石狩管内は札幌市東区北6条東13丁目にある、JR北海道の苗穂工場。
ここは車両の解体を伴う全般検査・重要部検査など大掛かりな製修工事を行なう車両工場です。
「製修」とは国鉄時代から使われている言葉で、「車両や同部品の解体・製作・艤装などの作業と、これらに付随する検査設備の運転操作及び器具・工具の整備」を意味します。
苗穂工場における製修業務は多岐に渡りますが、中でも構内北東の「鋳物作業場」では制輪子(ブレーキシュー)などの鋳物を製造しています。
ここで製造した制輪子は自社車両に使うのみならず、札幌市電、東武鉄道など、他の鉄道会社にも広く納品しています。
2023年5月現在、日本国内の鉄道工場で鋳造設備を有するのは苗穂工場、JR東日本長野総合車両センター(旧:長野工場)の2ヶ所のみです。
なお、国鉄時代は全国各地の鉄道工場に「鋳物職場」を設け、各工場で鋳造を行なっていました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 苗穂工場 苗穂車両所 車両基地
実はこれ、厳密に言うと間違っています。
正確には苗穂工場に「鋳物職場」など現存しないのです。
「今も鋳物を作っているのに鋳物職場が無いと言うのは矛盾してないか?」と思われるかも知れませんね。
ところが全く矛盾していないんですよ。
まずは鉄道工場における「職場」が一体何なのか、説明していきましょう。
工場等の組織図
日本国有鉄道職員局・中央鉄道学園(1980)『わたくしたちの国鉄 2』第8版、p.117より引用
上に引用したのは国鉄の新入職員用テキスト『わたくしたちの国鉄 2』に掲載された工場・車両管理所・車両センターの組織図です。
『わたくしたちの国鉄』は2冊1組のテキストで、国鉄の概況、各現業機関の主な業務内容、組織体制などを解説しています。
当時の鉄道工場は駅や運転所、車両管理所などのような現業機関ではなく、鉄道管理局や地方資材部、工事局などと同じ「地方機関」(地方において国鉄の業務を分掌している機関であって国鉄の従たる事務所をなすもの)に分類されていました。
その組織体制は非現業の企画・管理部門である「本場」(ほんじょう)と、現業部門である「職場」(しょくば)の二層構造となっていました。
つまり鉄道工場における「職場」とは単に一定業務を行なう仕事場を指した言葉ではなく、部署としての正式な組織単位だったのです。
言わば庶務課、経理課、生産技術課などと同じように、鋳物職場、電機職場、内燃機職場といった名称を各部門に付けていた訳ですね。
職場は駅・車掌区・機関区・保線区・電気区などの現業機関と同様、現場長―助役―掛職―手職による職制を敷いていました。
すなわち現場長は「職場長」と称し、その配下に助役、事務掛、技術掛、作業掛、工場検査掛、諸機掛、気缶掛、電機掛、構内手、工場技工、工場技工手伝、工場工手、用品手、諸機手、気缶掛助手、電機手、雑務手といった職名を設けていたのです。
配置する職名は職場によって異なり、それこそ輸送職場は工場内のみ乗務する機関車運転士、機関車運転助士、自動車運転士を抱えていました。
なお、国鉄は頻繁に職制改正を重ねており、工作関係を対象とした1961年3月改正では手職を撤廃する代わりに掛職を「中間職」と「労務職」に分けています。
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しょくば 職場
国鉄の工場・自動車工場および被服工場における現業業務を分掌する機関であって、各職場ごとに定められた業務範囲に属する作業を行なうところである。
工場の職場にはつぎの24種があり、そのおもな担当業務はかっこ内に示すとおりである。
