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2023-12-14 (Thu) 23:34

【廃止路線】能勢電鉄の鋼索線「妙見の森ケーブル」の歴史

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能勢電鉄は2023年12月3日、兵庫県最東端の地・川西市黒川における「妙見の森」関連事業の営業を終了しました。
妙見の森は妙見山の中腹西側に広がるレジャースポットで、能勢妙見宮の参詣者やハイカー、バーベキュー施設の利用者などで賑わいました。
しかし近年は利用客の減少で赤字が続き、老朽化する施設の更新費用も工面できない事から、営業継続は困難との判断に至りました。
同社唯一の鋼索線である「妙見の森ケーブル」についても役目を終え、翌日付(2023年12月4日)で正式に廃止となりました。

もとい妙見の森ケーブルは別会社である妙見鋼索鉄道をルーツに持ちます。
この会社は1919年11月21日、川辺郡に属する自治体3ヶ村(東谷・多田・川西/現:川西市)の有志8人がケーブルカーの敷設免許を提出した事に端を発します。
当時は能勢電鉄も妙見山にケーブルカーを敷こうとしていましたが、たまたま地元勢力と計画区間が被ってしまったため、すぐさま対抗するべく6日遅れで免許申請しました。
最終的に1921年10月、能勢電鉄が免許を取り下げて妙見鋼索鉄道に出資するという事で協議がまとまっています。

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 北摂の一角、海抜662mの東高岳の頂上に鎮座する妙見宮。この山麓から山上までケーブルカーを敷設しようという計画は当社においてかなり以前から立てられていた。ところが、大正8年11月21日、東谷、多田、川西3カ村の有志8人がこれと同じ内容の計画を立て妙見鋼索鉄道敷設の免許を申請した。6日遅れて同月27日、当社も急きょ鋼索鉄道敷設の免許申請を提出した。
 大正10年10月、妙見鋼索鉄道の発起人との間で両者の計画を一本化する交渉がまとまり、当社は免許申請を取り下げ、妙見鋼索鉄道の資本金の半分を出資し、役員も両者から半数ずつ選出することになった。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.54
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妙見鋼索鉄道下部線のケーブルカー
能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.23より引用

1922年2月18日、満を持して妙見鋼索鉄道が敷設免許を取得。
同年5月29日に宝塚市内の温泉旅館「寿楼」で創立総会を開催し、資本金50万円の妙見鋼索鉄道株式会社を設立しました。
関東大震災の影響で工事認可が遅れ、1923年12月10日にようやく敷設工事を着工できました。
敷設工事は1925年7月29日に竣工し、山麓の滝谷駅(後の黒川駅)から中間駅(後のケーブル山上駅)に至る下部線623mと、中間駅から妙見山駅に至る上部線844mの2路線・合計1,467mが完成しました。
そして3日後の8月1日に晴れて開業しています。

車両は大阪の梅鉢鐵工所で製作した車体に、スイス・テオドルベル社製の台車を組み合わせた物です。
捲揚機もテオドルベル社の製品を導入し、上部線・下部線ともに各100馬力の電動機を備えています。
滝谷~妙見山間の所要時間は中間駅での乗換時間3分を加えて13分。
勾配は上部線が平均9度・最大13度で、下部線が平均17度・最大23度を記録しています。

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 当時、箱根山、生駒山、信貴山、摩耶山、それに妙見山を加えて五つのケーブルが有名であった。このケーブルカーの開通で参詣客の服装が一変した。妙見本堂のまわりをお百度を踏む人々も普段の服装となり、浴衣姿の婦人もみられ、夏になると頂上にテント村ができ、その中央に食堂の設置された。展望台から東北を望むと京の愛宕山、比叡山の山並みまで見渡すことができた。
 冬や天気の悪い日は乗客の数はぐんと減ったが、平均して1日1,000人、年平均37万人の乗客を集め、妙見鋼索鉄道株式会社は営業開始の大正14年下期以降昭和19年に企業整備で廃業するまで4%ないし6%の配当を継続できる営業成績をあげた。
 なお、妙見口駅(吉川村)とケーブルカーの滝谷駅の間は1.5kmほど離れているので、これを接続する連絡電車線建設を計画し、大正14年7月17日に電気鉄道工事施工認可の申請書を提出したのであるが、ついに建設にはいたらなかった。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.55
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能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.23より引用

鳴り物入りで開業した妙見鋼索鉄道ですが、一つだけ重大な問題を抱えていました。
山麓の滝谷駅(後の黒川駅)が能勢電鉄の終点・妙見駅(現:妙見口駅)と1.5kmも離れており、接続が悪かったのです。
開業直前の1925年7月17日には妙見~滝谷間を結ぶ連絡電車線の敷設を申請しましたが、建設工事に漕ぎ着けられませんでした。
しかし妙見~滝谷間でバス路線を運行する2つのバス会社があったので、これらを買収して輸送体系を整備する事にしました。

