宮城県は石巻市鋳銭場にある、JR東日本の石巻(いしのまき)駅。
県内第二の都市・石巻の中心街に置かれた駅で、石巻線を所属線とし仙石線も乗り入れています。
石巻は北上川の河口に開けた港町で、仁徳天皇の時代は伊寺水門(いしみなと)と呼ばれていたそうです。
この伊寺水門が転訛し、現在の地名である「石巻」になったのだろうと言われています。
1623年、仙台藩主・伊達政宗は石巻を海陸要衝とするべく、川村孫兵衛重吉に北上川の水路整備と築港工事を命じました。
加えて水害が発生しやすい仙台平野北部の新田開発を為すため、河川の改修も併せて実施。
これによって水流が安定し、水はけも良くなった事で新田開発は急速に進みました。
そして石巻も収穫された米を集め、海運で江戸に送る物流拠点となったのです。
米に限らず様々な物資が領内から石巻に集まり、徳川幕政16大港の一つに数えられるほど栄えました。
JR東日本 国鉄 JR貨物 仙石線 石巻線 宮城電鉄 地方交通
1887年7月16日に東北本線の前身に当たる私鉄・日本鉄道郡山~塩竈(後の塩釜線塩釜港)間が開業すると、石巻の海上交通は鉄道に客荷を奪われ衰退。
この苦境を打開するべく、港湾施設を整備して500トン級の貨物船も出入りできるようにしました。
1960年には北上川河口から約3km西の釜地区で工業港の建設に着手。
当時は日本製紙㈱石巻工場をはじめ、木材、食品、飼料、鉄鋼などの工場が集まり、臨海工業地帯として脚光を浴びていたのです。
石巻工業港では1967年3月10日に第1船を受け入れ、港湾施設の拡張工事を重ねつつ貨物量は順調に推移しています。
一方、明治期から金華山・三陸沖の資源を活かして漁業が振興し、流通や水産加工の拠点として商工業が活発化。
1963年には流下土砂対策として新漁港を建設し、大型漁船の受け入れに対応できるようになりました。
金華鯖をはじめアジ、カレイ、黒ソイ、ヒラマサ、メバル、マトウダイ、ナマコ、アサリ、シャコエビ等、豊富な海産物が水揚げされています。
さて、石巻駅の所在地である鋳銭場(いせんば)は仙台藩が領内の貨幣不足を改称するべく、幕府の許可を得て銭座(銭を生産する鋳造場)を設けた場所です。
この鋳銭場は享保年間(18世紀初頭)の開設で、石巻に置いたのは原材料や燃料の仕入れ、製品の出荷に便利な立地だったからだといいます。
最初は銅一文銭を鋳造し領内と江戸に流通しましたが、やがて領内のみの流通に縮小。
しかも質の悪い鉄一文銭を鋳造するようになり、これが領外へ流出して銭相場を下落させ、全国的な経済混乱を招きました。
そんな曰く付きの鋳銭場には溶鉱炉や工場が建ち並び、200~300人もの従事員が働いていたそうです。
石巻での貨幣鋳造は幕末まで続き、鋳銭場が閉鎖されると石巻の街中は火の消えたようになったといいます。
その跡地は今なお「鋳銭場」の名を地名として残し、旅館や居酒屋、電器屋などが軒を連ねる商店街と化しています。
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.775より引用
ここからは石巻駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
当駅の所属線である石巻線は元々、私鉄の仙北軽便鉄道として開業した路線です。
仙北軽便鉄道の設立を主導したのは仙台藩士族の実業家・荒井泰治です。
荒井泰治は司法省貸費生、東京横浜毎日新聞社、日本銀行などを経て鐘淵紡績支配人、東京商品取引所常任理事、富士紡績支配人を歴任。
その後、語学力を活かしてフランスのサミュエル商会に転職すると、同社台北支店長として台湾に赴任。
製材業・銀行業・樟脳製造業など多彩な事業を興して巨万の富を得ました。
そして1911年に帰国して貴族院議員となった後、故郷・宮城の発展に資するべく鉄道敷設に身を投じたのです。
これを受けて石巻町役場は鉄道敷設に必要な用地を全て寄附。
牡鹿・桃生・遠田の3郡も「営業開始後に10%以上の配当が可能になった時点で還付すること」を条件に、現金1万円を寄附しました。
官民一体となって敷設工事に取り掛かり、1912年10月28日に仙北軽便鉄道小牛田~石巻間が新規開業しました。
この時、石巻駅は旅客・小荷物・貨物を一手に取り扱う一般駅として開設されています。
石巻線と仙石線で構内が分断されていた頃の「汽車駅」
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』巻頭カラーp.6より引用
鳴り物入りで開業した仙北軽便鉄道ですが経営は厳しく、建設時に3郡から集めた寄付金も配当が10%に達せず還付できませんでした。
