タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-12-12 (Tue) 21:33

加太線二里ヶ浜駅 西脇小学校の全児童が描いた壁画

二里ヶ浜駅a01

和歌山県は和歌山市西庄1017-3(旧:海草郡西脇野村大字西庄)にある、南海電気鉄道の二里ヶ浜(にりがはま)駅。
駅名は紀州藩の地誌『紀伊続風土記』に書かれた「二里ノ浜」に由来します。
この海岸は文字通り「2里(=約8km)」の長さで、紀の川河口から磯ノ浦まで伸びていました。
1940年12月より住友金属工業㈱和歌山製鉄所の建設工事が始まると、砂浜の大半が埋め立てられてしまったので西端の磯ノ浦が現存するのみとなっています。
和歌山製鉄所は1942年4月11日に操業を開始し、現在は日本製鉄㈱関西製鉄所和歌山地区として石油掘削・天然ガス開発用のシームレス鋼管をはじめ、建設用のH形鋼・ハイパービーム、土木・港湾工事用の鋼矢板などを製造しています。

駅舎は開業当初から健在の木造モルタル建築です。
二里ヶ浜駅前には西脇小学校があり、約350名の児童が在籍しています。
また、駅から約400m西方には西脇漁港があり、水揚げしたシラスの釜揚げ・ちりめん加工が盛んに行なわれています。
他にアオリイカ、アジ、イワシ、サバ、タコ等が獲れるとのこと。
かつては釣りの名所として知られましたが、釣り人によるマナー違反が多く漁業関係者とのトラブルが頻発したため、2019年頃から部外者の堤防への立入を禁止しているそうです。


南海電車 南海電鉄 加太軽便鉄道 JR西日本 近鉄
二里ヶ浜駅a02

ここからは二里ヶ浜駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
南海加太線の前身は加太軽便鉄道㈱で、海草郡木本村(現:和歌山市木ノ本)出身の政治家・垣内太郎をはじめとする7名が音頭を取って1911年1月10日に設立しました。
当時の加太港は関西と淡路・四国方面を結ぶ重要な交通拠点。
加えて安産祈願・万病平癒のご利益がある淡嶋神社が所在し、深山重砲連隊も設置された事から旅人や貨物が頻繁に出入りしていました。
そこで垣内氏らは陸海の連絡輸送を強化するべく、簡易な設備かつ1回の免許手続きで済む軽便鉄道の敷設を目指したのです。
ちなみに発起人7名のうち木本主一郎は政友会系の県会議員で、加太軽便の開業後は阪和電気鉄道(現:JR阪和線)の設立にも尽力しています。

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 日清戦争(1894~95)後にも、和歌山県海草郡野崎村大字北島を起点とし、同郡加太町に至る鉄道路線を敷設する計画があったが、実現はしなかった。和歌山県名草郡の松本利左衛門ほか6名が、明治29年1月に「加太鉄道株式会社鉄道敷設申請書」を提出した。しかし、その当時の通信省では、この路線の必要性を認めない、として却下したのであった。
 その後、明治42年(1909)10月28日付で、海草郡木本村の垣内太郎ほか6名がほぼ同じ区間の鉄道敷設願を提出したのが、そもそもの発端である。
 ところが、先述の軽便鉄道法が制定されたために、43年8月4日付で、軽便鉄道として免許申請を出し直したのであった。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.182,183
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二里ヶ浜駅a03

加太軽便鉄道は満を持して1912年6月16日、和歌山北口~加太間を新規開業。
二里ヶ浜駅も同日付で開設されました。
今でこそ見られなくなりましたが、二里ヶ浜駅は西脇漁港で水揚げした鮮魚や干物を運ぶ行商の利用が多かったそうです。

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 休日に限らず、朝の早いのも加太線の特徴。難波方面への通勤客は朝6時すぎから続々と乗り始めるし、加太発の初発列車には、きまって魚介類や干物を背にした行商のおばさんたち。反対に早朝加太駅に到着する電車には、多い日で50人をこえる釣り客が駅を利用する。
 駅の開業は明治45年6月16日、1日乗降客数は1,379人。