まずは能勢自動車を傘下に置いたといいますが、具体的な日付は能勢電鉄の社史にも書いておらず不明。
続く能勢妙見自動車は『能勢電鉄80年史』巻末の年表に記載があり、1926年1月17日に買収して能勢電鉄・妙見鋼索鉄道の2社で株式を取得したといいます。

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 終点妙見口駅とケーブル間をつなぐ“足”として、ケーブル開業時の大正14年に2つのバス路線があった。能勢自動車株式会社と能勢妙見自動車株式会社がこの区間を通るバス路線を持っていた。
 能勢自動車は大正14年に発足、吉川村(妙見口)から滝谷を経て地黄に至るまでの区間にバス営業を行っていた。妙見鋼索鉄道では妙見口とケーブルカー(滝谷)間の連絡確保のため、まず能勢自動車を買収し、傘下におさめることに成功した。
 一方、能勢妙見自動車は大正10年に免許を得た会社で、京都府亀岡町から湯ノ花、井手、倉垣、地黄を経て滝谷、吉川に至る路線にバスを走らせていた。当社と妙見鋼索鉄道は二社合同で大正15年1月能勢妙見自動車を買収して、傘下においた。
 このように能勢妙見自動車ともに傘下に入ったが、この両社は路線が重複していたので、昭和5年1月29日両社合併の契約を締結し、能勢妙見自動車株式会社を存続会社とし、能勢自動車株式会社を解散することにした。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.55,56
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更に1930年4月10日、能勢電鉄は池田能勢妙見自動車を買収しました。
池田能勢妙見自動車は阪急池田駅から余野を経て妙見山上に至るバス路線を運営した会社です。
乗り換え無しで能勢妙見宮まで行ける利便性の高さに加え、能勢電鉄を使うよりも運賃が安いという魅力に参詣客は惹かれていきました。

この事は能勢電鉄・妙見鋼索鉄道にとって死活問題であり、脅威を取り除くべく池田能勢妙見自動車を買収しようと画策するも不調に終わりました。
そこで能勢電鉄は阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)に窮状を訴え、同社傘下の阪神合同バス(現:阪急バス)を介して池田能勢妙見自動車の株式を買収してもらう事にしたのです。
そして阪神合同バスから経営権を譲り受け、能勢電鉄は池田能勢妙見自動車を手中に収める事が出来たという訳ですね。

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 池田能勢妙見自動車株式会社の買収は、これとはやや事情を異にするが、さらに重要な意味を持つものであった。
 大正14年7月以来、沿線の開発と能勢妙見宮参拝客の利便をはかるため池田町新町から妙見山の東側山麓にあたる東能勢村余野に至るバス営業を池田能勢妙見自動車が行っていた。
 同社が自費1万2,270円を投じて余野から妙見山上への府道拡張工事を完成、妙見山まで路線延長の免許を受けて、昭和4年12月阪神急行電鉄池田駅前から妙見山上までバスの直通運転を開始した。
 フォードの新型乗合自動車で山上まで約13kmの距離を15分間隔で運転、しかも運賃は当社線を利用するより2銭安い90銭で競争した。
 このことは当社と妙見鋼索鉄道にとって大変な脅威であった。電車、バス、ケーブルカーと乗り継ぐのは変化があって楽しいということはあっても、バスに乗ればそのまま山頂へ着く便利さに参詣客がひかれるのは当然であった。おまけに運賃が安いのだから、この新しいバス路線は好評を博した。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.56,57
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戦前における能勢電鉄グループ各社の社章
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.57より引用

買収を重ねる事で妙見山周辺の公共交通機関を独占した能勢電鉄グループですが、裏腹に収入は旅客・貨物とも右肩下がりを続けていました。
特に貨物収入は日本麦酒鉱泉㈱平野工場の西宮移転に伴い著しく減少し、1930年には最盛期の10分の1にも満たない水準にまで落ち込みました。
遂には株主への配当金も無配にせざるを得なくなり、この苦境を打開しようと新線建設による増収増益を狙います。
その中で妙見線と妙見鋼索鉄道のアクセスを改善するべく、吉川~黒川間に線路を敷く計画を立てましたが、世界恐慌もあって実現には至りませんでした。

