空知管内は雨竜郡沼田町北1条3丁目にある、JR北海道の石狩沼田(いしかりぬまた)駅。
かつては札沼線との乗換駅でもありました。
沼田町は稲作を主要産業とし「ななつぼし」や「ゆめぴりか」等を生産するほか、最近はブロッコリーや加工用トマトの作付けが増えつつあります。
その中心街に置かれているのが当駅で、駅前南部には酒屋、食堂、米穀店、呉服店、雑貨店、薬店、書店、おもちゃ屋などが集まり商店街を形成しています。
一方、駅前西部にはJA北いぶき(北いぶき農業協同組合)の沼田支所があり、道路を跨いで事務所、農業倉庫、車輌整備センター、生産資材店舗が建ち並びます。
その眺めたるや壮観で、国鉄時代の石狩沼田駅における貨物取扱の片鱗を垣間見る思いがしますね。
留萌本線から貨物列車が消えて久しく、沼田町の農産物もトラックでの出荷が常となっています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 留萌本線 札沼線 札沼北線 廃線跡 城端線
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.186より引用
「沼田」という地名の由来は、当地における開拓の祖・沼田喜三郎によります。
沼田喜三郎は富山県人で1834年4月14日(旧暦:天保5年3月6日)、砺波郡新西島村(現:小矢部市新西)に生まれました。
地元で代々農業と大工を生業としてきた沼田家の三男でしたが、暮らしは貧しく12歳にして大工・渡辺藤一郎の徒弟となりました。
そこで2年働いてから今度は矢木村の松尾藤右衞門に奉公し、時には主人に付き従い江戸に出る事も。
更に16歳で紺屋に奉公し染物の技術や商売の見習いに務め、一旦実家に帰り農業に従事してから23歳で単身江戸に出て染工となっています。
そして再び帰郷、農業に従事していましたが、間もなく鳩藤右衛門(はと・ふじえもん)の元で農業・商業の見習奉公をする事となりました。
鳩氏は商才に富んだ機敏な人で、西南戦争(1877年)の直後に物価が大下落するや誰も顧みない水田を安く買い、貧しい人々を雇って盛んに米を作らせ巨利を博したといいます。
そんな主人の元で喜三郎は様々な経験を重ね、25歳にして呉服商と質屋を経営して家運を挽回しました。
また発明の才覚も発揮し、呉服機織業を行なう間にも研究を重ねて手織機を発明。
これが現在の金沢織の基礎を為したと言われています。
家運を上げた喜三郎は26歳で再び帰郷。
農業を営み悠々自適に生活していましたが明治維新後、北海道開拓が脚光を浴びている事を知ります。
喜三郎は居ても立ってもいられなくなり1882年、49歳にして開拓に着手するべく妻子を残して小樽に向かいました。
当時の小樽は僅か3000戸ほどが暮らす小さな港町でしたが、将来必ず発展すると見て起業を決意。
青年時代に栃木で体験した足踏み臼での精米にヒントを得て、水車を利用した精米業を着想すると、すぐさま兄弟と知人の支援を得て機械製作に着手しました。
そして1891年、共成㈱を創立し社長に就任。
札幌に支店を開設するなど、経営の手腕を大いに発揮しています。
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.81より引用
喜三郎が起業の準備を進めていた頃、現在の沼田町を含む雨竜郡一帯の開拓に着手しようとした人がいました。
その人は討幕派の中心人物として有名な元公家・三条実美(-さねとみ)です。
三条公は自ら開拓事業を率いる事で国富に資するだけでなく、明治維新で行き場を失った旧大名や没落華族の受け皿を作ろうとしたそうです。
そして三条公の縁族に当たる蜂須賀茂詔(-もちあき)、菊亭修季(-ゆきすえ)、大谷光瑩(-こうえい)らと「華族組合農場」を結成。
1889年12月18日に土地の貸下許可を受け、翌1890年2月には尾白利加(おしらりか)に事務所を開設しました。
畑作と酪農の混同農業を取り入れるべく、ドイツから農具を仕入れ、牛馬も血統の正しいホルスタインやサラブレッド等を入れて欧州式の模範的農業を目指しています。
ところが1891年2月18日、三条実美はインフルエンザに冒され無念の死を遂げます。
