徳島県は三好市池田町サラダ(旧:三好郡池田町字サラダ)にある、JR四国の阿波池田(あわいけだ)駅。
三好市は2006年3月1日に三好郡の三野町、池田町、山城町、井川町、西祖谷山村(にしいややまそん)、東祖谷山村(ひがしいややまそん)の合計6町村が合併し発足した自治体です。
四国山地と讃岐山脈に囲まれた自然豊かな環境にあり、市内南東の東祖谷山には四国最高峰の剣山が聳えます。
阿波池田駅は旧池田町の中心街に位置します。
駅舎の真向かいにはアーケードを備えた「阿波池田駅前通り商店街」があり、三好市役所とのアクセスも良好。
元は養蚕や刻み煙草の製造が盛んな地域で、特に煙草は藍・塩と並び「阿波の三大産物」と言われるほどでした。
古くから葉煙草を栽培する農家と、加工する「刻み屋」が多く暮らす生産拠点だったのです。
18世紀には刻み機械の発明によって大量生産が可能となり、販路も辻商によって全国に拡大しました。
明治後期は葉煙草専売法の公布を受け、1897年9月に「池田葉煙草専売所」を開設。
町内の刻み煙草工場を専売所に集約しました。
これが1949年6月に日本専売公社池田工場(後の日本たばこ産業池田工場)となり、1967年11月よりフィルター付き両切紙巻煙草の製造を開始。
刻み煙草との併製工場として「わかば」「ききょう」「ひびき」「ハイライト」といった銘柄を世に送りました。
1979年3月には日本最後の刻み煙草「ききょう」の製造を終了し、同年11月に技術保存のため「刻み煙草展示室」を開場しています。
その後も紙巻煙草の製造を続けてきましたが、合理化のため1990年9月を以って閉鎖。
藩政時代から続く煙草生産の歴史に終止符を打ちました。
跡地は商業施設の「フレスポ阿波池田」に転じています。
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駅所在地の「サラダ」という地名は元々、「皿のような土地」を意味する「皿田」の2文字を当てており、明治初期に池田町役場が時代を先取りしようと町内の地名をカタカナ表記に改めたそうです。
そのため旧池田町の域内にはサラダの他にも、マチ、ハヤシ、シマ、ウヱノ、シンマチ、ウヱマツ、ヤマダ、トウゲ、カシノウチ、ヲカダヲ、ヒサゲ等々、カタカナ地名が今なお乱立しています。
料理のサラダとは関係ありませんw
ところで、池田町役場が発行した書籍『池田町史 下巻』(1983)は「地名の歴史」と題した小節を設けています。
具体的にはp.p.287~310に載っており、サラダの旧称である皿田については以下の記述が見られます。
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一口に地名と言っても、これには地名点と地域名がある。発生的には、地名点を命名するのが第一次の段階であったと考えられる。すなわち、自然物採集のための位置を示したり、土地利用の方途を示す命名、さらに土地の形態を示す地形名などがそれである。しかも、こうした地名の多くは、わが国全体にわたって、山地・平地・海岸を問わず類似の地形に共通の呼称が与えられている。これは、地域差を超えた日本の民族文化に根ざしたものだと考えられる。
したがって、当然池田町においても、そのような土地利用による名称や地域による名称の中に、他地方の例でもって理解される地名の起源がかくされているであろう。(中略)
ところで、各土地が農耕に利用され、個人や特定集団に占有されるようになると、その土地全体の呼称が必要になってくる。この呼称には前述の地名点を拡大して用いたものと、占有者の姓名やその土地の経営内容を示す名称を与えたものがある。たとえば、白地本名などが前者に当たり、池田皿田(さらだ)・中西神田(じんでん)・佐野雉野谷(きじやだに)等が後者にあたろう。(中略)
なお、各地の呼称については地名起源伝説があり、これがその起源を説明するものとなっているが、この地名伝説はほとんど創作付会で、信じることはできない。すなわち、落ちた・拾った・折れた・会ったなどの語呂合わせであり、人々がこれを信じなくなった時代に、天皇や貴人の伝説と結びつけられたのである。したがって、地名命名の真の動機や発生の根拠を示すものでないことは当然である。
《出典》
池田町史編纂委員会(1983)『池田町史 下巻』(徳島県三好郡池田町)p.p.287,288
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皿田の地名については「占有者の姓名やその土地の経営内容を示す名称を与えたもの」に分類していますね。
先述した「皿のような土地」が由来とすれば「土地の経営内容」に当たる命名だろうと考えられます。
現に同書p.290では鏡味完二・鏡味明克の共著『地名の語源』(1977/角川書店)からいくつかの語源を参照し、その中で「サラタ」(濁音抜きで表記)の語源は「①乾田 ②新田」としています。