また、軽便鉄道ゆえに線路の構造が簡素で速度を出せず、東北本線とはレール幅も違うため車両の行き来が出来ない等の不便もありました。
そこで沿線からは仙北軽便鉄道の国有化を求める声が強まり、1919年4月1日に全区間が国鉄に買収される事となりました。
同時に路線名称を「仙北軽便線」と定め、1920年5月23日には改軌(762mm→1,067mm)も為されています。
1921年1月1日には「石巻軽便線」に改称。
1922年9月2日に現在の「石巻線」に改称しました。
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仙北軽便鉄道の官有鉄道化の気運は1916年(大正5)から出ていた。これによれば、狭軌のために小牛田で貨物の積み替えをする必要のあること、貨物積載量に制限があること、速力が遅いことが主たる理由であり。同年に日本郵船の萩浜港定期航路が廃止されたことも地元の要求に拍車をかけたという(『石巻市史』第3巻)。そこで石巻町長は町会の決議を求め、最初の請願書を出した(同前)。これによれば、小牛田~石巻間の軽便鉄道が国有化されれば、東海岸との交通が完備することとなり、その結果地方産業を促進し、東北の経済界に資することができると主張している。ついで1917年(大正6)にも次期町長にもその運動は引き継がれ、同年6月27日には岡田座を会場として町民大会が開かれ、請願書が重ねて提出された(同前)。そして県選出議員を介して鉄道員に執ように運動した結果、国有化が実現することとなった。
《出典》
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.778
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宮城電鉄 山手線
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.783より引用
一方、県内では仙台と石巻を直通する鉄道の構想も浮上。
東京の兵器機械商社「高田商会」の2代目社長である高田釜吉が、同社幹部の山本豊次らと共に「宮城電気鉄道」を設立しました。
人呼んで「宮電」、宮城県内としては初の高速電気鉄道です。
宮電の社長に就任した山本豊次は元々、旧広島藩士の子息として生まれました。
東京帝国大学理学部で化学を専攻し、卒業後は四川省の学校に勤めたといいます。
ターニングポイントは1912年。
高田商会のヘッドハンティングを受け、技師として同社に転職したのです。
入社後は宮城県栗原郡にあった細倉鉱山の所長を務め、亜鉛精錬の研究に没頭。
1915年には電気分解によって純度99.97%の亜鉛の精錬に成功し、「電解亜鉛の父」として広くその名が知られたそうです。
しかし第一次世界大戦が終息すると亜鉛の需要は激減し、鉱業用の電力が大量に余る事態となりました。
この余剰電力を有効活用するべく、山本氏は1920年に宮城送電興業を設立。
同年中に創業した旭紡績に電力を供給し始め、余剰電力の80%を消費できました。
しかし残り20%(約700キロワット)の消化が悩みの種で、山本氏は考え抜いた末に電気鉄道の敷設を思いつきました。
そして1925年6月5日、宮城電気鉄道の仙台~西塩釜間が新規開業したという訳ですね。
石巻線と仙石線で構内が分断されていた頃の「電車駅」
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』巻頭カラーp.6より引用
さて宮電の親会社である高田商会ですが、高田鉱山の火災事故、関東大震災での被災による在庫消失、為替下落といった受難に圧され1925年2月に倒産しました。
宮電は開業の4ヶ月前に親会社と決別するはめになり、後ろ盾を失った山本社長は自力で建設資金の調達に奔走。
銀行からは悉く融資を断られましたが、1926年に日本生命から合計300万円を借り受ける事ができました。
開業前の予想を大幅に上回る営業成績を上げ、1927年には早くも「宮城電気鉄道株式会社定款」を改正し多角経営化。
鉄道事業を核としつつ、バス、船舶、電力事業、倉庫業、劇場、浴場、旅館、物販、遊園地、不動産事業などに参入していきました。
中でも同社直営の松島遊園は、総面積1,800坪の一大レジャー施設として同年8月1日に開業し、鉄道との相乗効果で大いに賑わいました。
その後は順調に延伸を重ね、1928年11月22日には陸前小野~石巻間が開業。
これで宮電の全線開通が実現しました。
なお、石巻駅は石巻線と宮電とで駅構内を分断しており、駅舎も別々に建っていました。
そのため石巻市民は石巻線の方を「汽車駅」、宮電の方を「電車駅」と呼び分けていたのです。