機関車職場(機関車の製修工事)、客車職場(客車・電車および自動車車体の製修工事)、貨車職場(貨車の製修工事)、客貨車職場(客車および貨車の各職場の業務)、電車職場(電車の製修工事)、自動車職場(自動車および内燃機関の製修工事)、荷役機械職場(荷役機械の解体および組立工事)、工機職場(機械の解体および組立工事)、旋盤職場(金属製品の機械削正工事)、工具職場(工具類の製修工事および整備)、鍛冶職場(ばねの製修、火造および熱処理工事)、製缶職場(気かん・鉄鋼構造物等の製修工事)、仕上職場(客貨車の金具類その他の金属製品の製修工事)、鉄工職場(工機・旋盤・鍛冶・製缶および仕上の各職場の業務に該当する業務)、電機職場(電気部分品の製修工事および蓄電池の修繕)、塗工職場(車両の塗装工事)、船舶職場(船舶用品の製修工事)、鋳物職場(鋳物工事および木型の製修)、製材職場(製材および準備加工工事)、利材職場(副生品の収集整理および加工工事)、輸送職場(製修品その他の運搬および構内整理)、動力職場(電力・蒸気・圧縮空気等の供給および電灯電力設備の保守)、検査職場(工事の落成検査)および営繕職場(建物等の保守および施工)。
各工場には、これらのうちからその業務・規模等に応じ、必要な職場が設置されており、その設置数は4~20で全工場では総数306におよんでいる。規模の大きな工場の職場には、その設備・作業人員等において、職場自体が完備した単能工場としての機能を有するようなものもある。
職場には職場長が置かれ、工場長または分工場長の指揮を受けて、助役、事務掛、技術掛、作業掛、工場技工、工場技工手伝、工場工手、工場検査掛、機関車運転士、機関車運転助士、構内手、諸機掛、諸機手、気缶掛、気缶掛助手、電機掛、電機手、自動車運転士、用品手および雑務手を指揮監督し、職場に属する一切の業務を処理している。これらの職員を工場職場従事員といい、約38,000人いる。
自動車工場の職場には、組立・内燃機・旋盤・鉄工・利材および検査の6種類があり、組立職場では自動車(機関部分を除く)およびその部分品の製修工事を、内燃機職場では自動車の機関部分・内燃機関およびこれらの部分品の製修工事を、旋盤職場では金属部品の機械削正工事を、鉄工職場では鉄鋼構造物等の製修および鋳鍛造工事と機械器具等の製修工事等を、利材職場では副生品の収集整理等を、検査職場では工事の落成検査を担当している。これらの職場のうち、旋盤職場は京都自動車工場だけに設置されている。
自動車工場の職場にも職場長が置かれ、自動車工場長の指揮を受けて、助役、事務掛、技術掛、作業掛、工場技工、工場技工手伝、工場工手、工場検査掛、諸機掛、諸機手、気缶掛、気缶掛助手、電機掛、電機手、自動車運転士、用品手および雑務手を指揮監督し、職場に属する一切の業務を処理している。これらの職員は約700人いる。
被服工場の職場には、裁断・第1縫製・第2縫製・仕上検査および工機の5種があり、裁断職場では被服材料品の裁断等を、第1縫製職場および第2縫製職場では被服類の縫製作業を、仕上検査職場では被服類の仕上げ・落成品の検査等を、工機職場では機械器具の修繕・動力の供給等を担当している。ここにも職場長が置かれ、被服工場長の指揮を受けて、助役、事務掛、作業掛、工場検査掛、工場技工および工場手を指揮監督し、職場に属する一切の業務を処理している。これらの職員を被服工場従事員といい、約800人いる。
組織上の職場の概要は前記のとおりであるが、一般には勤務箇所または勤務箇所における職員各自の直接の所属箇所・作業等常時職務に従事するところを概念的に職場と称している。
(宮坂正直)
《出典》
日本国有鉄道(1958)『鉄道辞典 上巻』p.p.807,808
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ここからは苗穂工場鋳物職場の大まかな歴史を辿っていきましょう。
苗穂工場は1909年12月8日に「札幌工場」として開設されました。
以降5年間で木工職場・塗工職場・鍛冶職場・仕上職場・旋盤職場・製罐職場・組立職場の現業7部門と、事務掛・工事掛の非現業2部門を開設しています。
鋳物職場を開設したのは1914年12月15日、手宮工場の統廃合によります。
初代職場長は手宮工場でも鋳物職場長を務めた鈴木隆之助で、北海道における鋳物の第一人者として有名でした。
