タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-03-13 (Mon) 21:35

室蘭本線栗丘駅 トンネル工事の作業員が集まった「久樽市街」

栗丘駅a01

空知管内は岩見沢市栗沢町栗丘(旧:空知郡栗沢町字栗丘)にある、JR北海道の栗丘(くりおか)駅。
栗沢市街から南に3.9km離れた農村の駅です。
かつて当地はアイヌ語で「クッ・タル・シ」(和訳:イタドリの群生する所)といい、和人達も漢字を当てて「久樽」(くったり)と呼んでいました。

そんな久樽の開拓が始まったのは1889年4月の事。
札幌で造り酒屋を経営していた柴田與次右衛門(石川県能登出身)が、杣人から「久樽が肥沃地だ」という話を聞きつけ、当地に10万坪の「柴田農場」を開設したのです。
そして最初の小作人として山下兵吉夫妻が入植し、1897年までに合計27戸の小作人が集いました。
小作人の多くは柴田氏と同様、石川県人だったのだとか。
大抵の農場は土地を区分して小作人に貸し付けましたが、柴田農場では小作人が思い思いに開墾し易い箇所から作付していったので、管理人は整理に苦心したそうです。


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開拓途上の1890年、空知集治監が囚人を投入して夕張道路を開削。
すると夕張炭田開発に絡んで荷馬の往来が増え、久樽が中継地となりました。
更に1891年、北海道炭礦鉄道が室蘭線の栗山トンネル建設工事を実施するため、久樽に多くの作業員を送り込みました。
柴田農場にはトンネル工事に供す飯場、資材置き場、川舟荷揚場を開設し、他にも商店や飲食店、宿屋、銭湯など30軒が並ぶ市街地を形成していきました。

しかし1892年8月1日に室蘭線が開通すると、作業員も去って市街地は活気を失いました。
それでも近隣に後藤、美濃、岐阜殖民社、小西などの農場が開設されたため、しばらくは市街地の命脈を保ちました。
ところが1894年10月1日に清真布駅(現:栗沢駅)が開業すると、農家達は利便性の良い駅前市街地に繰り出すようになり、久樽市街は商業地としての存在価値を失いました。
なお、鉄道開通後の久樽には「追分保線事務所清真布保線手詰所栗山丁場」が置かれ、線路工夫達が周辺の保線作業に当たっていたそうです。



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清真布駅開業から8年後の1902年10月、道庁は柴田農場の東方に位置する丘陵地を服部惣平、宮沢俊吉の両名に貸下げました。
しかし彼らは開拓に着手しないまま、1903年11月に土地を志田久吉に譲渡しています。
志田氏は牧場と畑地を併設した「志田農場」を開き、宮城県人5戸、新潟県人3戸、富山県人2戸、岐阜県人2戸、兵庫県人2戸の合計14戸を小作人として受け入れました。
主要作物は小豆、小麦、菜種、燕麦など。
当初は部落名を「志田の沢」として、柴田農場の所在する久樽と区別しました。

現在の「栗丘」という地名が生まれたのは1940年10月。
久樽と志田の沢の統合が転機となりました。
かつて当地から加茂川、最上にかけて南北に連なる丘陵地帯に、道央では珍しい栗の自生樹が林立していた事に因んでの命名です。



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栗丘の命名から3年後の1943年9月25日、室蘭本線栗山~栗沢間に「栗丘信号場」が開設されました。
この信号場は戦時下の軍需輸送を強化するべく設けたもので、同時に当信号場~栗沢間の複線化も為しています。
これに対し当時の柴田農場管理人・志田惣三郎や部落代表者らが、札幌鉄道局に対し栗丘信号場での旅客取扱いを要望するも頑なに拒否されてしまいました。

