愛媛県は伊予郡松前町大字浜にある、伊予鉄道の松前(まさき)駅。
松島市の南隣にある自治体・松前町の代表駅です。
北海道の松前町と字面こそ同じですが、あちらの読みが「まつまえ」なのに対し、愛媛の松前は「まさき」と読みます。
伊予郡松前町は瀬戸内海沿岸に位置し、全体的に山の無い平地の町です。
駅前の松前港は中世から近世にかけて「関西随一の良港」と言われたそうな(当時は中四国も関西に含めていた?)。
それが1595年、淡路島の志知城主だった加藤嘉明が1万5千石から6万石に栄転し、新たに築城した松前城に移りました。
2年後の1957年、嘉明は豊臣秀吉の命を受け約2,400人の兵を朝鮮に送る事となり、それに対応するべく松前港を軍港に整備改修しました。
木造駅舎 伊予鉄道 JR四国 京王 JR北海道 松前線
江戸時代の松前港は参勤交代に使う御座船の水主浦(かこうら)となり、更に大阪へ納品する上げ米の津出し港として賑わいました。
松前漁民は松山藩主・加藤氏から領内分での漁業操業勝手の特権を与えられ、陸揚げされた鮮魚は女性の行商達が松山方面へと運搬しました。
この行商達は御用櫃(ごろびつ)という桶に鮮魚を入れ、頭の上に載せて運ぶという特徴があり、「タタ」もしくは「オタタ」(さん付けする事が多い)と呼ばれました。
オタタさんの活動は昭和時代まで続いたそうです。
日本各地の女性行商を研究した民俗学者・瀬川清子さんは、オタタさんについて以下の通り解説しています。
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伊予郡浜村は文禄年間、各戸順番に藩主の食膳用の魚介を供した。船の操縦に練達し、朝鮮征伐の水軍に参加し、参勤交代にも藩主の御座船船頭およびカコ(水夫)として出仕したので、領内はどこでも無税無鑑札で魚獲する特権があった。したがって「男は出漁、女は行商」の原則によって、オタタさんの活動がはじまったのである。慶長年間松山城を築いたさいには、浜村の婦人たちは城壁の大小の石を御用櫃の焼印をした桶に盛って頭上運搬をした功によって、藩内いずれに行商しても一切免税の特権を与えられた。草鞋御免で土屋敷の中にまで入ることもできた。
二本さすのは士ぎりか
わしもかんざし二本さす
といって、銀のかんざしを二本さした。前帯をして裾をからげ臑当をした。
松前おたたに手をうちかけな
殿の前にも買え買えと
といって、古くは「魚買わんか、魚買え、魚買え」とよび歩いたが、明治になると、「魚お買えんか」というようになったという。
《出典》
瀬川清子(1971)『販女 女性と商業』(未来社)p.p.207,208
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そんな松前に鉄道が敷かれたのは1896年7月4日の事。
伊予鉄道郡中線の前身に当たる南予鉄道が、藤原(現:松山市)~郡中間(10.7km)を新規開業しました。
同時に地元の玄関口として松前駅を開設しています。
鉄道の開業は先述した「オタタさん」の販売活動にも変化をもたらしました。
それまで長距離を歩いて鮮魚を売りに行ったのが、列車に乗って行くようになったのです。
そして行動範囲も広がる事となり、果ては北海道、樺太、朝鮮、台湾、満州と、海を渡るようにさえなりました。
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オタタさんのことは、戦前の魚行商人を丹念に調べ上げた民俗学者、瀬川清子が著した『販女(ひさぎめ)』に詳しい。
この地域は地引網漁が盛んで、網主やそこに雇われている引き子の妻、娘たちが、魚を売り歩いた。それぞれ農村に得意先をもっていて、春ならば麦、秋ならば米に換える。これをカタゴトという。いわば、漁村と農村との物々交換である。そうやって1年分の穀物を貯えるだけでなく、その一部を売って諸々の支払いにもあてていた。かつては年末に精算するので、これを「節季じまい」という。普通は4~5里(1里=約4km)、つまりは遠いところで往復10里くらいを日帰りしていた。もちろん徒歩である。
瀬川のこの聞き書きは、昭和10年代後半の当時すでに、過去の話であった。「今は、他国の魚を市場で仕入れて売りまわっている」とある。漁師の妻が、夫のとってきた魚を近隣に売り歩く、というような家内分業は、もはや昔語りに形を残すばかりだったことになる。
ならば、現実はどうであったのか。
「4時頃に市場で仕入れ、5時の汽車で出て、12時頃には帰ってくる」。市場で仕入れ、鉄道を使って売りに行っていた。夫が自転車で売りに行き、妻が汽車で行くという例もあったようだ。こうなると、漁家の副業というよりは、専門の商人である。