開設から4ヵ月後の1915年4月1日、札幌工場が現名称の「苗穂工場」に改称しました。
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鋳物職場は大正3年12月に第1製罐職場と共に現在の位置に新設されたものであるが、建坪1,184平方米、価格は60,829円であった。その後大正4年3月になって木型職場が7,112円、事務所が1,258円で同時に竣工したのである。当職場は、北海道の車輌修繕に使用する種々の部品鋳造が目的であったが、当時既にキューポラ2基(2トンと3トン)を備えて鋳鉄部品を、またモルガン、バッセルという2基のルツボ炉を設けて白メタルと砲金を鋳造していたもので、当時の時代を考えた場合、今日の設備と比較しても勝るとも劣らない設備であったといっても過言ではないのである。
大正3年から機関車の修繕も実施するようになり、当工場も活気に溢れるものとなったが鋳物職場が当工場に新設されるまでは、手宮工場において既に実施されていたもので、客貨車の車輪(一体車輪)も毎日30個程度を鋳造していたのである。そのほか制輪子は勿論のこと、客貨車、機関車の部品を鋳造し、北海道の車輌修繕のため大いに活躍した。
《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.218
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大正末期の苗穂工場鋳物職場を記録した写真
日本国有鉄道苗穂工場(1970)『60年のあゆみ』p.7より引用
1924年6月、室蘭で監督官を務めた稲見岩三郎が苗穂工場に転勤し、4代目鋳物職場長に就任しました。
実を言うと稲見氏は元・2代目鋳物職場長で、室蘭に転出してから2年で苗穂工場に戻ってきたのです。
稲見氏は2年間の監督官時代に各所で鋳物作業を学んだといい、さっそく青銅工事用として120kgのロッキング電気炉を新造。
これが砲金作業にも大いに活躍しました。
施設の拡充も進んでサンドブラスト、制輪子発送用プラットホーム、地金破砕機、破砕地金置場、ガントリークレーンなどを相次ぎ設置。
発足時は28名だった職人も、大正末期には2倍近い50名に増員しました。
その後も鋳物職場は順調に発展を遂げ、1932年には砂合わせ機(型中子両用)、中子取機械を各1基ずつ増設しています。
1933年5月30日には鋳物職場の助役・伊藤次吉が客貨車用基本甲型制輪子製作器を考案。
極めて革新的なアイディアだったといい、鉄道大臣から褒章を受けています。
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考案の主旨は鋳物技工の労苦を軽減し、能率を増進し経費節減を計るにあったのである。最初は極く簡単にできあがる積りで色々と手をつけて見たのであるが、何分砂相手に考案する機械なので、所謂砂上楼閣を築くの想いがあった。あるいは設計をしたり、それをやり直してみたり、図面を書いたりすることが幾夜となく続いた。夜は三更四更と更けてゆく。寂として四囲は声も音もない。夢中になって時の過ぎて行くのを知らなかった。時としては鶏声暁を報ずることさえあった。しかし幾度となく同じことを繰返し繰返して、また始めに戻って出発しなければならぬ事もあった。これが現世の賽の河原の積直しかと半ば嘆息したこともある。しかし根はこうしたことに趣味を覚える自分であるので、何等その労苦が惜しいものではなかった。
かくして1年有余、文字通り寝食を忘れてこれに無中になったのである。失敗は成功の基と自制自奮、日曜日も祭日も何もなかった。しかし光明は中々ひらかれぬ。再三再四吟味を重ね漸く、丁度1年にして最早大丈夫と信じて現場において実地試験して見たところ、どうもうまくゆかない。それこそ天を仰いで長嘆息した。けれども精神一到不成何事、思いを新たにして努力を傾注した。増々勇を鼓して考案の日を続けたのである。かくしてそれより1年半、漸く今度こそ大丈夫なりと自信を得た。そしてその中子を作る試験を再びやってみた。驚くべし、喜ぶべし!理想の製品は見事1回に24個が僅か5分間にて出来ることに成功した。