「汽車駅」と「電車駅」の二極体制は平成初期まで続く事となります。
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ついで、宮城電気鉄道線における石巻駅の地位についてみることとしたい。表96は『宮城県統計書』による石巻駅の営業成績である。これによれば、仙台~石巻間全通によって旅客数は3倍強に増加、貨物も大きな伸びを示している。そしてその後年を追うに従って微増している。また、全線の収入総額に占める割合は20パーセント以上であり、線内での収入順位は2位を堅持し、大きな地位を占めていたと結論づけられよう。しかし、一方で宮城県内における仙台・塩竈圏(仙塩圏)と石巻圏の存在が浮き彫りにされた。それを山本は「仙台市と石巻市とは経済関係の極めて薄い各独立した都市の観があります。事実乗客の移動範囲を見まするに鳴瀬川を境とし、西は仙台市に、東は石巻市に集中移動して居ります」と述べている(山本豊次『宮電の回顧と其将来の検討』同刊行会 1940)。これは現在までも続く地域課題のひとつであろう。
実際の運転状況については史料がなく不明であるが、山本によれば、1940年(昭和15)段階において、仙台~塩竈間は5時~20時30分まで毎日60往復、仙台~松島間は5時~23時まで30分ごとで毎日38往復、仙台~石巻間は5時~22時まで1時間ごとで毎日18往復であるという(同前)。
《出典》
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.p.797,798
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宮電も当初は国鉄と同じ「石巻駅」という駅名でしたが、1932年1月8日に「宮電石巻駅」に改称しています。
その後、宮電は日中戦争の勃発を契機として1939年6月8日に「宮城電鉄交通報国会」を結成。
戦時体制に組み込まれた事で、陸前原ノ町、多賀城、矢本などの軍事施設に旅客・物資を輸送するようになり、経営基盤をより強固にしていきました。
1939年11月7日には宮電の新線である石巻臨港支線が開業。
この支線は同年2月1日に先行開業した宮電山下駅から分岐し、釜地区の石巻港へと至る貨物線です。
敷設の背景には東北振興パルプ㈱表日本工場(現:日本製紙石巻工場)の誘致があり、石巻駅構内にも石巻線との渡り線を設けて貨物列車の直通運転を開始しました。
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ついで1937年(昭和12)に石巻臨港支線の敷設が申請された。
これは、宮城電気鉄道社長山本豊次の申請書によれば、
(上略)近時石巻ハ急速ノ発展ヲ為シ内務省直轄工事トシテ施行ノ北上川改修、同河口築港竝之ニ伴フ諸般ノ設備完成ト共ニ其ノ流域地方ヨリ集散スル農産物ノ取扱及所謂金華山沖大漁場ノ大小漁船出入等著シク頻繁トナリ、又一方北表日本沿海航行船舶ノ寄港地トシテ、亦其ノ価値ヲ漸次認メラレルニ至リ、同港ニ輸入セラルル水産物其ノ他一般貨物頓ニ増加ヲ来シ候処、之カ直接水陸運輸上ノ連絡設備無之多大ノ不便ヲ感シ居ル現状ニ付、当社鉄道仙台起点四九粁〇五地点ヨリ分岐シ、石巻築港地ニ至ル延長三粁五ノ臨港支線ヲ敷設シ、旅客貨物ノ運輸営業ヲ為シ地方交通機関トシテ職責ヲ全フ致度候間、御免許被成下度(後略)、
北上川水運と港を通じて川の上流や日本海沿岸を回ってくる海上交通によって、石巻に集散する物資や金華山沖の漁場から水揚げを行う漁船などの需要を当て込んだものであった(「石巻臨港支線敷設免許申請書」)。具体的には牡鹿郡蛇田村字横堤~石巻市門脇町築港地に至る3.5キロメートルで、建設費は30万円、全額借入金によって賄うことになっていた(「起業目論見書」)。また、山本社長が願い出た形にはなっているが、実際には市当局の積極的な働きかけがあったらしい(『石巻市史』第3巻)。免許状は1938年(昭和13)12月20日に交付された。また、これによって見込まれる旅客人員は6万4千334人、貨物は1万870トンで、予定収入は2万9千790円、支出は1万3千60円で純益は1万6千730円であった(「運送管業上ノ収支概算所」)。
このように港と石巻駅を結ぶ貨客線として構想された臨港支線であるが、免許交付直前の同年10月12日には、山本宮城電気鉄道社長によって異なった目的をもって再び請願がなされた。