仮に皿田が「乾田」だったとすれば、水はけがよく畑に転用できる様を「色々なおかずを載せられる皿のようだ」と形容したのかも知れません。
一方の「新田」が語源だとすれば、開墾したての田んぼを見て「皿のようだ」と形容したのでしょう。
・・・町史を読んでおきながら地名の語源を推測する事に、違和感を覚えた方もいらっしゃるでしょうね。
実は『池田町史 下巻』の「地名の歴史」ですが、題名とは裏腹に個々の地名の由来を細かく解説していないのです。
それどころか町内の地名をカタカナ表記に改めた事についても、具体的な動機や施行時期などを一切説明していませんし、そもそも実施した事に触れてすらいません。
ただ『地名の語源』からいくつかの語源を軽く引用しただけで、「それぞれの地名がその土地に住む人々の生活や感情に基づいていることがよくわかるはずである」(p.291)とのたまうのには頭を抱えました。
同書の「部落小誌」に目を通しても、地名の変遷を深く掘り下げる事はできず。
これが伝統をかなぐり捨て、地名を軒並みカタカナに置き換えた自治体の末路か・・・と情けなくなりました。
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ここからは阿波池田駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
阿波池田駅は1914年3月25日、徳島本線(現:徳島線)川田~阿波池田間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
今でこそ土讃線に属する当駅ですが、元々は徳島線の終点でした。
ただし既に土讃線の敷設計画が動いており、徳島線の延長も土讃線との接続が前提としてあったのです。
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明治28年徳島県板野郡一条村、大串龍太郎ほか19名は資本金80万円で、私鉄、徳島鉄道株式会社を設立し、徳島―川田間の鉄道敷設の願書を知事に上申し、明治32年2月、県下における最初の鉄道である徳島鉄道徳島・鴨島間が開通した。
翌年、阿陽鉄道会社と協定し、同年12月には、延長線として船戸までを開業したが、明治40年9月、徳島鉄道は鉄道国有法によって政府に買収され国鉄徳島線となった。国有後政府は、この徳島線を延長して、鉄道敷設法中の「香川県下琴平ヨリ髙知県下髙知ヲ経テ須崎ニ至ル鉄道」に接続させるため、川田・阿波池田間の官設を計画し、明治44年5月実測に着手、翌45年1月起工、2年有余を費やし、大正3年3月に竣工し阿波池田駅が設置された。このとき、起点附近の新線上に川田駅を新設し、従来の船戸駅を廃した。建設費は154万4695円であった。
《出典》
池田町史編纂委員会(1983)『池田町史 上巻』(徳島県三好郡池田町)p.p.891,892
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阿波池田管理駅 木造駅舎 交通の要衝 ターミナル駅
1929年4月28日、讃予線(現:土讃線)讃岐財田~佃間が延伸開業。
阿波池田と丸亀方面の直通運転が始まり、香川県との行き来がしやすくなりました。
なお、沿線関係者は土讃線の敷設工事を語るに当たり、便宜的に琴平~東豊永間(65km)を「土讃北線」、東豊永~土佐山田間(35km)を「土讃南線」と称する事があります。
讃岐財田~阿波池田間については「土讃北線」に含まれます。
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昭和4年4月、讃岐財田・阿波池田駅間(19.8キロ)の鉄道開通により、池田町は高松と直接結びつくようになった。
土讃線(琴平・土佐山田)は、大正8年3月第一期線に追加され、12月4日に高知県豊永において、土讃南線(土佐山田・東豊永)と土讃北線(琴平・東豊永)に訳、南線は15年に起工し、以来南北両方面から工事が進められた。北線は大正12年5月、琴平・讃岐財田間が開通し、猪鼻隧道(延長3,845メートル)の完成とともに、昭和4年4月、阿波池田まで開通した。この間箸蔵駅開業は昭和4年4月28日で現在の坪尻駅は同日、信号所として開設された(駅となったのは昭和25年1月10日である)。猪鼻隧道の工費は800万円で、トンネル9か所工事中の死者10名、負傷者は2,000名にのぼった。土讃北線の開通式は、昭和4年4月28日、池田町で盛大に行われた。
この開通によって阿波池田駅は、徳島・高松・松山やがて高知を連絡する中心点として動き出した。
《出典》
池田町史編纂委員会(1983)『池田町史 中巻』(徳島県三好郡池田町)p.160
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1931年9月19日、徳島本線阿波池田~三縄間が延伸開業。
