タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2024-01-06 (Sat) 18:37

苗穂工場機関車職場[1] デゴイチ新製、特別改造、樺太派遣・・・激動の戦中

苗穂工場機関車職場a01

石狩管内は札幌市東区北6条東13丁目にある、JR北海道の苗穂工場。
ここは車両の解体を伴う全般検査・重要部検査など大掛かりな製修工事を行なう車両工場です。
「製修」とは国鉄時代から使われている言葉で、「車両や同部品の解体・製作・艤装などの作業と、これらに付随する検査設備の運転操作及び器具・工具の整備」を意味します。

大晦日の記事では苗穂工場に同居するJR貨物苗穂車両所について書きましたが、同車両所がJR北海道から借用している施設の中に「機関車検修場」という物があります。
これは重厚な赤レンガ造りの建屋で、国鉄時代は「苗穂工場機関車職場」が入っていました。
今回は機関車職場の大まかな歴史を辿っていきましょう。



国鉄・鉄道工場等の組織図(1980年)a01
日本国有鉄道職員局・中央鉄道学園(1980)『わたくしたちの国鉄 2』第8版、p.117より引用

・・・とその前に、鉄道工場における「職場」を語る上で重要な話があります。
上に引用したのは国鉄の新入職員用テキスト『わたくしたちの国鉄 2』に掲載された工場・車両管理所・車両センターの組織図です。
『わたくしたちの国鉄』は2冊1組のテキストで、国鉄の概況、各現業機関の主な業務内容、組織体制などを解説しています。

当時の鉄道工場は駅や運転所、車両管理所などのような現業機関ではなく、鉄道管理局や地方資材部、工事局などと同じ「地方機関」(地方において国鉄の業務を分掌している機関であって国鉄の従たる事務所をなすもの)に分類されていました。
その組織体制は非現業の企画・管理部門である「本場」(ほんじょう)と、現業部門である「職場」(しょくば)の二層構造となっていました。
つまり鉄道工場における「職場」とは単に一定業務を行なう仕事場を指した言葉ではなく、部署としての正式な組織単位だったのです。
言わば庶務課、経理課、生産技術課などと同じように、鋳物職場、電機職場、内燃機職場といった名称を各部門に付けていた訳ですね。

そして今回取り上げる機関車職場は「苗穂工場に属する現業機関」でした。



国鉄・鉄道工場職場の指揮命令系統図(1968年7月職制改正)

職場は駅・車掌区・機関区・保線区・電気区などの現業機関と同様、現場長―助役―掛職―手職による職制を敷いていました。
すなわち現場長は「職場長」と称し、その配下に助役、事務掛、技術掛、作業掛、工場検査掛、諸機掛、気缶掛、電機掛、構内手、工場技工、工場技工手伝、工場工手、用品手、諸機手、気缶掛助手、電機手、雑務手といった職名を設けていたのです。
配置する職名は職場によって異なり、それこそ輸送職場は工場内のみ乗務する機関車運転士、機関車運転助士、自動車運転士を抱えていました。
なお、国鉄は頻繁に職制改正を重ねており、工作関係を対象とした1961年3月改正では手職を撤廃する代わりに掛職を「中間職」と「労務職」に分けています。