(上略)今春東北振興パルプ株式会社表日本工場、石巻市ニ設置ノコトニ決定セラレ、而モ工場ノ位置ハ弊社沿線ニ近接シ、随テ工場原料竝製品等ヲ輸送スル為ニ必要トスル工場ト省線石巻駅トノ間ノ鉄道連絡ハ弊社既設線ノ一部ヲ利用シ、宮電石巻起点一粁五附近ヨリ分岐シテ免許申請中ノ弊社石巻臨港支線予定線ニ沿ヒ、工場に至る約一粁七分ノ新線を建設スルコトガ最モ効果的ニシテ且時代ノ要求ニモ適合スルモノナリトノコトニ東北振興パルプ会社ト弊社トノ間ニ協定成立シ、今般両者間ニ(中略)契約ヲ締結仕候(後略)、
東北振興政策の一環として国策会社である東北振興パルプ株式会社表日本工場の石巻誘致が決定し、その建設地が前年に免許願書を提出した臨港支線に近接していたため、同社と契約締結の上、工場に引込線を引くことを願い出たのであった(「石巻臨港支線敷設免許ニ関スル情願書」)。この請願書の1日前に締結された契約書によれば、宮城電気鉄道は建設用材料・機械、工場運転に要する原料・燃料・薬品、製品・半製品などの輸送を請け負い、代わりに同社から25万円を限度とする貸し付けを受けることになっていた。
これによって宮城電気鉄道線の宮電山下駅(蛇田村)が設置されることとなり、そこから分岐し、新設の釜駅(石巻市門脇字三軒屋)に至る臨港支線の建設が認可された。
《出典》
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.p.787~789
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一方、国鉄石巻線は1939年10月7日に石巻~女川間を延伸開業。
元々この区間に並行して私鉄の金華山軌道が敷かれていたのですが、北上川東岸の湊町で線路が途切れているため、石巻駅までは乗り入れていませんでした。
しかも大部分が併用軌道なので速度を出せず、車両も小さいため思うように水産物を運べない・・・というように不便な路線だったのです。
沿線では石巻線の女川延伸を求める声が根強く、その実現と引き換えに金華山軌道は1939年10月29日に廃止されています。
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.799より引用
1940年1月31日、日本政府は第二次世界大戦の激化を受けて「陸運統制令」を公布。
私鉄やバス会社の統合・買収などを推し進め、軍需輸送を優先するべく一般物資・旅客の統制を図りました。
宮電も1944年5月1日に陸運統制令の対象として国有化され、路線名称を「仙石線」と定めました。
宮電石巻駅についても国鉄石巻駅に統合されましたが、以降も「汽車駅」と「電車駅」に分かれた状態が続きました。
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戦時体制の構築にかかわる公共交通機関の統制は1939年(昭和14)以降強化されていたが、1941年(昭和16)11月には改正「陸運統制令」が公布された。これによって私設の鉄道・運送・自動車などの事業を政府が必要と認めた場合には直接管理・運営指導が可能となり、さらには買収もできることとなった。以後、この法律を根拠として私設鉄道の買収が行われた。ついで私設鉄道統制のために政府によって鉄道軌道統制令が設立され、施設鉄道は戦時輸送体制に組み込まれていく。
1943年(昭和18)以降の戦争激化に伴い、私設鉄道の買収がなされた。その合計は1千51.4キロメートル(未成線は除く)に達した。当該期に買収された鉄道線の特色は、①炭坑地帯・セメントなど重要原料生産地帯の鉄道線②工業地帯とその周辺の物資輸送・通勤用の鉄道線③幹線の連絡線としての鉄道線の3つに分けることができるという(同前)。この中で宮城電気鉄道は②の分類に入るものである。
このような形で日本国有鉄道仙石線は誕生したのである。
《出典》
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.p.799,800
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終戦直後、宮電の元社長・中村梅三や旧株主は仙石線を以前の私鉄に戻すよう求めましたが、沿線自治体や国労から猛反発を受けて実現しませんでした。
『石巻日日新聞』1951年10月20日付によると、私鉄化反対派は当時計画中だった三陸鉄道(国鉄気仙沼線・大船渡線気仙沼~盛間を含む)との接続に問題が生じる事を懸念していたそうです。
この頃、進駐軍の買出し部隊が塩釜、石巻の漁場に繰り出すべく仙石線を利用。
その一方で軍需産業一色だった沿線事業者は何処も閑散とし、鉄道貨物輸送が減少の一途を辿るようになりました。
更に1952年4月、アメリカによる統治が終わると進駐軍も引き払ったため、仙石線の営業成績は急速に悪化。
