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2023-12-24 (Sun) 17:50

妙見線妙見口駅[1] 摂津と丹波を結ぶ筈だった「大阪最北端の駅」

妙見口駅a01

大阪府は豊能郡豊能町吉川146-1(旧:豊能郡吉川村城ノ本)にある、能勢電鉄の妙見口(みょうけんぐち)駅。
大阪府内で最北端の駅として知られており、緯度はDMS形式で北緯34度54分41.28秒を記録しています。
前回までの4回連続で「妙見の森ケーブル」を取り上げましたが、そちらの黒川駅・ケーブル山上駅は共にギリギリ兵庫県内なので、大阪最北端には当たりません。

豊能町は北摂山系に囲まれた緑豊かな山里の自治体で、このうち妙見口駅が所在する吉川は元々独立した村でした。
古くは「吉河」と書いたそうで、平安時代に真言宗の僧侶・小野仁海(-にんがい)が高代寺で水加持を修し、「水を吉とすること可なり」と悟った事に由来すると言われています。
また、高代寺の山号「亀甲山」を「吉河山」に改称した事に由来するという説もあります。

吉川村は1956年9月30日付で東能勢村に合併され、その東能勢村も1977年4月1日の町制施行に伴い豊能町に改称して現在に至ります。
町内西側の吉川・光風台・新光風台・ときわ台・東ときわ台の5町域が旧吉川村に当たり、これらをひっくるめて「吉川地区」または「豊能町西地区」と称しています。
地区の南側は能勢電鉄が開発・分譲を展開したニュータウンが広がりますが、妙見口駅の周辺には昔ながらの山里の風情が色濃く残っています。



妙見口駅a02

ここからは妙見口駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
もとい能勢電鉄は軌道法を適用し開業した私鉄で、社名も「能勢電気軌道」と言いました。
専務取締役・太田雪松が手綱を握って1913年4月14日に能勢口(現:川西能勢口)~一の鳥居間を新規開業し、ゆくゆくは摂津と丹波を結ぶ「摂丹鉄道」の実現を目論んでいました。
そして能勢電軌と摂丹鉄道の接続駅を吉川村に設ける計画で、これこそが妙見口駅の原型だと言えるでしょう。
1913年4月31日には一の鳥居~妙見口間の延長工事が認可されています。

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 明治45年6月27日、岡町公会堂において臨時株主総会を開催し、一の鳥居~吉川村字土井間(約6.3km)の延長線敷設申請の件を満場一致で可決した。もともと能勢妙見宮の参詣客を運ぶことを主要な目的として設立した当社として、一の鳥居より北へ路線を延長して妙見山麓にいたることは当然の方針であった。しかし、これまでは一の鳥居までの第1期工事でさえ完成が危ぶまれていたのであるが、ここに工事が全面的に進行しはじめたのを機に妙見山麓までの延長申請に踏み切ったのである。
 認可申請書には大阪、兵庫両府県知事の副申書が付けられていたが、その文には「出願会社ハ従来シバシバ紛争ヲ生ジ候タメ成業ニ至ラズ、新線御許可相成リ候トモ成業ノ見込確定至シカネ候条、然ルベク御詮議相成リタク」とあったというから、もって当時の信用状態の一端をうかがい知ることができる。
 けれども第1期工事完成を前に、民間における信用度は大いに回復していた。大正2年2月11日、池田町錦茂楼において臨時株主総会が開催され、定款の改正と社債10万円の募集を決議した。一時は逃げ出していた株主も復帰し、新たに地方有力者が続々と株主に名を連ねるようになった。
 これより先、明治45年6月、太田専務は摂丹鉄道株式会社の設立を申請していた。山陰本線亀岡駅から当社延長線の終点に予定されている吉川村にいたる軽便鉄道を敷設する計画であった。これが建設されると、摂津と丹波が結ばれるということだけでなく、表日本と裏日本が連結されることになり、当社の持っている価値が飛躍的に向上するのは間違いのないところだった。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.30,31
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JR西日本 木造駅舎 阪急電車 
妙見口駅a03

ところがいざ妙見線が開通すると、電車線への電力供給を担う猪名川水力電気の出力が弱く、同一セクションに2両の電車が走ると、わずかな坂道も登れないという事態になりました。
これが元で電力料金の支払がこじれ、1913年7月15日に猪名川水力電気から送電中止の通告と共に送電を止められてしまい、約7時間に渡って電車が止まるという珍事が起こりました。
最終的に同年8月9日を以って猪名川水力電気との契約を解除し、代わりに箕面有馬電気軌道から電力供給を受ける事となりました。

