留萌管内は留萌市幌糠町(旧:留萌市大字留萌村字幌糠)にある、JR北海道の幌糠(ほろぬか)駅。
前回取り上げた藤山駅から、更に留萌川を上流に遡った山間の農村に置かれた駅です。
藤山よりもまとまった規模の集落で、駅前にはJAるもい幌糠事業所がありますし、線路に沿って南下すると消防団詰所や郵便局、森林事務所なども見られます。
留萌きっての繁華街である錦町とは約12.9kmも離れており、ここまで来ると隆盛を極めたニシン漁場のイメージが遥か遠くのように感じられますね。
そんな幌糠はかつて鬱蒼とした山林で、皇室財産である「御料地」の一つでもありました。
日本政府は1889年10月、道内全域の官林地から200万町歩を選定し御料地に編入しました。
このうち留萌の御料地は幌糠・チバベリ・中幌糠・樽真布・峠下・ポンルル(現:美沢)の6地区により構成され、これらを管轄する帝室林野局札幌支庁増毛出張所留萌分担区の庁舎を幌糠に置きました。
御料地を巡っては道庁が1893年、北海道の拓殖の重要部を占めている事や、交通網を整備する必要から官林として返還するよう願い出ています。
これを受けて内務大臣・農商務大臣は全道200万町歩のうち、137町歩を道庁の管理物件として下付しました。
そして1898年12月、道庁は御料地の貸下げを開始。
すると早くも54戸の自由入植があり、農地686町5反8畝を貸し下げました。
その後、1890年に233町歩、1893年に619町歩を相次ぎ貸し下げ、入植者は合わせて135戸に及びました。
入植者の前住所は高知県、香川県、岡山県、大阪府、京都府、奈良県、石川県、富山県など様々です。
JR北海道 国鉄 JR貨物 貨物列車
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.370より引用
こうして始まった幌糠の開拓ですが、まず入植者達は自らの手で家を建てなければなりませんでした。
手作りの家は枝や蔓などを組んだ原始的な物で「拝み小屋」と呼ばれました。
近隣の藤山農場とは違い衣食住の補助は一切なく、誰もがおぞましいほどの受難に直面したのです。
ただ一つ救いがあるとすれば、御料地だったがゆえに多少の道路が造られていた事でしょう。
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御料地というのは今はない。今の国有林地の南東の大部分をさす。藤山入植は人跡未踏の地に近く、交通路一つない原始林にいどむ苦痛があった。御料地では道路もようやく人馬の通る程度であったが、どうやら人煙近しという安らぎがあった。この点は良いが、経済的には、藤山農場入植とは違って、衣食住の補償は全くない。3ヵ年の成墾期間を過ぎると年貢(小作料)も納めることは同様である。入植者は雄大な大自然の昼なお暗い密林の中に身を委ねた天涯の孤児の心境であったろう。だれにも依存することはできない。自然と取り組み必勝の気持で土にいどむだけである。そして未来の希望に胸をふくらませ、第二の故郷の理想郷建設を目指していた。開墾第1歩、汗の一鍬をおろした。親は子を背負い、若者は世帯道具に食料を背負い、両手に開墾道具を持ち、木をよけ雑草や熊笹をかき分けて進むのであった。ぶどうづるや、草木の根に草鞋ばきの足をとられて転んだり、どぶ泥の湿地に足を奪われ、川や沢の浅瀬を渡り目的地に急ぐ。入植者の苦労は筆舌にはつくし難い。
(中略)
目的地に着くと、直ちにその夜を過ごす家を造らねばならない。家といっても鋸となただけで、いわゆる「拝み小屋」を作るのである。木や枝を利用して組み合わせ、ぶどうやこくわの蔓でネシシベ(釘の代用)を作ってこれをとめた。手の先を合わせたように組み合わせ、その上に柳の木の枝を垂木代りにし、柾の代りに松の枝や茅を刈って載せたものであった。床は草を敷き、その上に筵やござを敷いた。これは僅かに露をしのぐ程度である。夏は良かったが、冬は寒さに悩まされた。一枚の布団に5人も6人も雑魚寝をしていたが、冬は寒さでお互いにしがみついて夜明けを待つのであった。朝起きてみると、家のすきまや筵戸から風が入り、5寸も雪が積もって驚いた日もよくあった。シバレル日はビンビン音がして、立木が割れていることがある。こんな時には屋根が真白くなり、水溜は厚い氷が張った。窓外の木や枝には樹氷の花が咲ききれいであった。