国鉄全体で見てもとりわけの非採算線区と化した仙石線の経営改善を図るべく、国鉄当局は1956年10月1日に「仙石線管理所」を開設しました。
管理所とは「総合管理方式」を適用し、駅・車掌・運転・検修・保線・建築・機械・電気・事務の各業務を統合した現業機関の事。
JR北海道の「運輸営業所」やJR西日本の「鉄道部」などの先駆けと言える存在です。
車両基地 陸羽東石巻線管理所
市川武雄(1957)「経営合理化の新ケース仙石線」、
『国鉄線』1957年7月号(財団法人交通協力会)p.24より引用
仙石線管理所は国鉄が開設した最初の管理所で、石巻駅の「電車駅」も同管理所の管轄に置かれています。
在籍職員は合計738名で、その内訳は所長1名、主任6名(後の科長)、本所事務室41名、車掌58名、電車運転士50名、検修員60名、駅員361名、保線係員77名、電力係員39名、変電係員33名、信号保守係員12名。
当初は試験的な運用だった仙石線管理所ですが、経営改善に効果を上げた事から1959年7月より全国各地に管理所方式が波及しました。
ちなみに仙石線管理所の初代所長を務めた市川武雄さんはその後、1969年10月11日発足の新会社・石巻臨海運輸㈱の社長に就任しています。
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わが国の産業は朝鮮戦争を契機として徐々に復興発展していったが、国鉄は戦後の荒廃からの立ち直りが遅れ、急増する輸送需要に対応するだけの十分な輸送力を行いえず、また投資不足などから諸設備の近代化についても著しく立ち遅れていた。しかし、今後の人口増加や産業経済の伸展、生活水準等を考えると、国鉄の輸送力を大幅に増強し、また設備の近代化を図らなければならなかった。人員要員については、極力合理化と能率向上によって業務量増加に対処し、不増の方針を堅持してきたが、それにもかかわらず給与水準の上昇により人件費の膨張が著しく、国鉄経営を圧迫する度合は年を追って強まっていった。このような財政状況に対処すべく、車両定期修繕期間の延長により修繕費節約、作業の外注化、付帯業務の廃止、あるいは合理化・簡素化を図っていった。
このため、地方閑散線区については、その線区に適した「総合管理方式」を採用して人員及び経費の節約に努めることになった。この「総合管理方式」とは、管理所、運輸区及び管理長を設置し、非採算線区の経営改善を図ることであった。具体的には次のとおり。
管理所:線区内の全ての現業機関を統合したもの
運輸区:線区内の駅と車掌区(場合によっては機関区も)を解消統合したもの
管理長:規模の小さい線区については独立した管理機構を作らず、その線区に関係
している主要駅長などが管理長を兼ねて線区の管理を行うもの
国鉄は昭和33年8月2日、日本国有鉄道組織規程の一部を改正し、「鉄道管理局に支社長の定めるところにより、管理長を置くことができる」ことになった。その後、鉄道管理局の現業機関として「管理所及び運輸区」が追加された。この結果、「総合管理方式」と名づけて、管理長、管理所及び運輸区を設置して、全国的に非採算線区の経営改善を強力に図ることになった。
《出典》
村上心(2008)『日本国有鉄道の車掌と車掌区』(成山堂書店)p.64
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かんりしょ 管理所
国鉄の新潟・中国の両支社および鉄道管理局の現業機関。
この現業機関は、非採算線区の経営改善をしていくために、線区単位に設ける経営組織の一種であり、その線区における各職能別の現業機関を解消統合して、総合的現業管理機構とし、所長には支社長権限または局長権限を大幅に移譲したものであるが、実施上支障のある場合を考慮して、例外的に一部の現業機関を存置してもよいことに弾力性をもたせている。
昭和31・10・1仙台鉄道管理局管内の仙石線の経営合理化のため陸前原ノ町に仙石線管理所を設置し、テスト中であったが、改善成果が高く評価されたので、昭和33・7線区経営組織による経営改善の実施について通達された。
線区経営組織としては、このほかに運輸区方式と管理長方式とがあるが、管理所方式は経営改善の施策が実施しやすく、その効果も大きいことが実証されたので、つとめてこの方式によるものとしている。
管理所の設廃権限は支社長にあり、昭和40・12・1現在北海道支社管内に3、東北支社管内に11、新潟支社管内に1、関東支社管内に2、中部支社管内に3、関西支社管内に3、中国支社管内に4、西部支社管内に2置かれている。
(宮坂正直)
《出典》
日本国有鉄道(1966)『鉄道辞典 補遺版』p.63