松前駅は、明治29(1896)年に松山市街と郡中(伊予市)とを結ぶ南予鉄道の駅として開業した(明治33年からは伊予鉄道)。松山までは約8キロ。四国一の大都市を間近に控え、市街地の発展とともに、食材としての魚の需要も高まっていったのだろう。
《出典》
山本志乃(2015)『行商列車 〈カンカン部隊〉を追いかけて』(太洋社)p.p.4,5
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南予鉄道は1900年5月1日、伊予鉄道に吸収合併されました。
同時に路線名称を「郡中線」と定めています。
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ところで難工事の末完成した重信川鉄橋、つまり出合の辺りには、明治末期ごろまで“出合の渡し舟”があった。両岸にロープを張り、舟の先端に棒を立てて固定し、この棒にロープを当て、船頭が座ったままでロープを手繰りつつ向う岸へと漕いで行く。
約15分から20分かかり、増水の時は休業していた。渡し賃は1人3厘、牛馬6厘、人力車は大型4厘、小型3厘、荷車は大型4厘、小型3厘。荷物は1人持ち2厘、2人持ち3厘であった。
大正元年ごろ、欄干造りの出合橋がかかり、昭和15年ごろコンクリート橋となったが、南予鉄道によって出合を瞬時に渡れる便利さに、だれもが驚いたという。
この鉄道も道後鉄道同様、始発の藤原駅は、伊予鉄道の外側駅に隣り合う状態であった。3社がきびすを接して、分立割拠すれば、各社利害を異にして、経営者の側からも利用者の側にもそれぞれ支障を来すのは自明の理である。ここにおいて井上要(当時伊予鉄道監査役)が主唱して3社合併へあっせんの労を取り、実権者古畑と交渉を重ね、ついに明治33年2月25日の臨時株主総会で2社は伊予鉄道に合併することを決めた。
このため伊予鉄道生みの親である小林社長と井手専務らの役員は、古畑寅造社長、井上要専務と更迭、同年4月1日から両社の業務を継承することとなった。この時、伊予鉄道の株式は他2社の株式に比べ2割の増価として統一を図った。
《出典》
伊予鉄道株式会社(1987)『伊予鉄道百年史』p.p.44,45
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1937年7月22日、郡中線の軌間を762mmから1067mmに改軌しました。
1938年3月、松前駅の北西に東洋絹織(現:東レ)愛媛工場が開設されました。
すると郡中線では通勤客が急増し、沿線の宅地化も急速に進みました。
これを受けて伊予鉄道はスピードアップと輸送力増強を期して、郡中線の電化工事を計画。
1950年5月10日に全区間の直流電化を果たしました。
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郡中線は、昭和13年4月、伊予郡松前町に東洋レーヨン愛媛工場が開設されて以来、通勤者の急増と沿線人口の膨張など、同線を取巻く環境の変化が著しくなっていった。このため、明治33年5月に南予鉄道を合併した当時のままの蒸気機関車で走る列車は、もはや戦後の新時代を迎えようとするとき、時代遅れも甚しいものとなっていた。
そこで24年6月の定時株主総会において同線の電化計画が発表され、これによって郡中線のスピード化と輸送力増強の方針が打ち出されたのである。
当初の基本計画案としては、
車両は自重24㌧、定員80人程度(高浜線ボギー車は31.5㌧、110人乗りだった)のもの10両を設備し、混雑時は2両編成、15分間隔運転とする。
軌条の直線は22㌔のままとし、曲線部は30㌔と取り替え、枕木は約半数を交換、砂利を補充する。
重信川橋梁は補強し、大型車両が通れるよう改造する。
各駅ホームを改築する。
保安装置を整備する。
500㌔㍗の変電所1ヶ所を新設、カテナリー式電車線路とする。
電車々庫を増築する。
などの工事を包含するもので、その工事費は相当切り詰めても1㌔㍍当たり750万円、総計にして8500万円くらいと見積もられたが、最終的には総工費が8733万6791円となった。
以上の計画に基づき、同年8月1日に工事着手、そして電動客車4両と制御客車6両の購入をはじめ変電所設備、架線工事、鉄橋の補強などの諸工事が順調に進捗し、翌25年4月末には全体の工事を完了、試運転の結果も上々で5月10日から運転営業を開始した。
《出典》
伊予鉄道株式会社(1987)『伊予鉄道百年史』p.p.361,362
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1956年8月15日、伊予鉄全線において車扱貨物の営業を廃止。
松前駅でも貨物取扱いを廃止しました。
1957年7月5日、郡中線松山市~余戸間で単線自動信号化工事が竣工。