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しょくば 職場
 国鉄の工場・自動車工場および被服工場における現業業務を分掌する機関であって、各職場ごとに定められた業務範囲に属する作業を行なうところである。
 工場の職場にはつぎの24種があり、そのおもな担当業務はかっこ内に示すとおりである。
 機関車職場(機関車の製修工事)、客車職場(客車・電車および自動車車体の製修工事)、貨車職場(貨車の製修工事)、客貨車職場(客車および貨車の各職場の業務)、電車職場(電車の製修工事)、自動車職場(自動車および内燃機関の製修工事)、荷役機械職場(荷役機械の解体および組立工事)、工機職場(機械の解体および組立工事)、旋盤職場(金属製品の機械削正工事)、工具職場(工具類の製修工事および整備)、鍛冶職場(ばねの製修、火造および熱処理工事)、製缶職場(気かん・鉄鋼構造物等の製修工事)、仕上職場(客貨車の金具類その他の金属製品の製修工事)、鉄工職場(工機・旋盤・鍛冶・製缶および仕上の各職場の業務に該当する業務)、電機職場(電気部分品の製修工事および蓄電池の修繕)、塗工職場(車両の塗装工事)、船舶職場(船舶用品の製修工事)、鋳物職場(鋳物工事および木型の製修)、製材職場(製材および準備加工工事)、利材職場(副生品の収集整理および加工工事)、輸送職場(製修品その他の運搬および構内整理)、動力職場(電力・蒸気・圧縮空気等の供給および電灯電力設備の保守)、検査職場(工事の落成検査)および営繕職場(建物等の保守および施工)。
 各工場には、これらのうちからその業務・規模等に応じ、必要な職場が設置されており、その設置数は4~20で全工場では総数306におよんでいる。規模の大きな工場の職場には、その設備・作業人員等において、職場自体が完備した単能工場としての機能を有するようなものもある。
 職場には職場長が置かれ、工場長または分工場長の指揮を受けて、助役、事務掛、技術掛、作業掛、工場技工、工場技工手伝、工場工手、工場検査掛、機関車運転士、機関車運転助士、構内手、諸機掛、諸機手、気缶掛、気缶掛助手、電機掛、電機手、自動車運転士、用品手および雑務手を指揮監督し、職場に属する一切の業務を処理している。これらの職員を工場職場従事員といい、約38,000人いる。
 自動車工場の職場には、組立・内燃機・旋盤・鉄工・利材および検査の6種類があり、組立職場では自動車(機関部分を除く)およびその部分品の製修工事を、内燃機職場では自動車の機関部分・内燃機関およびこれらの部分品の製修工事を、旋盤職場では金属部品の機械削正工事を、鉄工職場では鉄鋼構造物等の製修および鋳鍛造工事と機械器具等の製修工事等を、利材職場では副生品の収集整理等を、検査職場では工事の落成検査を担当している。これらの職場のうち、旋盤職場は京都自動車工場だけに設置されている。
 自動車工場の職場にも職場長が置かれ、自動車工場長の指揮を受けて、助役、事務掛、技術掛、作業掛、工場技工、工場技工手伝、工場工手、工場検査掛、諸機掛、諸機手、気缶掛、気缶掛助手、電機掛、電機手、自動車運転士、用品手および雑務手を指揮監督し、職場に属する一切の業務を処理している。これらの職員は約700人いる。
 被服工場の職場には、裁断・第1縫製・第2縫製・仕上検査および工機の5種があり、裁断職場では被服材料品の裁断等を、第1縫製職場および第2縫製職場では被服類の縫製作業を、仕上検査職場では被服類の仕上げ・落成品の検査等を、工機職場では機械器具の修繕・動力の供給等を担当している。ここにも職場長が置かれ、被服工場長の指揮を受けて、助役、事務掛、作業掛、工場検査掛、工場技工および工場手を指揮監督し、職場に属する一切の業務を処理している。これらの職員を被服工場従事員といい、約800人いる。
 組織上の職場の概要は前記のとおりであるが、一般には勤務箇所または勤務箇所における職員各自の直接の所属箇所・作業等常時職務に従事するところを概念的に職場と称している。
(宮坂正直)

《出典》
日本国有鉄道(1958)『鉄道辞典 上巻』p.p.807,808
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苗穂工場機関車職場a02

以上の事を踏まえ、苗穂工場機関車職場の歩みを見ていきましょう。

苗穂工場は1909年12月8日に「札幌工場」として開設されました。
以降5年間で木工職場・塗工職場・鍛冶職場・仕上職場・旋盤職場・製罐職場・組立職場の現業7部門と、事務掛・工事掛の非現業2部門を開設しています。
このうち「組立職場」が機関車職場の前身に当たりますが、当初の札幌工場では機関車を受け入れず、客車・貨車の修繕作業に当たっていました。

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 当工場は今から50年前の明治42年12月8日に、鉄道院北海道管理局札幌工場として、北海道の首都札幌市、当時の札幌区の東北、苗穂町に創立され、翌43年2月3日当時既に国有鉄道に買収されていた北海道炭礦鉄道の岩見沢工場から、木工職43名を転勤させ客車、貨車の修繕作業を開始したのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.36
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 私達がきた当時は、客車、貨車の修繕作業だけを行なっており、客車の新製の最初は、お召列車でした。たしか明治44年頃かと思いますが、大正天皇が皇太子殿下のときに、北海道地方の御巡幸がありそのときに使用する車輛の新製でした。職員は大変感激して、張り切って仕事をしたもので、客車の台枠は本州から取り寄せ、車体に使用する木材は特に吟味してタモのエンジの木材を使用したもので、当工場における新製の第1号であったと思います。
 また入換機関庫は、一寸あとに建てられたと記憶しており、第2木工場の北側西端の辺に簡単な建物で建てられていました。それが機関車職場の建物が建てられるようになってから、いまの綜合工具室の処に移転したものです。入換機関車が配属されてくるまでは、客車、貨車の入換には、皆でロープの一方を引っ張りあとを手で押すといった方法で、全車輛の入換を行なっていましたが、後に入換機関車で行なうようになってからは大変便利になりました。

