1963年4月、機関車に対してS型車内警報装置(つまりATS)の設置工事を開始しています。
手始めに同年3月15日、本場事務所内の会議室で気動車関係者を集めた工事説明会を行ない、それから札鉄局管内の機関車・気動車に順次取り付けていきました。
導入のきっかけは、前年に常磐線三河島駅で発生した三重衝突事故(三河島事故)にあります。

****************************************************************
 去る3月15日13時から会議室において、キハ関係のS警(S形車内警報装置)工事説明会が開催された。
 工事は来年度1ヵ年間で急行用一般用キハ合せて160両に取付られるもので、苫小牧機関支区所属18両と(日高線の地上子設備工事が未定)苗穂機関区所属キロ10両(運転台がないので)を除く苗穂工場受持気動車について実施される計画である。
 S警の概念については前号で紹介済みなので割愛するが、地上子の設置は昭和38年度に函館~旭川(千歳線経由)、小樽~札幌、室蘭~岩見沢の各線に工事が完了するので(長万部~小樽間は39年度、滝川~根室間は39年度?、その他未定)車上子をもつ車両側の工事も急がせられるわけである。
 三河島事故対策の一環として行われる重要な工事なので、㋕関係職場、札鉄局、機関区、客貨車区から多数の職員が出席して長時間にわたり熱心に聴講していた。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1963)「「S警」取付工事(キハ)説明会開催される」『なえぼ』1963年3月号、p.2
****************************************************************
 赤信号に近ずいたとき、ベルが鳴り、赤ランプがついて運転士に注意を喚起するのが、車内警報装置であるが、最近S型と呼ばれる自動列車停止装置をつけたものが管制されて、全国の主要幹線を走る列車に取り付けられることになった。当工場でも準備中である。
 このS型車内警報装置は、赤ランプやベルだけでなく、警報後5秒たっても運転士がブレーキをかけないとき、または確認扱いをしないときは、自動的にブレーキがかかり、列車が赤信号機の手前で止まるようになっているもので、信号を見間違って追突する事故は絶対起らなくなっている。
 警報の順序は信号機――制御リレー――地上子からの警報を、列車(機関車または気動車)に取り付けられている車上子で受診し、――受信器――接続箱――表示器(赤ランプ)――警報器(ベル)というように警報され、確認押釦を5秒以内に押さずにいると、自動的にブレーキがかかるようになっているものである。
 即ち、このS型という名称はストップ装置付という意味で、長い間の研究の成果である。費用は地上装置1ヵ所40万円、車上装置1両分30万円がかかるが、今後3年くらいの間に既設の車内警報機とあわせて、全線区の約半分をカバーする計画である。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1963)「S型車内警報装置」『なえぼ』1963年2月号、p.3
****************************************************************



苗穂工場機関車職場a114
日本国有鉄道苗穂工場(1963)「蒸気機関車乗務員の窒息事故防止のため 運転室内に換気装置取付けらる」
『なえぼ』1963年10月号、p.9

三河島事故が起きた矢先、1963年2月28日にも重大事故が発生しました。
それは信越本線越後岩塚駅で起きた貨物列車(43両編成)の脱線転覆で、機関車・貨車あわせて36両が脱線しました。
駅の手前の塚山第二トンネル内で、機関車乗務員が煤煙を吸って窒息したために起きた事故でした。
国鉄本社は再発防止のため全国各地の「窒息要注トンネル」を調べ、道内では以下の11ヶ所が指定を受けました。

【旭川鉄道管理局】
石北トンネル(石北本線上越~奥白滝間)
名雨トンネル(深名線北母子里~天塩弥生間)

【札幌鉄道管理局】
倶知安トンネル(函館本線倶知安~小沢間)
第2白井川トンネル(函館本線熱郛~上目名間)
弁辺トンネル(室蘭本線豊泉~豊浦間)
礼文華トンネル(室蘭本線静狩~礼文間)
第2静狩トンネル(室蘭本線静狩~礼文間)
第1日振トンネル(富内~幌毛志間)

【青函船舶鉄道管理局】
支瓜トンネル(江差線吉堀~湯ノ岱間)
福島トンネル(松前線基盤坂~渡島福島間)
白神トンネル(松前線渡島吉岡~大沢間)

