空知管内は雨竜郡秩父別町秩父別(旧:雨竜郡秩父別町6条1丁目)にある、JR北海道の北秩父別(きたちっぷべつ)駅。
秩父別の中心街から北へ約2km離れた稲作地帯に置かれた駅です。
当駅付近から雨竜川にかけて、支流である秩父別川が線路に沿って流れています。
南方には町営の除雪ステーションがあり、町内における道路除雪の拠点となっています。
秩父別町史編さん委員会(1987)『秩父別町史』p.209より引用
北秩父別駅の界隈は開拓時代、屯田兵村の追給地で「北東方地区」と呼ばれていました。
秩父別町は元々、北海道の防衛に当たる屯田兵の入植地として1895年から開拓が始まり、「東秩父兵村」と「西秩父兵村」に分割していました。
兵員1戸にはまず1町5反歩の宅地(第一給与地)を支給し、宅地の開墾が終了したら3町5反歩の追給地(第二給与地)を与える手法をとりました。
追給地は所定区域内で兵員が希望する土地を与えており、最終的に1戸当たり5町歩の土地を得られるようになっていたのです。
しかし兵員は朝から夕方まで練兵・教育・共同作業に従事し、宅地開拓は自宅に残る家族が担っていたため、追給地を得るまでの道程は相当に長かったといいます。
もちろん開墾のペースも世帯によってまちまちで、大家族で能率が上がった者、人並み以上の意欲でいち早く宅地を拓いた者、のんびりマイペースで取り組んだ者・・・と様々でした。
JR北海道 国鉄 JR貨物 北秩父別仮乗降場 無人駅 秩父鉄道
秩父別町史編さん委員会(1987)『秩父別町史』p.273より引用
追給地は西方地区と北東方地区に分かれており、このうち北秩父別駅の所在する北東方地区は主として東秩父兵村(屯田歩兵第一大隊第二中隊/旧:第七中隊)に割り当てられました。
緩やかな起伏が多く、低地は粘度湿地、高位置は痩せて酸性の強い土壌です。
麦類・豆類が十分に育たず、湿地帯に至ってはジャガイモさえも収穫皆無だったといい、トウモロコシ程度が関の山だったそうです。
比較的マシな土地は東1丁目の3条~7条間で、粘度地帯とはいえ兵員同士の争奪戦が展開されました。
こうした例外を除けば土地の悪さに落胆する兵員や家族が多く、中隊本部が養蚕・養鶏・養豚などの副業を奨励しても、本来の土地からの収穫を期待できず自暴自棄に陥る人もあったそうです。
この危機を脱するには稲作に挑むしかないと考え、有志が中隊長の許可を得て1897年に導水路・配水路を整備。
すぐさま22戸が水田を造成し、翌1898年秋には見事に収穫できたので、村の将来の農業は稲作を主体とする方針が固まりました。
つまり北東方地区は「秩父別町における稲作発祥の地」という訳です。
しかし多くの屯田兵にとって営農は上官から命令されてしぶしぶ取り組んでいる事であり、兵屋の移転は以ての外、模様替えもままならないような窮屈な生活にうんざりしていました。
そのため1902年3月31日に屯田歩兵第一大隊が解散すると、彼らは解放感を味わうと共に今後の生活に迷う事となり、離農する人も少なからずいたのです。
土壌の良い土地を見つけて引っ越した人、追給地を家族名義にして分家させる人、直ちに土地を売却し引き払った人もいました。
そして追給地に残り開墾に精を出した人達の子孫が、今も北秩父別駅の周辺で稲作農家として暮らしているそうです。
屯田歩兵第一大隊の解散から8年後、1910年11月23日に国鉄留萠線深川~留萠間が新規開業しました。
しかし北秩父別駅が開設されたのは、それから46年後の1956年7月1日。
当初は正式な「駅」ではなく、旭川鉄道管理局の采配により設定した「仮乗降場」でした。
旭川鉄道管理局管内では1950~1960年代、小集落の利便性確保を目的として自局管轄内の各路線に仮乗降場を次々と設置しており、北秩父別仮乗降場もその一つだったのです。
*****************************************************************
かりじょうこうじょう 仮乗降場
季節的に旅客の集合する場合等旅客乗降の利便を図るため駅以外の場所に設備した乗降場をいう。このほかに臨時乗降場も仮乗降場と称することがある。
現在国鉄では仮乗降場の設置は本社で行なっており、その開設期間、旅客の取扱区間等については鉄道管理局長が定めることとなっている。
