タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-03-05 (Sun) 23:39

室蘭本線栗沢駅[1] 農地不足の滋賀県人が活路を見出した「必成社農場」

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空知管内は岩見沢市栗沢町北本町(旧:空知郡栗沢町本町)にある、JR北海道の栗沢(くりさわ)駅。
2006年3月26日付で岩見沢市に編入された自治体・栗沢町の中心街にある駅です。
中心街は本町・東本町・西本町・南本町・北本町の5町域から成り、街中をうねるように最上川が流れています。
本町にはJAいわみざわ栗沢支所があり、同敷地内では「Aコープ栗沢店」と「100円ショップワッツウィズ栗沢Aコープ店」が営業中です。
南本町には岩見沢市立栗沢病院があり、旧栗沢町内における医療を一手に担っています。

反面、駅裏の必成(ひっせい)という町域は農耕地帯です。
駅前集落から少し離れるとビニールハウスがズラリと並び、水田も広がっています。
太陽グループの農業会社・㈱太陽ファームも、椎茸などのキノコ類を栽培する「栗沢農場」を営んでいます。

市街地と駅裏の必成、南東の幸穂町(さちほちょう)をひっくるめた3地区の開拓が始まったのは1893年4月5日。
滋賀県坂田郡長浜町(現:長浜市)の必成社が、道庁より約150万坪(500町歩)の貸下げを受けて「必成社農場」を設立しました。


JR北海道 国鉄 JR貨物 JR西日本 北陸本線 湖西線
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栗沢町史編さん委員会(1993)『栗沢町史 上巻』p.816より引用

必成社は滋賀県の実業家・河路重平ら3名の多額納税者が、北海道の開拓を志し結成した合資会社です。
元来、近江農民の多くは土地が狭いゆえに貧しい生活を強いられており、この窮状を打破するべく河路らは北海道の新天地に近江農民達の活路を見出していました。
そこで長浜の紙問屋「玉屋」の子息・西田市太郎(後の西田天香)を弱冠20歳にして主監に担ぎ上げ、現在の栗沢神社付近に農場事務所を開設。
多くの滋賀県人を社員に採用し、直営地の開墾や家屋の建設に従事させました。
そして1893年5月16日から本格的に近江農民の入植を開始し、小豆や稲黍、蕎麦、キャベツ等の栽培に着手しました。

しかし近江人は商才に秀で漁業に通じる一方、農業が下手で道庁の成功検査でも開墾地不足を指摘されたそうです。
そこで必成社はテコ入れを敢行。
まずは小作契約の方針を変え、近江人以外の入植希望者も受け入れる事としました。
加えて1895年5月からは社外農夫50名を雇って農場の自営開墾に注力し、道路排水の開削にも取り組みました。
これらの改善が功を奏して営農は上向き、次第に必成社農場は栗沢村の中心地と化していきました。
1896年には試作を重ねた寒地稲作が成功し、滋賀県知事の大越亨も祝儀として「幸穂」の地名を贈りました。
1901年には晴れて道庁の成功検査に合格し、同年3月15日に付与指令を受けています。



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栗沢町史編さん委員会(1993)『栗沢町史 下巻』p.1122より引用

必成社で主監を務めた西田市太郎は、栗沢駅の誘致にも貢献しました。
必成社農場の開設よりも一足早い1892年8月1日、北海道炭礦鉄道は空知炭田と室蘭港を結ぶ運炭ルートとして「室蘭線」を開業していました。
当初、室蘭線に置かれた駅は室蘭駅、幌別駅、登別駅、白老駅、苫小牧駅、追分駅、由仁駅、岩見沢駅の8ヶ所だけで、大半の入植地を通過していたのです。
もちろん栗沢村に列車が停まる事もありません。

このままでは旅客・貨物とも鉄道の恩恵に預かれない訳ですが、近傍の栗山村(現:栗山町)では1893年7月1日に栗山駅が開設されました。
これに触発されて西田は有志を集め、北海道炭礦鉄道に対して請願運動を展開。
札幌電燈舎の社長・後藤半七とも連携し、運動を激化させていきました。
そして遂に北海道炭礦鉄道が折れ、1894年10月1日に既設の栗山~岩見沢間に「清真布駅」という一般駅が開設されたのです。