この区間は実質的な「土讃北線」で、引き続き三縄駅から高知方面に向けて敷設工事が進められました。
1934年3月31日、省営自動車(国鉄バス)の川池線川之江~阿波池田間が新規開業。
同線の運行管理を担当する川之江自動車所(後の川之江自動車区→川之江自動車営業所)も開設されました。
1935年11月28日、三縄~豊永間の延伸開業に伴い、南北に分けて敷設工事を進めてきた土讃線が全通を果たしました。
同時に徳島本線佃~三縄間が土讃線に編入され、阿波池田駅も土讃線の所属となりました。
こうして阿波池田は徳島・香川・高知・愛媛の4県を結ぶ交通の要衝となったのです。
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阿波池田駅から南下する北線は昭和6年9月19日中西まで延び、この日三縄駅が開業した。土讃線の豊永までの延長については、当初の構想として、三縄駅より大字中西のトンネルをとおり漆川橋を経て大田、通称八幡裏を通過して大字大利込に続き、祖谷川を鉄橋で渡り大字川崎込に達し、山城町川口の対岸に至り、ここで吉野川に鉄橋を架設する予定であった。
ところが地盤調査に際し、漆川橋より大利込までの間は、地すべり地帯で地盤軟弱なため中止となり、漆川橋より大利込トンネルを抜く案も地盤が弱くして不能となり、漆川橋より鉄橋で山城谷村猫坊に渡すこととし、昭和10年11月28日、三縄・豊永間を開業し、土讃線が全通した。これより先、昭和9年3月31日に阿波池田・川之江間に省営バスが開通した。同線は昭和8年11月に省営バス運転計画ができるとともに徳島・愛媛両県が測量と設計を急ぎ、翌9年1月早々から工事に着手し、徳島県側の改良工事はわずか2か月で完成した。こうして阿波池田駅は四国4県の連絡中継駅として脚光を浴びることになった。
《出典》
池田町史編纂委員会(1983)『池田町史 中巻』(徳島県三好郡池田町)p.p.160,161
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池田町史編纂委員会(1983)『池田町史 下巻』(徳島県三好郡池田町)p.526
阿波池田駅は先述した日本専売公社池田工場のお膝元にあり、生産した煙草を貨物列車で各地に発送していました。
駅構内には貨車ヤードが築かれ、組成駅として貨車の操車・配車に当たっていました。
専売公社の専用線は駅構内東端から工場内へと延びており、近隣の天真醤油と一部線路を共用していました。
なお、専用線は佃方から分岐していたため、ヤードと工場を行き来する貨物列車はスイッチバックしなければなりませんでした。
1967年2月1日、駅構内に「土讃線列車集中制御管理所」を開設しました。
同年3月1日に土讃線多度津~阿波池田間、7月1日に阿波池田~高知間が相次ぎCTC化。
タブレット閉塞の終了と引き換えに、四国の国鉄線で初となるCTC(列車集中制御装置)の運用を開始しました。
1968年10月1日には土讃線列車集中制御管理所が「土讃線CTCセンター」に改称しています。
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昭和39年度において国鉄全線での自動信号区間は、約5,000キロメートルであったが、第3次長期計画により、列車密度の高い線区約7,000キロメートルを自動信号化することが決められた。
四国管内では、この計画に沿って予讃線(多度津・松山間)および土讃線(多度津・高知間)を優先的に、また、その他の主要線区も逐次自動信号化を進めることになった。
まず、災害線区といわれ、長い山間部をもつ土讃線の保安度を向上するため、多度津・高知間の工事を先行することとした。この工事は、41年2月に着工され、自動信号化と合わせて列車集中制御装置(CTC)の新設も行われたが、このCTCは全国鉄で新幹線に次ぐ2番目のものとあって、内外からの注目を浴びた。そして翌42年2月には、土讃線CTCセンターが阿波池田駅構内に完成し、3月1日から多度津・阿波池田間において、CTCの正式運用が開始された。また、阿波池田・高知間の工事も同年6月に完了し、7月1日多度津・高知間(126.6km)の全面使用が開始された。
《出典》
「四鉄史」編集委員会(1989)『四鉄史』(四国旅客鉄道株式会社)p.86
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フロント関係では1968年10月1日、阿波池田駅に「旅客渉外主任」を配置しました。
これは札幌鉄道管理局の「鉄道セールス主任」(1963年6月より配置)と同様、適任者を渉外担当に指定して旅行商品のセールスをさせるというものでした。
旅客渉外主任は1970年10月の「阿波池田駅旅客営業センター」発足に伴い、チーム制に移行しています。