盟主を失った華族組合農場の事業は行き詰まり、1893年3月18日に組合は解散、土地の多くは道庁に返還されてしまいました。
残る成墾地は出資額に応じて出資者に配分され、個々に独立した農場となりました。
ただし大谷光瑩は土地の配分を拒否し、そこだけ遊休地と化してしまいました。
華族組合の解散を知った沼田喜三郎は、北空知の開発が急務である事を痛感。
直ちに大谷伯を説得し「雨竜本願寺農場」として遊休地約4,000ヘクタールの貸下げを受け、1894年に現地で開墾委托㈱を設立しました。
本格的に開拓事業を開始したのは翌1895年で、喜三郎は郷里の富山県砺波郡から18戸の入植者を迎え入れました。
これを皮切りに富山県や石川県から入植者が相次ぎ、1896年には約380戸もの北陸移民が暮らす一大農場に変貌しています。
ソルキーブラウによる機械農法に着手し、キビ、菜種、蕎麦などの畑作を展開。
水稲の試作にも成功し、導水によって水田を拡大していきました。
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.197(左)、p.198(右)より引用
また、喜三郎は富山県から根尾兵蔵、田島五三郎の2人を自らの片腕として呼び寄せています。
根尾兵蔵は喜三郎の実弟に当たり、1837年に沼田家の四男として生まれましたが、幼少期に矢木村(現:富山県砺波市矢木)の根尾藤左衛門の養子となりました。
兵蔵は兄の開墾事業を手伝うべく58歳で渡道し、面倒見の良さから多くの入植者達に慕われたそうです。
1899年1月、仁多志別郵便局が開局すると同時に初代局長を拝命。
1910年には仁多志別郵便局が沼田市街に移転したため沼田郵便局長となり、1916年に退職するまで18年間も郵便局長を務めました。
退職時、兵蔵は79歳の高齢だったというから驚きです。
田島五三郎は1876年、氷見郡太田村(現:高岡市太田)に農家の五男として生まれました。
雨竜本願寺農場の開拓着手から喜三郎を支えてきた人で、1897年5月には農耕馬13頭を買い付けるべく一人で静内まで行き、帰りは激流の川を馬と共に渡ったという豪傑です。
五三郎は1907年に火防組合を結成しており、これが後の沼田消防団のルーツだと言われています。
他に沼田村の農会長、村会議員を歴任し、1912年に開業した劇場「大正座」は北空知でも有数の芝居小屋として評判でした。
晩年の1952年、病床に臥せる五三郎は役場に対し私有地の寄附を申し出ており、その土地の一部は1954年に開基60周年記念事業の一環として「田島公園」に生まれ変わっています。
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.193より引用
前置きが長くなりましたが、ここからは石狩沼田駅の大まかな歴史を見ていきましょう。
石狩沼田駅は1910年11月23日、国鉄留萠線深川~留萠間の新規開業に伴い一般駅として開設されました。
この建設誘致にも沼田喜三郎が関わっています。
構内用地も喜三郎が寄贈しており、線路土採場を含め5,000坪に上るそうです。
また、村は長らく「上北竜村」と呼ばれていましたが、国鉄当局が地域の実情に配慮し「沼田駅」と名付けています。
それに合わせて道庁も1922年4月1日、上北竜村を「沼田村」に改称しました。
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翁の功績はまことに偉大なものがあり、大正9年北海道米百万石祝賀会で表彰されたが、これ以外にも枚挙に暇ないほど各方面から表彰され、また感謝状が贈られている。しかし名誉欲のない翁は至極淡々としており、これらに対しては全く関心を持たなかった。その実をとり虚をすてる翁の人格の然らしむるところであろう。しかしその幾多の情熱を傾け尽くして実行した事業や土地も、やがては他人の手に委ね去らねばならなかったのであるが、それも翁の長いしかも深い人生経験から見るとそのいっさいが空として響き、淡々とした気持ちでそれを現実の姿として観じられたことであろう。
そうして翁の最も愛し終生の事業として精魂を傾けた第二の郷里「沼田」は、だれも自発的になんらの運動も行なわなかったが、留萌線敷設の際の駅名も当時の鉄道当局が村の実情に鑑みて沼田と命名され、また早くから翁の功績を熟知していた北海道庁では、上北竜村を大正11年4月1日翁の姓をとり「沼田村」と命名し、全北海道民に永久に忘れ得ぬ偉人として、その胸に深く刻み込まれることとなったのである。