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管理所は現場管理の計画に当る部門と計画を実行する現場とが一体となって動いている。所長は計画者であると同時に現場作業の責任者でもあるから、自然に現場を十分把握し、且つ責任者の立場において計画することになる。管理機構としてはけだし理想的というべく、この体制は日常業務を敏速に処理するに好都合である。従来は臨電1本動かすにも、電車の運用は運転部へ、車掌は営業部へ、電力は電気部へと打合せが大変であったが、現在では関係主任は同じ室におり、電車当直と運輸当直とは机を並べているから簡単にすむ。増結や切落しなどはお客を見てからでも十分に手配できる。計画と現場とが一体化しているおかげである。
《出典》
市川武雄(1957)「経営合理化の新ケース仙石線」、『国鉄線』1957年7月号(財団法人交通協力会)p.25
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一方、石巻線も総合管理方式の対象となり1959年11月1日、小牛田駅に「陸羽東・石巻線管理長」を配置しました。
管理長とは対象線区の経営管理に当たる役職で、運輸長のように非現業職員1名が着任するか、関係主要駅の駅長1名が兼務したものです。
石巻駅の「汽車駅」も同管理長が所管する事となりました。
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かんりちょう 管理長
国鉄の新潟・四国・中国の3支社および鉄道管理局に置かれる非現業職員(現業機関の長を兼務する場合もある)であって、支社長または局長の指揮を受けて担当区域内における現業業務を管理する職である。
すなわち、線区には、職能別にその線区の経営を分担している、それぞれの現業機関があるが、それらの現業機関の統合は原則として行なわず、その線区における経営の総合的責任者としてこれらの上に立ち、支社長または局長から与えられた管理権に基づいて、関係する現業機関の業務を管理し、経営改善を推進する職である。したがって、管理長が担当する線区は、駐在運輸長の担当区域から除外される。
管理長は、昭和40・12・1現在において、北海道支社管内に8、東北支社管内に10、中部支社管内に4、関西支社管内に4、中国支社管内に4、西部支社管内に3置かれている。
(宮坂正直)
《出典》
日本国有鉄道(1966)『鉄道辞典 補遺版』p.p.63,64
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そして石巻線も1960年4月1日、管理長を廃して管理所体制に移行。
小牛田を拠点とする「陸羽東・石巻線管理所」が発足し、駅・車掌・運転・検修・保線・電気など合計942名の職員を抱える一大組織となりました。
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東北本線小牛田駅を起点として、東に石巻線、西に陸羽東線が走り、前者は、三陸漁場をひかえた石巻港、後者は、温泉とこけしの故郷として有名な鳴子を持ち共に古くからみちのくを訪れる人々に親しまれた路線ではあるが、今は、他の支線区の例にもれず、非採算線区として、経営改善の爼上にあり、昭和35年4月1日から、小牛田駅構内に発足した、陸羽東・石巻線管理所の管理するところとなっている。
この管理所のアウトラインとしては、駅数34(一般駅23、旅1、貨1、無人駅9)、職員数942名、SL14両、DC50両、営業粁は140.3粁となっており、特にDCは、仙鉄唯一の基地であり、ここで整備された車両は、準急列車として遠く新潟(あがの号)、水戸(いわき号)、秋田(たざわ号)、酒田(もがみ号)まで足を延ばしている。一線単一管理所の多い現状において、両線同一管理の方式をとられていることも、特長の一つである。
《出典》
日本国有鉄道営業局(1962)「経営合理化にはげむ陸羽東・石巻線管理所」、『国鉄線』1962年1月号(財団法人交通協力会)p.25
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仙台鉄道管理局では仙石線管理所に続けとばかりに、会津線管理所、陸羽東・石巻線管理所、磐越西線管理所、磐越東線管理所、仙山線管理所を相次ぎ開設。
管内に合計6ヶ所の管理所が揃いましたが、経営改善に貢献したのは初めの数年間だけだったようです。
1967年6月1日には会津線管理所と磐越西線管理所、1968年9月10日には仙山線管理所が相次ぎ廃止。
1971年4月1日には仙石線管理所をはじめ陸羽東・石巻線管理所、磐越東線管理所の3ヵ所も廃止となり、15年間に渡る管理所体制に終止符を打ちました。
