宮城県は宮城郡松島町高城字元釜家にある、JR東日本の高城町(たかぎまち)駅。
日本三景として有名な景勝地・松島の北方に位置する住宅街の駅です。
付近には宮城県立松島高校があり、平日は多くの高校生が通学に利用します。
仙台藩主・伊達政宗は1620年8月、領内に塩田が無く他藩から塩を購入している現状を問題視し、長州浪人・縄田三郎左衛門を召抱え塩田開発を命じました。
三郎左衛門のいた長州藩は「防長三白」と言うほどに、瀬戸内海での製塩が盛んだったのです。
命を受けた三郎左衛門は弟の利助、同じく長州浪人である関佐左衛門と共に領内を駆け巡り、塩田に適した場所を探しました。
そして高城が有力と見なし、現地住民に塩田の作り方、塩煮の方法、道具のこしらえ方などを指南。
こうして「高城塩田」を創設し、仙台藩としては待望の製塩事業が始まりました。
政宗は三郎左衛門ら3人を若林御殿に呼び、褒美として扶持5人分と御切米を与え、なおかつ苗字帯刀を許しています。
この時、三郎左衛門と利助は縄田から伊藤に改名するよう命じられ、利助の子孫は今なお高城町で暮らしているそうです。
ちなみに「伊藤利助」というフルネームは奇しくも、同じ長州藩出身の維新志士・伊藤博文の幼名と一致します。
また、高城町は仙台と石巻を結ぶ「石巻街道」の沿線であり、宿場町としても栄えました。
江戸時代は「高城宿」と呼ばれ、石巻、気仙沼、金華山、志田、遠田、登米郡など各方面への分岐点として重要な場所でした。
街中は松島見物に訪れる人々、地方知行制により仙台城と在郷を行き来する藩士達、塩の取引に訪れる商人などで大いに賑わいました。
後年、石巻街道に沿って敷設された鉄道が仙石線という訳ですね。
伊藤三郎左衛門 縄田利助 木造駅舎 木造モルタル JR東日本 国鉄 JR貨物
仙石線は元々、私鉄の宮城電気鉄道(通称:宮電)として開業した路線です。
高城町駅は1928年4月10日、宮電松島公園(現:松島海岸)~陸前小野間の延伸開業に伴い旅客駅として開設されました。
ただし書籍『松島町史(通史編Ⅰ)』によると貨物も取り扱っていたといい、実質的な一般駅であったようです。
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松島公園、高城町、手樽の3駅では、貨物も取扱っていたが、総収入指数の動きと旅客収入指数の推移をみると、高城町や手樽の駅では、旅客による収入の落ち込みを、貨物取扱で何割かは補っていることがよみとれる。ちなみに、昭和10年の貨物取扱は、松島公園駅では発送が鮮魚など184キログラム、到着が生野菜、石炭など547キログラム、高城町駅が発送米、鮮魚など599キログラム、到着が砂糖、果物など956キログラム、手樽駅は発送鮮魚類など133キログラム、到着がやはり鮮魚など107キログラムであり、東北本線松島駅にくらべると微々たるものであった。
《出典》
松島町史編纂委員会(1991)『松島町史(通史編Ⅰ)』p.683
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1940年1月31日、日本政府は第二次世界大戦の激化を受けて「陸運統制令」を公布。
私鉄やバス会社の統合・買収などを推し進め、軍需輸送を優先するべく一般物資・旅客の統制を図りました。
宮電も1944年5月1日に陸運統制令の対象として国有化され、路線名称を「仙石線」と定めました。
同時に高城町駅の種別は旅客駅から一般駅に変わっています。
東北本線 仙石線 仙石東北ライン 205系 山手線 JR北海道 木造駅舎 車両基地
終戦直後は進駐軍の買出し部隊が塩釜、石巻の漁場に繰り出すべく仙石線を利用。
その一方で軍需産業一色だった沿線事業者は何処も閑散とし、鉄道貨物輸送が減少の一途を辿るようになりました。
更に1952年4月、アメリカによる統治が終わると進駐軍も引き払ったため、仙石線の営業成績は急速に悪化。
高城町駅も1956年7月9日、貨物フロントを廃止するまでに追い込まれました。
同時に一般駅から旅客駅に種別変更し、窓口営業を旅客(出改札・案内)、手荷物、小荷物(不配達)に絞りました。
