留萌管内は留萌市藤山町(旧:留萌市大字留萌村字藤山)にある、JR北海道の藤山(ふじやま)駅。
前回取り上げた大和田駅から、留萌川を上流に遡った農村に置かれた駅です。
近くには留萌市役所が接した農村交流センター「風土工房こさえーる」があり、館内に市民・団体が利用できる研修室や調理実習室を備えています。
駅周辺の農家は稲作やハウス栽培に取り組んでいます。
留萌市(2003)『新留萌市史』p.506より引用
藤山という地名の由来は、小樽の廻船問屋・藤山要吉が当地に開業した「藤山農場」にあります。
藤山要吉は1851年7月8日、佐竹藩御用達の油商・古谷多兵衛の次男として秋田に生まれました。
幼少期から蝦夷地に興味があった要吉は、1867年に松前藩へと渡り廻船問屋と海産物商で働きました。
そして1872年4月に小樽へ移住し、問屋の大十中村に転職。
要吉は誰よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝して働きづめ、他人が嫌がる仕事を率先して引き受けたそうです。
その働きぶりを市内の廻船問屋・藤山重蔵に見込まれ、ヘッドハンティングを受ける事となりました。
重蔵は病弱で実子もいなかったため、要吉を自身の後を継ぐ養子として迎え入れています。
1879年に重蔵が逝去すると要吉は正式に家督を相続し、小樽を拠点として日本海側で海運を展開。
北はロシア・樺太、南は大阪まで商船を運航しました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 羽越本線
1888年には小樽からオホーツク海沿岸への航路を開き、開拓地との物資の交流を引き受けました。
次第に開拓は海沿いから内陸へと広がっていき、要吉も内陸部への事業拡大を志すようになります。
そして1896年、アイヌも住まない未開の地で「藤山農場」の開墾を開始し、富山県や石川県からの入植者達を小作人として受け入れました。
地主となった要吉は小作人と細やかに接し、入植から3年間は食糧を支給するなど厚遇したそうです。
1908年には西隣のヌプリケシュオマップに270町歩の貸付を受け、牧場を開設し牛馬100余頭を飼育。
1938年には北海道庁が「自作農創設維持奨励規則」を施行した事から、これにいち早く対応するべく藤山農場では全農地を小作人に解放しました。
藤山農場の農地解放は1938年の第一次、1941年の第二次と2回に分けて実施しています。
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.424より引用
そんな藤山農場に藤山駅が開設されたのは1910年11月23日の事。
国鉄留萠線深川~留萠間の新規開業に伴い、一般駅として開設されました。
小さな農村の駅ではありましたが、意外にも構内は広く多数の貨物側線が敷かれていたのだとか。
何故なら1907年頃に「藤山炭山」という炭鉱が開山しており、そこで採炭された石炭の輸送に国鉄線を活用する計画があったからだといいます。
しかし鉄道開業から1年後の1911年、鉱脈が断層で遮られてしまい、他の炭層を調査する余力も無く閉山に追い込まれてしまいました。
なお、藤山炭山と藤山要吉の関連性については不明ですが、鉱業権者が「馬場炭礦」だというので藤山氏は経営に関与していなかったのかも知れません。
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藤山炭山の変遷については、次の永住者の古老談をもとにして記す。谷本治作(明治26年生)、寺本栄(同31年生)、笹島与作(同35年生)の3人である。
明治40年頃の開山と思われる。場所は原野16線の沢で、馬場炭礦が盛んに石炭を掘っていた。もちろん坑夫長屋もあり、独身寮もあった。礦夫も6、70人位おり、明確にはわからないがかなりの採炭があったらしい。ただ、積出しには当時の交通(道路)では随分困難した。運搬の時期は冬期だけ馬橇5・6台で留萌に石炭を運んでいた。したがって雪の無いうちは掘るだけで、それを貯炭しておくため炭山の割には貯炭場が大きかった。藤山駅が小さいのに構内線路が複雑で、しかも広大なのは、留萌線開通当時すでに石炭の輸送計画があったといわれている。この山は明治44年断層のため経営が困難となり、ついに閉山した。閉山後約10年の大正9年には、西脇炭礦が小規模ながら採炭していた。この時は、いわゆる袋炭といって、塊りになった炭層から採炭していた。これを掘りつくすとなかなか他の炭層が見つからない。これも一層の断層に当たったと言うのであろう。この山(西脇炭礦)も僅か2年後の大正11年閉山している。
《出典》
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.424
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1931年10月10日、留萠線は路線名称を「留萠本線」に改称。
それから5年ほど経った1936、1937年頃に藤山炭山が復活を遂げました。
鉱業権者は「大東炭礦」となり、同社の「藤山礦業所」が操業しています。
藤山駅からの石炭発送も復活しただろうと思いますが、採炭は早くも伸び悩んでしまい、紆余曲折の末1940年に大東炭礦は閉山。