こうしたトラブルが要因となって早くも財政難に陥り、社長その他役員を差し置いて采配を振る専務・太田雪松のワンマン体質にも批判が集まるようになりました。
能勢電軌は同年7月1日の臨時株主総会で、一の鳥居~妙見口間の敷設免許を新会社・妙見軌道に譲渡する事を決議。
そして同年10月6日、太田雪松は経営難の原因を作った張本人として責任を問われ、専務取締役を辞任し能勢電軌を去りました。
摂丹鉄道の建設構想も1919年3月24日の免許状返納によって消滅しています。

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 7月1日岡町公会堂で臨時株主総会が開かれ、資本金の増額、社債の発行を議決し、さらに債務返済の方便として認可されたばかりの一の鳥居~妙見口間軌道敷設特許権を妙見軌道株式会社発起人熊田亀次郎ほか9名に譲渡することも議決した。
 妙見軌道株式会社は、この譲渡を受けるために急きょ設立された会社で、熊田亀次郎は軌道工事請負人で当社の大口債権者の一人であった。
 能勢電軌の生命ともいうべき延長線の特許権を譲渡してでも窮状を打開しようという太田専務の苦肉の策であったが、狂瀾を既倒にめぐらすことはついに不可能であった。時あたかも財界、金融界ともに深刻な不況期に入り、社債の募集も増資もことごとく意のごとくならず、専務は孤立化し、建設資金の膨大な負債の責任を問われる形でついに10月6日辞任した。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.37
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妙見口駅a04

さて、先の臨時株主総会で決議した一の鳥居~妙見口間の敷設免許譲渡ですが、結局は1914年1月に不認可となってしまいました。
アテが外れて譲渡益を得られなくなった能勢電軌は、妙見線の延長工事を自力で実施するはめになりました。
そこに更なる逆風が発生。
前回敷設工事の未払いが仇となって軌道工事業者に訴訟を起こされ、同年3月8日付で裁判所から破産宣告を受けています。
この時、訴訟を起こした軌道工事業者・熊田亀次郎は妙見軌道の発起人でもあり、敷設免許の譲受が出来なくなった事で堪忍袋の緒が切れたのでしょう。

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 ところで、第2期線(一の鳥居~妙見口間6.3km)の軌道敷設特許権を妙見軌道株式会社発起人へ譲渡するための認可申請は大正3年1月不認可になった。特許権の譲渡が認められない以上、やはり最初の計画どおり自らの力で延長工事を実施しなければならなくなった。
 事態が二転三転したが、ここで突如として第1期工事施工請負人の熊田亀次郎とその子慶次郎および熊田組に出資していた東尾吉三郎の3名が、建設工事請負金の不払いを理由に神戸地方裁判所へ破産宣告の訴訟を提起したことで、情勢はさらに緊迫した。大正3年8月6日、神戸地方裁判所より当社は破産を宣告されたのである。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.40
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妙見口駅a05

その後、能勢電軌は大阪商工会議所の会頭・栗本勇之助を代表取締役社長に、更にヒーリング商会の駐在役員J.L.グレームと支配人・熊野与太郎を取締役に迎えました。
栗本氏は栗本鐵工所の創業者にして関西財界の重鎮で、ヒーリング商会は能勢電軌に建設当初より変電所設備などを納入してきた縁があります。
この新体制を持って能勢電軌は経営再建に乗り出し、妙見線を池田駅前(後の川西国鉄前)まで延伸して旅客・貨物とも増収に成功。
1918年3月には優先株9万円を発行し、その払込金で債務を完済して神戸地方裁判所に復権申立の手続きを行ないました。

再建の実現に伴い栗本社長らは勇退し、江本謙蔵新社長らプロパー役員に事業推進を託しました。
いよいよ妙見線一の鳥居~妙見口間の延伸計画が再始動しますが、複雑な地形ゆえに難工事が予想されたため、鉄道を敷設するまで路線バスを走らせる事にしました。
そして1918年4月7日、一の鳥居~吉川間で路線バス(妙見路線と呼ばれる)の運行を開始しています。

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 一の鳥居~妙見口間の敷設免許はすでに大正2年に特許を受けていた。しかし、この路線は山と渓流を縫って走る複雑な地形で、難工事が予想されていたから、着工の見通しはなかなかつかなかった。当時参詣客を運ぶために妙見街道には数台の乗合馬車が動いていたが、時間もかかり評判はあまりよくなかったため、鉄道を敷設するまで乗合自動車を走らせることを計画した。馬車営業者や競願者などと交渉を重ね、円満に話がついたので申請手続をとり、自動車営業の許可をとって営業を開始したのは大正7年4月7日であった。
 米国フォード製乗合型自動車5台を買入れ、一の鳥居から妙見山麓吉川村まで所要時間約30分。運賃は片道50銭で、電車発着に合わせてそのつど接続運転した。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.45,46
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妙見口駅a06

