タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-12-03 (Sun) 23:54

加太線加太駅[1] 瀬戸内海の入口にして関西屈指の好漁場

加太駅a01

和歌山県は和歌山市加太1038-1(旧:海草郡加太町大字加太)にある、南海電気鉄道の加太(かだ)駅。
1958年7月1日の編入合併まで存在した自治体・加太町の代表駅でした。
当地は瀬戸内海の入口「紀淡海峡」の沿岸で、古来より畿内と淡路島・四国・九州を結ぶ交通の要衝として栄えました。
景勝地としても名高く、万葉集で「潟見の浦」と詠まれた事が地名の由来だといいます。
製塩が盛んな土地柄でもあったといい、奈良の平城京に塩を納めたほか、製塩用の燃料となる薪を切り出した塩木山(塩山とも呼ばれる)も200町に及びました。

そして今なお続く主産業といえば何と言っても漁業!
加太の漁業は縄文時代に始まり、最盛期の江戸時代後半には遠く離れた房総半島沖まで漁船が出向いていたそうです。
ただしこのような遠方での操業ばかりだった訳ではなく、前浜たる紀淡海峡が「関西屈指の好漁場」と名高い環境なんですね。
特に鯛の一本釣りが有名で、春は太平洋から産卵に来る「ノボリ鯛」、秋は瀬戸内海から太平洋へ下る「落ち鯛」、冬は脂肪を蓄えた「越冬鯛」が集まるため、年間を通し鯛が豊富に獲れます。
しかも撒き餌ができないほどに潮流が速く、そこを泳ぐ事によって鯛の身が引き締まります。
ゆえに「加太の真鯛」は「明石鯛」「鳴門鯛」に並ぶ全国トップレベルのブランド鯛として高く評価されています。
他にも加太ではタコ、メバル、アジ、メイタガレイ、サザエ、アワビ、イセエビ等の海産物が水揚げされており、天然ワカメにも恵まれています。


木造駅舎 有人駅 直営駅 JR西日本 南海 近鉄
加太駅a02

ここからは加太駅の大まかな歴史を見ていきましょう。
南海加太線の前身は加太軽便鉄道㈱で、海草郡木本村(現:和歌山市木ノ本)出身の政治家・垣内太郎をはじめとする7名が音頭を取って1911年1月10日に設立しました。
当時の加太港は関西と淡路・四国方面を結ぶ重要な交通拠点。
加えて安産祈願・万病平癒のご利益がある淡嶋神社が所在し、深山重砲連隊も設置された事から旅人や貨物が頻繁に出入りしていました。
そこで垣内氏らは陸海の連絡輸送を強化するべく、簡易な設備かつ1回の免許手続きで済む軽便鉄道の敷設を目指したのです。
ちなみに発起人7名のうち木本主一郎は政友会系の県会議員で、加太軽便の開業後は阪和電気鉄道(現:JR阪和線)の設立にも尽力しています。

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 日清戦争(1894~95)後にも、和歌山県海草郡野崎村大字北島を起点とし、同郡加太町に至る鉄道路線を敷設する計画があったが、実現はしなかった。和歌山県名草郡の松本利左衛門ほか6名が、明治29年1月に「加太鉄道株式会社鉄道敷設申請書」を提出した。しかし、その当時の通信省では、この路線の必要性を認めない、として却下したのであった。
 その後、明治42年(1909)10月28日付で、海草郡木本村の垣内太郎ほか6名がほぼ同じ区間の鉄道敷設願を提出したのが、そもそもの発端である。
 ところが、先述の軽便鉄道法が制定されたために、43年8月4日付で、軽便鉄道として免許申請を出し直したのであった。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.182,183
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木造駅舎 有人駅 直営駅
加太駅a03

加太軽便鉄道は満を持して1912年6月16日、和歌山北口~加太間を新規開業。
終点・加太駅の南北には第4師団深山重砲兵連隊の砲台が点在しており、軍需輸送を取り扱う事から一般旅客による駅の撮影を厳しく取り締まりました。
駅自体も機密保持の観点から市街地の外れに置かれ、軍関係者の乗降も多いため構内には重々しい雰囲気が漂っていたようです。