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 太平洋戦争が最も激しかった昭和18年に、いまの栗丘駅のところに「栗丘信号所」が開設された。当時の柴田農場管理人であった志田惣三郎や部落代表者らが、旅客の取扱いを当局に要望したが、札幌鉄道局では、
 貨物輸送を強化するための停車場であるから、旅客取扱いはしない。
と、当時の輸送事情(統制=軍需優先)から受付けなかった。
 信号所本屋は昭和18年9月25日に竣工したものであるが、同20年8月15日の終戦とともに、戦時輸送が解かれ、この信号所は廃止される運命を迎えた。

《出典》
栗沢町史編さん委員会(1993)『栗沢町史 上巻』p.p.762,763
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終戦に伴い役目を終えるはずだった栗丘信号場ですが、これに志田惣三郎らが待ったをかけました。
彼ら地元民は旅客取扱いの実現を諦めておらず、軍事統制が解かれた今こそ好機と踏んだのです。
そして札幌鉄道局や室蘭管理部に開駅を求める運動を展開。
当局側もようやく陳情に応え、1946年4月1日には「栗丘駅」に昇格存置しました。
しかも旅客のみならず貨物も取り扱える「一般駅」にするという温情をかけたのです。
最初は小口扱貨物(不集荷)のみ受け付ける事とし、1947年12月1日に車扱貨物の取扱いも開始しました。

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 昭和20年に栗丘信号所が廃止の運命を迎えることになったとき、志田惣三郎、志田節之助、中島与之助らが発起して、札幌鉄道局や室蘭管理部に開駅の運動を行った結果、昭和21年に「栗丘駅」として昇格存置されることになった。このため、
 ぎ線用地および吹拔倉庫建設用地は志田惣三郎が寄附し、ホームの造設については、杭、枕木などの現物支給を受けて、栗丘、岐阜、小西、加茂川の関係住民の出役により土盛りし建設した。
という奉仕が見られたが、それだけ関係住民にとって開駅の喜びは大きかったのである。
 駅本屋は、とりあえず信号所のときの本屋を利用して開駅したが、昭和23年11月にこれに増築して待合室を設け、さらに物置、石炭庫、便所なども新設して、
 駅本屋 89.9平方㍍
 付属屋 28.8平方㍍
とした。

《出典》
栗沢町史編さん委員会(1993)『栗沢町史 下巻』p.p.1122,1123
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その後は更なる輸送力増強を図るべく、新栗山トンネルの増設工事を実施。
1969年9月22日に栗山~栗丘間の複線化を果たし、栗丘駅におけるタブレット閉塞の取扱いを廃止しました。
しかし皮肉にも鉄道貨物は利用低迷を辿り、1972年3月15日には貨物フロントを廃止して一般駅から旅客駅に種別変更しました。

1974年10月1日には営業範囲改正を実施。
手荷物の取扱いを止め、窓口営業を旅客・小荷物(不配達)に絞りました。

1980年5月15日、札幌鉄道管理局は営業近代化を敢行。
栗丘駅を含む計21駅が無人駅となりました。



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無人化後の1982年には駅舎の建て替え工事を実施。
緩やかな傾斜の招き屋根を持ち、待合室を通らずともホームに出られる現駅舎が落成しました。

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が栗丘駅を継承。

1990年4月23日、室蘭本線栗丘~栗沢間の栗山トンネルが崩落しました。
当該区間は複線で栗山トンネルに下り線を通していましたが、貨物列車が数多く行き交っていた国鉄時代に比べて列車本数が少ないため、JR北海道は復旧せず廃止の判断を下しています。
そして栗丘駅構内の下り線を使用停止としました。

2020年3月26日には防犯および吸殻の投棄、家庭ゴミ持込防止などのためゴミ箱を撤去しています。

現在は千歳駅を拠点駅とする千歳地区駅(担当区域:千歳線美々~西の里間、石勝線南千歳~串内間、室蘭本線遠浅~栗丘間)に属し、地区駅長配下の管理駅である追分駅が所管する完全無人駅です。



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駅舎正面にはホームに直行する通路があります。
通路の左側に待合室、右側にトイレを設けています。