その上で蒸気機関車の運転室に換気装置を設置する事を決定。
苗穂工場機関車職場も1963年8月より、この緊急工事を実施しています。

****************************************************************
 今回取り付けられた換気装置の作用及び構造の概要は次のとおりであるが、空気圧縮で圧縮された空気は、元だめ空気弁(一次空気で約6.5kg/㎠)からコックを開くと上吸入管の内部に設けられたノズル(穴径1m/m)から勢よく噴気すると共に、下吸入管からも二次空気(床下から)を吸い込み一次、二次空気が混合されて室内へ噴気し、空気の清浄化をはかるもので、万一トンネル内で低速となり、下吸入管から煤煙を吹き込むおそれのある場合は、下吸入管の上部に設けられた調整板(実際は上吸入管と一体になっている)を閉じ、これを防ぐようになっているのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1963)「蒸気機関車乗務員の窒息事故防止のため 運転室内に換気装置取付けらる」『なえぼ』1963年10月号、p.p.8,9
****************************************************************


キハ22系 キハ20系 キハ22形
苗穂工場機関車職場a115
貫戸栄(1965)「札幌製紙踏切事故救援に出動して」
『なえぼ』1965年1月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.18より引用

1964年11月27日、函館本線琴似~手稲間の「札幌製紙踏切」でキハ22-96が、エンストして立ち往生の自動車と衝突し脱線、横転するという事故が発生しました。
事故の知らせを受けた苗穂工場機関車職場は救援隊となる人員を集め、夜を徹して救援活動に当たりました。

****************************************************************
 去る11月27日の17時48分けたたましく電話のベルが退場後の静かな事務室に鳴り響いた。火器見廻りのために残っていた私が受話器をとると、機関車課の野中氏から「17時20分頃、琴似~手稲間で列車が脱線、転覆事故が発生したので、事故救援隊の出動が必要となるかも知れないので、隊員を至急招集されたい」と、あわただしい語調での連絡。
 ただちに職場長宅に連絡をとると共に同一任務で残っていた市原助役と手分けして隊員の招集にかかる。
 18時10分職場長から本場に到着の連絡があり、逐次隊員も到着。一方、本場では両次長の指揮のもと、苗穂工場事故救援隊本部を機関車課に設け、救援要請のあり次第、ただちに出動でき得る体制を整え、18時30分準備完了した。
 その間、死傷者40余名ありとの情報に、機関車課長指揮のもとにガス作業者を主体とした、トラックでの現地先発が決められ、直ちにガス器材、照明器材の積込みが行なわれ、19時15分先発隊が現地に向って出発して、現地対策本部の指揮下に入ったのであるが、当職場の荒岡工作指導掛と田中工作掛の2名の後日談では、先発隊の持込んだ照明器のリーライトの活躍が、現地で救援作業にたずさわる運転、施設関係の救護班に、非常に喜ばれたということである。

《出典》
中村憲之(1965)「事故救援 機関車職場」『なえぼ』1965年1月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.24
****************************************************************



苗穂工場機関車職場a116

動力近代化は日を追うごとに進行し、遂には道内初となる交流電化の計画も浮上しました。
1966年11月10日、函館本線銭函~手稲間の電化試験線区が完成。
同月15日から電気機関車(ED75形501号機)による試運転が始まりました。
しばらくして711系やED76形500番台が量産され、1968年8月28日に函館本線小樽~滝川間が電化しました。
苗穂工場機関車職場も電気機関車を受け入れる事となり、1968年9月の重要部検査を皮切りに各種製修工事に当たっています。

****************************************************************
 このように、車両投入の初期には、いづれも問題が発生しますが、特に北海道の場合は雪寒害という特殊な条件を含めて、国鉄工場がまず対処しなければならない立場にあるわけですね。これに関連することではEL・・・ED76の問題がありました。
 御承知のように43年8月に小樽、滝川間が北海道初の電化開業したのですが、44年1月末から3月初めまでの期間に集中して、主電動機のフラッシュオーバーが約200件、またSGの失火も多発しました。
 当時、われわれのうけとめ方としては、この問題は単にED76だけの問題ではなく、翌年の旭川電化、そしては大きく言って将来の北海道新幹線に影響することであると真剣に取扱いましたね。
 この原因究明には苦慮しましたが、「コロンブスの卵」で、結果的には結露現象でそうなると判り、毒を制するには毒をもって制する式で、夜間滞泊中は温風を送り込むという改造工事を施し、解決させました。
 SGの失火は、当然のことなのですが、機械室は野天と同じで、外気温度と同じになり、10耗の銅管類が凍結するわけです。これの対策としては、機械室の中にSG室を仕切って1KWの電暖器で温め解消しました。従ってED76は711と同じように設計段階から苗穂工場関係者が何年も常駐して措置した車で問題の少ないものでしたが、それでも使用した結果はこのような経過をたどったのです。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1981)座談会「動力近代化に伴なう検修の回顧」『70年のあゆみ』p.49
※話者:五十嵐幹夫(元釧路工場長/元苗穂工場機関車課長・機関車職場長)
****************************************************************