《出典》
宮崎徳太郎(1961)「工場創業時の思い出」、『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.39
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苗穂工場機関車職場a03

1913年5月5日、札幌工場は手宮工場を配下に収めて「札幌工場手宮支工場」に改組しました。
1914年9月20日、手宮支工場は「札幌工場手宮派出所」に縮小改組。
更に同年12月15日、手宮派出所の統廃合に伴い札幌工場で機関車修繕作業を開始しました。
この時、手宮派出所の全職員260名が札幌工場に転勤したそうです。
札幌工場が最初に手がけた蒸気機関車はB6形(2120形)でした。

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 大正2年12月、白雪の中に偉容な姿をあらわした建物、当時としては珍らしい鉄骨造りの組立職場であるが、これと対立するかのように赤レンガ造りの木工職場が、仲よく建っていた。翌3年5月に製罐、鋳物職場が竣工し、12月になって初めて機関車修繕作業のハンマーの音が高々と流れたのである。
 創立当初は、札幌工場と呼ばれたこの工場へ、手宮、岩見沢の両工場から続々転勤してきた職人達は、希望に胸をふくらませながら、力強くハンマーを振ったことが想像される。
 機関車修繕者の第一陣は、手宮工場から組立工、製罐工の13名が札幌駅に着いたといわれ、最初に手がけた修繕車は2120形、通称B6という機関車であったが、出場するまで1ヵ月以上もかかったといわれる。ガランとした機械らしいものとて無い職場で、ほとんどが手作業で行なわれたのであるから、いまから考えるとよくやったものと感歎するのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.98,99
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苗穂工場組織図(1915年2月)a01

札幌工場は1915年4月1日、現名称の「苗穂工場」に改称しました。
当時から組織体制は「本場」と「職場」に分かれており、本場には「事務掛」と「工事掛」の非現業2部門を設けていました。
現業は組立職場、旋盤職場、仕上職場、製罐職場、鋳物職場、木工職場、塗工職場、鍛冶職場、原動室(後の動力職場)の9部門があり、力を合わせて車両の修繕に当たりました。



苗穂工場機関車職場a13

ところで大正時代、車両検修は「一般修繕」と「局部修繕」に大別されていました。

一般修繕は現在で言う「全般検査」で、車両を解体して車体・部品のオーバーホールを行ない、最後は元通りに艤装する方法です。
当時は36ヶ月ごと、または走行距離360,000kmごとに実施していました。

これに対して局部修繕は車両の解体・艤装をせずに行なう方法で、現在の「交番検査」に相当するようです。
こちらは「必要の都度」実施するものと定めており、目安として「約10ヶ月」の周期を示していました。


JR北海道 国鉄 JR貨物 苗穂工場 苗穂車両所 車両工場 鉄道工場 苗穂駅
苗穂工場機関車職場a05

さて、検査のために車両が工場に入る事を「入場」、一通りの修繕と試運転をパスして車両が工場を出る事を「出場」と言います。
これらに対し、車両が工場内で検査・修繕を受けている状況を「在場」と言い、大正初期における機関車の修繕在場日数は40~50日程度だったそうです。
それが1915年~1918年の間は19~25日くらいの在場日数に短縮し、艤装後に構内試運転を行ない、その翌日に単機試運転、その結果が良ければ翌日に本線試運転を実施しました。

その後も在場日数の短縮を図り、1919年~1925年の6年間で13~19日くらいに圧縮。
更に1927年からは機械器具類の整備拡充が功を奏し、修繕日数を8日間にまで短縮できるようになりました。
この頃から試運転の方法も変わり、艤装後に構内試運転を行なった後、翌日に往路単機、結果が良ければ復路牽引試運転、工場入場無火回送手配を行ない、その翌日に機関庫(後の機関区)まで回送・・・という流れを確立しました。


JR東海浜松工場 JR東日本 大宮工場 大宮総合車両センター 釧路運輸車両所
苗穂工場機関車職場a04

苗穂工場では1919年4月、旋盤職場を仕上職場に統合。
その仕上職場も1920年7月、組立職場に統合しています。
こうして組立職場は車両の解体・艤装に加え、旋盤による金属製品の削正作業、金属製品の製修工事を所管する事となりました。
しかし流石に業務過多だったのか、1922年5月には組立職場・工機職場・旋盤職場・鉄工職場の4部門に分割しています。
この頃の苗穂工場は職人の出入りも激しかったというので、指導面での負担も大きかったのでしょう。