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 加太軽便鉄道が開通したのは明治45年。軍の機密保持のたてまえから、あえて駅を加太の町はずれに建てたという。一説には当時、和歌山市と加太間を走っていた人力車の組合が反対したためという話もある。戦時中は要さい守備隊、野戦重砲部隊が駐屯し、加太駅には砲弾、米、衣料品などの軍需物資をはじめ、兵員の輸送も多く、兵士が移動するごとに駅員が直立不動で見送った。大砲の演習が行われると、その衝撃で駅のガラスが割れ、駅前で写真でもとろうものなら、すぐ憲兵がとんできて連行される。列車が遅れると駅長が大目玉をくった。

《出典》
南海電気鉄道株式会社総務部広報課(1980)『南海の駅/「すてんしょ」からCITYまで』p.40
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木造駅舎 有人駅 直営駅
加太駅a04

加太軽便鉄道は1914年9月23日、北島(旧:和歌山口)~和歌山口(現:和歌山市駅北側)間を延伸開業。
全線開通と共に南海和歌山市駅との連絡を果たしました。

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 加太軽便は、大正2年(1913)1月20日付で、南海鉄道和歌山市駅への線路延長を願い出ている。
 開業以来の宿願であっただけに、加太軽便はこのとき、10万円を増資して紀ノ川に橋梁を架設したのであった。出願直後、地元の和歌山県知事が総理大臣あてに副申書を提出し、バックアップをしている。

加太軽便鉄道線路延長免許申請につき意見副申

 今回県下海草郡野崎村大字北島より南海鉄道株式会社和歌山市停車場に至る線路延長免許の義、加太軽便鉄道株式会社より出願候ところ、右は旅客貨物の運送及び産業振興のため最も必要なる計画と認められ候。右線路延長起点たる北島と和歌山市駅とは、わずかに半マイル(0.8キロ)の距離を隔つれども、その間紀ノ川の介在するありて、運輸交通上の不便尠なからず。
 ついては、早く已てに、同線敷設免許申請の際、同川に架橋して和歌山市駅まで延長し、もって、関西(ママ)、南海の両鉄道及び和歌山水力電気軌道と連結し、本線敷設の目的を十分に達せしめんとの希望を有し候えども、同会社創立当時の資本をもってしては、到底、この挙に出ずることあたわず。
 よって、他日営業成績良好にして、これが企画に堪えうるの時を待ちおり候次第にこれあり候。
 爾来、営業の成績良好にして、今回10万円の増額をなし、架橋延長の資に充て、もって、従来の不備を完成せんと欲し、この出願を見るに至りたるものにして最も機宜適したるものと存じ候。
 この計画にして、実現せられんか、5000人(ママ)の人口を有し、淡島の人口を有し、淡島の名祠と深山重砲連隊との所在地たり、かつまた、大阪・徳島・淡路および県下の諸港と連絡する要津たる加太町は和歌山市と直接の交通を開くべく、面してまた、同時に前記の諸線と相連絡し、交通機関の改善を見るに至るねく候。
 ついては、右すみやかに、ご許可あいなりたく、この段意見副申書類進達候なり。
大正2年2月15日
和歌山県知事 川村竹治
内閣総理大臣公爵 桂 太郎 殿

 この副申書からもわかるとおり、加太は、本州と四国、淡路をむすぶ連絡港としての役割をもっていた。また深山に重砲連隊が設置されてから、軍事上もきわめて大きな意味を持つようになったのである。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.184,185
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加太駅a05

南海鉄道との連絡運輸を開始した事で、加太軽便鉄道は貨物輸送が増大しました。
更には観光鉄道への発展も期待されたといいます。
そこで輸送力を増強するべく1930年12月1日、加太軽便鉄道は全区間の直流電化を敢行。
これに伴い同年12月22日には社名を加太電気鉄道㈱に改めています。