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 業績を向上させるためには新線の建設が必要であり、大正13年4月に施工認可申請を出した川西~伊丹間の延長工事、大正14年8月に営業を開始した妙見ケーブルに連絡するための吉川~黒川間延長工事、その他川西町の人口の急増に対応して能勢口~滝山間の複線化工事など、計画はいろいろと立てられ、準備も進められたが、昭和初期の世界的な不況期に遭遇しては、いずれも残念ながら実現できなかった。特に伊丹への延長路線は、もし実現していれば当社線の価値が倍加すること間違いなしと目されていただけに惜しまれる。この頃資金面では、バス会社の買収や妙見鋼索鉄道株式会社への莫大な投資で窮迫をきたし、一方借入金の返済も迫ってきたため、資金繰りが苦しかった。金融大恐慌の時代でもあり、銀行からの融資はとうていおぼつかなかった。このため昭和2年4月15日臨時株主総会を開いて50万円を増資して総資本金を200万円に増資したが、新株式1万株は全部阪神急行電鉄に引き受けてもらった。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.61
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能勢電鉄グループの経営が逼迫する中、1937年7月7日に北京で盧溝橋事件が勃発。
ここに日中戦争の火蓋が切られ、政府は翌1938年4月1日に国家総動員法を公布しました。
この国家総動員法に基づき、1939年10月20日には電力調整令を施行して電力消費を厳しく規制するようにもなりました。
電力調整令は能勢電鉄にも重くのしかかり、列車数の削減、運転間隔の延長、初電・終電の時刻変更などを余儀なくされました。

その後は鉄道施設の保全に必要な資材の入手も困難となるどころか、在庫品を軍需物資として供出させられるはめに。
妙見鋼索鉄道に至っては不要不急線に指定され、1944年2月10日を以って廃業。
鋼索線の資材を泣く泣く撤収し、会社も翌1945年4月1日付で正式に解散しています。

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 緒戦は日本陸海軍の連戦連勝で破竹の勢いであった戦局も、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦あたりから、連合軍の反撃が目立つようになった。連合軍側の圧倒的物量に対抗するため政府は戦争に直結しない施設の金属類の徴発を命じた。学校の銅像、階段の手すり、お寺の鐘まではずして供出したのもこの頃である。
 妙見鋼索鉄道のケーブルカーも昭和19年2月10日をもって運転を中止し、資材を撤収して供出することになった。撤去された資材はそのまま近くの用地に山積みにされて、終戦以後も風雨にさらされて赤錆の山を見せ、関係者の胸を長く痛めさせたのである。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.66,67
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戦後に復活を遂げた妙見山のケーブルカー
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.104より引用

終戦後の1956年には神武景気が到来し、この流れに乗って阪急電鉄も十三~梅田間で国内私鉄としては初の三複線化工事を施工しました。
関西の鉄道業界で設備投資が相次ぐ中、能勢電鉄は相変わらず苦しい経営状況が続いていました。
慢性的な窮状を打開するべく増収策を検討し、その中で妙見山のケーブルカーを復活させる案が持ち上がりました。
戦前のように頂上までケーブルカーが走れば妙見宮への参詣客が増え、必然的に妙見線の乗客も増加するだろうと期待したのです。

なお、このプランを立てるより前、能勢電鉄は鋼索線の敷設免許を取得していました。
これは旧ケーブル関係者が戦後まもなく設立した能勢妙見鋼索鉄道が、1949年8月に鉄道企業整備善後措置組合から土地・物件を買い戻し、その上で1950年5月18日に取得した免許でした。
しかし資金調達の目途が立たず、1952年4月4日付で能勢電鉄に免許を譲渡したという訳です。

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 このケーブルを再建しようという計画は関係者の間で戦後まもなく持ち上がっていた。能勢妙見鋼索鉄道株式会社が再び設立され、24年8月鉄道企業整備善後措置組合から土地・物件を33万6,628円で買いもどし、ケーブル再建のための敷設免許の認可を25年5月に得た。しかし当時の金で約2,000万円の建設費の資金調達の目途がつかぬまま、27年4月当社へ敷設免許権が譲渡された。
 当社としても直ちにケーブル建設に着手する余裕などなかったので、工事施工許可申請の延期を8回にわたり運輸省にお願いしたが、あまりに長期にわたるために運輸省より免許取消しの決断を迫られたが、34年に阪急電鉄の応援を得て資本金を4,800万円に倍額増資(阪急の持株割合は45%となる)するとともに阪急電鉄からの借入れ2,600万円、総額5,000万円の資金を調達し、33年5月工事施工認可申請を提出、34年9月認可を得て着工に踏み切ったのである。
 
《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.83
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チェアリフトに置き換えられた上部線
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.105より引用

