留萌管内は留萌市大和田3丁目(旧:留萌市大字留萌村字大和田)にある、JR北海道の大和田(おおわだ)駅。
留萌市街から南東に離れた山沿いの集落に置かれた駅で、付近には留萌川が流れています。
留萌川は当地で大きくスラロームを描いており、それに合わせて線路や道路もカーブしているのが印象的です。
その蛇行によって通水性が悪くなり、水害を誘発してきたという留萌川。
国土交通省も大和田に水位観測所を開設し、防災情報の発信に務めてきました。
北陸本線
留萌市(2003)『新留萌市史』p.568より引用
大和田という地名は、当地で操業していた大和田炭鉱に由来します。
この炭鉱は越前敦賀の実業家、大和田荘七(-しょうしち)が経営していた炭鉱です。
大和田荘七は1857年3月6日(旧暦2月11日)、敦賀の薬種商・山本九郎左衛門の次男として生まれました。
出生名は「亀次郎」。
1878年に北前船の船主として有名な廻船問屋・大和田家に婿入りし、1887年に先代の名跡である「荘七」を襲名しました。
その後は敦賀港を貿易港として発展させるべく開港運動を展開し、更に大和田銀行を設立するなど手腕を発揮しました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 留萌本線 廃線 廃止予定 区間廃止 部分廃止 留萌炭田
その後、荘七は敦賀から遠く離れた留萌で炭鉱経営に着手します。
1898年8月に留萌在住の佐藤喜代治と金澤為也が「金喜炭鉱」を開坑していたのですが、その経営権を譲り受ける事になったのです。
そして1905年10月から金喜炭鉱の経営を開始し、1907年には大和田炭鉱合資会社を設立するに至りました。
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金喜炭鉱の経営権が、佐藤喜代治から福井県敦賀町(敦賀市)の住人大和田荘七にどのようにして譲渡されたのか、その経緯を知る資料は少ない。しかし、荘七の嫡孫大和田聡の話によると、祖父の北海道における事績として「祖父と同じ廻船問屋を営んでいた小樽の藤山要吉とは個人的にも親交があり、大和田炭鉱の経営に何らかのかかわりがあったと聞いている・・・」とのことである。明治29年、藤山要吉は留萌原野に約三百余町歩の土地の貸し付けを受けて藤山農場を開設している。彼の名字が町名となった藤山町は大和田町の隣町である。大和田銀行をはじめ多くの事業に手を染めていた荘七は、大和田廻漕店も経営し、敦賀特産の藁工品である筵、縄類を留萌地方の漁場へ卸し、帰路は海産物を仕入れて売り捌き、莫大な利益を得ていた。明治40年(1907)の『殖民公報第四十七号』の記述では、小樽港を経由して留萌港に縄4726丸、筵5352束が卸されている。
《出典》
留萌市(2003)『新留萌市史』p.568
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留萌市(2003)『新留萌市史』p.566より引用
そんな大和田炭鉱の近隣では、1899年2月に留萌在住の佐藤亀蔵と石田勇三郎が「メンコ炭山」を開坑していました。
佐藤亀蔵は金喜炭鉱の経営者である佐藤喜代治の兄弟に当たります。
そこに加賀藩士族の斎藤知一が名乗りを上げ、佐藤氏らに対し坑内設備の資金を投資するようになりました。
斎藤知一は明治政府の奨励を受けて金沢から渡道し、増毛から天塩に至る日本海沿岸で捕鯨を展開し「ガンケ取りの大親分」という異名を取った人です。
捕鯨で稼いだ資金を元手に土建屋も起業した斎藤氏は、炭鉱経営をも志すようになりました。
そしてメンコ炭山への設備投資を始め、1903年には経営権を譲り受けるまでになったのです。
これに伴いメンコ炭山は「斎藤炭山」に改称。
曳揚機械・汽缶装置などを投入して坑道の拡張を進め、業績は鰻登りでした。
斎藤炭山では石炭輸送の手段として、留萌港に出入りする船舶を利用していました。
出荷する石炭を留萌港まで運ぶべく、専用の軽便鉄道(約6km)を敷設。
運搬船が富山の伏木港に着いたら石炭を貨車に積み替え、鉄道で得意先へと運んでいたのです。
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運搬はつぎの方法をとった。横坑道の積込口に墜落した石炭は、この所で容積6.6立方メートルの炭車に積む。それから人力で捲き立(まきたて)に運搬し、曳揚機械によって坑外に曳揚げられ、またこれを人力で貯炭場内の桟橋に出される。ここに設けてある石炭倒写機によって、切込みのまま必要に応じて粉炭と塊炭を分けて10立方メートルの隅車に盛り換え馬車引軌道で港まで送るのであった。
《出典》
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.420