《出典》
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.193
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当初、北海道庁の計画による留萌線敷設予定ルートは、①妹背牛より分かれ、和、恵岱別を通る線、②同じく碧水から美葉牛を通り峠下へ出る線、③同じく本願寺(現在の北竜第一)及び恵比島を通る線・・・の3ルートで、いずれも分岐点は妹背牛から分かれることになっており、沼田地区は全く予定されていなかった。
しかしこのルート変更については、沼田喜三郎氏の政治力が功を奏したといわれている。すなわち沼田市は開墾会社の計画事業がやや終了に近い明治36年、同社事務所を本願寺から沼田高台(旭町)に移し、沼田地区の開発に乗り出そうとしていたところ、たまたま前記3ルートの着工時期が早くなったことを知り、鉄道用地や市街地に必要な土地の寄附をするなど、適切な陳情運動によって俄に沼田通過の変更決定となった。
《出典》
沼田町史編纂委員会(1982)『新編沼田町史』p.p.989,989
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日本国有鉄道旭川鉄道管理局(1987)『旭川・鉄道八十八年の歩み』p.26より引用
1934年3月31日、群馬県利根郡沼田町(現:沼田市)に上越線の一般駅として全く同名の「沼田駅」が開業。
混同を避けるべく同年4月25日、北海道の沼田駅は現名称の「石狩沼田駅」に改称しています。
1931年10月10日、留萠線から分岐するかたちで札沼北線中徳富(後の新十津川)~石狩沼田間が新規開業。
代議士の東武(あずま・たけし)率いる「石狩川右岸鉄道速成同盟」の活動が功を奏し、空知平野を南北に縦貫する新路線を誘致する事が出来ました。
この開業に伴い留萠線は路線名称を「留萠本線」に改称しています。
《石狩川右岸鉄道速成同盟についてはこちら》
1935年10月3日、石狩当別~浦臼間の延伸開業によって札沼南線と札沼北線が繋がり、札沼線の全通が実現しました。
喜びに沸いたのも束の間、第二次世界大戦が勃発すると石狩当別以北が「不要不急線」に指定されてしまいました。
1944年7月21日には石狩追分~石狩沼田間も休止に追い込まれ、石狩沼田駅は接続拠点として機能を失いました。
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札沼線が石狩川右岸穀倉地帯の産業開発に果たした役割はまことに大きなものがあった。しかし第二次大戦がいよいよ熾烈となるに及び、重複路線と認められたためか、この札沼線は軍の要請によってその大部分が撤去されることとなり、昭和18年9月30日当別~石狩沼田間の営業を停止して撤収作業が開始され、翌19年7月にこの作業を終わった。撤収した資材は樺太国境の鉄道敷設に向けられたが、この鉄道は完成しないうちに終戦を迎えたのである。
また札沼線の撤収したあとには、昭和19年から省営自動車が運行されていたが、冬期間は積雪のため全く運行休止の状態で、沿線住民の生活に重大な支障を与えた。
《出典》
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.691
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こうした経緯から札沼線の復元を望む声は根強く、終戦を機に運動が活発化。
沿線住民が団結して「札沼線復元期成会」を結成し、運輸省やGHQに直談判する事態に発展しました。
そして1946年12月10日には札沼線石狩当別~浦臼間が営業を再開。
なおも復元を求める運動は続き、1952年11月3日には浦臼~雨竜間、1956年11月16日には雨竜~石狩沼田間が営業再開を見ました。