戦後の国鉄は非採算線区の経営改善を目的として「総合管理方式」を全国各地に導入。
仙石線も経営改善の対象となり、1956年10月1日に「仙石線管理所」を開設しました。
管理所とは駅・車掌・運転・保線・建築・機械・電気・事務の各業務を統合した現業機関で、JR北海道の「運輸営業所」やJR西日本の「鉄道部」などの先駆けと言える存在です。
仙石線管理所は国鉄が開設した最初の管理所で、高城町駅も同管理所の管轄に置かれています。
当初は試験的な運用だった仙石線管理所ですが、経営改善に効果を上げた事から1959年7月より全国各地に管理所方式が波及しました。
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わが国の産業は朝鮮戦争を契機として徐々に復興発展していったが、国鉄は戦後の荒廃からの立ち直りが遅れ、急増する輸送需要に対応するだけの十分な輸送力を行いえず、また投資不足などから諸設備の近代化についても著しく立ち遅れていた。しかし、今後の人口増加や産業経済の伸展、生活水準等を考えると、国鉄の輸送力を大幅に増強し、また設備の近代化を図らなければならなかった。人員要員については、極力合理化と能率向上によって業務量増加に対処し、不増の方針を堅持してきたが、それにもかかわらず給与水準の上昇により人件費の膨張が著しく、国鉄経営を圧迫する度合は年を追って強まっていった。このような財政状況に対処すべく、車両定期修繕期間の延長により修繕費節約、作業の外注化、付帯業務の廃止、あるいは合理化・簡素化を図っていった。
このため、地方閑散線区については、その線区に適した「総合管理方式」を採用して人員及び経費の節約に努めることになった。この「総合管理方式」とは、管理所、運輸区及び管理長を設置し、非採算線区の経営改善を図ることであった。具体的には次のとおり。
管理所:線区内の全ての現業機関を統合したもの
運輸区:線区内の駅と車掌区(場合によっては機関区も)を解消統合したもの
管理長:規模の小さい線区については独立した管理機構を作らず、その線区に関係
している主要駅長などが管理長を兼ねて線区の管理を行うもの
国鉄は昭和33年8月2日、日本国有鉄道組織規程の一部を改正し、「鉄道管理局に支社長の定めるところにより、管理長を置くことができる」ことになった。その後、鉄道管理局の現業機関として「管理所及び運輸区」が追加された。この結果、「総合管理方式」と名づけて、管理長、管理所及び運輸区を設置して、全国的に非採算線区の経営改善を強力に図ることになった。
《出典》
村上心(2008)『日本国有鉄道の車掌と車掌区』(成山堂書店)p.64
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かんりしょ 管理所
国鉄の新潟・中国の両支社および鉄道管理局の現業機関。
この現業機関は、非採算線区の経営改善をしていくために、線区単位に設ける経営組織の一種であり、その線区における各職能別の現業機関を解消統合して、総合的現業管理機構とし、所長には支社長権限または局長権限を大幅に移譲したものであるが、実施上支障のある場合を考慮して、例外的に一部の現業機関を存置してもよいことに弾力性をもたせている。
昭和31・10・1仙台鉄道管理局管内の仙石線の経営合理化のため陸前原ノ町に仙石線管理所を設置し、テスト中であったが、改善成果が高く評価されたので、昭和33・7線区経営組織による経営改善の実施について通達された。
線区経営組織としては、このほかに運輸区方式と管理長方式とがあるが、管理所方式は経営改善の施策が実施しやすく、その効果も大きいことが実証されたので、つとめてこの方式によるものとしている。
管理所の設廃権限は支社長にあり、昭和40・12・1現在北海道支社管内に3、東北支社管内に11、新潟支社管内に1、関東支社管内に2、中部支社管内に3、関西支社管内に3、中国支社管内に4、西部支社管内に2置かれている。
(宮坂正直)
《出典》
日本国有鉄道(1966)『鉄道辞典 補遺版』p.63