終戦後の1947年に大和田炭鉱(=寿炭鉱㈱)が所有する廃鉱で採炭を再開していますが、これも僅か5年後の1952年に閉山しています。
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昭和11・12年ごろ同じく大東炭礦が開かれた。場所は原野14線の沢に炭山ができ、予想に反して出炭が少なく困難していた。13年に入って16線の沢に新しい礦脈を発見して会社はそちらに移った。ここは出炭に恵まれたので、本格的に着工、坑夫長屋、貯炭場の建設にかかった。その時の請負人は笹島与作で、坪100円と言う高価であったが、社長はそれでよしとするので、大工などを入れてはじめての土建に着手した。利益はあったが、この山も長くは続かず15年に入って閉山した。
以上は3古老の座談会で話された中からまとめたものである。昭和22年9月には大和田炭礦所有の藤山炭礦廃礦の中から採炭を再開したことが記録されてはいるが、これも長続きはしなかった。
《出典》
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.424
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やがて高度経済成長期に入り、道路整備が進むと鉄道貨物はトラックに荷主を奪われるようになっていきました。
藤山駅も1962年11月1日、貨物フロントを廃止して一般駅から旅客駅に種別変更。
農産物をはじめとする発着貨物の取扱いは留萌駅に集約しました。
1974年10月1日、営業範囲改正により手荷物取扱いを廃止。
窓口営業範囲は旅客(出改札・案内)と小荷物に絞りました。
国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換、小荷物営業体制の重点化を実施。
これに伴い藤山駅では窓口営業を全廃しました。
また、閉塞合理化で交換設備を廃止したため、タブレット閉塞を取り扱う当務駅長(助役・運転主任を含む)も配置する必要が無くなり完全無人化しました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が藤山駅を継承。
1997年4月1日、路線名称の留萠本線について「萠」を「萌」に直して「留萌本線」に改称しました。
実際、昭和時代から地元住民や官公庁・企業等は「留萠」ではなく「留萌」の表記を用いており、分割民営化10年目でようやく地域の実態に則した路線名称となりました。
現在は旭川駅を拠点駅とする旭川地区駅(担当区域:函館本線江部乙~旭川間、留萌本線全区間、富良野線旭川~学田間、宗谷本線旭川~名寄高校間、石北本線新旭川~上越間)に属し、地区駅長配下の管理駅である留萌駅が管轄する完全無人駅です。
そして2023年4月1日、当駅を含む留萌本線石狩沼田~留萌間が廃止される予定です。
最終運行日は前日の3月31日となります。
駅舎は開業以来の木造駅舎で、1984年2月の無人化後に駅事務室部分(写真左側)を減築しています。
減築によって左右対称になった姿は、根室本線落石駅の駅舎を彷彿とさせますね。
外壁は元々、板を横に配した「下見張り」としていましたが、近年のリフォームで不燃パネルに張り替えられました。
減築された駅事務室の基礎が綺麗に残っています。
駅舎の正面右側には2つの記念碑が建っています。
右は1965年、藤山農場の開拓70年目を記念し、藤山要吉の功績を讃えて建立された「藤山開拓之碑」です。
左は1990年9月2日、藤山小学校開校90周年と藤山町開基95年を記念して建立された石碑です。
正面玄関に掲げた駅名板。
玄関引き戸には管理駅である留萌駅が「マムシに注意」との警告文を貼っています。
待合室の様子。
駅事務室側の壁は減築後に新設した物らしく、かつての出札窓口や手小荷物窓口の痕跡は一切ありません。
駅事務室側に設けた幅の広い引き戸。
この内側も元々は待合室に組み込まれていたのでしょう。
現在は近隣で保線作業を実施する際の休憩所と化しているようです。
藤山駅に限らず留萌駅の被管理駅では、このような注意書きを玄関ドアに貼り付けています。
ホームベース顔の駅員が目印です。
こちらも管理駅である留萌駅が制作した注意書き。
運賃表に見立てて「備品の持ち出しは犯罪です」との警告文を表示しています。
まるで横浜運輸区CS推進委員の如きトンチの利かせ方。
ホーム側から改札口を眺めた様子。
事務室側に1つだけ、パイプのラッチが残っています。
ホーム側から駅舎を眺めた様子。
減築した側は壁一面に不燃パネルを張っていますが、そうでない側の壁は原型の下見張りです。
1面1線の単式ホーム。
全長は20m車3~4両分ほどです。
かつては2面2線の千鳥式ホームで、現存するホームが1番線(上り:石狩沼田・深川方面)、撤去されたホームが2番線(下り:留萌・増毛方面)でした。
そして1番線ホームの東端に構内踏切を設け、2番線と連絡していたのです。
駅舎の西側には古びたコンクリート造りの小屋があります。
この小屋は「藤山通信中継機室」で、鉄道電話の中継機を格納しています。
設備保守はJR北海道旭川電気所が担当しています。
ホームに滑り込むキハ150形。
ホーム上の駅名標。
※写真は特記を除き2021年4月3日撮影
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最終更新日 : 2023-01-09