妙見路線は順風満帆とはいかず、極端に悪い道路事情に悩まされてきました。
所要時間は現在の妙見線一の鳥居~妙見口間が直通運転で11分なのに対し、当時の妙見路線は約3倍の30分もかかりました。
しかもカーブばかりの山道はハンドルを狂わせ、バスが渓流に転落するという事故が相次いで起こりました。
運賃50銭も当時としては割高で、乗客数は予想よりも少なかったそうです。
能勢電軌は早くも路線バスに見切りを付け、1921年5月1日に乗合自動車営業権と関連資産を西川重嗣に売却しています。
損切りによって妙見線の延伸工事に専念する狙いもあり、翌1922年10月20日には「吉川延長線」の敷設工事を開始しました。

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 自動車事業から撤退したのは、所期の成績をあげることができなかったからであるが、一つには一の鳥居~妙見口の延長線工事の着工の時期が迫っていたからでもあった。本来なら能勢口~一の鳥居間の軌道建設工事完成に引き続き、妙見口まで延長する予定で、すでに大正2年に特許を受けていた。ところが、著しい財政窮迫から特許権の譲渡問題、経営首脳陣の交代、はては破産事件にまで及び、存続の危機にさらされたのである。しかし、幸いにして会社は奇跡ともいえる再建を実現し、今や延長工事に取り組むべき機は熟したのである。
 路線の敷設コースとして2つの案にしぼられた。一つは一の鳥居から花折橋を過ぎ、藤の茶屋を通り花折峠を越え、桜茶屋を経由して吉川に通じる路線。大正8年1月には前者の線に一応内定していたが、後者の沿線有力者の強烈な巻き返しと一部地主の猛反対などもおこって二転三転し、一時は収拾がつかなくなって重役会で工事中止を決定したほどであった。
 結局、東谷村村長今中利兵衛、吉川村村長栄口熊吉の両氏から軌道用地の寄附申込みなど絶大な協力を得たので、急転直下、山下経由の路線に決定したのである。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.47
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妙見口駅a07

そして1923年11月3日、妙見線は北摂の山里・吉川村まで延伸開業を果たしました。
終点の妙見口駅は「妙見駅」という名称で開設しています。
延伸区間の距離は5.8kmで、既成区間と合わせて13.3kmの全通を見ました。

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 全線に60ポンド(約27kg)の軌条が敷設され、畦野、山下、笹部、隧道東口、妙見の停車場も建設された。また絹延橋、多田、畦野、山下、隧道東口に離合線路が完成した。かくて総工費約82万4,000円を投じた延長線は完成し、大正12年11月3日、明治節の日の晴れの開通式を挙行することになった。会社を創立して15年、第1期線が開業してから10年の辛酸を経て、池田駅前~妙見口間13.3kmの全線が開通したのである。
 運賃は全線を4区に分け1区8銭とし、多田~絹延橋間は特別区として6銭と定めた。なお第3期延長線の完成に伴い、従来の阪神急行電鉄池田変電所よりの受電のみでは電圧降下で電車運行に支障を来たすおそれがあるので、畦野停車場の北側に新たに変電所を建設した。電動発電機100kw 2基を設備、阪神急行電鉄より交流3相3線式3,150ボルトで受電し、直流600ボルトに変換して電車線に供給することになった。
 また路線延長により当然車両が不足するので、伊予鉄道から電動客車10両と無蓋貨車2両、有蓋貨車1両を購入した。操車所はこれまでどおり能勢口停車場であるが、絹延橋車庫の西側に新たに270㎡1棟の車庫を増築、線路も2線増設した。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.48
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妙見口駅a08

1925年8月1日、妙見鋼索鉄道(妙見の森ケーブルの前身)が下部線と上部線あわせて1,467mの鋼索線を開業。
山麓の滝谷駅(後の黒川駅)は妙見駅から1.5kmも離れており、同年7月17日に妙見~滝谷間を結ぶ連絡電車線の敷設を申請するも着工に漕ぎ着けられませんでした。
そこで地元のバス会社を買収して輸送体系を整備しています。