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留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.421より引用
一方、大和田炭鉱合資会社は1907年の設立に伴い、斎藤炭山の軽便鉄道に並行して運炭用の線路を敷設。
2社共同で使用する事によって軽便鉄道の複線化を為しました。
そして1910年11月、大和田炭鉱は斎藤炭山の吸収合併に伴い株式会社化しています。
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明治38年10月、大和田荘七が経営することになった金喜炭鉱は、鉱長に前田幸太郎を迎えて留萌川水準下の採炭に着手した。斜坑及び各種坑道の開削、曳揚機械の据え付け、汽缶、ポンプ座の設置、貯炭場の建築など次々と設備を充実させ、さらに、斎藤炭山の軽便鉄道の横に同じく36センチメートルの鉄路を敷設し、共同で使用して鉄路の複線化をはかり、明治40年大和田炭鉱合資会社を設立した。
《出典》
留萌市(2003)『新留萌市史』p.568
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明治43年、鉱長が前田幸太郎から村上一郎に替わった。村上の経営手腕によって業績も着々と伸びていき、前田から引き継いで交渉を重ねていた斎藤炭山の買収が実現して、明治44年11月、大和田地区の全鉱区が大和田荘七の手に帰した。そして、会社の組織を株式会社に変更し従来の大和田炭鉱を本坑、旧斎藤炭山を二坑と呼んだ。
《出典》
留萌市(2003)『新留萌市史』p.571
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日本国有鉄道旭川鉄道管理局(1987)『旭川・鉄道八十八年の歩み』p.26より引用
大和田駅は炭鉱併合の折、1910年11月23日に国鉄留萠線深川~留萠間の新規開業と合わせて開設されました。
種別は一般駅とし、旅客・小荷物・貨物の各フロントを設けました。
その用地を大和田荘七が寄附した事から駅名は「大和田」となり、集落全体の地名も「大和田」としています。
開坑以来の軽便鉄道は御役御免となり、国鉄の貨物列車で石炭を運べるようになりました。
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鉱夫合わせて462人、鉱夫長屋も38戸に増え、社宅12戸や工場が建築され、公的な施設として明治43年11月、留萌線の開通によって大和田駅舎が建てられ、45年7月には特定三等局に指定された大和田郵便局が開局した。初代局長になったのは金喜炭鉱の経営者佐藤喜代治の甥にあたる佐藤要蔵だった。さらに、増毛警察署留萌分署が管轄する大和田炭鉱派出所が設置され、診療所鈴木医院が開設された。北海道電灯㈱によって第二坑口付近に常備火力発電所が設置され、町に電灯がともったのもこのころであった。また、旅館2戸、商店30戸が立ち並んで、大和田地域は炭鉱街として発展していったのである。
《出典》
留萌市(2003)『新留萌市史』p.571
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留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.422より引用
順風満帆かに見えた大和田炭鉱ですが、1914年に第一斜坑で地下水が浸水し、坑内が埋没する事故が発生しました。
止む無く第一斜坑は放棄し、残る第二斜坑だけで採炭を続けましたが、出炭量の減少による採算割れを避ける事は出来ませんでした。
対する大和田荘七の決断は早く、1918年に大和田炭鉱を閉山。
敦賀本社では名古屋の北海炭業㈱と鉱区の譲渡交渉を進め、すぐさま売却を決定しました。
そして北海炭業が第二斜坑を引き継ぎ、さっそく採炭に取り掛かったのですが1918年11月9日、坑内でガス爆発事故が発生。
そんな苦難を乗り越えて順調に採炭量を増やしていきましたが、1924年には採炭箇所が深くなるにつれて浸水に見舞われるはめになりました。
排水設備の更新も技術的に困難で、結局は北海炭業も僅か6年で撤退を余儀なくされています。
その後はコロコロと鉱業権者が代わり、細々と採炭が続いた大和田炭鉱ですが、遂に1931年から休山状態に陥りました。
留萌市(2003)『新留萌市史』p.578より引用
それから7年後の1938年9月、寿炭鉱㈱によって採炭が再開されました。
背景には日中戦争の勃発があり、これを受けて政府が軍需産業の強化を為すべく休山鉱区の開発に踏み切ったのです。