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 つぎに、前掲3者の動向を簡単に見ておくと、加太軽便鉄道は、明治45年6月、紀ノ川西岸の和歌山口と加太間を開通させ、紀ノ川鉄橋の竣工をまって大正3年9月、創業以来の念願であった和歌山市駅にまで及んだ。軽便鉄道は一般に沿線地域社会の零細な資金をもとに建設させることが多く、同県下の場合も例外ではないが、加太軽便鉄道の発起人をみると、地方政治家と商業資本家の結びつきが強かったようである。
 それはともかく、同社は南海鉄道との連絡運輸開始以来、商品輸送が増大し、また観光鉄道としての発展を期することになった。昭和5年に電化工事をして加太電気鉄道と改称し、17年2月に南海鉄道に合併された。

《出典》
武知京三・宇田正(1985)「和歌山における交通の発達」、『南海沿線百年誌』(南海電気鉄道株式会社)p.p.408,409
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加太駅a06

1937年7月7日、北京で盧溝橋事件が勃発。
ここに日中戦争の火蓋が切られ、政府は翌1938年4月1日に国家総動員法を公布しました。
更に政府は1940年1月31日、国家総動員法第8条に基づき陸運統制令を公布。
すると全国各地で鉄道会社・バス会社の戦時統合が起こりました。
加太軽便鉄道については1942年2月1日、南海鉄道に吸収合併されて「加太線」となりました。
その南海鉄道も1944年6月1日、政府の要請に従い関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道に転じています。
加太線を含む旧南海鉄道線は近鉄難波営業局の管轄に入りました。

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 戦局は、日一日悪化していく中に、南海鉄道と関西急行鉄道との合併が、当局の要請によって行われた。
 昭和19年3月3日、両者の合併契約が成立した。同月23日、南海会館別館において臨時株主総会を開催、関西急行鉄道との合併契約書を承認可決した。
 合併条件の主な内容は、次のとおりである。

一、関西急行鉄道及び南海鉄道は、合併によって会社を解散し、各社から1名ずつ設立委員を選出して、近畿日本鉄道㈱〔資本金2億2147万円〕を設立する。
二、新会社は、関西急行鉄道、南海鉄道の最終株主に対し、持株一株につき同額払込み済みの株式一株を交付する。
三、合併実行日における両社最終株主に対して、昭和19年4月から5月まで、年九分の割合による交付金を支払う。
四、従業員の給与は低下しないで、新会社に引き継ぐ。
五、両社は各自役職員に対する退職慰労金、解散手当等を控除した一切の権利義務を、新会社に引き継ぐ。

 設立委員に関西急行鉄道種田虎雄社長、南海鉄道寺田甚吉社長を選任、設立事務を進め6月1日、大阪商工経済会会堂で創立総会を開催、近畿日本鉄道が誕生し、同日新発足した。
 この合併によって「南海」の名は消失した。当社にとっては過去にいくつかの会社を吸収合併してきたが、明治18年の会社創立以来、約60年の長期にわたり繁栄を続けてきた「南海鉄道」の解散は経営陣はもとより、一般従業員まで納得のいかないことであった。すなわち、南海鉄道社員にとっては、会社の歴史および現状を無視したものとして根強い反対があった。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.252,253
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加太駅a07

終戦後の1947年6月1日、近鉄から旧南海鉄道に属した鉄軌道事業・付帯事業が分離独立し、新たに南海電気鉄道㈱として発足。
一度は消失した「南海」の社名が復活しました。

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 昭和22年〔1947〕6月1日、当社は、新生の第一歩を踏み出した。敗戦の前年の19年6月1日、関西急行鉄道との合併により、近畿日本鉄道と名を改めてから満3年目の「南海」の復活である。
 合併の動機が、前章に述べたような事情だったから、復元するについても、まったく摩擦らしいものはなかった。それにしても、まことにあっ気ない分離独立であった。戦力増強の名のもとに、強引な企業合同が行われ、その成果が問われる前に戦争の終結を見たのである。
 詮じつめると、国家総力戦時代に採られた統制経済思想に基づく企業合同で、本来的な経済の合理性あるいは自律性を無視したものであった。南海鉄道の合併から分離独立までの正味3か年の経験は、そうした日本経済の流れの中で貴重な教訓を学びとることができた。改めて、経済固有の合理性を尊重、重視しなければならぬことを教えるものであった。
 しかも、新生「南海」は、関西私鉄の中でも米軍機の爆撃による戦災がもっとも甚だしく、駅舎、車両をはじめとして機械設備等の荒廃ぶりには惨たんたるものがあった。誰の目から見ても、果たして再起できるだろうか、と思われるほどの荒廃ぶりであった。このようなきびしい現実の中から、旧「南海鉄道」の規模で新生の道に入ったのである。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.274
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加太駅a08