1960年2月1日には松前駅を含む余戸~郡中港間についても単線自動信号化を果たし、20分間隔での運行を開始しました。
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全国の私鉄6000㌔のうち、単線区間は4355㌔あるが、単線自動区間は連動閉そく式区間を併せても僅か376㌔しかなかった。その376㌔に本社の三津―松山市間、松山市―余戸間の9.9㌔が仲間入りして、昭和32年7月5日から単線自動閉そく式で運転を開始した。
この閉そく方式の変更に先立ち、昭和29年12月、係員を派遣して京阪神急行、神戸電鉄、淡路交通の各社をつぶさに見学し、当社に即応した施設としてとり入れ、試験的に高浜―梅津寺間の連動閉そく方式を単線自動閉そく式に切り換えたのが31年3月であった。
当時としては高浜、郡中両線とも貨物列車を運転していたため、構内配線などが複雑で完全電気装置とするためには設備上の難点があった。そこで先ず貨物の取扱い廃止を決め、貨物列車は一部だけを残すこととして構内配線を簡単にし、単線自動閉そく式を取り入れたのである。
単線自動閉そく式とは、従来の票券閉そく式が、信号機と閉そく方式が別々であってこの取扱いを統一して列車の安全を保っているのに対し、信号機と閉そく式が一体となって列車の安全を保つものである。
従って区間の信号機は、原則として人が扱うのでなく、車両が制御して電気の作用で自動的に信号を現示するので、機能に故障が生じて信号機に進行信号を現示するようなことがあっては事故の元、そこでそんなことが絶対に起きないよう、信号機に故障が生じたときや、線路が故障で列車を運転できないときには、必ず信号機に停止信号を現示する装置にして、保守度を高めるものである。
《出典》
伊予鉄道株式会社(1987)『伊予鉄道百年史』p.p.417,418
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1967年10月1日、伊予鉄道は全駅において到着荷物の配達制度を廃止。
松前駅でも荷物の配達業務を終了しています。
1976年3月25日、郡中線の架線に電力を供給する施設として、松前駅構内に「松前変電所」を開設しました。
1977年2月20日、郡中線全区間がCTC化。
松山市駅構内に設置した「運転司令室」で列車の運行を集中的に制御するようになりました。
1983年9月13日、松前駅構内のポイント自動化工事が竣工。
その4日後の9月17日、構内踏切に遮断機を新設しています。
1970年代以降の合理化で業務委託駅が増えた伊予鉄ですが、松前駅は開業以来の直営駅として機能しています。
駅舎は正面玄関に入母屋屋根の車寄せを設け、その支柱を下部で絞った擬洋風の木造建築です。
南予鉄道開業時(1896年)に建設された物と思われますが、当の伊予鉄は「記録がなく証明できない」との見解を示しています。
外壁は大半が簓子下見(ささらごじたみ)となっており、屋根下の一部にモルタルを施しています。
木造駅舎 待合室
木造駅舎 待合室
木造駅舎 待合室
待合室の様子。
外観に違わずレトロな佇まいです。
玄関ホールは天井を高く取り、鎖で照明を吊るしています。
窓口側の様子。
左手に出札窓口と清算所、右手に自動券売機を設けています。
自動券売機の背後には、かつての手小荷物窓口と思しきスペースがありますが、僅かに残るカウンターが国鉄のチッキ台より高いですね。
出札窓口 駅員 出札口
出札窓口は随分と狭く、明治~昭和初期の銀行の窓口みたいに鉄格子を設けており、やけにいかめしく感じます。
窓口営業時間は6:30~22:30です。
改札口 京王5000系 伊予鉄700系 木造駅舎 車掌 列車監視
窮屈な出札窓口に反し、改札口はやけに広め。
昔ながらの柵のラッチとICカードリーダーがミスマッチですね。
ホーム側から改札口を眺めた様子。
駅長室 表札 駅事務室 木造駅舎 駅員
京王3000系 井の頭線 伊予鉄3000系 駅長室 駅事務室
改札口の南脇には駅長室の玄関があります。
改札口の北側には倉庫の出入口があります。
かつては貨物の保管に使っていたのでしょう。
構内は相対式ホーム2面2線。
駅舎側が1番ホームで上り列車(松山市方面)が発着します。
ホーム全長は18m車3両分ほどです。
両ホームを繋ぐ構内踏切。
警報機と遮断機を備えています。
構内踏切の2番ホーム側には改札口への案内板が立っています。
駅裏側の2番ホーム。
全長は1番ホームと同じくらいです。
短いですが上屋もあります。
ホーム上の駅名標。
まだまだ松前駅には見所がありますが、長くなったので今回はここまで。
※写真は全て2023年7月16日撮影
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最終更新日 : 2023-10-08