そこに名乗りを上げたのが東京・丸の内に本社を置く寿炭鉱で、同社は一足早い1933年5月より福島県の綴炭鉱を操業し経営の基礎を固めていました。
こうして大和田炭鉱は「寿炭鉱㈱大和田礦業所」として復活を遂げ、雨竜炭鉱・築別炭鉱・羽幌炭鉱など8ヶ所と共に「留萌炭田」を構成しました。
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本社寿炭鉱株式会社は、創立昭和8年5月15日、所在地東京丸の内1丁目6番地、資本金100万円、役員社長水野寿一・常務津久井仙蔵・常務石田武雄・監査三野昌治で、留萌の礦業所が発足した後は時代の波に乗って建設と採炭の両面が同時に行なわれ、第2の黄金時代がきた。炭質も良好であり売炭先も確実なところから不安なく操業が継続され、2年後の15年には従業員691名に達した。当時の新聞(16.1.15道新)に次のように報道されている。『留萌町内の寿炭鉱大和田礦業所はようやく創業期より本格的な事業開始に移行して、昭和16年には飛躍的展開が予想されると共に、町内炭礦の出現した港留萌の力強い発展が注目される。留萌線大和田駅前の山腹帯が急激な膨張発展をなし、堂々たる炭礦街を形成した。同会社は時局下地下資源に手を下したのが昭和13年で、丸2ヵ年で現在の○○棟、従業員○○名をようし、月産平均○○tを出炭している。―中略―去年末直接石炭を積み込むポケットも完成して採炭撰炭及び輸送力に月産○○tの第1期計画をたて大炭礦の片鱗を示している。埋蔵量は月○○t平均出炭があっても10年、20年は継続可能で―中略―本年の予定は従業員も社宅も増し、更に60坪の撰炭場建設をすすめると言う云々。』と賛辞が記されている。
産出高、従業員数など○○を用いているのも戦時下を物語るものとしておもしろい。
《出典》
留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.p.422,423
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留萌市役所(1970)『留萌市史(昭和40年~45年)』p.422より引用
終戦後の1947年6月、日本政府はGHQの意向を受けて配炭公団を設立。
大和田炭鉱も否応無く配給統制に応じ、採炭した全ての石炭を配炭公団に売る事となりました。
しかし1949年には配炭公団に集められた石炭が供給過剰となり、公団の経理は極度に逼迫。
そのため公団買い取り・価格統制が撤廃され、同年9月15日を以って公団そのものが解散するという顛末を迎えました。
すると「ただ採炭して公団に売れば安心」と高を括っていた中小炭鉱は、国からの資金手当てと石炭販路を一挙に失うという死活問題に陥りました。
僅か半年で休閉山数が209件に上る中、大和田炭鉱は大手炭鉱に対抗するべく道内の中小炭鉱と連帯して、新会社の北海道石炭販売㈱(通称:道炭)に加盟しました。
ところが肝心の出炭量は減少に転じ、経営状況が日増しに悪化していきました。
挙句の果てには1949年10月、第一斜坑から中央斜坑への入口付近で、コンプレッサーからの発火による坑内火災が発生。
この事故で14人が犠牲となり、半月以上に及ぶ採炭中止を余儀なくされました。
経営悪化にも歯止めが効かなくなり、11月には従業員678人に対し6割の賃金しか支払えない事態にもなりました。
1950年に入ると未払い賃金は更に増加し、ストライキが勃発。
混乱の中で「やがて閉山になるだろう」という噂も立ち、多くの従業員達が会社を見限って離山していきました。
寿炭鉱㈱は経営再生を賭け、1950年12月に月形炭鉱、1951年1月に福島の綴炭鉱を閉山して売却。
同年6月には都内の本社を大和田炭鉱に移転し、社名を大和炭鉱㈱に改称しました。
そして大和田炭鉱は「大和炭鉱㈱大和田鉱業所」に改組。
労働組合の代表者7名を加えた「経営委員会制度」の導入によって従業員の士気は高まり、出炭量はみるみるうちに右肩上がりとなりました。
炭鉱街も楽団や劇団の結成によって演芸会が開催されるなど、賑わいを取り戻していきました。
しかし程なくしてエネルギー革命が巻き起こり、石炭から石油への転換が進み出しました。
再び苦境を迎えた経営に、落盤やガス爆発など事故の多発が追い討ちをかけていきます。
資金繰りの悪化によりまたも賃金未払いが発生。
その矢先に政府が1955年8月に「石炭鉱業合理化臨時措置法」を公布すると、大和田炭鉱も石炭鉱業整備事業団への売渡を受け入れ閉山する事になりました。
労使間に熾烈な騒動が起こりましたが、最終的に1959年7月31日付で全従業員を解雇。
そして同年9月1日に撤収作業を終え、金喜炭鉱時代から通算して61年の歴史に終止符を打ちました。