《出典》
伊藤次吉(1961)「考案研究徒然草」、『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.277
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昭和に入ると北海道の鉄道の延長キロも23,600キロに達し、車輌の増加とともに修繕輌数も増加し、加えて昭和6年に起った満州事変の勃発は、鋳物職場の作業量を大幅に上昇させたものである。特に制輪子の需要が急増したため、鋳造量の増加を計ると同時に、耐摩耗性の向上にも努め、自銃制輪子を出して運転関係者を驚かせたものこの頃である。そして、工事量の激増に伴い、職場の合理化に対する関心も高まり、昭和10年を頂点として、施設面の改革が行なわれたのである。
一方、技術の面においても、昭和9年頃から作業管理の合理化が計られ、作業研究が大々的に行なわれたが、鋳物職場では造型の動作研究による作業方法の改善、適性単価の作製を行ない、労働意欲の向上を計ったのである。しかし、需要は更に上回って、翌10年には制輪子型込個数1人1日当り、機関車は土間込めで甲類、乙類ともに2個込20枠、また客貨車用はモルデングマシンを使用し、甲類、乙類ともに8個込24枠の枠込を指定したのである。
(注)当時の勤務時間は、出勤7時、始業7時10分、休憩12時、就業12時40分、終業16時50分、退出17時で、実働9時間制であった。
このことは、当時の踏面上向キ型込方式において、かなりの困難があったのである。
《出典》
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.221
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1937年7月7日に支那事変が勃発すると、苗穂工場も軍の要請に基づく工事を実施するようになりました。
すると鋳物職場も1日当たり4~5時間の残業が常態化し、更に南満州鉄道への転出者が出たため増産は困難を極めました。
かつて無い逆風に見舞われる中、鍛冶職場で使う2トン蒸気ハンマーフレーム(重量10.5t)の鋳造に成功。
一致団結して工事を完遂できた事に、職人達は感無量だったといいます。
1941年12月8日、第二次世界大戦に突入。
鋳物職場に対する軍の要請もますます苛烈になり、未だかつて実施した事の無い難工事に挑みました。
まず1941年度はマリアブル製品の鋳造、メタリックパッキン材の鋳鉄代用を実施。
続く1942年度は白メタルの配合変更、1943年度は黄銅鉱粉末の生産、3メタル製造、アルミニウムブロンズ鋳造を相次ぎ実施しています。
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小野機関車係長の前に職場長と一緒に立っていた。マリアブル鋳物を作れという命令である。それから約半年というものは悪戦苦闘の連続である。溶解用コシキ炉を作り焼鈍シ炉を作り、鋳造方案を立案し、木型の指示造型、材料の配合、鋳造、焼鈍とどれを取っても鋳物とはいえハタケ違いだ。どうにかJISの2種程度(曲ゲ90°、伸ビ50%、内側半径40m/m)の合格品ができたときは思わず涙が出た。雑布ならとうにスリ切れていたであろう。
《出典》
池田吉之助(1961)「回顧録」、『苗穂工場五十年のあゆみ』日本国有鉄道苗穂工場、p.226
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当時は一般の鋳物においても材料の銑鉄、屑鉄が不足したため、鍛鋼屑を35~40%も配合しなければならなくなりました。
コークス、耐火煉瓦等も粗悪になってしまい溶湯温度が上がらず、多発する製品の鋳巣に頭を抱えました。
そんな状況でも施設の改良・新設は進み、ローラミル、焼鈍炉、コシキ炉、遠心鋳造機などを導入しています。