同時に石巻駅は元の独立した現業機関に戻りました。
仙鉄局は1971年11月30日、営業近代化の一環として管内24駅の貨物集約を実施。
石巻線では石巻駅をはじめ鹿又駅、陸前稲井駅の3駅が貨物フロントを廃止し、これらで取り扱っていた貨物を釜駅(現:石巻港駅)に集約しています。
同時に石巻駅は一般駅から旅客駅に種別変更しています。
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北上川河口に位置する石巻は、大正年間以降、金華山沖漁場を背景とする漁港として栄え、また近年、その恵まれた地理的条件と豊富な水資源により、東北地方の経済の重要な臨海地域として発展してきました。
今回は、このような石巻地区の貨物拠点駅である、石巻港駅を訪ねました。
「昭和46年ですね、石巻駅の客貨分離が行われまして、貨物取扱が釜駅に移されたんです。その釜駅が、昭和47年に駅名が改称されまして、現在の石巻港駅となったわけです。ですから現在は、石巻駅は旅客取扱のみ、貨物は石巻港駅、ということです。また43年には、石巻港駅から3キロ程先に石巻埠頭駅が開設されまして、埠頭線が敷かれたんです。もっとも埠頭駅といいましても駅本屋はなくて、営業キロをはじく際の基準点という意味ですが」
《出典》
日本国有鉄道営業局(1975)「われら第一線 石巻港貨物駅」、『国鉄線』1975年8月号(財団法人交通協力会)p.25
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仙鉄局は1973年7月24日、石巻駅に「みどりの窓口」を開設。
ディスカバー・ジャパンのブームに乗って、旅客サービスの向上を期しました。
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ディスカバー・ジャパン・キャンペーンは、この3年間で国民各層に浸透し、脱都会、自然志向の傾向と相まって次第にその効果が現れ、48年もこのキャンペーンを基調として旅行ムードの高揚をはかるとともに、これに各種の輸送改善、企画商品を結びつけて旅客誘致をはかった。
とくに、48年は「自然へ帰る家族旅行」を販売テーマに、全国的に毎月重点宣伝地域を定め、自然への志向をテレビ、ラジオ、ポスターなどで集中宣伝を展開した。また、前年の大幅輸送改善で誕生した「L特急」のキャンペーンを、「数自慢、カッキリ発車、自由席」のキャッチフレーズで強力に売り込みを行い、イメージチェンジをはかった。
仙鉄局でも、前年に引き続いて販売体制の整備、企画商品の発売、フロントサービスの向上などに力を入れた。すなわち、石巻駅に「みどりの窓口」を新設、郡山、福島両駅に自動きっぷ売場コーナーを設置した。フロントについては、郡山、福島、仙台、会津若松駅に地図式運賃表を採用、会津若松駅の誘導標カラー化、仙台駅に「列車遅延情報表示装置」(反転式)の設置等を行ったほか、乗客係、車掌等の放送担当者の学園教育も実施した。
《出典》
日本国有鉄道仙台鉄道管理局(1979)『仙台鉄道管理局60年史』p.195
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1974年10月1日、石巻駅は営業範囲改正を実施。
手荷物の取扱いを廃止し、旅客・小荷物に窓口営業を縮小しました。
1982年6月、石巻線石巻~女川間が単線自動閉塞化。
1983年10月2日、ダイヤ改正に伴い仙石線東塩釜~石巻間が自動閉塞化し、石巻駅におけるタブレット閉塞器の取扱いを全廃しました。
1985年3月14日のダイヤ改正では小荷物フロントが廃止されました。
これで石巻駅のフロント業務は旅客(出改札・案内)のみとなりました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が石巻駅を継承。
1988年3月1日、仙石線多賀城~陸前山下間がCTC化しました。
1984年11月10日に撮影された石巻駅周辺の空中写真
国土地理院公式サイト『地図・空中写真閲覧サービス』より引用
1990年7月21日、遂に「汽車駅」と「電車駅」が統合されました。
これまでは駅構内が分割されていたために、乗り換え客は一旦ラッチ外に出なければなりませんでした。
地元としては長年の悲願だったといい、その実現によって不便が解消されました。
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仙石線には以上述べた西塩釜―東塩釜間の線増高架化のほかに2つの懸案事項がある。