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 大正時代は今の技工、作業掛、職場長をそれぞれ職工、組長、職工長と呼んでいた。組長になると紫色の3本線が入った制帽を冠ることができて、非常にほこらしげでもあった。旋盤職場の塩原組長が長い間大切に冠っていたのを記憶している。当時作業服は自費でまかなっていた。
 大正末期から昭和の初めは職人の出入りが激しく、内地方面や道内(室蘭日鋼、札幌工作等)で腕を磨いた連中が道場破りと言った形で2~3日位仂いて見込みなしと見たらすぐ姿を消して行った。このようにあちこちで腕を磨いて歩くことは職人のほこりでもあった。

《出典》
原田政一(1961)「うらばなし」『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.152
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苗穂工場機関車職場a15

1933年4月、本場に「機関車掛」(後の機関車係→機関車課)が発足。
これは技術掛の4部門分割に伴うもので、他に客貨車掛(後の客貨車課)、設備掛(後の設備課)、作業研究掛(後の調査課→生産技術課)が発足しています。
この改組以降、機関車掛が入場する機関車の修繕計画、工程管理を担当するようになりました。
初代機関車掛長を務めた大川国近は浜松工場からの転勤で、浜松時代はソ連に出向いて車両修繕指導を行ないました。
強面ながら大変几帳面な人だったらしく、この掛長の舵取りによって一般修繕の在場日数は4.5~5日にまで短縮しました。

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 昭和6~8年にかけて、大川技師が機関車係長(現在の課長)に就任、この方はソ連に招聘されて、日本の修繕技術を彼等に指導してきたオーソリティーである。当時、全国の工場は修繕日数の短縮に大わらわであって、当工場が一般修繕(現在の甲修繕)を4.5~5日で出場させ、浜松工場を破って全国一の記録を作ったのもこの時代のことである。従って、残業も夜9~10時までという日も多く、また一万キロ保証車を出場させる等で質の向上をも目指していたが、経年による結果からみれば姑息的な修繕に陥り、特にカマに対する悪影響がでできたことは認めざるを得ない事実であった。
 当時の入出場担当者は倉光実氏で、大川さんに馬力をかけられては頭を悩ましていたのを思い出すが、また、操業短縮を実施したのもこの頃と記憶している。
 大川さんは、平生ムスッとしていたが凄みがあり、公私の別がはっきりしていて、この点が非常に良く現れていたのは出勤、退勤時のことで、まことに几帳面な人であった。私達は「ロスケ」と仇名を付けていたのである。
 現在の車輪場跡は、当時の㋖、E、M、Xの綜合事務所であったが、大川さんが事務所にいるときは、各検査掛、作業掛は事務所に寄りつかないようにしていて、大川さんが職場巡視に出かけると、ゾロゾロと事務室に集ってきて、なるべく大川さんにつかまらないように逃げ廻っていたというのが本心のようであった。

※注釈:文中の㋖は機関車係(後の機関車課)、Eは機関車職場、Mは旋盤職場、Xは検査職場を意味する記号である

《出典》
原田政一(1961)「甲修繕在場5日修繕完成の思い出」『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.111
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苗穂工場機関車職場a12

機関車掛は機関車修繕の能率向上に貢献しましたが、発足2年後の1935年には修繕不良による事故が2回も発生しました。

1回目は4月3日、下富良野機関庫所属の9600形69602号機が函館本線峰延駅付近を走行中、連結棒ナックルピンの取付が不完全だったために、左右第一連結棒屈曲、左右第二連結棒破損というトラブルに見舞われました。

2回目は5月3日、小樽築港機関庫所属の8620形38667号機が煙質内吐出シ管ノズル取付ボルトの取付不備のため、蒸気による振動で1本が脱落。
この影響で給気中にノズルが傾斜し、火室内の通風が著しく悪化して煙が充満、遂に運転継続困難となり機関車を交換するという事態になりました。

何れも出場まもなくの事故で、組立職場での艤装作業に不備がありました。
この事故を教訓として、以降の苗穂工場では責任運転事故の撲滅に注力しています。



苗穂工場組織図(1937年7月)a01

1936年9月、苗穂工場は事務分掌改正を施行。
これに伴い組立職場は「機関車職場」に改称し、機関車の解体・艤装と車体修繕に業を絞りました。
なお、客車・貨車の解体・艤装については、客車職場と貨車職場を統合した「客貨車職場」に移管しています。
改正以前の客車職場・貨車職場は各車両の木工作業を受け持っていました。