《出典》
南海電気鉄道株式会社総務部広報課(1980)『南海の駅/「すてんしょ」からCITYまで』p.39
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二里ヶ浜駅a04

加太軽便鉄道は1914年9月23日、北島(旧:和歌山口)~和歌山口(現:和歌山市駅北側)間を延伸開業。
全線開通と共に南海和歌山市駅との連絡を果たしました。

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 加太軽便は、大正2年(1913)1月20日付で、南海鉄道和歌山市駅への線路延長を願い出ている。
 開業以来の宿願であっただけに、加太軽便はこのとき、10万円を増資して紀ノ川に橋梁を架設したのであった。出願直後、地元の和歌山県知事が総理大臣あてに副申書を提出し、バックアップをしている。

加太軽便鉄道線路延長免許申請につき意見副申

 今回県下海草郡野崎村大字北島より南海鉄道株式会社和歌山市停車場に至る線路延長免許の義、加太軽便鉄道株式会社より出願候ところ、右は旅客貨物の運送及び産業振興のため最も必要なる計画と認められ候。右線路延長起点たる北島と和歌山市駅とは、わずかに半マイル(0.8キロ)の距離を隔つれども、その間紀ノ川の介在するありて、運輸交通上の不便尠なからず。
 ついては、早く已てに、同線敷設免許申請の際、同川に架橋して和歌山市駅まで延長し、もって、関西(ママ)、南海の両鉄道及び和歌山水力電気軌道と連結し、本線敷設の目的を十分に達せしめんとの希望を有し候えども、同会社創立当時の資本をもってしては、到底、この挙に出ずることあたわず。
 よって、他日営業成績良好にして、これが企画に堪えうるの時を待ちおり候次第にこれあり候。
 爾来、営業の成績良好にして、今回10万円の増額をなし、架橋延長の資に充て、もって、従来の不備を完成せんと欲し、この出願を見るに至りたるものにして最も機宜適したるものと存じ候。
 この計画にして、実現せられんか、5000人(ママ)の人口を有し、淡島の人口を有し、淡島の名祠と深山重砲連隊との所在地たり、かつまた、大阪・徳島・淡路および県下の諸港と連絡する要津たる加太町は和歌山市と直接の交通を開くべく、面してまた、同時に前記の諸線と相連絡し、交通機関の改善を見るに至るねく候。
 ついては、右すみやかに、ご許可あいなりたく、この段意見副申書類進達候なり。
大正2年2月15日
和歌山県知事 川村竹治
内閣総理大臣公爵 桂 太郎 殿

 この副申書からもわかるとおり、加太は、本州と四国、淡路をむすぶ連絡港としての役割をもっていた。また深山に重砲連隊が設置されてから、軍事上もきわめて大きな意味を持つようになったのである。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.184,185
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二里ヶ浜駅a05

南海鉄道との連絡運輸を開始した事で、加太軽便鉄道は貨物輸送が増大しました。
更には観光鉄道への発展も期待されたといいます。
そこで輸送力を増強するべく1930年12月1日、加太軽便鉄道は全区間の直流電化を敢行。
これに伴い同年12月22日には社名を加太電気鉄道㈱に改めています。

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 つぎに、前掲3者の動向を簡単に見ておくと、加太軽便鉄道は、明治45年6月、紀ノ川西岸の和歌山口と加太間を開通させ、紀ノ川鉄橋の竣工をまって大正3年9月、創業以来の念願であった和歌山市駅にまで及んだ。軽便鉄道は一般に沿線地域社会の零細な資金をもとに建設させることが多く、同県下の場合も例外ではないが、加太軽便鉄道の発起人をみると、地方政治家と商業資本家の結びつきが強かったようである。
 それはともかく、同社は南海鉄道との連絡運輸開始以来、商品輸送が増大し、また観光鉄道としての発展を期することになった。昭和5年に電化工事をして加太電気鉄道と改称し、17年2月に南海鉄道に合併された。

《出典》
武知京三・宇田正(1985)「和歌山における交通の発達」、『南海沿線百年誌』(南海電気鉄道株式会社)p.p.408,409
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二里ヶ浜駅a06

