タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-02-22 (Wed) 21:45

室蘭本線志文駅[1] 駅を誘致した津軽人・三浦伊次郎と炭鉱の万字線

志文駅a02

空知管内は岩見沢市志文本町1条4丁目にある、JR北海道の志文(しぶん)駅。
かつて約2,000人もの国鉄職員が暮らした「鉄道の町・岩見沢」の南方にある、稲作地帯の市街地に置かれた駅です。
地名の由来はアイヌ語の「シュプン・ペッ」だといい、和訳すると「ウグイの川」となります。
具体的には現地を流れる幌向川を「ウグイの川」と呼んでいたのでしょう。

志文における開拓の端緒は1889年、市来知集治監が岩見沢駅より夕張炭鉱に通じる旧夕張道路を開削した事によります。
翌1890年12月には宮本銀松が妻子を伴い入植し、直ちに原始林を伐採しました。
この宮本一家こそが志文に定住した初の和人だと言われています。

続いて1891年には三浦伊次郎、1892年には辻村直四郎が入植。
このうち辻村直四郎は小田原の出身で、同郷の農政家・二宮尊徳が提唱した「報徳思想」に感銘を受けて開拓を志したそうです。
そして22歳という若さで130町歩の「辻村農場」を拓き、翌1893年に在来のアイヌ語を保存するべく部落を「志文」と命名しました。
その後、直四郎は小樽の富豪・金子元三郎から212万坪の貸付を得て、志文で初めて大規模な水田を造成しています。
娘の辻村もと子は小説家となり、開拓に心血を注いだ若き日の父をモデルにした長編小説『馬追原野』で脚光を浴びました。


JR北海道 国鉄 JR貨物 木造駅舎 小田急 弘南鉄道 無人駅 操車場
志文駅a25
志文駅の旧駅舎を捉えた貴重な写真
岩見澤市史編さん委員会(1963)『岩見澤市史』p.1186より引用

志文駅は1902年8月1日、既に開業していた北海道炭礦鉄道の室蘭線清真布(現:栗沢)~岩見沢間に貨物駅として開設されました。
この開設は現地在住の三浦伊次郎が誘致を図り、実現に至ったものです。
三浦伊次郎は青森県中津軽郡和徳村(現:弘前市和徳町)に生まれ育ち、1891年にたった一人で志文に入植した人です。

北海道炭礦鉄道は1892年8月1日に室蘭線を開業した当初、清真布~岩見沢間に駅を建設する必要は無いと見なしていました。
しかし伊次郎は「志文の発展には停車場が不可欠だ」と考え、地元の有志に力説して請願運動を牽引。
会社側とも折衝を重ね、寝食を忘れるほど誘致に奔走しました。
そして自身の所有地を無償提供し、志文駅を建設するに至ったという訳です。
地元では伊次郎の功労を讃えて1927年7月、浄土真宗静雲寺の境内に記念碑を建立しています。

1903年4月21日、貨物駅から一般駅に種別変更。
これに伴い旅客・小荷物の取扱いを開始しました。

1906年10月1日、北海道炭礦鉄道は鉄道国有法の適用を受けて国有化。
1909年10月12日、明治42年鉄道院告示第54号の公布によって国鉄の路線名称が制定される事になり、志文駅を含む室蘭~岩見沢間が「室蘭本線」と名付けられました。



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時系列が前後しますが1907年、三井物産㈱が志文~滝ノ上間に軽便馬車鉄道を敷設。
志文駅までの木材運搬に供しましたが、これを契機に交通が活発になって駅前市街地が急激に発展していったそうです。
医院や芝居小屋も開業し、市街地は膨れ上がっていきました。

1914年11月11日、志文~万字炭山間23.8kmが低規格の「万字軽便線」として新規開業。
この路線は万字炭山で産出した石炭の輸送を使命としました。
開通と共に志文駅では駅舎が約200m北方に移転。
翌1915年には万字軽便線と並行する三井物産専用線が廃止されました。

1922年4月11日、鉄道敷設法の改正に伴い軽便線制度が廃止されました。
万字軽便線も法改正に則り同年9月2日、「軽便」の2文字を抜いた「万字線」に改称しています。
沿線の炭鉱も当初は万字炭山だけでしたが、朝日炭鉱や美流渡炭鉱が開坑して一気に運炭量が増加。