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管理所は現場管理の計画に当る部門と計画を実行する現場とが一体となって動いている。所長は計画者であると同時に現場作業の責任者でもあるから、自然に現場を十分把握し、且つ責任者の立場において計画することになる。管理機構としてはけだし理想的というべく、この体制は日常業務を敏速に処理するに好都合である。従来は臨電1本動かすにも、電車の運用は運転部へ、車掌は営業部へ、電力は電気部へと打合せが大変であったが、現在では関係主任は同じ室におり、電車当直と運輸当直とは机を並べているから簡単にすむ。増結や切落しなどはお客を見てからでも十分に手配できる。計画と現場とが一体化しているおかげである。
《出典》
市川武雄(1957)「経営合理化の新ケース仙石線」、『国鉄線』1957年7月号(財団法人交通協力会)p.25
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仙台鉄道管理局では仙石線管理所に続けとばかりに、会津線管理所、陸羽東・石巻線管理所、磐越西線管理所、磐越東線管理所、仙山線管理所を相次ぎ開設。
管内に合計6ヶ所の管理所が揃いましたが、経営改善に貢献したのは初めの数年間だけだったようです。
1967年6月1日には会津線管理所と磐越西線管理所、1968年9月10日には仙山線管理所が相次ぎ廃止。
1971年4月1日には仙石線管理所をはじめ陸羽東・石巻線管理所、磐越東線管理所の3ヵ所も廃止となり、15年間に渡る管理所体制に終止符を打ちました。
仙石線管理所の廃止に伴い陸前原ノ町車掌区、陸前原ノ町電車区、仙台建築区陸前原ノ町建築支区、仙台信号通信区陸前原ノ町信号通信支区が発足。
線内各駅についても被管理駅11ヶ所を除き、独立した現業機関に戻りました。
時系列が前後しますが、高城町駅では管理所廃止前の1970年7月1日に小荷物フロントを廃止しました。
同年9月1日には「出札窓口近代化」という名目で自動券売機を導入。
駅業務執行体制の改善を重ねています。
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万国博輸送と共に、仙鉄局の営業施策として特記しなければならないのは、この年2月に発表された東北本線、仙石線の営業体制近代化の実施である。これは、国鉄財政再建計画に基づくもので、東北本線久田野~石越間および利府、宮城野間をふくめた50駅を対象に、実施時期は、10月1日と11月1日に分け、東北本線の営業体制を近代化しようというもので、47年度終了を目標に第2次、第3次の3か年計画となっていた。この近代化計画の骨子は、①仙台駅に旅行センターを設置する。②郡山、福島、仙台駅に工業用テレビを取り付け、案内誘導方法を改善する。③中間駅(仙台、福島、郡山、小牛田・長町・郡山操・宮城野を除く43駅)での出改札統合であった。
また、仙石線の営業体制近代化は、7月と9月の2回に分け、7月には、①蛇田駅停留所化、②荷物集約、③出面時間帯の調整。9月には、①陸前原ノ町、本塩釜に管理駅設置、②本塩釜に旅客営業センター設置、③出札窓口近代化(新型券売機38台投入)という内容で実施した。こうした営業体制近代化の実施と併行して、営業そのものの見直し、体質改善も着々と進ちょくし、この年、駅構内自家用車整理業務委託実施、駅レンタカー「みちのく」発足、荷物積卸業務全面委託、寝台セット解体作業部外委託など、外注化による近代化を行い、荷物営業についても、仙台、福島、郡山、会津若松各駅に荷物相談センターを設置してサービス体制を強化するとともに、荷物の個数授受制も実施した。
《出典》
日本国有鉄道仙台鉄道管理局(1979)『仙台鉄道管理局60年史』p.p.191,192
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1983年10月2日、ダイヤ改正に伴い仙石線東塩釜~石巻間が自動閉塞化し、高城町駅におけるタブレット閉塞器の取扱いを全廃しました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が高城町駅を継承。
