タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-02-10 (Fri) 23:52

留萌本線秩父別駅 東西に分割して開拓を進めた屯田兵村

秩父別駅a01

空知管内は雨竜郡秩父別町秩父別(旧:雨竜郡秩父別町26区)にある、JR北海道の秩父別(ちっぷべつ)駅。
寒地稲作の盛んな秩父別町の中心街に置かれた駅です。
農業の町に相応しく駅前にはJA北いぶき(北いぶき農業協同組合)の農業倉庫が密集し、同農協の営農販売事務所や米穀乾燥調製貯蔵施設「いなほの鐘」も建っています。
少し離れていますが本所ビルや農機整備センター、生産資材事務所もあります。
そんな農協の一大拠点をひとしきり眺めていると、貨物列車の積卸があった国鉄時代の隆盛を垣間見る思いがしますね。

駅南西の国道233号線沿いには商店街があり、寿司屋、居酒屋、スナック、酒屋、床屋、写真屋、畳屋、板金屋などが営業中。
昭和の看板建築が多く軒を連ね、廃業した世帯であっても建築様式に往年の面影を感じられます。
看板建築の建ち並ぶ範囲は結構広く、過疎化する前は昼夜を問わず大いに活気付いていたのでしょう。
商店街のすぐ近くには「ベルパークちっぷべつ」というキャンプ場があり、夏は行楽客で賑わいます。


JR北海道 国鉄 JR貨物 秩父鉄道
北秩父別駅a02
秩父別町史編さん委員会(1987)『秩父別町史』p.209より引用

秩父別町は元々、北海道の防衛に当たる屯田兵の入植地として1895年から開拓が始まり、「東秩父兵村」と「西秩父兵村」に分割していました。
何れも屯田歩兵第一大隊に属し、このうち西秩父兵村は第六中隊(後の第一中隊)、東秩父兵村は第七中隊(後の第二中隊)が所管しました。
各兵村につき200戸ずつ、合計400戸の兵員を募集。
「土佐丸順航路」の船が四日市を出発すると、神戸、多度津、今治、博多、下関、境、敦賀、伏木の順にぐるりと寄港して応募者達を乗せました。

そして秋田県、山形県、福島県、新潟県、愛知県、岐阜県、富山県、石川県、福井県、三重県、奈良県、和歌山県、兵庫県、鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県、香川県、徳島県、愛媛県、高知県、佐賀県の合計23県から兵員が集結。
圧倒的に多いのは香川県人で合計83戸、次いで多いのが富山県人で52戸、和歌山県人で40戸を数えました。
反面、東日本勢はごく僅かで秋田・山形・福島・新潟の4県を合わせて5戸という有り様でした。
なお、屯田歩兵第一大隊は1902年3月31日に解散しています。



秩父別駅a05

屯田歩兵第一大隊の解散から8年後、1910年11月23日に国鉄留萠線深川~留萠間が新規開業しました。
秩父別駅は一般駅として同日付で開設され、当初は「筑紫駅」という名称でした。
筑紫(ちくし)とは言っても先述したとおり当地に福岡県人は一切入植しておらず、福岡の筑紫郡とも何ら関係ありません。
「筑紫」の由来はアイヌ語の「チックシベツ」と言われますが、これに和人達は当初「秩父志別」という当て字を使っていたそうです。

秩父志別から「志」の1文字が抜けて現在の地名である「秩父別」に変化した・・・と言うならまだ理解できます。
実際、地元では屯田兵村の発足当初は「秩父」と書いて「ちっぷ」、1901年には深川村からの独立に伴い「秩父別村」と称しています。
にも拘らず国鉄当局が「筑紫」の2文字を駅名にした理由は、秩父別町史編さん委員会の調査を以ってしても判然としませんでした。
この駅名のイメージに引っ張られ、昭和初期には駅の住所が「雨竜郡秩父別村筑紫」となった事もあったそうな。

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 秩父別については、アイヌ語が起源であることはまちがいないが、次のように若干差異が見られる。