発送する石炭が無くなった大和田駅は貨物取扱量が激減。
何しろ石炭以外に発送貨物は一切無く、後はレンガ・砂利・米といった到着貨物しか取り扱っていなかったのです。
農産品も無く石炭産業に依存しきった地域社会だったんですね。
閉山から1年後の1960年9月15日に貨物フロントを廃止していますが、おそらく最後の1年間は炭鉱街を去る人々の引っ越しに対応していたのかも知れません。
実際、同じ道内の雄別鉄道も炭鉱閉山から暫くは引っ越し対応のため存続し、一通り引き払ってから廃止していたものです。
貨物フロント廃止に伴い、大和田駅は一般駅から旅客駅に種別変更。
営業範囲は旅客・手荷物・小荷物(不配達)となりました。
1974年10月1日に営業範囲改正を実施し、手荷物取扱いを廃止。
旅客・小荷物のみの取扱いに変わりました。
国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
これに伴い大和田駅では窓口営業を全廃し、タブレット閉塞を取り扱う当務駅長(運転主任)のみ勤務する体制となりました。
1986年11月1日、ダイヤ改正に伴い交換設備を廃止し完全無人化しました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が大和田駅を継承。
1997年4月1日、路線名称の留萠本線について「萠」を「萌」に直して「留萌本線」に改称しました。
現在は旭川駅を拠点駅とする旭川地区駅(担当区域:函館本線江部乙~旭川間、留萌本線全区間、富良野線旭川~学田間、宗谷本線旭川~名寄高校間、石北本線新旭川~上越間)に属し、地区駅長配下の管理駅である留萌駅が管轄する完全無人駅です。
そして2023年4月1日、当駅を含む留萌本線石狩沼田~留萌間が廃止される予定です。
最終運行日は前日の3月31日となります。
現在の駅舎は国鉄末期、貨物列車のワンマン化に伴い御役御免となったヨ3500形車掌車を再利用したいわゆる「貨車駅舎」です。
アイボリーと水色のツートンカラーに塗装されています。
旧駅舎は無人化後に取り壊されており、現存する基礎の上に貨車駅舎が乗っかっています。
待合室の様子。
床の縞板が赤錆塗れですね。
防犯のため監視カメラを設置しており、ゴミ箱は撤去しています。
大和田駅に限らず留萌駅の被管理駅では、このような注意書きを玄関ドアに貼り付けています。
ホームベース顔の駅員が目印です。
JR東日本 京浜東北線 横浜運輸区 東神奈川車掌区
こちらも管理駅である留萌駅が制作した注意書き。
運賃表に見立てて「備品の持ち出しは犯罪です」との警告文を表示しています。
まるで横浜運輸区CS推進委員の如きトンチの利かせ方。
線路沿いから駅舎を眺めた様子。
線路沿いにも旧駅舎の基礎が残っています。
駅舎とホームの間には旧1番線の跡地があります。
旧1番線の軌道は見る影もありませんが、駅舎からホームまで一直線に盛り上がった地面から構内踏切の面影が窺えます。
ホーム上から駅舎方向を眺めた様子。
1面1線の単式ホーム。
全長は20m車4両分ほどで、駅裏に向かってカーブを描いています。
国鉄時代は島式ホームとして使われており、駅舎寄りが1番線(上り:石狩沼田・深川方面)、駅裏側が2番線(下り:留萌・増毛方面)となっていました。
それこそ大和田炭鉱が健在の頃は、駅裏に5本の貨物側線が並び、運炭列車を待つための貯炭場も置かれていました。
1番線のホーム縁端は切り崩されておらず、比較的状態の良い縁石が残っています。
ホーム端(深川方)をよく見ると・・・
・・・錆付いた標識が立っています。
おそらく国鉄時代に立てられた物でしょうね。
ホーム上の駅名標。
留萌出身の歌手・あがた森魚さんは『大寒町』という曲の中で「かわいいあの娘と踊った場所は今じゃあ場末のビリヤード」と唄っています。
しかし大和田の炭鉱町はビリヤード場どころか商店すらない程に寂れ果ててしまいました。
京急羽田線
蛇足ですが『大寒町』の作詞作曲を手がけたのはムーンライダーズのベーシスト・鈴木博文さんです。
1986年発売のライブ音源集『THE WORST OF MOONRIDERS』には、実兄の鈴木慶一さんや武川雅寛さん(ヴァイオリンはじめ様々な管弦楽器をこなすマルチプレイヤー)とボーカルを回すテイクを収録。
武川さん→博文さん→慶一さん→トリオの順に歌唱しています。
北国の場末の町並みがありありと思い浮かんでくる曲ですが、作者の博文さんは東京・羽田が地元だというギャップが面白いですね。
※写真は特記を除き2021年4月3日撮影
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最終更新日 : 2023-01-07