同電停は併用軌道区間に置かれた「有人駅」で、常駐する社員2名が「駅長」と「配車係」の業務を交代で行なっています。
このうち駅長は運転整理と出発指示合図、運転通告券の発行を担当するほか、東隣の「蛍橋車庫」へ転轍機の切換に出向く事もあります。
蛍橋車庫は旭町3丁目との境界に接しており、路面電車の夜間滞泊に使われています。
書籍『土佐電鉄が走る街今昔』によると、蛍橋車庫は戦後の開設。
本丁筋五丁目停留場(現:上町五丁目停留場)の傍にあった「五丁目車庫」が移転したものだといいます。
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戦後に入ると、五丁目車庫に代わって「蛍橋車庫」ができた。これは、当時市内線の折り返し場所であった蛍橋電停の西方に作られたが、折り返しが鏡川橋電停に変わった現在も夜間のみの停泊留置用として運用されている。
《出典》
土佐電鉄の電車とまちを愛する会(2006)『土佐電鉄が走る街今昔』(JTBパブリッシング)p.77
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とさでん交通 土佐電気鉄道 路面電車 JR四国 鏡川橋駅 蛍橋駅 車両基地
なお、『土佐電鉄が走る街今昔』の巻末には土佐電の歴史をまとめた年表が載っているのですが、蛍橋車庫の具体的な開設時期については一切書かれていません。
それどころか土佐電気鉄道(現:とさでん交通)が編纂した公式書籍『土佐電鉄八十八年史』(1991)にさえ、蛍橋車庫の詳細が何も書かれていないのです。
「戦後」と「市内線折り返し地点の変更」、これら断片的な情報から察するに、蛍橋車庫の開設は1945年8月15日~1958年10月1日の間と考えられます。
『土佐電鉄八十八年史』を参照して、この13年間に伊野線の蛍橋周辺であった出来事をまとめると以下の通りです。
【1945年8月18日】
空襲被害を受けた本丁筋五丁目~伊野間が復旧
【1946年12月21日】
南海大地震で若松町電車車庫に浸水し、電車33両が水びたしになる
伊野線も本丁筋五丁目~伊野間が運休
【1946年12月23日】
震災復旧により本丁筋五丁目~伊野間が運行を再開
【1948年6月1日】
鏡川橋専用鉄橋の架換工事が竣工(2代目鉄橋の完成)
【1950年2月15日】
本丁筋五丁目~蛍橋間の複線化工事着工
【1950年4月16日】
本丁筋五丁目~蛍橋間の複線化工事が完成、翌17日より運行開始
【1951年4月27日】
鏡川橋待避所の復活工事が完成(鏡川橋電停における行き違い設備の運用再開)
【1955年10月31日】
蛍橋~後免町~安芸間における軌道線・鉄道線の直通運転開始
【1956年4月21日】
土佐電鉄としては初の無人変電所である「鏡川橋変電所」を新設
【1956年6月20日】
ボギー車を連結運転用に改造し、蛍橋~安芸間の直通運転に投入
【1956年11月19日】
蛍橋~安芸間の直通電車、2往復から4往復に増便
【1958年4月7日】
蛍橋~安芸間の直通電車、4往復から7往復に増便
【1958年10月1日】
蛍橋~鏡川橋間が複線開通
800形803号車
以上、1945年8月15日~1958年10月1日の間にあった出来事を列挙しました。
このうち蛍橋車庫の開設と関連していそうなのは以下の5件と見ています。
①1945年10月1日 空襲被害を受けた本丁筋五丁目~伊野間が復旧
→空襲で五丁目車庫が壊滅したため、それに代わる新たな車庫を建てたという経緯が想像できます。
②1951年4月27日 鏡川橋待避所の復活工事が完成
→「待避所」とは土佐電鉄の社内における行き違い設備の正式名称です。
社外の鉄道ファンからは「信号所」と呼ばれる事が多いですね。
廃止済みだった行き違い設備の復活は、蛍橋車庫の開設に伴うものと考える事もできます。
蛍橋車庫の引込線は鏡川橋電停へと伸びているため、出入庫する回送電車の折り返し地点を兼ねていたのではないでしょうか。
③1951年4月27日 蛍橋~後免町~安芸間における軌道線・鉄道線の直通運転開始
④1956年11月19日 蛍橋~安芸間の直通電車、2往復から4往復に増便
⑤1958年4月7日 蛍橋~安芸間の直通電車、4往復から7往復に増便
→増便を重ねるにつれ、本丁筋五丁目に車庫を置いたままでは運行ダイヤが煩雑になるため、起終点の蛍橋に車庫を移して効率化した可能性もあります。
蛍橋車庫の経緯について御存知の方がいらっしゃれば、情報をいただけると幸いです。
なるべくなら具体的な関連資料を挙げていただけると助かります。
蛍橋車庫の引込線は真っ青な歩道橋の下。
車庫のお隣はヤマハ音楽教室旭音楽センターで、フランチャイジーの㈲高知楽器が運営しています。
車庫と言っても構内には2本の線路を敷いただけ。
電車を雨風から守る上屋も無く、検修員も常駐していません。
もはや留置線そのものです。
引込線は車庫の出入口で二又に分かれています。
鏡川橋電停の駅長が取り扱う転轍機は小ぶりで、頭の標識は見事に色褪せています。
歩道橋の階段から転轍機を俯瞰した様子。
構内西側には廃止された線路が部分的に残っています。
元々、蛍橋車庫はボギー車6両を収容できる規模で、東から1番線、2番線、3番線の順に並んでいました。
構内はアスファルト舗装を施していますが、廃止された3番線のみ昔ながらのタイル舗装を留めています。
留置線の車止めは、黄色く塗装したレール1本を垂直に設置しただけ。
砂利を盛っただけの「第1種車止め」よりも簡素な佇まいです。
1番線の脇には波トタン板を張った詰所があります。
無人状態ですが引き戸は開けっ放しで、中には何故かバイクが1台置かれています。
詰所の裏には古い木造モルタル造りの一軒家があります。
この一軒家は蛍橋車庫と繋がっています。
どうやら夜間滞泊に伴い運転士が利用する宿泊所のようです。
入庫した後はここで睡眠を取り、翌朝の乗務に備えるのでしょう。
今回は時間の都合により昼の訪問となりましたが、何れ早朝の出庫を見に行きたいですね。
車庫前の歩道橋から鏡川橋電停方面を眺めた様子。
車庫前の歩道橋から蛍橋電停方面を眺めた様子。
※写真は全て2023年5月4日撮影
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最終更新日 : 2023-06-28