《出典》
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.p.369,370
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苦難に満ちた開拓の末、幌糠駅が開設されたのは1910年11月23日の事。
国鉄留萠線深川~留萠間の新規開業に伴い、一般駅として開設されました。
留萠線は1931年10月10日、路線名称を「留萠本線」に改称しています。
1969年10月1日、手荷物・小荷物の配達を廃止。
以降は窓口での受け渡しのみ対応する事となりました。
1974年10月1日、営業範囲改正によって手荷物の取扱いを廃止。
1977年5月25日、貨物フロントを廃止して一般駅から旅客駅に種別変更しました。
国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換、小荷物営業体制の重点化を実施。
これに伴い幌糠駅では窓口営業を全廃しましたが、タブレット閉塞を取り扱う当務駅長(運転主任)は引き続き配置しています。
1986年11月1日、ダイヤ改正に伴い交換設備を廃止。
当務駅長を置く必要も無くなり、完全無人化しました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が幌糠駅を継承。
1997年4月1日、路線名称の留萠本線について「萠」を「萌」に直して「留萌本線」に改称しました。
実際、昭和時代から地元住民や官公庁・企業等は「留萠」ではなく「留萌」の表記を用いており、分割民営化10年目でようやく地域の実態に則した路線名称となりました。
現在は旭川駅を拠点駅とする旭川地区駅(担当区域:函館本線江部乙~旭川間、留萌本線全区間、富良野線旭川~学田間、宗谷本線旭川~名寄高校間、石北本線新旭川~上越間)に属し、地区駅長配下の管理駅である留萌駅が管轄する完全無人駅です。
そして2023年4月1日、当駅を含む留萌本線石狩沼田~留萌間が廃止される予定です。
最終運行日は前日の3月31日となります。
現在の駅舎は国鉄末期、貨物列車のワンマン化に伴い御役御免となったヨ3500形車掌車を再利用したいわゆる「貨車駅舎」です。
アイボリーと水色のツートンカラーに塗装されています。
旧駅舎は無人化後に取り壊されており、部分的に基礎が残っています。
待合室の様子。
床の縞板が赤錆塗れですね。
防犯のため監視カメラを設置しており、ゴミ箱は撤去しています。
幌糠駅に限らず留萌駅の被管理駅では、このような注意書きを玄関ドアに貼り付けています。
ホームベース顔の駅員が目印です。
保線作業員や電気作業員などが指令所との連絡に使用する鉄道電話機。
箱の側面には「34K510」と、幌糠駅のキロ程(深川駅起点)をチョークで書き込んでいます。
待合室の片隅に置かれたボロボロの戸棚・・・と言っても戸は欠損しています。
そんな戸棚の上には古ぼけたぬいぐるみ。
お茶の水博士が首吊り状態です。
ブルーハーツの「首つり台から」を口ずさみたくなるなあ。
ヨ3500形車掌車 貨車駅舎
ホーム側から駅舎を眺めた様子。
1面1線のプラットホーム
全長は20m車4両分ほどです。
先述したとおり国鉄時代は交換駅で、2面2線の相対式ホームとなっていました。
床面の大部分は未舗装で、細かな砂利を敷き詰めています。
ホーム上の駅名標。
※写真は特記を除き2021年4月3日撮影
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最終更新日 : 2023-01-11