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2023-03-08 (Wed) 21:38

室蘭本線栗沢駅[2] 万字線の保線を担った「追分保線区栗沢保線支区」

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引き続き空知管内は岩見沢市栗沢町北本町(旧:空知郡栗沢町本町)にある、JR北海道の栗沢(くりさわ)駅を取り上げましょう。
既に述べたとおり当駅は滋賀県人達の「必成社農場」で主監を務めた西田市太郎(後の思想家・西田天香)が、北海道炭礦鉄道に粘り強く請願して開設に漕ぎ着けました。
今回はプラットホームの様子を見ていきましょう。



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ホーム側から駅舎を眺めた様子。
少し「くの字」に折れ曲がっています。


JR北海道 国鉄 JR貨物 北陸本線 湖西線 JR西日本
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1面1線の単式ホーム。
全長は20m車4両分ほどです。


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岩見沢方の1両分ほどはロープを張って閉鎖状態。
「この先ホーム使用停止中」との看板を立てています。



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駅構内には古びた跨線橋が1つ。



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1990年4月23日の栗山トンネル崩壊後、栗沢駅は交換設備を撤去し棒線駅となりました。
被災前の室蘭本線は栗山~栗沢間が複線、栗沢~岩見沢間が単線でした。
跨線橋には閉鎖したホームに繋がる階段があり、その出入口や窓は板で塞がれています。
出入口の板にはドアが付いており、札幌設備所の建築係員が跨線橋の状態検査をしたり、請負業者の作業時に出入りするようです。



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跨線橋の外壁には旧ホームの停止位置目標も残っています。



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かつての栗沢駅は単式ホームと島式ホームを組み合わせた2面3線の「国鉄型配線」でした。
駅舎側の単式ホームが1番線、反対側の島式ホームが3・4番線で、1番線と3番線の間に追い抜き用の2番線がありました。
島式ホームはススキ等の雑草に覆われ、2番線跡には用水路が引かれています。



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現在、跨線橋は栗沢本町と必成地区を結ぶ自由通路と化しています。
必成側には鉄骨造りの緩やかな階段を増設しています。



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ただし跨線橋は今や、ホームとの直接の行き来が出来ません。
なにしろホーム側に柵を設け、完全に区切っているのです。



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跨線橋は駅舎と旧トイレの間から入れます。



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跨線橋の階段には自転車用のスロープを増設しています。



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国鉄時代のムードが漂う通路。



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島式ホームへの階段は板で隙間無く塞いでいます。
ホーム側の板とは違い、こちらにドアはありません。



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駅と必成を繋ぐ階段。
左右に自転車用スロープを設けています。



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必成側から跨線橋を眺めた様子。



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跨線橋と駅裏集落を結ぶ歩道。
役場が用地の取得に手間取ったのでしょうか、微妙に曲がりくねっています。



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跨線橋から駅裏の広大な更地を眺めた様子。
あたかもヤードがあったかのようですが、実際の栗沢駅にヤードが造られる事はありませんでした。
この更地は線路の防雪を図るべく造成された鉄道林の跡地なのです。
ほとんどの樹木が伐採されてしまいましたが、今なお鉄道用地らしくJR北海道の電信柱が一直線に並んでいます。



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1976年9月5日に撮影された栗沢駅周辺の空中写真
黄色く丸を付けた箇所が追分保線区栗沢保線支区の事務所棟
国土地理院公式サイト『地図・空中写真閲覧サービス』より引用

さて、栗沢本町には駅の他にもう一つ、鉄道の職場が置かれていました。
それは室蘭本線の一部区間と万字線を所管した「追分保線区栗沢保線支区」です。
栗沢保線支区は北海道炭礦鉄道時代の1894年10月1日、室蘭線栗山~岩見沢間の延伸開業に伴い発足した「追分保線事務所清真布保線手詰所」をルーツに持ちます。
清真布保線手詰所は清真布丁場(現在の栗沢駅に所在)、栗沢丁場(実際は栗丘に所在)といった実働部隊を設け、そこに保線作業員(組頭・線路工夫)を配置していました。

追分保線事務所は1年ほどの稼働だったらしく、1900年には岩見沢に保線事務所を移しています。
1906年10月1日、北海道炭礦鉄道の国有化に伴い「追分保線区」を開設。
清真布保線手詰所は清真布丁場・栗沢丁場ともども追分保線区の管轄に移りました。

一方、1914年11月11日に新規開業した万字軽便線(後の万字線)は、全区間を岩見沢保線区(旧:岩見沢保線事務所)の管轄としました。
岩見沢保線区は万字駅に「万字保線手詰所」を開設し、その配下に上志文丁場、朝日丁場、美流渡丁場、万字丁場を設けています。

国鉄当局は1936年9月1日、大規模な機構改革を実施。
これに伴い全国の保線手詰所は「線路分区」に、線路丁場は「線路班」に改称しました。
もちろん道内も右ならえで、追分保線区清真布保線手詰所は「追分保線区清真布線路分区」、岩見沢保線区万字保線手詰所は「岩見沢保線区万字線路分区」となりました。
なお、1949年9月1日に清真布駅が「栗沢駅」に改称すると、清真布線路分区も「栗沢線路分区」に改称しています。