終戦によって深山重砲連隊が解散し、加太は重々しい「要塞の町」から「レジャースポット」へと変貌を遂げていきました。
海水浴場や加太国民休暇村(現:休暇村紀州加太)が開設され、その最寄駅たる加太駅も多くの観光客が利用しました。
ちなみに南海電鉄によると加太駅の1日乗降客数は2022年で587人でしたが、1980年当時は何と6倍近い3,477人を記録!
この数字からも昭和の頃、加太が行楽地として如何に賑わっていたかが窺えますね。

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 終戦によりベールを脱いだ加太の町は、対岸に浮かぶ友ヶ島、海水浴場、加太国民休暇村の開設などにより、駅の人出も日曜祝日が平日の2倍、年間のきっぷ発売による収入も、定期外収入が定期収入の10倍をこえる。自然公園法制定50周年に当る56年には第23回自然公園大会が加太国民休暇村を中心に開催されることになっており、自然指向の新しいレジャー地として、その地歩を固めつつある。
 駅の開業は明治45年6月16日、1日乗降客数は3,477人。

《出典》
南海電気鉄道株式会社総務部広報課(1980)『南海の駅/「すてんしょ」からCITYまで』p.40
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一方、貨物輸送については徐々に翳りを見せていたようです。
南海は1954年10月1日、住友金属専用線発着を除く加太線各駅の貨物営業を廃止しました。
これに伴い加太駅発着の貨物列車は全廃となりました。



加太駅a09

1955年2月15日、加太線は線路名を「加太支線」に改称しました。
同日には松江線も「北島支線」に改称しています(1966年12月1日廃止)。
なお、加太支線は1994年頃に元通り「加太線」に改称したそうなのですが、南海電鉄の社史『南海二世紀に入って十年の歩み』(1995)にも記述が無いため詳細な日付・経緯は不明です。
1994年は空港線が開業した年なので、おそらくはそのタイミングに合わせて改称したものと思われます。

1972年7月1日、加太支線のCTC化工事が完成。
これに伴い単線自動信号化を果たしたため、従前のタブレット閉塞器は御役御免となりました。
その後、南海電鉄社内で列車運行管理の全面自動化、拠点集約による省力化を為そうという機運が高まり、1980年9月1日に南海線PTC(列車運行管理システム)の運用を開始しています。
この南海線PTCはCTCと連動しており、加太支線のCTCもカバーしています。

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 高野線単線区間や加太支線などで早くから設置されたCTC〔列車集中制御装置〕は、列車運行を集中監視制御することにより列車運転取り扱いの能率化に貢献してきた。しかし列車運行管理を全面的に自動化して関係業務の近代化と省力化を図ろうという機運が高まり、昭和49年4月、南海線および高野線にPTC〔列車集中制御装置〕を導入し、システム設計に入ることが決定された。プロジェクトチームにより最適なシステムの確立をめざして、多方面から検討が重ねられ、その結果をもとに51年5月、まず南海線にPTCを導入することが決定された。4年余にわたる施工期間を経て、55年9月から使用開始した。これにより、今まで主要駅に分散していた列車運行管理業務は、南海線全域にわたって一元化され、輸送の効率化にも一役かっている。PTCセンターの運転司令室には、列車位置、列車番号、信号機の状態などを表示する列車運行表示盤が設置され、列車の運行状況を集中監視している。進路の制御や案内放送・表示などは、電子計算機内に記憶されている列車ダイヤ情報にもとづき、正確に行われている。もしダイヤの乱れが発生した場合でも、列車運行表示盤によって、ただちに状況が把握できるとともに、電子計算機からは乱れを回復させる方法〔運転整理案〕を提案するので、いち早く正常なダイヤに戻すことが可能となる。また列車運行に伴う記録も自動的に作製している。
 電子計算機から駅連動装置や旅客案内機器に対する出力〔制御〕情報や、列車位置、信号機の状態など、現地からの入力〔表示〕情報の伝送は、CTCを介して行われ、その伝送路には無線〔マイクロ波〕回線が使用されている。また、電子計算機やCTCならびに伝送路は全て二重系化されており、高信頼度が確保されている。