この清真布駅こそが現在の栗沢駅です。
清真布は当時の地名で「きよまっぷ」と読み、アイヌ語の「キ・オマ・プ」(和訳:茅葭類がある所)に由来します。



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栗沢町史編さん委員会(1993)『栗沢町史 上巻』p.386より引用

清真布駅の開設によって市街地が形成され、栗沢村の玄関口として賑わうようになりました。
駅誘致の功労者・西田市太郎が次に目指したのは、日清戦争がもたらした好景気(特需景気)で引く手数多となった製麻事業への参入です。
すぐさま郷里の近江製糸㈱と連絡をとり、必成社との共同出資によって北海道亜麻製線㈱を設立しました。
そして1896年4月に清真布工場(現:東本町)を開設して製線、すなわち亜麻繊維の製造に着手しました。
村内における亜麻の作付面積は600町歩に達し、地域経済の発展に大きく寄与しています。
亜麻繊維は工場から清真布駅に運び、貨物列車で道内外に発送していたようです。

ところが1897年に反動恐慌が起こり、亜麻製品の販路が悉く閉鎖。
たちまち経営が成り立たなくなった北海道亜麻製線は1899年6月、製麻事業を下野製麻㈱に売却し敢え無く解散となりました。
西田市太郎は出資者と従業員・亜麻農家の板挟みに遭い、遂には「争いのない生き方」を求めて開拓事業から身を引き北海道を去りました。
なお、下野製麻は1907年に清真布工場を帝国製麻㈱に売却。
最終的に1927年7月、製造拠点を栗山工場に集約したため役目を終えました。



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鉄道の話に戻りましょう。
時系列が前後しますが1906年10月1日、北海道炭礦鉄道は鉄道国有法の適用を受けて国有化。
1909年10月12日、明治42年鉄道院告示第54号の公布によって国鉄の路線名称が制定される事になり、清真布駅を含む室蘭~岩見沢間が「室蘭本線」と名付けられました。

1916年3月には初代駅舎の改修工事を実施。
更に1936年にはプラットホームと待合所を改修し、1937年11月には2度目となる駅舎の改修工事を実施しています。
ちなみに当時、駅員は13人が在籍。
構内には初代駅舎(駅本屋)と板倉、官舎1棟、物置および付属物3棟が建っていました。



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戦後の1949年4月1日、栗沢村は町制施行に伴い「栗沢町」に改称。
同時に町内の字名地番を改正し、清真布は「本町」と「北本町」に再編しました。
そして役場は国鉄に対し駅名の改称を申請し、同年9月1日に清真布駅を現駅名の「栗沢駅」に改めています。

1955年12月には跨線橋を設置。
1972年7月1日には貨物フロントを廃止し、窓口営業範囲を旅客・手荷物・小荷物(不配達)に絞りました。

1980年5月15日、札幌鉄道管理局は営業近代化を敢行。
栗沢駅を含む計11駅が業務委託駅となり、国鉄の協力会社である日本交通観光社㈱北海道支社が窓口業務を受託しました。
なお、日本交通観光社は略して「日交観」と言い、同北海道支社はJR北海道の子会社である㈱北海道ジェイ・アール・サービスネットの前身に当たります。
ただし委託業者の駅員は運転取扱資格が無いため、タブレット閉塞を取り扱う当務駅長(運転主任)を引き続き配置しています。

1980年10月1日、室蘭本線営業近代化に伴い沼ノ端~岩見沢間が自動信号化。
これに伴い栗沢駅でもタブレット閉塞器が御役御免となりました。
1981年11月2日には室蘭本線沼ノ端~岩見沢間のCTC化も為しています。



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国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
志文駅も小荷物フロントを廃止し、窓口営業は旅客フロント(出改札・案内)のみとなりました。
旅客フロントについても同年3月31日に廃止し、日交観との委託契約を解除しています。

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が栗沢駅を継承。
1989年には初代駅舎を取り壊し、コンパクトな2代目駅舎に建て替えています。

1990年4月23日、室蘭本線栗丘~栗沢間の栗山トンネルが崩落しました。
当該区間は複線で栗山トンネルに下り線を通していましたが、貨物列車が数多く行き交っていた国鉄時代に比べて列車本数が少ないため、JR北海道は復旧せず廃止の判断を下しています。
そして栗沢駅構内の交換設備を撤去し棒線化しました。