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昭和20年終戦とともに沿線町村には札沼線復元の声が高まり、札沼線復元期成会を結成し早期着工について猛運動を展開した。その結果、当別~浦臼間の復元が決定し、昭和21年8月着工、同年12月営業を再開することとなったのである。しかし浦臼以北の復元は予算および資材の都合で容易に実現の運びにいたらなかった。
そこで沼田、北竜、雨竜、新十津川、四ヵ村では、団結して早期復元のため期成会を結成し、運輸省、連合軍軍政部その他関係先に陳情書を提出するとともに運動を展開することとなったのである。
《出典》
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.691
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その昭和23年4月、陳情運動のため上京中の青陽町長からは「キボウタツセイシタ」という電報も入り、沼田~和間が初年度に施工されることはほぼ確定的なものと思われたのである。
しかしながら政治は生きものというか、南方町村側の猛烈な巻き返し工作が功を奏したためか、どたん場になって急転し、昭和28年4月浦臼から着工、同年11月3日浦臼~雨竜間が開通したのであった。
その後雨竜以北の沼田~雨竜間が開通したのは昭和31年11月16日で、これによって戦時中撤去されていた札沼線はようやく全線復元の念願が達成されたのである。
なお札沼線の沼田町内における駅は石狩沼田駅を始発とし、五ヶ山乗降場、北竜駅の設置を見たが、北竜駅は無人駅であった。
《出典》
沼田町史編纂委員会(1970)『沼田町史』p.695
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鳴り物入りで全線復元を遂げた札沼線ですが、高度経済成長期にモータリゼーションが起こると一転、旅客も貨物も自動車に奪われていきました。
遂には1968年9月、国鉄諮問委員会が指定した「赤字83線」に名を連ねる事に。
これを受けて国鉄北海道支社(後の北海道総局)も沿線地域に開発の余地が無く、直ちに廃止しても問題ないと判断し自動車輸送への切り替えに乗り出しました。
沿線関係者による反対運動も空しく1972年6月19日、札沼線新十津川~石狩沼田間の廃止に至っています。
1974年10月1日、石狩沼田駅の営業範囲を改正。
手小荷物と小口貨物の取扱いを廃止し、窓口営業を旅客・小荷物・車扱貨物に縮小しました。
このうち車扱貨物は、1982年11月15日の貨物フロント廃止に伴い消滅しています。
貨物取扱が無くなった事により、石狩沼田駅は一般駅から旅客駅に種別変更しました。
国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
石狩沼田駅も小荷物フロントを廃止し、窓口営業は旅客フロント(出改札・案内)のみとなりました。
ただし窓口業務は簡易委託化し、駅員についてはタブレット閉塞を取り扱う当務駅長(運転主任を含む)のみ残しています。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が石狩沼田駅を継承。
1988年6月には窓口営業が再び直営となり、当務駅長(輸送主任を含む)が運転取扱の合間に切符を売るようになったそうです。
1994年12月3日、ダイヤ改正に伴い交換設備を撤去したため、運転取扱業務を廃止しています。
1997年4月1日、路線名称の留萠本線について「萠」を「萌」に直して「留萌本線」に改称しました。
実際、昭和時代から地元住民や官公庁・企業等は「留萠」ではなく「留萌」の表記を用いており、分割民営化10年目でようやく地域の実態に則した路線名称となりました。
1998年5月、遂に駅員の配置を終了。
これに伴い出札窓口が再び簡易委託化しました。
なお、沼田町役場が1995年に発行した書籍『沼田町百年史』を読むと、出版当時の駅長は34代目だった事が分かります。
現在は旭川駅を拠点駅とする旭川地区駅(担当区域:函館本線江部乙~旭川間、留萌本線全区間、富良野線旭川~学田間、宗谷本線旭川~名寄高校間、石北本線新旭川~上越間)に属し、地区駅長配下の管理駅である深川駅が管轄する完全無人駅です。
そして2023年4月1日、当駅を含む留萌本線石狩沼田~留萌間が廃止される予定です。