 ○『雨竜屯田兵村史』(大正2年版)古来土人此地を「チックシベツ」と呼びしものゝ如し、土人語の「ベツ」とは河に沿へる平坦地を意味し、「チックシ」とは泥炭地を指せる語にて(後略)
 ○『北海道蝦夷語地名解』(明治24年初版・永田方正著・北海道庁刊)石狩国雨竜郡の部 Chikush pet チク 通路アル川
 ○深瀬春一(函館師範学校教諭)「チックシ」は「火」の意、「ベツ」は「川」なれども「火の川」にて意通ぜず。古名は「チクシユベツ」なりしを後の人転訛して「チツクシベツ」と呼びたるならむ。「チクシユ」は「通路」なれば「通路ある川」との義なるべし。
 ○『深川市史』(昭和52年刊)秩父別は、今「ちっぷべつ」であるが、古い人たちはよく「ちくし」と呼ぶ。永田地名解は(Chikush-pet 通路ある川)と書いた。直訳するならチ・ク・ペ(我ら・通る・川)である。川があの湿原の中の通路であったのだろうか。(中略)松浦図ではチフクシベで、念のため再こう石狩日誌の方を見ると同じく「チフクシベ。右の方小川也」である。それから見ると元来はチ・ク・ペ(Chip-kush-pet 舟が・通る・川)とも呼ばれたのではなかろうか。(後略)

 いずれにしても、屯田兵村設置当時は、深川村字チックシベツと称し、明治34年分村独立を機会に「秩父別」と命名し、また、明治43年留萌本線が開通した時は駅名を「ちくし」(筑紫)と呼んだのであるが、どのような経緯から「チックシベツ」が「秩父別」となったか、駅名をわざわざ「筑紫」としたのかについては、これを説明する文献は残されていない。昭和54年発見された古文書の中に、明治30年7月刊行の地図16枚があるが、片仮名で「チックシベツ」とふり仮名された「秩父志別」の地名が記されている。また、屯田一中隊は西秩父兵村、二中隊は東秩父兵村と呼称されていたので、これによって「志」の字を省略して「秩父別兵村」という名称に決定したのであろうか。

《出典》
秩父別町史編さん委員会(1987)『秩父別町史』p.p.58,59
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秩父別駅a03

1931年10月10日、留萠線から分岐するかたちで札沼北線中徳富(後の新十津川)~石狩沼田間が新規開業。
代議士の東武(あずま・たけし)率いる「石狩川右岸鉄道速成同盟」の活動が功を奏し、空知平野を南北に縦貫する新路線を誘致する事が出来ました。
この開業に伴い留萠線は路線名称を「留萠本線」に改称しています。

1954年11月10日、筑紫駅は現駅名の「秩父別駅」に改称。
開業から44年を経て、ようやく自治体の代表駅に相応しい名称となりました。
この5年後の1959年には町制施行により、秩父別村が「秩父別町」に転じています。

1969年10月1日、手小荷物の配達業務を廃止。

1974年10月1日、営業範囲改正に伴い手荷物と小口貨物の取扱いを廃止。
窓口営業を旅客(出改札・案内)、小荷物、車扱貨物に絞りました。



秩父別駅a04

1982年11月15日、ダイヤ改正に伴い貨物フロントを廃止。
これに伴い秩父別駅は一般駅から旅客駅に種別変更しました。

国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
秩父別駅においては旅客・小荷物ともに窓口営業を廃止し、タブレット閉塞を取り扱う当務駅長(運転主任を含む)のみ配置する体制に変わりました。

1986年11月1日、ダイヤ改正に伴い交換設備を廃止したため、当務駅長を置く必要が無くなり無人駅となりました。

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が秩父別駅を継承。
1997年4月1日、路線名称の留萠本線について「萠」を「萌」に直して「留萌本線」に改称しました。
実際、昭和時代から地元住民や官公庁・企業等は「留萠」ではなく「留萌」の表記を用いており、分割民営化10年目でようやく地域の実態に則した路線名称となりました。



秩父別駅a28

2007年5月10日、朝の通学時間に乗客の積み残しが発生。
当時、留萌本線ではキハ54形が主力でしたが、転換式クロスシートがズラリと並ぶ急行仕様だったため混雑しやすかったのです。
この反省としてJR北海道はロングシートの増設工事を実施し、急ごしらえで混雑緩和を図っています。