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1953年6月9日、駅連区規程により「岩見沢駅連合区」(岩見沢連区)が発足しました。
駅連合区とは営業活動の中心を従来の「駅単位」から、複数駅が連帯する「地域単位」に改め、共同で定めた収入目標の達成を目指して孝動するために編成された組織です。
連区に属する駅のうち大規模な箇所を「幹事駅」とし、そこの駅長を「連絡駅長」として連区の代表を任せました。
連絡駅長の配下には営業推進担当として「連区助役」を置き、連区に属する各駅の収入管理や広報活動、業務委託駅に対する営業指導、無人駅の管理に当たらせていました。
この駅連合区は戦後の公共企業体設立を契機に全国的な設置に至ったもので、岩見沢連区においても岩見沢駅長を連絡駅長に指定しました。
なお、岩見沢連区の担当区域は函館本線幌向~茶志内間、室蘭本線志文~岩見沢間、万字線全区間、幌内線全区間です。
志文駅も岩見沢連区に属しました。

1961年10月1日、室蘭本線志文~岩見沢間の線路容量不足を解消するため、岩見沢操車場の西側を経由する5.3kmの新線が開通。
同操車場構内の操南ヤードを経由する旧線と共に使用されました。
そんな設備投資とは裏腹に志文駅の貨物営業は苦境に立たされ、1962年1月15日には貨物フロントを廃止してしまいました。
同時に志文駅は一般駅から旅客駅に種別変更し、旅客・手荷物・小荷物(不配達)に窓口業務を絞っています。

皮肉にも高度経済成長期はエネルギー革命の勃発により、石炭から石油への一大転換が為された時代。
万字線沿線でも1966年に美流渡炭鉱、1974年に朝日炭鉱、1976年に万字炭鉱が相次いで閉山し、敷設当初の使命であった「運炭」が消滅しました。



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1980年5月15日、札幌鉄道管理局は営業近代化を敢行。
志文駅を含む計11駅が業務委託駅となり、国鉄の協力会社である日本交通観光社㈱北海道支社が窓口業務を受託しました。
なお、日本交通観光社は略して「日交観」と言い、同北海道支社はJR北海道の子会社である㈱北海道ジェイ・アール・サービスネットの前身に当たります。
ただし委託業者の駅員は運転取扱資格が無いため、タブレット閉塞を取り扱う当務駅長(運転主任)を引き続き配置しています。

1980年10月1日、室蘭本線営業近代化に伴い沼ノ端~岩見沢間が自動信号化。
これに伴い単線区間のタブレット閉塞器が御役御免となりました。
1981年11月2日には室蘭本線沼ノ端~岩見沢間のCTC化も為しています。

国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
志文駅も小荷物フロントを廃止し、窓口営業は旅客フロント(出改札・案内)のみとなりました。
旅客フロントについても同年3月31日に廃止し、日交観との委託契約を解除しています。



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1985年4月1日、万字線が全線廃止となりました。
沿線から炭鉱町の活気が失われて久しく、北海道中央バスの代替路線に置き換わりました。
同時に志文駅における運転主任のタブレット閉塞も終了し、完全無人駅となりました。

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が志文駅を継承。
1988年には旧駅舎(2代目?)を取り壊し、コンパクトな簡易駅舎(3代目?)に建て替えています。

1994年11月1日、旧岩見沢操車場の南西にあった空知運転所(旧:岩見沢第二機関区)が廃止になりました。
空知運転所は本屋構内西側まで出入区線を敷いており、その廃止に伴い室蘭本線志文~岩見沢間のルート変更を実施する事になりました。
これにより国鉄末期より休止していた新線ルート(貨物線)が復活し、旧ルートよりも1.7km延長の遠回り経路になりました。
なお、住宅地を直線的に突っ切る旧ルートは線路を剥がし、遊歩道に整備し直しています。

現在の志文駅は岩見沢地区駅(担当区域:室蘭本線栗沢~岩見沢間、函館本線幌向~滝川間、根室本線滝川~落合間)に属し、地区駅長在勤の拠点駅である岩見沢駅が直轄する完全無人駅です。



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現駅舎は万字線の乗り場だった旧1番線の跡地にあります。
プラットホームと同じ高さに盛り土を施し、その上に駅舎を建てていますね。
旧駅舎は現駅舎よりも線路2本分ほど東側にありました。