最終運行日は前日の3月31日となります。
区間廃止後は石狩沼田駅が留萌本線の終着駅となりますが、残る区間も廃止・バス転換に向けて協議が進んでいます。
駅舎は札沼線廃止後の1972年11月に落成した2代目で、鉄骨耐火構造を採用しています。
正面玄関は防寒のため風除室を設けており、左右にドアを配置しています。
玄関前の階段には・・・
・・・ガーデニングで使われる事が多いラスクサークルを敷いています。
ここ数年の間に敷いたのでしょうか、あまり古さを感じさせません。
2枚とも2017年10月14日、士別軌道のツアーバス「急行雨竜号」乗車中に撮影
駅前広場には毎年8月開催の「夜高あんどん祭り」をPRする看板が立っています。
この祭りは沼田喜三郎の故郷・富山県小矢部市より1977年に伝承した行事です。
高さ7m、長さ12m、重さ5tに及ぶ大型あんどん同士をぶつけ合う「喧嘩あんどん」は、北海道広しと言えど、ここ沼田町でしか見られません。
駅舎西側には集札口と思しき通路があります。
かつては列車を降りた客が駅員に切符を渡し、ここから駅前に出ていたのでしょう。
無人駅と化した現在は開きっぱなしで、待合室をスルーしてホームに出られます。
集札口の脇には灯油タンクが1つ。
灯油タンクに付いた「少量危険物貯蔵取扱所」の標識を見ると、責任者を「JR深川駅副駅長」と明示しています。
深川駅では副駅長が設備助役(駅構内の建築物・機械設備を管理する担当助役)を兼ねているという事が分かりますね。
駅舎東側には意味深な階段があります。
国鉄時代はこの付近にも詰所が建っていたのでしょうか?
階段を上がった先には傾いたコンテナが1個。
除雪用具入れにでも使っていたのかなあ?
駅前広場の西側には運送会社、北空知輸送㈱の敷地が広がっています。
国鉄時代、この辺りに石狩沼田駅の貨物ホームがありました。
貨物列車とトラックによる連絡運輸の残り香を感じさせる立地です。
北空知輸送の社屋と敷地は元々、日本通運㈱旭川支店石狩沼田営業所が使用していたそうです。
書籍『新編沼田町史』(1982)に書かれた住所が、日通と北空知輸送で完全に一致しています。
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日通旭川支店石狩沼田営業所
○設置沿革 明治43年留萌線開通後、個人が事務所を建てて営業開始、次いで深川通運、北海道通運に属し、昭和19年10月「日本通運」に統合された。また営業事務所は昭和36年に沼田駅前花壇造成の際、現在地の東方より移転、その後老朽化したため昭和55年新築し現在に至っている。
○所在地 沼田町北1条3丁目1番7号
《出典》
沼田町史編纂委員会(1982)『新編沼田町史』p.1005
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一方、北空知輸送は1986年の設立で、当初は「北空知日通輸送」という社名だったそうな。
書籍『沼田町百年史』(1995)には町内で営業中の運輸事業者として、日通旭川支店石狩沼田営業所と北空知日通輸送、両方の名前が載っています。
しかも1995年当時、両者が同一住所に存在した事も確認できるのですが、いつ日通の営業所が撤退したのか、いつ北空知日通輸送が社名を変えたのかは不明です。
社名から「日通」が消えた事からして、おそらく北空知輸送は日通の資本と無関係になったのでしょう。
2023年1月5日から公開している大型トラック運転手の求人票によると、現在の従業員数は8名で資本金は2,000万円。
北空知管内のJAと取引があり、主に各農協間を結ぶ農産物の輸送業務、全道各地の工場から出荷される肥料の輸送業務を行なっているそうです。
時には一般荷主の農産物・引越し作業も引き受けているのだとか。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
留萌本線石狩沼田駅[1] 富山県人・沼田喜三郎と伝統の「喧嘩あんどん」
※写真は特記を除き2022年4月3日撮影
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最終更新日 : 2023-01-29