高崎車両センター 岡山機関区 敦賀機関区 稲沢機関区
苗穂工場機関車職場a117
日本国有鉄道苗穂工場『なえぼ』1975年11月号、表紙より引用

1975年10月3日、滝川機関区所属のD51形603号機が中間検査を終えて出場しました。
これは動態保存を除き「国鉄最後の検査出場」として大いに注目を集めました。
同日には苗穂工場内で「SL全国工場最終出場式」を盛大に開催しています。
そして引退迫るデゴイチは最後のお勤めを果たすべく、滝川機関区へと戻っていきました。
苗穂工場機関車職場もSLの定期検査をする事は無くなり、以降はEL、DLの検修に一層の注力をする事となりました。

****************************************************************
 今回工場から最後のSL出場車となったのは“D51603号機"で、同機は昭和16年2月23日山口県の日立製作所笠戸工場でつくられ、宇都宮、高崎、柳井、岡山、姫路、敦賀、金沢、稲沢と北関東をふりだしに山陽、北陸路で貨物の輸送に活躍し、昭和39年1月12日に滝川機関区に配属となり、これまでに2,377.426km(9月末現在)を走ってきた。これは地球を60周も走ったことになる。
 最後の出場機となった同機は、9月16日中間A検査のため工場入りし、関係職員の入念なオーバーホールを受け、きれいに化粧直しをしてもらい、先頭には日の丸、そして「さようならSL」のプレートをつけ黒光りのする晴れの姿でこの日を迎えた。
 出場式には津田工場長をはじめ1,512名の職員全員と来賓として本社工作局関調査役(工作局長代理)、関川北海道総局長、OB津守巧氏、吉田忠三郎参議院議員など約1,800人が出席した。
 旭川車両センター吹奏楽団の演奏、北海道鉄道学園工作一科生による工場歌の斉唱で式典が始まり、このあと工場長が「明治5年新橋―横浜間に陸蒸気の汽笛一声が鳴り響いて以来103年、わが国の発展の原動力となってきたSLも今年限りで姿を消すことになった。わが苗穂工場のSL検修も大正3年以来61年間続けてきたが、今日このD51603号機をもって検修作業が終ることになったことは感慨無量のものがある。
 最後の整備を受けたSLよサヨウナラ、栄光あるD51よサヨウナラ」とお別れのあいさつをした。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1975)「SL全国工場最終出場式開催 D51最後のおつとめへ」『なえぼ』1975年11月号、p.2
****************************************************************



苗穂工場機関車職場a118

1976年3月2日、追分駅で構内入換に当たっていた9600形(追分機関区所属)が引退。
これで保存機を除く国鉄の蒸気機関車は全廃となりました。
折りしもこの頃、苗穂工場では「ディーゼル機関車検修棟」が落成。
機関車職場も増えるDLの検修拠点として環境整備を進めていきました。

****************************************************************
 工場最後のSL修繕が終って、早くも半年が過ぎました。このことは、私達機関車職場にとっては一生忘れることが出来ないと思います。しかし押しよせるDL化の波に対応すべく、職場内外の環境整備に取り組んでいます。
 職場内では、毎日のようにDL化工事が進められ、足の踏み場もないほど、あちらこちらと堀りおこされ、仕事をする環境としては決して良いものではありませんが、職員の整理、整頓の気持は大きく、きれいな職場になるよう努力しています。
 また階段なども組み替えにより散在したのを色彩管理、番線管理によって分類し、大変わかりやすくなりました。
 それからガラス清掃場所、屋外清掃区域もSL時代のものがそのまま受け継がれていましたが、今年の清掃期間から、各組に場所がわかりやすく区分されました。
 屋外の清掃区域は、従来のクイを抜き取り、新しい組のクイを打ち込んで新しいスタートをきりました。
 わが職場のDL化工事はまだ続いています。今後更に職場内外の環境整備を実施し、心身共に健全で、明るく、安全な職場とするとともに、職員一丸となってDL、ELの近代車両の修繕に取り組んでいます。