当時、国鉄四国支社(後の四国総局)は旅行商品の販売強化を目的として、管内主要駅に旅客営業センターや旅客渉外主任を置くようになりました。
これらは1972年11月に名称を統一し「旅行センター」となり、やがてJR四国の「ワーププラザ」へと受け継がれていきました。
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四国支社では、昭和43年10月白紙ダイヤ改正、47年3月山陽新幹線岡山開業と輸送改善が行われる中で、多客期においても座席の提供ができる輸送力を設定した。しかしその反面、需要減退期における販売対策をいかにすべきか、すなわち、ストックのきかない商品だけにそのロスをいかに解消するかが、ひとつの課題であった。
これらを解消するため、販売体制の強化策として登場したのが、43年10月の「旅客営業センター」の設置である。旅行商品を年間を通じてコンスタントに売り尽くしていくため、都市を中心とした経済圏単位の渉外を、強力に展開していくこととした。
高松、松山、徳島、高知の4大駅に設置した旅客営業センターでは、顧客や市場に関する情報収集、需要動向に見合った新しい商品の計画、商品の宣伝、グループ旅行の積極的な販売促進などを行った。また、観音寺、新居浜、今治、八幡浜、宇和島、阿波池田の各駅には旅客渉外主任を配置した。
旅客営業センターは、45年10月多度津駅、阿波池田駅、須崎駅に配置。46年11月には新居浜駅、今治駅、八幡浜駅、宇和島駅に設置した。その後、阿南駅にも設置して、2旅行センター10旅客営業センター体制となった。
43年度には、全国で「旅行センターの第1次整備計画」が推進され、東京駅をはじめとする6駅に「旅行センター」が設置され、駅業務の一分野としての国鉄旅行センターと、部外販売網の駅内営業所としての業務の旅行センターが同一場所で提携する形で営業を開始した。
この方式は、国鉄と部外販売網とが共同してその専門的機能を生かしながら、旅行に関する各種の案内から販売までを行う総合的な旅行の発売体制で、渉外活動による団体・グループ旅行の積極的な需要開発を行う拠点とした。
四国に初めて設置したのは、昭和46年4月の高知旅行センターで、提携業者は日本旅行であった。47年4月には高松旅行センターが日本交通公社と提携して、本格的な営業を開始した。
このように、営業体制の近代化に伴う販売拠点の整備施策の一環として推進してきた旅行センターは、47年11月に、名称の統一、業務機能の明確化を行った。
《出典》
「四鉄史」編集委員会(1989)『四鉄史』(四国旅客鉄道株式会社)p.254
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一方、1969年10月1日には手荷物および小荷物の配達を廃止。
1970年10月1日には土讃線営業近代化に伴い、阿波池田駅が坪尻~角茂谷間で無人化した16駅の管理駅となりました。
1974年10月1日、営業範囲改正に伴い小口扱貨物を廃止。
窓口営業を旅客・小荷物・車扱貨物に絞りました。
1975年3月1日、貨物輸送改善により駅構内の貨車ヤードを廃止。
組成駅ではなくなった阿波池田駅ですが、貨物フロントについては存置しました。
国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
阿波池田駅も貨物取扱を専売公社専用線の発着貨物だけに絞っています。
1986年11月1日、国鉄は貨物輸送の効率化を盛り込んだダイヤ改正を実施。
JR貨物への継承を見据えて鉄道貨物輸送の大幅なスピードアップに踏み切り、輸送方法を車扱からコンテナへと一気に転換しました。
阿波池田駅についてはコンテナ基地を設置する事はなく、ダイヤ改正に伴い貨物フロントを廃止。
駅種別を一般駅から旅客駅に変更しました。
同時に専売公社専用線を廃止し、池田工場からの煙草の出荷はトラック輸送に転換しています。
また、小荷物フロントについても新聞紙のみの取扱いとなりました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR四国が阿波池田駅を継承。
1993年10月には阿波池田駅旅行センターを「ワーププラザ阿波池田」に改称しました。
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②旅行センターの名称統一
これまで、店舗の名称を市中(ワーププラザ)と駅内(旅行センター)とで使い分けてきたが、トータルな旅行サービスの窓口であることをより強くアピールするため、5年10月から、すべての旅行センターの名称に「ワーププラザ」を冠して、統一を図った。
《出典》
財団法人交通協力会(1994)『交通年鑑』平成6年度版、p.254