その1つは仙台地方中核都市交通網整備に関連する仙台―陸前原ノ町間の連続立体交差化計画である。これについては現在地下化高架化のいずれがよいか、その範囲・ルートなどの問題点の検討が関係箇所で行なわれている段階であるが、東北新幹線開業にともなう仙台駅東部並びに仙石線沿線の将来の発展のかぎを握るものとして注目されている。
さらにもう1つの懸案事項は石巻駅における石巻線への乗り入れによる同線終点女川駅までの直通運転である。女川は冒頭にのべた牡鹿コバルトラインの始点であり、牡鹿半島を縦断して金華山に至るいわば観光の玄関口ともいうべき位置にある。しかし、現在、仙石線石巻駅と石巻線石巻駅とは隣接していても乗り入れができず、すべて乗り換えとなっている。この改善は地元民の強い要望でもあるが、仙石線を整備する場合の大きな課題であろう。
《出典》
岩垂定男(1973)「仙石線西塩釜―東塩釜間線増高架化」、『交通技術』1973年8月号(財団法人交通協力会)p.25
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最後に石巻線・仙石線両石巻駅の統合は戦前からの懸案であったが、1990年(平成2)7月21日に実現された。駅舎は石巻線のものを約2倍に増改築し、中央改札口右手に石巻線、左手に仙石線ホームを設置した(同年7月22日付「石巻かほく」)。建設には約6億9千万円が投じられた。5時27分の仙石線仙台行列車が始発で、10時から記念セレモニーが行われ、多くの市民が参加し祝った(同年7月21日付「石巻日日新聞」)。一方仙石線駅舎は廃止され、取り壊された。同駅は1928年(昭和3)の宮城電気鉄道の石巻開業以来62年の歴史に幕を降ろしたのであった。
《出典》
石巻市史編さん委員会(1996)『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』p.p.830,831
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2012年10月22日に撮影された石巻駅周辺の空中写真
国土地理院公式サイト『地図・空中写真閲覧サービス』より引用
2011年3月11日には東日本大震災が発生し、石巻線・仙石線とも全線不通となりました。
懸命な復旧工事により同年3月28日には仙石線あおば通~小鶴新田間、4月17日には石巻線小牛田~前谷地間が運行を再開。
その後も徐々に復旧工事を重ねていき、5月19日には石巻線前谷地~石巻間、7月16日には仙石線矢本~石巻間も運行再開となりました。
ただし石巻駅構内の信号設備が使えず、応急処置としてスタフ閉塞を施行する状況が続きました。
2011年10月15日には信号設備が復旧し、石巻線でのスタフ閉塞を終了。
なお、仙石線は高城町~陸前小野間の分断が続き、陸前小野~石巻間については1編成しか往復せず、列車交換が発生しないのでスタフ閉塞を続けました。
2012年3月17日、石巻線石巻~渡波間が運行を再開。
仙石線のスタフ閉塞は同年9月29日に終了し、陸前山下~石巻間における自動閉塞の使用を再開しています。
2015年5月30日、高城町~陸前小野間の運行再開により仙石線の全面復旧が完了。
同時に高城町駅と東北本線松島駅を結ぶ接続線が開業し、新たな系統路線である「仙石東北ライン」が運行を開始しています。
2015年10月1日、仙石線矢本駅の業務委託化に伴い、同駅が管理した陸前大塚~陸前赤井間の各駅が石巻駅に移管されています。
2016年8月6日、仙石東北ライン1往復が女川駅への乗り入れを開始。
国鉄時代から構想のあった仙石線・石巻線の旅客列車直通運転が実現しました。
2018年5月11日、駅構内に同居していた旅行センター「びゅうプラザ石巻駅」が閉店。
旅行商品のインターネット直販が台頭した事で苦戦を強いられ、約30年間の営業活動に終止符を打ちました。
現在の石巻駅は管理駅(直営駅)として石巻線陸前稲井~女川間6駅、仙石線陸前大塚~陸前山下間11駅の合計17駅を所管しています。
駅長を筆頭に営業、輸送の各駅員(副長・主務・主任・指導係・係員)が従事しています。
駅舎はかつての「汽車駅」に増改築を施した木造建築です。
正面玄関が2ヶ所ありますが、現在は西側の1ヶ所しか出入りできません。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
石巻線石巻駅[1] 「汽車駅」と「電車駅」に分かれた港町のテルミニ
※写真は特記を除き2022年9月23日撮影
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最終更新日 : 2023-04-13