1937年7月7日、北京で盧溝橋事件が勃発。
ここに日中戦争の火蓋が切られ、政府は翌1938年4月1日に国家総動員法を公布しました。
更に政府は1940年1月31日、国家総動員法第8条に基づき陸運統制令を公布。
すると全国各地で鉄道会社・バス会社の戦時統合が起こりました。
加太軽便鉄道については1942年2月1日、南海鉄道に吸収合併されて「加太線」となりました。
その南海鉄道も1944年6月1日、政府の要請に従い関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道に転じています。
加太線を含む旧南海鉄道線は近鉄難波営業局の管轄に入りました。

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 戦局は、日一日悪化していく中に、南海鉄道と関西急行鉄道との合併が、当局の要請によって行われた。
 昭和19年3月3日、両者の合併契約が成立した。同月23日、南海会館別館において臨時株主総会を開催、関西急行鉄道との合併契約書を承認可決した。
 合併条件の主な内容は、次のとおりである。

一、関西急行鉄道及び南海鉄道は、合併によって会社を解散し、各社から1名ずつ設立委員を選出して、近畿日本鉄道㈱〔資本金2億2147万円〕を設立する。
二、新会社は、関西急行鉄道、南海鉄道の最終株主に対し、持株一株につき同額払込み済みの株式一株を交付する。
三、合併実行日における両社最終株主に対して、昭和19年4月から5月まで、年九分の割合による交付金を支払う。
四、従業員の給与は低下しないで、新会社に引き継ぐ。
五、両社は各自役職員に対する退職慰労金、解散手当等を控除した一切の権利義務を、新会社に引き継ぐ。

 設立委員に関西急行鉄道種田虎雄社長、南海鉄道寺田甚吉社長を選任、設立事務を進め6月1日、大阪商工経済会会堂で創立総会を開催、近畿日本鉄道が誕生し、同日新発足した。
 この合併によって「南海」の名は消失した。当社にとっては過去にいくつかの会社を吸収合併してきたが、明治18年の会社創立以来、約60年の長期にわたり繁栄を続けてきた「南海鉄道」の解散は経営陣はもとより、一般従業員まで納得のいかないことであった。すなわち、南海鉄道社員にとっては、会社の歴史および現状を無視したものとして根強い反対があった。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.252,253
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駅名標
二里ヶ浜駅a35

終戦後の1947年6月1日、近鉄から旧南海鉄道に属した鉄軌道事業・付帯事業が分離独立し、新たに南海電気鉄道㈱として発足。
一度は消失した「南海」の社名が復活しました。

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 昭和22年〔1947〕6月1日、当社は、新生の第一歩を踏み出した。敗戦の前年の19年6月1日、関西急行鉄道との合併により、近畿日本鉄道と名を改めてから満3年目の「南海」の復活である。
 合併の動機が、前章に述べたような事情だったから、復元するについても、まったく摩擦らしいものはなかった。それにしても、まことにあっ気ない分離独立であった。戦力増強の名のもとに、強引な企業合同が行われ、その成果が問われる前に戦争の終結を見たのである。
 詮じつめると、国家総力戦時代に採られた統制経済思想に基づく企業合同で、本来的な経済の合理性あるいは自律性を無視したものであった。南海鉄道の合併から分離独立までの正味3か年の経験は、そうした日本経済の流れの中で貴重な教訓を学びとることができた。改めて、経済固有の合理性を尊重、重視しなければならぬことを教えるものであった。
 しかも、新生「南海」は、関西私鉄の中でも米軍機の爆撃による戦災がもっとも甚だしく、駅舎、車両をはじめとして機械設備等の荒廃ぶりには惨たんたるものがあった。誰の目から見ても、果たして再起できるだろうか、と思われるほどの荒廃ぶりであった。このようなきびしい現実の中から、旧「南海鉄道」の規模で新生の道に入ったのである。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.274
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戦後は加太で遊ぶ行楽客の利用が増加した加太線ですが、一方で貨物輸送は徐々に翳りを見せていたようです。
南海は1954年10月1日、住友金属専用線発着を除く加太線各駅の貨物営業を廃止しました。
これに伴い二里ヶ浜駅発着の貨物列車も全廃となりました。