《出典》
南海電気鉄道株式会社(1985)『南海電気鉄道百年史』p.p.368,369
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木造駅舎 有人駅 直営駅
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木造駅舎 有人駅 直営駅
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駅舎は開業当初からの木造建築で、高台の南端に建っています。
県道7号線(粉河加田線)の緩やかなカーブから駅舎正面を見上げる事が出来ます。



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駅舎西隣のコンクリート建築はトイレ。
ホーム側にしか出入口がありません。



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駅舎の正面玄関は逆L字を描いています。
頭上には「加太へまたおこし下さい」との切り文字看板と共に、赤青2色の暖簾をかけています。
暖簾には2016年4月29日に運行を開始した観光列車「めでたいでんしゃ」のロゴを描いています。
この「めでたいでんしゃ」のデビューを機に、加太線には「加太さかな線」という愛称が付きました。



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玄関手前には色褪せた顔ハメ看板が1枚。



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待合室の様子。
天井が高く開放的な空間です。



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ベンチには暖簾と同じデザインの座布団を敷いています。



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出札窓口は運賃精算所とスペースを共有しており、特急券・指定券の販売にも対応しています。
終日社員配置駅かつ駅長配置駅となっており、加太線内の各駅を管轄しています。
駅員の出面は基本的に2~3名のようです。



加太駅a19

加太駅a24

自動券売機は1台のみ。
その右隣には意味深な窓枠があり、緑色の板をはめ込んでいます。
昔はここにも出札窓口あるいは旅客案内所があったのでしょうか?



加太駅a25

改札口には自動改札機を2基設置。
左端には混雑時に使う臨時改札口と思しき、青く塗られた門扉があります。



加太駅a26

改札口の頭上には色鮮やかな「めでたいでんしゃ」の大漁旗を飾っています。
この大漁旗は加太小学校の6年生(当時)が制作し、2022年3月8日に寄贈した物です。



加太駅a27

傍には大漁旗のコンセプトについて手書きの解説を貼っています。
鯛の一本釣りで有名な漁師町・加太に相応しい題材です。

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「大漁旗コンセプト」

大漁旗は、主に繋がりを表現して描きました。
繋がりは、縁結びやタイの一本釣りの人と人とのつながり加太以外の人と加太の人の繋がりなどを表現できると思ったからです。
そのため、たい電車が連結していたり加太という文字が一筆書きになっていたりします。
それ以外の友ヶ島などの加太の魅力も表現されています。
波は、躍動感と賑やかな感じを表現し、試行錯誤しました。

令和3年度 加太小学校6年A組
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改札口の真向かい、正面玄関の頭上には旅人を歓迎するメッセージを掲げています。



加太駅a29

玄関脇には和歌山を舞台にしたアニメ『サマータイムレンダ』のヒロイン・小舟潮の姿も。
「和歌山市アニメ観光大使」のたすきを掛けています。



加太駅a13

先述したとおり軍事機密保持の観点から、町の外れに建設された加太駅。
駅前市街地と繋がるのは1本の坂道だけです。



加太駅a14

この坂道の下には「めでたいでんしゃ」のカラーリングに合わせたピンクの駅名板があります。



加太駅a32

道路脇の石垣にも「めでたいでんしゃ」のイラストを描いています。



加太駅a30

ピンクの駅名板の近くでは開けっ広げな観光案内所が営業中。
まるで農地の無人販売所みたいな姿です。



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長くなったので今回はここまで。


《ブログ内関連記事リンク》
加太線加太駅[1] 瀬戸内海の入口にして関西屈指の好漁場


※写真は全て2023年11月4日撮影
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最終更新日 : 2023-12-09

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