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2001年4月1日にはJR四国バスの川池線が廃止。
省営時代から通算して67年の歴史に幕を下ろしました。
四国4県を結ぶ要衝だった阿波池田駅ですが、川池線の廃止によって愛媛県との直通手段を失いました。
2003年12月、組織上は駅から独立した「支店」だったワーププラザ阿波池田が、阿波池田駅長の指揮管理下に移りました。
この施策は駅長の渉外業務に旅行業のノウハウを加える事で、より機動的な販売体制の構築を狙ったものでした。
店名についても「阿波池田駅ワーププラザ」に改めています。
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15年12月から駅とワープを統合し、営業体制を再構築した。具体的には、セールス部門を持つワープ支店については独立組織として残し、カウンター業務をメインに行ってきたワーププラザについては駅の一部門とし、駅長の渉外活動に旅行業のノウハウをミックスすることで、駅における旅行業展開を強化した。また、ワープ支店長が各駅長の渉外活動をサポートするため「セールスマネージャー会議」を設け、駅とワープ支店が協力し、駅長の肩書きを利用した営業活動を行う体制とした。
《出典》
財団法人交通協力会(2005)『交通年鑑』平成17年度版、p.300
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2011年3月12日、ダイヤ改正に伴い駅舎手前に新設した「新1番線」の使用を開始。
同日8:40~9:20に「新1番線新設記念式典」を開催し、岡山行き特急「南風6号」(9:07発)の出発式を併せて執り行いました。
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⑥阿波池田駅に「新1番のりば」を新設
バリアフリー化を推進するため、阿波池田駅改札口前に「新1番のりば」を新設した。なお、「新1番のりば」は、改札口より陸橋を渡らずに、ご利用いただけるようになった。
《出典》
財団法人交通協力会(2012)『交通年鑑』平成24年度版、p.317
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2019年9月20日、阿波池田駅ワーププラザが閉店。
背景にはセールス活動を担う駅員の不足や、旅行商品のインターネット販売の普及があります。
徳島県内では阿波池田駅に加え、阿南駅、鴨島駅のワーププラザも同日付で営業を終了。
同年10月1日を以って正式に廃止となりました。
2022年には駅から程近い徳島県立池田高校の校歌が接近メロディに採用されました。
同年4月4日より、列車の入線に合わせてホームで校歌を流しています。
なお、池田高校の野球部は1980年代、かの有名な「やまびこ打線」で甲子園を沸かせました。
当時の蔦文也(つた・ふみや)監督はとにかく打撃中心で指導を重ねたといい、部員達も他校に比べてマッチョばかり。
1982年夏、1983年春、1986年春の3大会で優勝に輝きました。
現在の阿波池田駅は管理駅長を筆頭に助役、事務職駅員(事務主任・事務係)、営業職駅員(営業主任・営業指導係
・営業係)、輸送職駅員(輸送主任・輸送指導係・輸送係)が従事する直営駅です。
管理駅として土讃線坪尻~大歩危間、徳島線佃~穴吹間の各駅(有人2駅・無人15駅)を統括しています。
駅舎は1935年11月、土讃線の全通に合わせて改築したという2代目駅舎です。
木造建築で部分的に2階建て。
1990年3月29日のリニューアルで現在の姿となりました。
2階建て部分は駅事務室となっています。
その玄関には「駅長事務室 STATION MASTER'S OFFICE」との表札を掲げています。
昔の牛乳屋の看板みたいな白と青の配色。
駅長事務室の脇には社用車のガレージがあります。
しかし停まっていたのは駅の社用車にあるまじきダブルキャブトラック。
大抵は施設関係の職場で使うダブルキャブですが、阿波池田駅の駅舎には保線区も電気区も同居していません。
災害発生時に緊急物資の輸送にでも使うのでしょうか?
駅舎の西側には「離れ」があり、セブンイレブンの看板を掲げています。
とはいえ店舗という訳ではなく、出入口は封鎖された状態。
実店舗は駅舎の中に収まっているため、この建物は事務室やバックヤードとして使っているようです。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
土讃線阿波池田駅[1] タバコ生産で栄えた山里の「サラダ」
※写真は全て2023年5月4日撮影
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最終更新日 : 2023-06-19