1988年3月1日、仙石線多賀城~陸前山下間がCTC化しました。
2005年4月1日には業務委託化し、子会社の東北総合サービス㈱が窓口業務を受託しました。
同時に多賀城駅の被管理駅となりました。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。
仙石線は全線不通となりましたが懸命な復旧工事により、同年3月28日にはあおば通~小鶴新田間が運行を再開。
その後も徐々に復旧工事を重ねていき、5月28日には東塩釜~高城町間も運行再開となりました。
2015年5月30日、高城町~陸前小野間の運行再開により仙石線の全面復旧が完了。
同時に高城町駅と東北本線松島駅を結ぶ接続線が開業し、新たな系統路線である「仙石東北ライン」が運行を開始しています。
2015年7月1日、東北総合サービスはJR東日本グループの再編に伴い、盛岡の㈱ジャスター、秋田の㈱ジェイアールアトリスと合併。
社名を「JR東日本東北総合サービス㈱」に改め、会社愛称として「LiViT」を掲げるようになりました。
駅舎は開業時からの物と思われる、平屋の木造モルタル建築です。
近年のリフォームによって窓に和風の格子が付きました。
木造駅舎 待合室
木造駅舎 待合室
木造駅舎 待合室
木造駅舎 待合室
待合室の様子。
列車の運行中は基本的に玄関引き戸を開け放しています。
出札窓口 駅事務室 業務委託駅
出札窓口は改札口の精算所と一体化しており、「みどりの窓口」としては営業していません。
窓口営業時間は平日7:20~18:40、土日祝8:15~17:35と定めており、時間外は無人駅となります。
窓口での出札は通勤・通学定期券のみ対応しており、カウンターに購入申込書を備えています。
なお、自動券売機は終日利用可能です。
改札口は精算所から離れており、ICカードリーダーと簡易な柵のラッチを備えています。
改札口の左脇には仙石東北ラインの利用に関する注意書きを貼っています。
仙石東北ラインの仙台行きは当駅から東北本線に移るので、松島海岸・本塩釜・多賀城方面には行きません。
誤乗には十分に気をつけましょう。
改札口の右脇には利府松島商工会青年部が作成したポスターも。
「松島魂 松島は負けない」とのメッセージに、大震災を乗り越えた力強さを垣間見る思いがしますね。
ラッチ内から改札口を眺めた様子。
入場用は1台だけのICカードリーダーですが、出場用は2台も設置しています。
これは松島高校の通学時間帯における混雑緩和を図っているのでしょうか?
傍には東北地方の無人駅でよく見かける細長い集札箱も。
改札口 駅員 LiViT
改札業務は降車時の集札のみ実施しています。
地元利用者の動きを見ていると、乗車時は皆思い思いにホームへと出ていきます。
東北地方のJR線にはこの手の有人駅が多いですね。
親会社とは異なる制服デザインにも注目!
ラッチ内には「日本三景松島への行き方」を説明するポスターがあります。
絶景の最寄り駅は仙石線松島海岸駅。
仙台方面から仙石東北ラインで行く場合は、高城町駅で仙石線の上り列車に乗り換えなければいけません。
高城町駅構内
運転取扱業務 駅事務室 運転事務室
駅事務室側には出っ張った大窓があります。
これはかつての運転事務室で、タブレット閉塞を運用していた頃はここに閉塞器を置いていたんですね。
広々とした窓は当務駅長(助役・運転主任を含む)が駅構内を見渡せるように工夫したものです。
駅舎とホームを結ぶ構内踏切。
島式ホームなので下り線のみ横断しています。
高城町駅の構内踏切は遮断機・警報機ともに備えています。
列車が接近すると警報機は、カンカンと音を鳴らしながら「列車がきます」との文言を赤く点滅させます。
木造駅舎
木造駅舎
ホーム側から駅舎を眺めた様子。
長くなったので今回はここまで。
※写真は全て2022年9月23日撮影
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最終更新日 : 2023-03-26