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 終点妙見口駅とケーブル間をつなぐ“足”として、ケーブル開業時の大正14年に2つのバス路線があった。能勢自動車株式会社と能勢妙見自動車株式会社がこの区間を通るバス路線を持っていた。
 能勢自動車は大正14年に発足、吉川村(妙見口)から滝谷を経て地黄に至るまでの区間にバス営業を行っていた。妙見鋼索鉄道では妙見口とケーブルカー(滝谷)間の連絡確保のため、まず能勢自動車を買収し、傘下におさめることに成功した。
 一方、能勢妙見自動車は大正10年に免許を得た会社で、京都府亀岡町から湯ノ花、井手、倉垣、地黄を経て滝谷、吉川に至る路線にバスを走らせていた。当社と妙見鋼索鉄道は二社合同で大正15年1月能勢妙見自動車を買収して、傘下においた。
 このように能勢妙見自動車ともに傘下に入ったが、この両社は路線が重複していたので、昭和5年1月29日両社合併の契約を締結し、能勢妙見自動車株式会社を存続会社とし、能勢自動車株式会社を解散することにした。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.55,56
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妙見口駅a09

1948年6月20日、妙見線山下~妙見間で自走客車2両と自走貨車1両の三重衝突事故が発生しました。
当時は戦後まもない窮乏の時代で、能勢電軌も老朽車両の部品確保に悪戦苦闘し稼働できるのは6両だけ、軌道補修工事も満足に出来ないという窮状にありました。
そんな状況下で現場の社員も疲弊しきっていたらしく、妙見駅から1,600m離れた木材積込場で操車作業のミスが発生。
妙見駅から向かってきた客車が、木材を積んだ貨車にぶつかってしまいました。
すると貨車は制御不能の状態で下り坂を暴走し、妙見行きの客車と正面衝突。
ぶつけられた客車が更に下り坂を逆走、笹部駅付近で車体が大破してもなお暴走を続け、山下駅でようやく止まるという事態になりました。

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 このような中で昭和23年6月20日、妙見口~山下間で三重衝突という創業以来の大事故がおこった。14時25分から僅か6分間の魔の出来事であった。この日103号無がい貨車は妙見口より1,600mの地点で木材の積み込み作業をしていた。貨車の車掌は妙見口を発車して現場に向かってくる客車を停車させるため100mほど前方の見通しのよいところで停止信号の赤旗を降った。ところが客車の運転士がそれを確認できる前に赤旗を振るのをやめてしまったので、客車はそのままカーブを曲り、目の前に貨車が停車しているのを見てあわてて急ブレーキをかけた。もちろん間に合わず、客車はそのまま貨車に衝突。その勢いで貨車は山下方面に向かって下り勾配を走り出した。貨車の運転士は手動ブレーキを懸命に回しつづけたが、衝突のショックでブレーキチェーンが切れ制動不能となっており、100mほど走った地点で身の危険を感じて飛びおりた。
 無人の貨車は木材を満載したまま下り勾配を走りつづけた。この暫らく前、山下駅を発車して妙見口駅に向って走り出した客車があった。かくして単線上で暴走貨車と客車が正面衝突することが避けられない事態になり、二台の車両は正面衝突――。貨車は脱線停車。ぶつかった衝撃で客車は重傷者を乗せたまま笹部に向かって下り勾配を逆走し、笹部駅付近で車体の上部と屋根を吹き飛ばされ、山下駅でホームと接触してようやく停車した。まさに悪夢の6分間であった。乗客5名、乗務員2名の重傷。死亡者のでなかったのが不思議なくらいであった。
 この日は京阪神急行電鉄(現 阪急電鉄)がスト実施のため当社の乗客も少なかったことが、不幸中の幸いであった。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.70,71
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妙見口駅a10

1965年4月1日、妙見駅は「能勢妙見口駅」に改称。
しかし長ったらしく感じたのか同年7月1日には早くも「妙見口駅」に改称しています。

1968年7月25日、妙見線平野~妙見口間で単線自動閉塞装置の運用を開始。
同時に妙見線全区間の自動信号化が完成し、従前のタブレッド閉塞器は御役御免となりました。

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 次いで42年12月3日にダイヤ改正が実施され、平野~川西能勢口間の続行運転が廃止され、鶯の森~川西能勢口間の区間列車が4列車新設され、この前に走る妙見口発の4列車は滝山・絹延橋を通過するようになり「直」(※直の字を丸で囲む)の標識を掲示した。
 また、この複線化を機に川西能勢口~平野間に初めて自動閉塞信号装置を採用した。43年7月25日からは全線に自動信号装置を設置完了し、長年にわたって親しまれてきた通票(タブレット)は姿を消すことになった。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.134,135
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妙見口駅a11
能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.52より引用