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 昭和10年3月になって、検査場が職場となり、第1、第2の検査場を置き、同年8月には工機、電機の2職場を併合して工機職場としたが、翌11年9月に行なわれた事務分掌の改正では、本場の掛を係、設備と作業研究を併合して設備係、治療所を苗穂鉄道診療所、工場倉庫を工場用品庫、組立職場を機関車職場、客車、貨車の2職場を併合して客貨車職場、輪西派出所を輪西貨車職場、動力室と変電所を併合して動力職場、鉄工職場を廃止して新たに仕上、副生品の2職場を新設し、大体ではあるが現在に似た組織となったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.43
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苗穂工場機関車職場a06

この事務分掌改正が施行された頃、機関車の修繕在場日数は6~7日に伸びました。
これは1934年頃から出来高向上週間を設け、日数短縮よりも修繕程度の向上を狙ったためです。

1936年10月2日には北海道地方陸軍特別大演習が行なわれ、これに伴う御召列車の修繕を苗穂工場が引き受ける事となりました。
そしてD51形596号機、D51形562号機の2両を修繕し、見事に送り出したのです。
御召列車の成功は機関車職場の職人達にとって誉れでしたが、1937年7月7日に日中戦争が勃発すると軍需産業に人手を回されてしまい、その影響で修繕在場日数も伸びるようになりました。

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 かくして、当工場には北海道地方陸軍特別大演習のための軍隊輸送に活躍する機関車、客車、貨車が続々入場したため、各職場は日夜修繕作業に追われたのであるが、約1ヵ月に亘った大演習も無事終了して、当工場で慎重に修繕、整備された御召機関車もその大任を果したのである。なお、この頃になって各工場が霸を競った修繕日数の棒比べも次第にかげをひそめ、また昭和6年の満州事変を契機として、軍部の専横な産業政策、インフレ政策により、軍需産業重工業が非常に発達し、軍需景気のために技工の移動が目立ち、そのため技工が不足になって自然に修繕日数も多くなった理由もみのがせない事実といわなければならないのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.109
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苗穂工場機関車職場a07

鉄道現場の受難をよそに日本軍は凄まじい勢いで中国を侵攻し続け、国内には軍需景気が到来しました。
苗穂工場も時勢に従い大陸向け機関車の特別改造を引き受ける事となり、1937年11月16日より9050形9両の狭軌改造に着手。
この改造では軌間を1,067mmから1,000mmに狭めたほか、主台枠外側幅の67mm縮小、ボイラー全体の210mm位置上げ等を施しています。
そして同年12月26日、改造を終えた9050形9両を華北交通に送り出しています。

これを皮切りに特別改造は繰り返され、1938年1月13日にはC12形4両の狭軌改造に着手し、同年2月8日に全て発送。
更に同年6月24日には9600形8両の広軌改造(1,067mm→1,435mm)に着手し、7月28日に3両、8月28日に3両、9月(詳細な日付は不明)に2両を相次ぎ発送しています。
この2年間で苗穂工場が外地に送り出した蒸気機関車は21両に上り、現場では「特改機関車」と呼んでいました
特改と言っても特別改札の略ではありません。



苗穂工場機関車職場a14

しかし戦時下への応召・派遣による人手不足が深刻で、特別改造真っ只中の1938年1月14日に欠員補充の採用試験を実施。
急ごしらえで人材確保・技能教育をするという苦労もありました。

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 北支に進出した日本軍は、鉄道建設と輸送の確保のために、苗穂工場にも9050、C12、9600等の機関車を特別改造の上、大陸に供出する作業が次々と行なわれ、これらの工事は昼夜兼行で進められて、神戸港から船積みされて行ったのである。このため工場の技工も倍にふくれあがり、特に旋盤等は倍の人員となって、厳寒期もコークスストーブを焚いて頑張ったのである。夜中の12時から1時までの休憩時間を利用して、焼酎を一パイという光景も見られた、夜明け前の睡気をこらえて、点呼交代で一風呂浴び家路を急いだのである。
 私も当時は特改の仕事を担当していたが、荷造り調書と荷造り会議の資料を徹夜でガリ版印刷をしたのであるが、丁度吹雪の夜で余り寒いので応援のものと景気をつけたところ、元気が出過ぎて輪転機に力が入りすぎ、何枚かの原紙を破いてオシャカにしたことを覚えている。供出車輛は機関車ばかりでなく、貨車についても行なわれ、大東亜共栄圏と称される国々にも送られていた。私が昭和17年7月ジャワ派遣の途中サイゴンに寄港の際、埠頭に日本製のワムがあるのを見て感無量であった。 

《出典》
原田政一(1961)「D51新製と特改機関車の供出」『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.125
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JR西日本 鷹取工場 山陽本線 JR九州 小倉工場 国鉄
苗穂工場機関車職場a11