二里ヶ浜駅a17

1955年2月15日、加太線は線路名を「加太支線」に改称しました。
同日には松江線も「北島支線」に改称しています(1966年12月1日廃止)。
なお、加太支線は1994年頃に元通り「加太線」に改称したそうなのですが、南海電鉄の社史『南海二世紀に入って十年の歩み』(1995)にも記述が無いため詳細な日付・経緯は不明です。
1994年は空港線が開業した年なので、おそらくはそのタイミングに合わせて改称したものと思われます。

1972年7月1日、加太支線のCTC化工事が完成。
これに伴い単線自動信号化を果たしたため、従前のタブレット閉塞器は御役御免となりました。
その後、南海電鉄社内で列車運行管理の全面自動化、拠点集約による省力化を為そうという機運が高まり、1980年9月1日に南海線PTC(列車運行管理システム)の運用を開始しています。
この南海線PTCはCTCと連動しており、加太支線のCTCもカバーしています。

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 高野線単線区間や加太支線などで早くから設置されたCTC〔列車集中制御装置〕は、列車運行を集中監視制御することにより列車運転取り扱いの能率化に貢献してきた。しかし列車運行管理を全面的に自動化して関係業務の近代化と省力化を図ろうという機運が高まり、昭和49年4月、南海線および高野線にPTC〔列車集中制御装置〕を導入し、システム設計に入ることが決定された。プロジェクトチームにより最適なシステムの確立をめざして、多方面から検討が重ねられ、その結果をもとに51年5月、まず南海線にPTCを導入することが決定された。4年余にわたる施工期間を経て、55年9月から使用開始した。これにより、今まで主要駅に分散していた列車運行管理業務は、南海線全域にわたって一元化され、輸送の効率化にも一役かっている。PTCセンターの運転司令室には、列車位置、列車番号、信号機の状態などを表示する列車運行表示盤が設置され、列車の運行状況を集中監視している。進路の制御や案内放送・表示などは、電子計算機内に記憶されている列車ダイヤ情報にもとづき、正確に行われている。もしダイヤの乱れが発生した場合でも、列車運行表示盤によって、ただちに状況が把握できるとともに、電子計算機からは乱れを回復させる方法〔運転整理案〕を提案するので、いち早く正常なダイヤに戻すことが可能となる。また列車運行に伴う記録も自動的に作製している。
 電子計算機から駅連動装置や旅客案内機器に対する出力〔制御〕情報や、列車位置、信号機の状態など、現地からの入力〔表示〕情報の伝送は、CTCを介して行われ、その伝送路には無線〔マイクロ波〕回線が使用されている。また、電子計算機やCTCならびに伝送路は全て二重系化されており、高信頼度が確保されている。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.368,369
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二里ヶ浜駅a12

平成に入ると南海電鉄は乗客減に悩まされる事となり、2013年4月よりコストカットを図るべく駅の無人化を進めています。
2019年12月の中国・武漢での初感染を契機として、世界中に広まった新型コロナウィルス(COVID-19)の存在も無関係ではないでしょう。
コロナ禍が到来した当初は大規模な外出自粛が起こり、鉄道の旅客利用が急速に落ち込んだ事も駅無人化に拍車をかけています。
二里ヶ浜駅も2023年10月10日付で窓口を閉鎖し無人駅となりました。
現在は加太駅が管轄しており、利用者が介助を求める場合は駅員の派遣により対応しています。



二里ヶ浜駅a07

駅舎の手前には和歌山市役所が所管する駐輪場があります。
長期放置自転車の整理も市の受け持ちで、JR紀勢本線沿線の紀和駅前を保管場所に指定しています。
しかしこの立地ですから、間違って南海電車に問い合わせる人が多そうですね・・・。