能勢電軌は1978年10月1日、能勢電鉄㈱に社名変更しました。
1991年4月1日には券売機・精算機・改札機の集中管理と遠隔制御を行なう「駅務機器遠隔システム」の稼働を開始。
1991年10月15日には全駅に自動精算機を導入し、同時に川西能勢口駅・平野駅・山下駅を除く各駅を無人化しました。
もちろん妙見口駅も同日付で無人駅となり、山下駅助役室に併設した「山下センター」の管理下に置かれています。

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 当社が駅改集札業務の外部委託を開始したのは1969(昭和44)年からで、以来、約20年にわたってこの制度を継続してきたが、この間も沿線の住宅開発が進み、沿線人口の増加に伴い、当社の輸送人員も大幅に増加していた。
 駅改集札業務委託時間は、7:00から21:00であったが、輸送人員の増加により委託時間外利用のお客様にも不便をかけるとともに、この時間帯に運転と併せて改集札業務も行っていた乗務員への負担も大きくなり、円滑な定時運転に支障を来たす恐れが出始めていた。
 さらに、川西能勢口駅付近連続立体交差事業の進捗状況に併せて、1990(平成2)年12月から川西能勢口駅において、お客様の利便性向上のため、当社と阪急電鉄と同レベルの改集札のチェック態勢をとる必要に迫られた。
 これを受けて、全駅、終日にわたり改集札業務が可能な方法を種々検討した結果、駅業務の無人化を図り、駅務機器を遠隔制御・集中監視することによって、当社にもたらすメリットの大きい「遠隔操作システム」を導入することを決定、1991(平成3)年4月1日から稼働した。
 さらに同年10月には全駅に自動精算機の設置が完了し、駅務機器遠隔操作システムが完成、全駅の無人化が完了した。
 この「遠隔操作システム」は、駅務機器(券売機、精算機、改集札機)の集中監視と遠隔制御を行うもので、支援装置としてシャッターの自動開閉制御、インターホン、放送、ITVの各装置で構成されていた。
 運用は、当社鉄道線全線を平野ブロックと山下ブロックの2つに分け、平野駅と山下駅に遠隔操作センターを設置し、各ブロック内の各駅をオンライン接続し、遠隔制御、監視する仕組みになっている。
 このシステムは、駅業務の近代化、省力化に寄与する鉄道業界初の画期的な試みとして大いに注目を集め、現在では、他社におけるシステム導入の手本となっており、鉄道駅業務の省力化に貢献したことは言うまでもない。また、現在に至るまで、システム導入に伴って実施した駅業務の無人化による事故やトラブルは発生していない。

《出典》
能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.p.52~54
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駅舎は開業当初から健在の木造建築です。
外装を白黒に塗装しています。



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駅舎の手前には「花折街道」と刻まれた石が置かれています。
花折街道は一の鳥居から妙見参道に至る妙見街道の別名で、沿道は幕末から明治にかけて妙見宮の門前町として栄えました。

「吉川高代寺山石」とも刻まれていますが、どうやら高代寺山で採掘した石を研磨し、石碑に仕立て上げたようです。



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ラッチ外コンコースの様子。
玄関にドアを設けないオープンスタイルです。
先述したとおり1991年10月15日に無人化しており、閉鎖した窓口の右隣に自動券売機を備えています。



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天井からは行灯を提げています。



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改札口には3基の自動改札機を設置しており、中間に山下センターのオペレーターと通話できるインターホンを備えています。



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待合室は改札口の右脇にあります。
くたびれた引き戸を開閉するとガタピシと音が立ちます。



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引き戸の頭上には「のせでん駅のギャラリー」と書かれた表札を掲げています。



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待合室の様子。
コの字型にベンチを配しています。
「駅のギャラリー」と銘打つのに相応しく、鴨居には北摂周辺の自然豊かな風景や草花などの写真を展示していました。
妙見口駅の写真展は「駅のギャラリーフォトクラブ」が主催しており、季節の変わり目に写真を入れ替えているようです。



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窓には4段のショーケースを取り付けています。



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ショーケースの中には能勢電鉄1500系の鉄コレが何両も入っています。
こちらは親会社の阪急と同じマルーン1色。



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こちらはクリーム色とオレンジ色のツートンカラー。
1994年~2003年の9年間に渡り纏った能勢電鉄のオリジナル塗装で、その色味から「フルーツ牛乳」と呼ばれています。
フルーツ牛乳は瓶にオレンジ色の印字を施し、牛乳そのものはクリーム色をしていますから、連想する人はさぞかし多かった事でしょう。



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こちらは駅舎正面から待合室を眺めた様子。
窓ガラスに「大阪最北端の駅」と書いていますね。



妙見口駅a32

長くなったので今回はここまで。




※写真は特記を除き2023年11月23日撮影
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最終更新日 : 2023-12-26

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