戦前の妙見鋼索鉄道は「下部線」と「上部線」に分かれていましたが、此度の再建では下部線のみケーブルカーとして復活し、上部線は建設工費などの都合から索道に置き換えています。
この索道はスキー場によくあるタイプのチェアリフトで、1台につき1人分としています。

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 上部線・下部線に分けたのは戦前と同様であるが、建設工費その他を勘案して上部線はリフトに変更した。下部線のケーブルカーの巻上機械装置などは戦前のものを再使用したが、モーターなど電気系統の機械装置は全部新しく購入しなければならなかった。
 
(中略)

 引き続いて、ケーブル山上駅から200mの地点を起点として山頂まで573mのリフトの建設工事に着手、総工費1,200万円を投じて完成、35年8月27日より営業を開始した。運賃は片道30円、往復50円。単線循環固定式で搬器が全部で146個取り付けてあり、約10分で山頂の妙見宮の下に到着する。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.p.83,84
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「妙見ケーブル」開通祝賀会の記念写真
能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.24より引用

そして1960年4月22日、鋼索線(黒川~山上間623m)が営業を開始。
復活したケーブルカーは「妙見ケーブル」と名付けました。
同年8月27日には索道線(郷土館前~妙見山間573m)も営業を開始し、こちらは「妙見リフト」と名付けています。
ところが能勢電鉄の期待に反して乗客は少なく、毎年赤字を垂れ流す不採算路線を抱えるはめになってしまいました。
同時期に開始した新事業、具体的には造園業、建具・組立ハウスの製造販売、クリーニングの代理業なども上手くいかなかったそうです。

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 このように妙見宮参詣が便利になったことで、少なくとも戦前並みの参詣客がくることを期待したのであるが、予想に反してケーブル、リフトの利用者は少なく、戦前のケーブル利用者の1/3~1/2に過ぎなかった。当社としては少なからぬ設備投資を行ったのであるが、最大のねらいであった乗客誘致にはさほどつながらない結果になっている。
 これは阪急池田駅から山頂へ直行する阪急バスがあることと、妙見宮に帰依する信者の絶対数が戦後少なくなったことに起因するものと見られる。
 採算的にもケーブル、リフトの運行は毎年赤字である。能勢地方の観光施設、レクリエーション設備としてたいへん喜ばれているのは事実であるが、当初の目的が達成されなかったことは否定できない。

《出典》
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.84
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1988年10月当時の能勢電鉄組織図
能勢電鉄株式会社(1991)『能勢電鉄80年史』p.281より引用

妙見ケーブル・妙見リフトの運営を担当する部署として「妙見営業所」も開設。
元々は鉄道部長の直轄だった妙見営業所ですが、1970年6月1日の組織改正で鉄道部が廃止となったため、以降は運輸部長の配下に置かれています。



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1998年10月当時の能勢電鉄組織図
能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.93より引用

妙見営業所は1993年7月1日付で「妙見事業課」に昇格。
1995年2月13日、運輸部営業課に「妙見事業係」を新設すると共に、妙見事業課を「妙見管理課」に改組しました。



妙見の森ケーブルa12
1999年7月当時の能勢電鉄組織図
能勢電鉄株式会社(2008)『能勢電鉄100年史』p.93より引用

1999年7月1日、運輸部と技術部施設課・電気課を統合し「鉄道事業部」が発足。
同時に課制を廃止してグループ制に移行しました。
鉄道事業部においては運輸営業グループ・運輸車両グループ・施設グループの3部門を抱え、このうち運輸営業グループに妙見ケーブル・妙見リフトの業務を統合したようです。



妙見の森ケーブルa13

これに伴い各施設の名称を以下の通り変更しています。

妙見ケーブル
→ 妙見の森ケーブル

妙見リフト
→ 妙見の森リフト

妙見山クッキングセンター
→ 妙見の森バーベキューテラス

妙見の水広場
→ 妙見の森ふれあい広場

妙見の水広場前(リフト停留所)
→ ふれあい広場(リフト停留所)

また、黒川駅の駅舎外装をレトロ調に改装したり、バーベキューテラスにテーブル席を新設するなどのリニューアルを実施。
行楽客が快適に過ごせるような魅力作りに取り組んでいます。



妙見の森ケーブルa14

しかし妙見の森は厳しい経営状況が続き、2023年6月23日に鉄道事業廃止届を提出。
当初は2024年6月24日の廃止予定でしたが、公衆の利便を阻害する恐れがない事から廃止日を繰り上げ、2023年12月4日付での廃止に至りました。


私も去る11月23日、札幌から妙見の森ケーブルを見納めに行ってきました。




※写真は特記を除き2023年11月23日撮影
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最終更新日 : 2023-12-26

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