二里ヶ浜駅a09

駅舎の玄関にドアは無く、入ってすぐに2基の自動改札機を設置しています。
待合室と呼べるスペースはありません。



二里ヶ浜駅a08

先述したとおり2023年10月10日を以って無人化したため、出札窓口は板で塞がれています。
南海電車は名目上、二里ヶ浜駅を「駅係員巡回強化駅」としています。
しかし鉄道業界において管理駅の駅員が無人駅を巡回し、設備点検や秩序の維持に努めるのは当然の事なので「巡回強化」もへったくれもないような気はしますね。



二里ヶ浜駅a10

旧出札窓口の脇には自動券売機が1台だけ。



二里ヶ浜駅a11

自動券売機の真向かいには窓口閉鎖を知らせる貼り紙と、加太駅事務室と通話できるインターホンがあります。



二里ヶ浜駅a13

ホーム側から改札口を眺めた様子。
ラッチ内にもインターホンを備えています。



二里ヶ浜駅a14

駅事務室の窓は軒並み塞がれています。



二里ヶ浜駅a16

二里ヶ浜駅a15

ホーム側から駅舎を眺めた様子。


駅名標 駅名板
二里ヶ浜駅a18

駅舎の軒下には鯛と青海波模様をあしらった木製の駅名板があります。
制作したのは和歌山工業高校産業デザイン科の生徒達。
深山の森林公園から切り出された杉の間伐材を加工しました。


二里ヶ浜駅構内
二里ヶ浜駅a19

二里ヶ浜駅a20

二里ヶ浜駅a21

二里ヶ浜駅a22

相対式ホーム2面2線。
全長は20m車3両分ほどで、床面の大半にコンクリートタイルを敷き詰めています。
カーブを描いていますがITVは未設置です。
駅裏側が1番線で下り列車(加太方面)、駅舎側が2番線で上り列車(和歌山市方面)が発着します。



二里ヶ浜駅a23

二里ヶ浜駅a24

ホーム西端には構内踏切があり、遮断機と警報機を完備しています。



二里ヶ浜駅a32

二里ヶ浜駅a33

構内踏切の1番線側には2棟のトイレが並びます。
見たところトイレは元々1棟だけだったらしく、後年にもう1棟を増設して男女別々に分けたようです。



二里ヶ浜駅a25

2番線ホームと駅裏の住宅地を隔てる塀には6つの壁画が描かれています。



二里ヶ浜駅a26

これらの壁画は「加太さかな線プロジェクト」の一環として、西脇小学校の全児童が制作したものです。
右端には鯛をあしらった加太さかな線のシンボルマークを描いています。



二里ヶ浜駅a27

鯛の絵から左へと順番に見ていきましょう。
2枚目は『春 入学式と河西公園の桜』。
河西公園は二里ヶ浜駅の南に広がる公園で、製鉄所の公害を遮断するために作られた緩衝緑地でもあります。



二里ヶ浜駅a28

3枚目は『夏 磯の浦のサーフィン』。
先述したとおり磯ノ浦は二里ヶ浜の西端に当たり、製鉄所の建設に伴う埋立で浜の大半が消滅した後も往時の姿を留めています。
夏は海水浴場として賑わいます。



二里ヶ浜駅a29

4枚目は『秋 運動会と「めでたいでんしゃ」』。
西脇小学校では毎年10月に運動会を開催しており、玉入れやダンス、組体操などを披露するそうです。
小学校の真ん前にある二里ヶ浜駅の駅舎も描いています。



二里ヶ浜駅a30

5枚目は『冬 射箭頭八幡神社の初詣』。
射箭頭八幡神社は二里ヶ浜駅の北西約400mに位置する神社で、祭神として応神天皇、息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト/神功皇后)、日本武命(ヤマトタケル)を祀っています。
社号の射箭頭は「いやと」と読み、神功皇后が三韓より帰国され加太浦に御着船の際、御弓を携えて射られた「かぶら矢」に由来するそうです。



二里ヶ浜駅a31

最後に6枚目。
射箭頭八幡神社に安産祈願の御利益がある事から、安産の象徴であるタツノオトシゴを描いています。



二里ヶ浜駅a34

2200系2201Fと7100系7191Fの行き違い。


※写真は全て2023年11月4日撮影
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最終更新日 : 2023-12-12

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