一方、国内では外地軍事目的で転出した機関車の補填、国内貨物の輸送力確保が急務となり、国鉄工場でもD51形蒸気機関車を製造する事となりました。
苗穂工場も1938年度に年間3両の計画を立て、デゴイチ新製に着手しました。
その記念すべき1両目がD51形237号機で、工事着手に先立ち職人達が浜松工場まで勉強に行ったそうです。

その後は本場の機関車係が音頭を取り、機関車職場、製罐職場鋳物職場、旋盤職場、工具職場、工機職場の現業6部門で車体・各種部品の製造に打ち込みました。
当時は鋳鋼品を大宮工場、鷹取工場、小倉工場などに依存していたため、ひとたび青函航路がシケると滞貨が生じ、デゴイチの台枠に必要な材料の入庫が遅れてしまったそうです。
旋盤作業でも数多の苦難がありましたが、それらを乗り越えて1938年9月5日、遂に苗穂工場初の新製SLが完成を見ました。

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 画期的な事業としてのD51機関車の新製第1号D51237号が、職員注目の中に起枠式が昭和13年9月5日、機関車職場中央において神式により行なわれたのである。機関車係長(現在の機関車課長)佐野技手司会の下に、局長、運転、工作関係者を始め、機関車関係職員が参列して見守るうちで、手塚局長、森工作部長、星工場長と、それぞれネーム入り渡金リーマボルトが台枠前鋳物に打ち込まれたが、このときのハンマーは砲金製バフ磨きで、その後も久しく保存されていたのである。
 越えて10月25日、14番線(現在の25番線)において落成式が行なわれたが、本省からは紀伊工作局長来場し、関係者多数が見守る中で手塚局長の手で汽笛が鳴らされ、徐々に加減弁は開かれ、黒光りする巨体の動き出すのを眺める人の目は自然とうるんでくるのをどうしようもなかったのである。ここにわが手をかけた機関車が誕生して、力一杯鉄道精神の歌が遠く流れていった。その後、つぎつぎと苗工製のD51機関車が12輛落成したのであるが、このD51機関車の完成後は、昭和19年に日本製鋼所の入換小型機関車2輛の新製を行なった以後は、国内情勢の変化によって、全く新製は行なわれなくなったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.118
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苗穂工場機関車職場a10

1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。
日を追うごとに戦局は厳しさを増し、機関車修繕に必要な資材も不足しました。
かつてない危機に瀕する中、軍国政府の要求もより苛烈になっていきました。
大変な材料不足にも拘らず国民総決起、一億総武装を合言葉に迅速な製修の施工を鉄道工場に求めてきたのです。
そのため苗穂工場もフルスロットルで稼働し、一般修繕を7日前後で完遂するというスピード感を維持しました。
もちろん現場の苦心は計り知れず、1日4時間以上の残業が常態化するほどでした。
車両の整備不良も深刻となって輸送に支障を来たし、次第に社会は疲弊していきました。

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 昭和16年12月8日勃発した大東亜戦争も、年の経つとともに始めの戦果は夢のように消え、生活も苦しくなると同時に修繕資材も不足してきたのである。まず第一に困ったのは煙室戸の石綿パッキンであるが、石綿の生産はアフリカであるため、容易に手に入る筈も無く、例え手に入ってみたところで、全てが軍関係のみであった。昭和18~19年となると全くのお手上げ状態となり、工場はともかく機関区では、毎日使用する機関車の保守に、あの手この手と考えて、結局多く使用したものは粘土であった。上等の方では古いマニラロープにこの粘土を塗りつけて煙室戸に入れたのである。この方法で一交番走ってくると、粘土は乾きロープは燃えてしまうので、また新たに入れ替えが行なわれたのである。しかし、マニラロープのあるうちはそれで良かったが、これも無くなると遂には縄となり、運転途中で焼けて煙室戸の気密が保たれず、そこから空気が入って煙室内のシリンダーが燃焼して、煙室戸が真赤になってしまったことが数知れなかったのである。
 このため煙室戸は曲って、ますます気密保持不可能となり、この煙室戸の修繕に工場から出張修繕を実施したが、局では近辺の機関区の不良機関車を集めて、当時六検を行なっていた機関区で、曲り直しを実施したのである。そして、石綿パッキンの代用として、色々な乾草を縄状にあんで使用したが、結局、資材が無いということは、原始に返ることだったのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.125,126
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苗穂工機部組織図(1944年11月)a01