《出典》
斎藤輝昭(1976)「DL化に対する環境整備について」『なえぼ』1976年6月号、日本国有鉄道苗穂工場、p.12
****************************************************************



苗穂工場機関車職場a120
日本国有鉄道苗穂工場(1984)「苗穂工場職場組織の見直し―昭和59年2月10日―」
『なえぼ』1984年3月号、p.2より引用

苗穂工場では1984年2月10日に大規模な組織改正を実施し、これまでの15職場を第一組立職場・第二組立職場・貨車(輪西)職場・検査職場・第一部品職場・第二部品職場・内燃機職場・鉄工職場の計8職場に圧縮再編しました。
機関車職場については機関車の解体・艤装・車体修繕を「第二組立職場」、台車検修を機械職場(旋盤・フライス盤などによる切削加工を担当)と統合して「第二部品職場」にそれぞれ振り分けています。

****************************************************************
 昭和59年2月10日をもって、下記のように職場組織の見直しをしました。
 従来の15職場から8職場へと、苗穂工場70有余年の歴史の中で例のない一大改革であります。
 現在、国鉄をとりまく情勢は一段と厳しさを増し、財政は危機状態です。毎日30数億円の利子を返済するかたわら、一方では日夜列車運行に支障をきたさないよう、国民の国鉄という使命遂行のために全職員ががんばっているところです。
 今回の職場の見直しはその一環として国民のニースに対応できる車両修繕体制の効率的な運用にあります。
 私達工場の使命は、安全、安定輸送をするため「よい車両」を「より早く」「より安く」提供することにあり、そのため技術を開発し、さらに向上へと務めなければなりません。
 このように厳しい情勢の中で、苗穂工場は、北海道にふさわしい鉄道づくりに貢献し、民間工場と比較しても劣らない「より良い」「より信頼のある」「より安い」検修体制が必要です。
 今まで諸先輩が築き上げた伝統ある苗穂工場が、北海道の車両修繕工場の中枢となって、技能の維持・向上・発展へと後輩に引き継がなければなりません。
 苗穂工場は創立以来数多くの変革をしてきましたが、今回の組織の見直しは、工場再成の正念場です。苗穂工場が真に活生化し、明るい工場となるように、お互いに知恵を出し合い、一致団結して、次の時代へと発展するため、決意を新たに頑張ろうではありませんか。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1984)「苗穂工場職場組織の見直し―昭和59年2月10日―」『なえぼ』1984年3月号、p.2
****************************************************************



苗穂工場機関車職場a119

苗穂工場は1987年4月1日、分割民営化に伴い「JR北海道苗穂工場」と「JR貨物苗穂車両所」に組織を分割しました。
そして「本場」と「職場」による二層構造の組織体制に終止符を打ち、運転所などと同じ「科長制」を敷いた現業機関に改組しました。
これに伴い第二組立職場(旧:機関車職場)は解散し、機関車修繕はJR貨物苗穂車両所検修科に引き継がれました。

*****************************************************************
 まず、各会社の組織の細部(各機関の内部部課等)については、従来のタテ割、セクト主義の弊害を打破し、簡素で効率的な体制を実現することとなった。具体的に国鉄時代と比較して主なポイントを述べると以下の通りである。まず、本社及び地方における部課を極端に整理し、肥大化した組織の徹底的な簡素化を行い、意思決定の迅速化、責任体制の明確化を図るとともに、非現業要員の縮減に資することとした。また、従来運転と車両部門に分かれていた検修部門を一元化するとともに、大組織であった工場の本場部分をなくし、駅、保線区、電力区等と同様の一つの現業機関とすることとした。

《出典》
夏目誠(1987)「各承継法人の組織決定」『国有鉄道・国鉄線』1987年3月号(財団法人交通協力会)p.18
*****************************************************************



苗穂工場機関車職場a121

分割民営化からまもなく37年が経ちますが、赤レンガの機関車検修場は今なお勇壮な姿を保ち続けています。




※写真1枚目は2023年12月9日撮影
※写真2~7枚目、10~12枚目、13枚目、15枚目、17~19枚目は2023年9月9日撮影
※写真8・9枚目は2015年9月26日撮影
スポンサーサイト



最終更新日 : 2024-01-22

Comment







管理者にだけ表示を許可