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駅舎前から旧1番線ホームの石垣を眺めた様子。
手前に見えるタイル歩道の辺りも、かつては貨物線が敷かれていたそうです。



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駅舎正面の灯油タンクは「JR岩見沢駅副駅長」を管理責任者に指定しています。
岩見沢駅では副駅長が設備助役(駅構内の建築物・機械設備を管理する担当助役)を兼ねているという事が分かりますね。



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待合室の様子。
無人化後に建設された簡易駅舎に相応しく、なかなかに狭い空間です。
壁にはベニヤ板を張っています。



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室内の掲示板には芋虫に四肢を生やしたような生物がいます。
これは志文駅から約3.8km東北東の「大正池」で生まれた森の妖精・・・という設定のキャラクターで「イワくん」と言います。





岩見沢市役所健康づくり推進課は市民の健康づくりを目的に2008年、北海道教育大学岩見沢校と連携して「ひゃっぴい体操」というオリジナルの体操を作りました。
体操の振り付けは教育大学スポーツ教育課程の学生達が考案。
イワくんは体操のマスコットキャラとして、芸術課程美術コースの学生が制作しました。
「ひゃっぴい体操」という名前は「百歳までも健康でハッピーでいられるように」という願いを込め、なおかつ「いわみざわ百餅祭り」で使用している「百餅ばやし」をアレンジし体操曲とした事に因みます。
考案から15年、ひゃっぴい体操は多くの市民に親しまれ、各種イベントでも披露されています。



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こちらは苫小牧市・安平町・由仁町・栗山町・岩見沢市の各自治体が結成した「JR室蘭線活性化連絡協議会」の公式フェイスブックを宣伝する貼り紙。
このフェイスブックにアクセスすると、室蘭本線沿線のイベント情報や貴重な写真を見る事ができます。



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掲示板の下には「岩見沢市地域公共交通活性化協議会」がマガジンラックを設置しています。
同協議会は持続可能な地域公共交通網の形成を検討するべく、公共交通事業者、利用者、学識者、行政などが参加しています。



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こちらも「協議会」と名乗ってはいますがインフォーマルな存在ですね。
道内各地の無人駅で見られる「秘境駅存続協議会」の貼り紙です。
大層な自称の割には秘境駅の認定基準がガバガバで、志文駅のような秘境とは程遠い市街地の無人駅にも貼り紙をしています。
協議会と言うが実際は一人で虚勢を張っているんだろう・・・と道内鉄道ファンの間で噂されていますが真偽は如何に?



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ベンチの駅ノートにも「秘境駅存続協議会北海道支部」と手書き。
でもって駅ノート自体の管理者は「エキノート協議会」という、これまた訳の分からない自称・協議会が務めています。
そして表紙には「荷送人:川光物産㈱茨城工場」「お届先:三菱食品㈱北海道RDC」と書いた謎の送り状シールが貼られています。



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待合室の北面には1枚のドア。



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ホームセンターで売っているような「事務室」の表札を掲げています。



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左端には「関係者以外の立ち入りを禁ず」との警告文。
ドアの向こう側は駅事務室という訳ですが、この駅舎が落成したのは無人化後なので当然ながら駅員はいません。
どうやら中に駅構内の信号機や転轍機を制御する継電連動装置があり、何らかの事象により自動閉塞が使えなくなった時に、岩見沢駅から信号担当の駅員を派遣する事があるようです。
また、保線作業員や電気作業員が近隣で作業をする際、休憩所としても活用されているのでしょう。



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駅舎正面左側にも業務スペースの出入口があります。
こちらは物置になっており、中に除雪道具を収納しているようです。



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駅前には古びた農業倉庫がチラホラと見られます。
国鉄時代に志文駅から野菜や米を出荷していた名残ですね。



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これら倉庫はホクレンの管理物件でしたが、現在は㈲真総業に譲渡されています。
真総業は2002年の設立で、資本金700万円、従業員数5名という小さな会社。
志文本町3条2丁目に本社を構え、貨物運送や産廃収集、除雪といった事業に取り組んでいます。


長くなったので今回はここまで。


※写真は特記を除き2021年10月2日撮影
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最終更新日 : 2023-03-11

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