追分保線区 職制
追分保線区の指揮命令系統図(1981年10月)

追分保線区は1968年12月10日、従来の線路分区5ヶ所(追分・由仁・栗沢・紅葉山・夕張)を廃止する代わりに、4ヶ所の保線支区(追分・栗山・栗沢・紅葉山)を開設して1本区4支区体制を確立しました。
このうち追分保線支区は苫小牧保線区早来線路分区、栗沢支区は岩見沢保線区万字線路分区の担当区域も一緒に引き継いでいます。
「保線支区」とは国鉄施設局が従来の線路分区・線路班による分散的な人力保線を改め、組織の集約化と機械の投入による集中的な保線体制の確立を目指し、全国各地に設置を進めていた現業機関です。

元々、国鉄の保線区は5~6kmおきに、概ね10~15名の線路工手から成る「線路班」を1班ずつ置き、その元締めとして「線路分区」を構えていました。
線路班が担ってきた人力保線は随時修繕方式と言い、ビーターを持って担当する区間を巡回し、レールやマクラギ、道床を見たり触ったりして検査を行い、異常を発見したら直ちに修繕を施すものでした。
しかし高度経済成長期に鉄道の輸送量が増大すると、それに伴い列車本数も増便された事により、保線作業の出来る列車間合が減少。
おまけに列車の速度も向上したために線路破壊が早まり、それでも運転回数が多いせいで十分な修繕の出来る時間が少ない…というジレンマを抱えてしまった訳です。

そこで国鉄施設局は「軌道保守の近代化」を計画し、線路分区に代わる現業機関として1963年4月から「保線支区」の設置を進め、限られた時間の中で集中的に検査・補修を行う「定期修繕方式」に移行していきました。
従前は混同していた検査と作業も完全に分離。
軌道換算キロ10~15kmおきに設置した「検査班」が支区長に報告した検査結果を元に、計画担当(計画助役および技術掛)が作業計画を策定し、作業助役を通じて「作業班」に修繕をさせるという業務体制に移行しています。

検査班は1支区につき3~5班を設置しており、作業班は1支区1班ずつとしています。
追分保線支区の検査班は追分検査班、安平検査班、早来検査班、遠浅検査班の計4班。
栗山保線支区の検査班は三川南検査班、三川北検査班、由仁検査班、栗山検査班の計4班。
栗沢保線支区の検査班は栗沢検査班、志文検査班、朝日検査班、万字検査班(後に移転し美流渡検査班)の計4班。
紅葉山保線支区(後の新夕張保線支区)の検査班は川端検査班、滝ノ上検査班、紅葉山検査班(後の新夕張検査班)、夕張検査班の計5班です。

1981年10月に石勝線が開通すると、紅葉山保線支区を新夕張保線支区に改称すると共に、新規開業の占冠駅構内に石勝保線支区(後の石勝保線管理室→占冠保線管理室)を開設しました。
石勝保線支区はオサワ検査班、占冠検査班、東占冠検査班の計3検査班を設けています。


追分保線所追分保線管理室 追分保線所占冠保線管理室 職制
追分保線所の指揮命令系統図(2014年~)

1982年3月1日には保線支区の単調業務・波動業務を外注化し、直轄部門の検査班・作業班を「保線管理グループ」と「保線機械グループ」に再編しました。
このうち保線管理グループは「保線管理室」とも呼ばれ、担当区域内における軌道検査とこれに伴う簡易な修繕作業、検査データを基にした工事計画、外注工事の立会い・監督を担当。
当初は検査班時代と同じく換算軌道キロ10~15kmおきに1室ずつ配置しました。
栗沢検査班も「追分保線区栗沢保線支区栗沢管理室」に改組し、検査から施工管理まで一貫して行なう「庭先意識の復活」を期しました。

しかし1985年4月1日、赤字に喘ぐ万字線の全区間(23.8km)が廃止されてしまいました。
これで栗沢保線支区は担当区域の大部分を失う事となり、近傍の栗山保線支区に編入されて消滅しました。

その後、国鉄北海道総局は1986年8月1日に「施設関係業務の改善」を敢行。
全道の保線支区を小編成の「保線管理室」に改組し、分散配置していた保線管理グループや保線機械グループの集約も実施しました。
分割民営化後追分保線区は保線管理室の統廃合、保線・電気の統合による「追分工務所」への改組、機械保線の業務委託化(受託者:北海道軌道施設工業㈱追分機械センター)、保線・電気の再分割などを経て「追分保線所」となりました。
国鉄時代は1本区5支区体制でしたが、現在は1本所2管理室体制に大幅縮小しています。



栗沢駅a122

ホーム上の駅名標。


以上、2回に渡って栗沢駅を取り上げました。




※写真は特記を除き2021年11月13日撮影
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最終更新日 : 2023-03-11

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