鉄道省は1942年9月11日、地方組織の改正を実施。
所管する全ての鉄道工場が「工機部」へと一斉に改称しました。
苗穂工場も右ならえで「苗穂工機部」に改称し、同時に石炭荷役機械の修繕を担うべく工機職場に「室蘭派出所」(後の室蘭機械区)と「小樽築港派出所」(後の小樽機械区→札幌機械区→札幌設備所)を設置しています。

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 昭和17年にはつぎのような改正を行なった。
 1月に所管行政の考査一般に関する事務を分掌する考査室を大臣官房に新設した。3月に鉄道技術研究所官制が公布され、大臣官房研究所にかわって鉄道技術研究所が鉄道大臣の管理下に置かれ、これに1課6部1場を置いた。同月札幌工事事務所に旭川工事事務所を統合した。日華事変の発生以来官庁事務は急激な増加をしたため、その機構も複雑となり職員も増加したので、11月から簡素化する旨の閣議決定が6月に行われたが、鉄道省はこれとは別個に、できるだけすみやかに現業事務の体制を整える必要があったので、9月にその趣旨を織り込んで鉄道大臣の権限でできる範囲内で、つぎのような地方組織の改正を行なった。
 ア 鉄道局の部課 運輸部・運転部および監督部を統合して業務部(東鉄・大鉄はこのほかに電気部)とし、工作部と経理部とを廃止して資材部とし、船舶部(広鉄・札鉄)は従来どおりとしたので、資材部は3課または4課、列車部は2課、電気部は2課または3課、船舶部は2課としたので、課の数は236が169となった。
 イ 鉄道局地方官署 運輸事務所と保線事務所とを原則として統合し管理部と改称し、新橋・上野・大阪の運輸・保線・電力の各事務所はそのまま事務所を部と改めた。また工場を工機部と改めた。これにより鉄道局地方官署の数は110が70となった。なお管理部に総務・輸送・施設の3課(下関・函館に限りこのほか船舶課)を置いた。

《出典》
日本国有鉄道(1958)『鉄道辞典 下巻』p.1413
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苗穂工場機関車職場a09

1943年4月1日、樺太庁鉄道が鉄道省に編入された事により「樺太鉄道局」が発足しました。
樺太鉄道局は「豊原工機部」という鉄道工場を有するのですが、その工機部長に苗穂工場の宮森機関車課長が就任する事となり、編入1ヵ月前の1943年3月に樺太へ向かいました。
ところが樺太の車両は状態がすこぶる悪く、すぐさま技術者の応援派遣を要請。
同年9月15日に苗穂工場機関車職場の杉山助役ら34名が派遣され、これまた劣悪な工場環境で職人技を発揮しました。

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 戦局の深まるに従い、北方防備の必要に迫られ、樺太鉄道の整備が急がれたのである。樺太鉄道は、昭和18年に国有鉄道に編入され、当工場宮森機関車課長が豊原工機部長として18年3月、燈火管制下の札幌駅から出発したのである。そして着任早々樺鉄の車輛状態をみて驚き、急遽車輛の整備をしなければ運転不能になることを本省に具申し、応援派遣を求めたのである。本省では早速札鉄局長に対し派遣命令を出したので、その打合せのため車輛課の本間、三俣両官補が6月に出発したのであるが、聞くのと見るのとの相違で、連結棒受金とクランクピンの隙間は、指を縦にして入るほどであった。このため走行中は、カランコロンと音がしていくら道内の車輛状態が悪くとも、これほどまでにはなっておらず、早速、人員、宿舎等を打ち合せて帰札したのである。
 第1陣としては、18年9月15日から2ヵ月の予定で杉山機関車職場助役を隊長とした34名を派遣したが、一行が到着して工場の施設を見て驚いたのは、天井走行クレーンが動くのではなくて歩くのである。人間が両足を片方宛前に出して歩くように歩くのであるが、これは建屋が悪い上に桁が上の方で開いているため、クレーンは右端が“ガクン”と進むと暫くして左端が“ガクン”と進む、クレーン専用運転手が居ないので隊員が乗ったが、とても恐ろしくて乗っていられるような代物ではなく、同じ国内でありながらあまりの施設の違いに驚いたのである。しかし、いつまでもそんなことをいってもおられず、結局背の低いB氏が運転したが、このクレーンのスイッチがイカれていて、手で押えていないと直ぐ外れて切れて終うので、仕方がないので棒で押えつけ、片方の手で操作ハンドルを握るという状態で、まるでサーカス級の仕事ぶりであった。また、シリンダー内壁削正機が無いため、減るだけ減らして、もう釭入れをして良いだろうと、シリンダー内径に合せて釭外径の削正を行ない、それを押し込むという、われわれには中々できない芸を平気でやっているのを見て、その手腕にもまたひと驚きしたものである。
 しかし、食生活は道内より良かったが、関係者が苦労した結果であろう。何よりも左党に嬉しいことは、サガレンウイスキーのあることであったが、その話を聞いて翌19年に第2陣として出発した人々をがっかりさせたという。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.127,128
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苗穂工場機関車職場a16