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 平成19年5月、留萌線秩父別駅で車両の混雑のために学生が乗車できないという事象が発生した。これを受けて、緊急的に車両出入口付近の転換シートをロングシート化する変更を実施したが、石狩沼田~深川間の混雑は慢性的なものであるのに加え、平成20年度からは沼田高校の生徒募集が停止されて留萌線沿線から深川の高校に通学する生徒の増加が見込まれることから、留萌線を運行するキハ54の全てに「混雑緩和」改造工事を実施することとなった。対象車両は13両で、平成19年から苗穂工場と釧路運輸車両所で分担施工した。改造は、転換シートを8脚撤去してロングシート及び吊り手を設置するというもので、改造前は74人の定員(座席58人、立席16人)であったのが、改造後は84人(座席58人、立席26人)となった。

《出典》
苗穂工場百年史編纂委員会(2010)『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』p.92
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木造駅舎
秩父別駅a02

駅舎は1934年に建設された2代目で、平屋の木造建築です。
1971年に改築工事を施して以降、ちょこちょことリフォームを重ねているようです。
2010年代には下見張りの外壁板を張り替えたり、ダークグレーのガルバリウム鋼板を張る等の工事を施しています。



秩父別駅a06

駅舎前はサイクルラックを2列に並べた駐輪場となっています。
先述した乗客積み残し事件の頃はサイクルラックが無く、自宅から駅に来た高校生達が自転車を無造作に停めていました。
特にマナーの悪い生徒は玄関の真ん前に駐輪する始末。
その頃は極めて無秩序でしたが、サイクルラックを置くだけで見違えるようにスッキリしました。



秩父別駅a07

駅前広場には公衆トイレが1棟。



秩父別駅a08

このトイレは秩父別町役場と駅前町内会が管理しています。
利用時間に制限があり、夏期(4月~11月)は7:00~21:00、冬期(12月~3月)は7:00~19:00と定めています。


木造駅舎 待合室
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木造駅舎 待合室
秩父別駅a09
木造駅舎 待合室
秩父別駅a10
木造駅舎 待合室
秩父別駅a11

待合室の様子。
綺麗にリフォームされた外装に反し、内装は程好く草臥れています。
床はひび割れが目立ちますし、壁も所々煤けていますね。



秩父別駅a13

板で塞がれた出札窓口と手小荷物窓口。
出札棚とチッキ台、窓枠が原型を留めています。



秩父別駅a14

秩父別駅の美化活動は地元住民が引き受けているそうです。
出札棚には猫の陶器と花瓶を飾っています。



秩父別駅a16

ベンチの傍にも花瓶。
綺麗な花が煤けた待合室に彩りを添えます。



秩父別駅a15

こちらは秩父別町の観光名所「ローズガーデンちっぷべつ」を宣伝するポスター。
開園期間は毎年6月下旬~10月上旬です。
秩父別駅から徒歩20分で薔薇園の景色を堪能しに行けます。



秩父別駅a17

深川駅長の名義で貼り出された「お客様へのお願い」。
積み残し事件が再び起きないよう乗客に対し、列車に乗ったらできるだけ乗車口から奥へ詰めるように呼びかけています。


木造駅舎
秩父別駅a18
木造駅舎
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ホーム側から駅舎を眺めた様子。


木造駅舎
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木造駅舎
秩父別駅a22

改札口を眺めた様子。



秩父別駅a23

改札口の床にはラッチの根元が残っています。
かつてはパイプのラッチがありましたが、無人化後に切断した訳ですね。


運転取扱業務 信号テコ扱所 信号てこ扱所 テコ小屋 てこ小屋
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運転取扱業務 信号テコ扱所 信号てこ扱所 テコ小屋 てこ小屋
秩父別駅a26

駅舎の事務室側には信号テコ扱所の跡があります。
交換設備があった国鉄時代は、ここに設置された大きなレバー(信号テコ)を当務駅長が操作する事で、駅構内の転轍機や腕木式信号機が作動しました。


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秩父別駅a21

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1面1線の単式ホーム。
全長は20m車4両分ほどです。
国鉄時代は2面2線の千鳥式ホームを有しており、駅舎側が1番線、駅裏側が2番線となっていました。
また、駅構内北西の農業倉庫前には貨物積卸ホームもありました。



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旧1番線に入線するキハ54形2連。


※写真は全て2017年4月10日撮影
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最終更新日 : 2023-02-11

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