現在の栗沢駅は岩見沢地区駅(担当区域:室蘭本線栗沢~岩見沢間、函館本線幌向~滝川間、根室本線滝川~落合間)に属し、地区駅長在勤の拠点駅である岩見沢駅が直轄する完全無人駅です。



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現在の駅舎は2代目で、少し「くの字」にカーブした造型が特徴的な木造建築です。
左側の窓は駅事務室となっており、保線作業員や除雪作業員の休憩に活用しています。
右側の大きな窓は待合室ですね。
真ん中の正面玄関は意外にも自動ドアですが、相当に老朽化しておりガタピシと音を立てながら、ぎごちなく開閉します。



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待合室の様子。
いかにも平成初期らしい簡易駅舎の内装ですね。
室内はお世辞にも掃除が行き届いているとは言えず、ベンチには蜘蛛の巣が張られていました。



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駅事務室側はドアを1枚置いただけ。
無人化後に建てられた駅舎なので、当たり前ですが窓口など一切ありません。



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エントランスにはステンドグラスの高窓を設けています。



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待合室の掲示板には苫小牧市・安平町・由仁町・栗山町・岩見沢市の各自治体が結成した「JR室蘭線活性化連絡協議会」のポスター類を貼っています。



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掲示板には芋虫に四肢を生やしたような生物の姿も。
これは岩見沢市内の「大正池」で生まれた森の妖精・・・という設定のキャラクターで「イワくん」と言います。





岩見沢市役所健康づくり推進課は市民の健康づくりを目的に2008年、北海道教育大学岩見沢校と連携して「ひゃっぴい体操」というオリジナルの体操を作りました。
体操の振り付けは教育大学スポーツ教育課程の学生達が考案。
イワくんは体操のマスコットキャラとして、芸術課程美術コースの学生が制作しました。
「ひゃっぴい体操」という名前は「百歳までも健康でハッピーでいられるように」という願いを込め、なおかつ「いわみざわ百餅祭り」で使用している「百餅ばやし」をアレンジし体操曲とした事に因みます。
考案から15年、ひゃっぴい体操は多くの市民に親しまれ、各種イベントでも披露されています。



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こちらは栗沢小学校の生徒達が描いた栗沢駅の絵です。



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「放課後れすとらん」のチラシと一緒に吊るされている千羽鶴。
2010年代から道内各地の無人駅で千羽鶴を見かけるようになりました。



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駅舎の北隣にはコンクリートブロック造りのトイレがあります。



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このトイレの玄関にもステンドグラスがはめ込まれています。



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駅舎北側のトイレは2021年4月1日付で閉鎖されました。
玄関には注意書きが貼られ、新しいトイレを利用するよう呼びかけています。



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新しいトイレは駅前広場の南側にあります。
JRではなく岩見沢市役所の管理物件です。



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パッと見は小さなプレハブ小屋ですが、男女別々にトイレを分けています。
暖房も完備しているので冬場も安心して利用できます。



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駅前広場の更に南にはJAいわみざわの農業倉庫が建ち並んでいます。
赤レンガや軟石の倉庫が、栗沢駅から農産物を出荷していた時代を物語っていますね。



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駅前広場の出入口には、かなり草臥れた木造モルタル建築が1棟。



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この建物は岩見沢市内のタクシー会社・日の出交通㈱の栗沢営業所です。
日の出交通は北交ハイヤー栗沢営業所を前身とし、1966年3月9日に「栗沢ハイヤー」として4台のタクシーで創業しました。
1967年10月には岩見沢市1条東5丁目にも営業所を開設し、1968年5月には社名を栗沢ハイヤーから「日の出交通」に改称しています。
1970年12月には岩見沢市南町165番地(現:駒園8丁目)に本社ビルを新設。
この本社は1981年12月、国道拡幅に応じて引き払っており、代わりに大和2条9丁目に現社屋を建てています。
1987年4月には有限会社から株式会社に組織変更。
現在は本社営業所・栗沢営業所の2拠点体制でタクシーを運行しています。



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波トタン板の増築部分には「わたしを信じる者は永遠の命を持つ イエス・キリスト」という聖書配布協力会の看板が付いています。
日本全国の田舎でよく見かける布教活動の一端ですね。



長くなったので今回はここまで。




※写真は特記を除き2021年11月13日撮影
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最終更新日 : 2023-03-12

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