やがて首都圏や京阪神が空襲に見舞われると、本州の車両メーカーも機関車の製造に着手できなくなっていきました。
すると苗穂工場に日本製鉄㈱室蘭製鉄所(後の富士製鐵㈱室蘭製鉄所)から専用線で使用する機関車の製造依頼が来ました。
これを受注して1944年、製鉄所用の入換機関車2両を新製の上、納品しています。
国鉄が初めて私鉄(専用線を含む)に新製機関車を供出した事例だそうな。
当時の国鉄としては金銭を受領するよりも、物々交換の方が車両検修を行なう上でありがたかったといい、日本製鉄からも代金代わりに鉄板・アングル等の鋼材を受け取っています。

他にも客貨車職場のヘルプで、機関車職場がトキ(無蓋貨車)を新製する事もあったそうです。
こうして量産されたトキは増加する石炭輸送を支えました。

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 労務管理は現在でも職場長の最重要な仕事の一つであるが、当時でも如何に命令1本の時代とは言え現在同様最も大切な仕事の一つであったことには変りがなく、応召に次ぐ応召、遂に女子技術掛、技工迄出現する一方、食糧難を解決するための欠勤、特攻精神踏み違い等々で仲々苦労もあったが、仕事のやりがいもおおいにあった。
 石炭の増送で、トキ新製を機関車関係も客貨車関係同様やることになり、大いに張り合って仕事をしたのも記憶に新しく、又在任中機関車脱線復旧に十数回出かけたことなども終生忘れ得ぬことの一つである。
 材料難から来る仕事の困難さ、三交代制から来る行程管理の無理等、種々の困難があったが、国策上工場で常に何事か計画実行しようとする時、一番名乗りを上げて仕事に飛び込んで行ったのは機関車職場員であったと現在も自負しているが、主管職場として当然なこととはいえ職場員の気の持ち様一つでどうにでもなり得ることなので、過去―現在―未来と職場員全員の責任感と自負心を信頼している。

《出典》
吉五郎(1961)「思い出」『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.131
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苗穂工場機関車職場a17

折りしもこの年、D52形蒸気機関車が長万部機関区に配属されました。
戦時輸送の遂行を使命とした大型貨物用機関車なのですが、使い捨て前提で製造されたために構造が粗悪でした。
なにしろ防煙板にさえ不燃性の無い木材を使用していたのです。
俗に言う「戦時設計」で検修員達からは大変不評だったそうです。
この悪名高いデゴニを苗穂工場も受け入れざるを得ず、「特攻隊」と呼ばれる専門の組を編成。
使い捨て機関車ゆえにオーバーホールはせず、専ら解体を伴わない局部修繕に当たりました。

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 こうした昭和19年に、当時の人から嫌われていたD52型機関車が長万部機関区に配属されたが、この機関車はいわゆる戦時設計で、「使えるだけ使って廃車にする、その頃には戦争も終るだろう」ということで造られたため、副材料はできるだけ使用せず、至るところが電機熔接で、デッキ板、防煙板は木材で造られていたのである。この車輛の保守には、長万部機関区の苦労は並大抵ではなく、担当助役が病に倒れたのも無理からぬことであった。
 当工場でも、これらD52型機関車を主体とした修繕のため、特攻隊と称する局部修繕(臨時)専門の組を編成し、現在の入換車庫で昼夜不良個所だけの修繕に心血を注いだのである。

《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.p.126,127
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苗穂工場機関車職場a08

1945年7月14日、米連合艦隊のグラマン戦闘機が北海道を空襲しました。
国鉄関係ではまず釧路工場が壊滅し、池田・帯広方面の現業機関も襲撃されています。
続く7月15日には札幌・函館も空襲を受けましたが、苗穂工場では機関車修繕施設を一通り旭川工場に疎開したため被害を最小限に抑える事ができました。
7月16日に空襲艦隊が退去したとの報せが入ると、苗穂工場機関車職場は被害機関車の復旧に当たり、僅か1週間で38両の修繕を完了しています。


長くなったので今回はここまで。




※写真1枚目、4~9枚目、11~16枚目は2023年9月9日、一般公開中に撮影
※写真2~3枚目、10枚目、17枚目は2023年12月9日、北海道鉄道技術館の開館中に撮影
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最終更新日 : 2024-01-21

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