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待合室の様子。
横長の外観に反して狭いです。
部屋の片隅には「JR室蘭線活性化連絡協議会」がマガジンラックを設置し、パンフレット類を入れています。



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掲示板には芋虫に四肢を生やしたような生物の姿も。
これは岩見沢市内の「大正池」で生まれた森の妖精・・・という設定のキャラクターで「イワくん」と言います。





岩見沢市役所健康づくり推進課は市民の健康づくりを目的に2008年、北海道教育大学岩見沢校と連携して「ひゃっぴい体操」というオリジナルの体操を作りました。
体操の振り付けは教育大学スポーツ教育課程の学生達が考案。
イワくんは体操のマスコットキャラとして、芸術課程美術コースの学生が制作しました。
「ひゃっぴい体操」という名前は「百歳までも健康でハッピーでいられるように」という願いを込め、なおかつ「いわみざわ百餅祭り」で使用している「百餅ばやし」をアレンジし体操曲とした事に因みます。
考案から15年、ひゃっぴい体操は多くの市民に親しまれ、各種イベントでも披露されています。



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室内に吊るされた千羽鶴。
この手の千羽鶴は2010年代半ばから、道内各地の無人駅で見かけるようになりました。
訪問者が鉄道存続の願いを込めて拵えたのでしょうか?



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ホーム側から駅舎を眺めた様子。
駅事務室の玄関がありますが、無人化後に建った駅舎なので専ら保線作業員・除雪作業員の休憩に使われています。



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駅舎の南側には更地が広がっており、待合室寄りにプラットホームの階段を設けています。



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更地にはコンクリート造りの平屋が1棟。



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この建物は1981年7月3日に使用を開始した継電器室です。
玄関脇には工事銘板が付いており、「栗丘駅継電連動装置新設工事」の際に建設された物と分かります。
設計監督は国鉄札幌電気工事事務所札幌電気工事所、施工は千歳電気工業㈱北海道支店が担当しています。
なお、室蘭本線は1980年10月1日の営業近代化に伴い沼ノ端~岩見沢間が自動信号化し、翌1981年11月2日には同区間にCTCを導入しています。



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1面1線の単式ホーム。
ホーム全長は20m車3両分ほどです。



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先述したとおり栗山トンネル崩落前の栗山~栗沢間は複線区間だったため、その中間に位置する栗丘駅も2面2線の相対式ホームを構成していました。
駅構内には駅舎側の旧上り線ホーム(1番線)と駅裏側の旧下り線ホーム(2番線)を繋ぐ跨線橋が残っています。
もちろん出入口は封鎖され、窓も大半が板で塞がれています。
もはや無用の長物ですが、取り壊すのも費用がかかるから残しているのでしょうか?



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旧下り線ホームの石垣や線路も往時の姿を留めています。
ホーム上は草木が生い茂り、まるで遺跡のような佇まいです。



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駅構内北側の用水路に架かる鉄橋さえ上下線とも健在です。



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ホームの途中にも意味深な橋があります。
昔はここにも用水路が引かれていたのでしょうか?



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場所を変えて駅構内北端、道道340号(栗丘幌向停車場線)に設置された踏切。



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この踏切は正式名称を「栗丘構内町通り踏切」といい、室蘭本線の長万部起点195K762M地点に位置します。
構内町通り・・・なかなか聞き慣れない言葉ですね。
線路部分の保守管理は岩見沢保線所岩見沢保線管理室、電気設備の保守管理は岩見沢電気所が担当しています。



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栗丘構内町通り踏切の路面を見ると、下り線を撤去して埋立てた痕跡がはっきりと確認できます。


栗丘駅構内 複線区間
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踏切から栗丘駅構内を眺めた様子。
下り線が踏切の手前で途切れていますね。



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踏切から栗沢方を眺めた様子。
こちらも下り線が部分的に残っています。


※写真は全て2021年11月13日撮影
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最終更新日 : 2023-04-20

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