1944年12月13日には鋳鋼鋳物の製作を開始。
操業に先駆け建屋(1,043㎡)を新築し、鋳鋼機械、鋳型乾燥路、電気炉などを設置しています。
しかし1945年5月には空襲に遭い、あえなく建屋は解体。
職人達も疎開するはめになりました。
苗穂工場組織図
日本国有鉄道苗穂工場(1961)『苗穂工場五十年のあゆみ』p.391より引用
終戦から3年後の1948年、鋳物職場は操業を再開。
その後は釧路工場・旭川工場・五稜郭工場の鋳造業務を集約し、1950年には北海道における鋳鉄品の集中工場となりました。
規模を拡大した苗穂工場鋳物職場は、前年比500t増というノルマを掲げて鋳造に着手。
そして前年実績を大きく越えた2,727tもの鋳造に成功し、翌1951年には創業以来の新記録となる3,150tを叩き出しました。
記念行事として「3,000トン突破祝賀会」を開催し、工場長、職場長、職場全員が快挙の喜びを分かち合っています。
戦後の苗穂工場は組織拡大を続け、書籍『苗穂工場五十年のあゆみ』を発刊した1961年時点では本場7部門(用品倉庫を含む)、職場20部門、その他3部門(技能者養成所・物資部・寮)、合わせて30もの部門を抱える巨大組織となりました。
職員合計は2,399名に上り、現在の約600名(うち半分は札幌交通機械の社員)と比べて段違いに多いですね。
このうち鋳物職場には147名が所属しました。
設備改良にも余念が無く、鋳鉄関係ではピストンリング遠心鋳造機、砂処理機構、ショットブラスト(能力:600kg/毎回)、制輪子連続鋳造装置などを導入。
青銅関係ではシエルモールド機械、2t天井走行用ホイスト、ショットタンブラーなどを導入しています。
日本国有鉄道苗穂工場(1970)『60年のあゆみ』p.35より引用
1969年5月13日、鋳物職場に新たな「制輪子鋳造設備」が落成しました。
これはコンベアを活用して連続式ショットブラスト、砂処理装置(バケットスクリーン)、砂合わせ装置(バケットエレベーター)、造型装置、枠ばらし装置、枠合わせ装置、注湯装置、分析装置をワンストップで動かすものです。
砂型製造、溶解、仕上げ・検査の各工程をより迅速に実施できるようになりました。
1977年9月27日、苗穂工場鋳物職場は「優良現業機関」として総裁賞を受賞。
翌1978年11月9日にも総裁賞を受け、2年連続での受賞という栄光に輝きました。
国鉄苗穂工場(1986)『工場あんない』1986年度版より引用
苗穂工場では1984年2月10日に大規模な組織改正を実施し、これまでの16職場を第1組立職場・第2組立職場・貨車(輪西)職場・検査職場・第1部品職場・第2部品職場・内燃機職場・鉄工職場の計8職場に圧縮再編しました。
同時に鋳物職場は廃止となり、その業務を鉄工職場に移管しています。
そう、「苗穂工場鋳物職場」は今から39年も前に廃止されているのです。
これでWikipediaに書かれた「JRの車両工場で鋳物職場が現存するのは当工場と東日本旅客鉄道(JR東日本)長野総合車両センターのみである」との一文が間違いだとお分かりいただけますね。
JR北海道苗穂工場(1992)『工場ごあんない』1992年度版より引用
分割民営化の1987年4月1日にも更なる組織改正を実施し、本場と職場の二層構造を廃して運転所等と同じ科長制に移行。
鉄工職場は助役の中から1名を科長に指定した「鉄工科」に生まれ変わり、引き続き鋳物・旋盤・設備保守・構内入換の各業務を回してきました。
しかし合理化の流れは避けられず、1999年4月1日には鋳造作業を札幌工営㈱に委託。
それから4年後の2003年4月1日には構内入換を札幌工営、工機作業を札幌交通機械㈱に委託した事により鉄工科は廃止となりました。
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移行時の苗穂工場からの転出については、JR貨物会社や本州JR他社への移籍、公務員、清算事業団等への転出があった。一方で、旭川車両センター、釧路車両所、青函船舶局、運転所等他部門からの転入者もあったが、国鉄時代の昭和61年度に863人いた職員がJR移行後の昭和62年度には457人とほぼ半減した。