仮乗降場と仮駅の異なるところは、仮乗降場には営業キロ程が設けられず、運賃は外方駅の運賃によることとしている点である。現在通勤・通学等の利便を図るため、鉄道管理局長かぎり臨時に列車を停車させ旅客の取扱を行っている場所があり、これも仮乗降場または臨時乗降場と通称する。
(森 悌寿)
《出典》
日本国有鉄道(1958)『鉄道辞典 上巻』p.269
*****************************************************************
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が継承し、同時に旅客駅へと昇格しました。
1997年4月1日、路線名称の留萠本線について「萠」を「萌」に直して「留萌本線」に改称しました。
実際、昭和時代から地元住民や官公庁・企業等は「留萠」ではなく「留萌」の表記を用いており、分割民営化10年目でようやく地域の実態に則した路線名称となりました。
現在は旭川駅を拠点駅とする旭川地区駅(担当区域:函館本線江部乙~旭川間、留萌本線全区間、富良野線旭川~学田間、宗谷本線旭川~名寄高校間、石北本線新旭川~上越間)に属し、地区駅長配下の管理駅である深川駅が管轄する完全無人駅です。
国鉄時代の仮乗降場に相応しく、駅構内には20m車1両分にも満たないほど短いプラットホームを設けています。
この手の短いホームはしばしば「朝礼台」と呼ばれていますね。
当然ながら単式ホームの棒線駅です。
駅舎は開設当初から存在するものと思われる、こじんまりした下見張りの小屋です。
ホームから駅の外側にはみ出すように建っており、赤いトタン板を葺いた招き屋根を有しています。
国鉄は仮乗降場に自前の駅舎を建設しない事が多かったので、これも元々は地元住民が列車の待ち時間を過ごせるように建設したのでしょう。
町役場の固定資産台帳にも載っていないそうです。
2022年6月16日には乗務中の運転士が、駅舎の傾きが大きくなっているのを発見。
倒壊の危険が懸念されるため、同年6月21日から閉鎖されています。
北秩父別駅は近隣に住む高校生が通学利用しているため、役場は駅舎を修繕すべきか頭を悩ませているそうです。
仮に修繕したとしても、留萌本線は2023年4月1日に留萌~石狩沼田間を廃止した後、残る深川~石狩沼田間についても2026年を目途に廃止してバス転換する予定。
高校生も長時間、北秩父別駅で列車を待つ訳ではないでしょうし、いっそ取り壊した方が現実的なんじゃないかと思います。
【2023年2月8日追記】
改めて調べてみたら、何と2022年10月24日に駅舎が取り壊されていました。
設置者は秩父別町役場と思われ、建て替えずにプレハブを置いて出費を抑えた事が窺えますね。
駅舎の外壁にはホーローの駅名板を掲げています。
これも開設当時の近隣住民によるお手製でしょうか?
正面玄関の頭上には裸電球を設置していますが、これが外壁を切り取った穴にあるのです。
何故このような穴があるのかというと、電球1個で玄関灯と室内灯を兼ねているから。
当時は電球が高価だったので、経済性・効率性を意識し工夫したのでしょう。
待合室の様子。
壁の一部は比較的新しいツルツルの板を張っており、所々補修を重ねてきた事が窺えます。
天井にも年季を感じます。
梁には座敷童子・・・ではなく漁港で撮影された子供の写真が画鋲で止めてありました。
「Bye Bye Thank you 北秩父別 ただ一人*れる 外は雨」と書かれており、どうやら他所からの訪問者が少年時代の自身の写真を残していったようです。
しかし「ただ一人*れる」の「*」に入るしんにょうの漢字が達筆すぎて判読不能。
「進」のようにも「送」のようにも見えるのですが、それに「れる」を付けても意味の通る文章にならないしなあ・・・。
室内に貼り出された「公衆電話のご案内」。
最寄りの公衆電話ボックスとして案内しているのは、1駅先の秩父別駅前というのが何ともはや。
朝礼台のすぐ傍には踏切があります。
この踏切の正式名称は「秩父別1丁目踏切」。
町域再編で条丁目による住所が消滅した秩父別町ですが、こんな所に駅の旧住所である「6条1丁目」の痕跡が残っています。
※写真は全て2021年4月3日撮影
スポンサーサイト
最終更新日 : 2023-02-08