これ以降については社員数の大きな変化は見られないが、主な増減要因は以下の通りである。
・平成5~7年度の減員
・・・本社・運転所等他部署への転出、出向等
・平成9年度の減員
・・・北海道ジェイ・アール・サイバネット㈱設立による技術開発部門への出向等
・平成11年度の減員
・・・鋳物作業を札幌工営㈱へ委託したことに伴う出向
・平成15年度の減員
・・・入換作業を札幌工営㈱へ委託したことに伴う出向
工機作業を札幌交通機械へ委託したことに伴う出向
弱電部品作業を北海道ジェイ・アール・サイバネット㈱へ委託したことに伴う出向
・平成16年度の減員
・・・機械加工作業を札幌工営㈱へ委託したことに伴う出向
《出典》
苗穂工場百年史編纂委員会(2010)『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』p.74
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その後、北海道ジェイ・アール・サイバネットは2016年12月1日、札幌工営は2018年4月1日を以って札幌交通機械(略称:SKK)に吸収合併されました。
札幌工営の吸収に伴い、SKKは鋳造作業・構内入換を継承しています。
以上の通り今年で苗穂工場鋳物職場の廃止から39年、鋳造作業の業務委託化から24年が経過しました。
せっかくなので業務委託化後の鋳造の現場を見てみましょう。
玄関の表札には「鋳物作業場 品質管理科」と書かれています。
品質管理科は2009年3月16日に発足した苗穂工場の直轄部門で、それまで工程管理科が所管していた外注・予備品管理業務および検査センター業務と、今は無き技術試験科が所管していた制輪子生産管理業務を引き継いでいます。
制輪子の製造に関する計画・調整は品質管理科が担い、実作業はSKKの作業員達が担当している訳ですね。
鋳物作業場はコロナ前、苗穂工場が毎年開催していた一般公開で見学できました。
玄関前には溶鉱炉から取り出した銑鉄や、古いレールの欠片、鋳造の過程で発生したリターン材を集めた鉄スクラップ置場があります。
これら鉄スクラップは再溶解し、鋳物の材料として再利用します。
これが鉄屑を溶かす電気炉。
溶かした鉄を鋳造に回します。
溶鋼は分析室で検査し、成分に問題なければ注湯装置に出湯します。
こちらは注湯装置。
作業場内に敷かれた線路を走行します。
電気炉を傾け、注湯装置に溶鋼を注ぎ込む様子。
煙が上がり火の粉も舞う様は圧巻です。
鋳物作業場の奥では作業員達が制輪子の砂型を作ります。
この砂型製造と注油作業を並行して実施します。
製造された砂型はベルトコンベアで線路脇へと運ばれます。
注油装置のオペレーターは溶融金属専用の温度計を使い、注湯を行う前に溶鋼が適切な温度を保っているか確認します。
注油装置はゆっくりと前進しながら、砂型に溶鋼を注ぎ込んでいきます。
オペレーターは注湯の際、目視確認を怠りません。
砂型一つ一つ、地道に注湯を行ないます。
苗穂工場では1日最大約300個、年間約45,000個もの制輪子を製造しています。
ちなみに鋳物作業場の東側には庭園があり、手前に動輪をあしらった柵を立てています。
この柵も実は鋳物作業場で製造された物です。
苗穂工場はJR北海道の発足当初、事業開発の一環として鋳造技術を活かしたインテリア製品の販売を手がけていたのです。
他にも食器、ダンベル、表札なども製造していました。
興味のある方は以下の記事もご覧下さい。
《ブログ内関連記事リンク》
※写真の上から2・3枚目、下から1・2枚目は2023年3月13日、隣接するパチンコ屋の駐車場から撮影
※その他の写真は特記を除き2019年9月7日、一般公開の開催中に撮影
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最終更新日 : 2023-05-23