2022年12月16日の朝8時頃、JR北海道の苗穂工場構内で火事が発生しました。
出火したのは計画科事務所の西隣にある2階建ての木造建築です。
この建物は正式名称を「会議所」といい、その名の通り普段は会議に使用するだけの施設です。
会議が無ければ原則無人になるため、玄関には必ず施錠しているそうです。
折りしも前日の夜は会議で、室内では4台の灯油ストーブを焚いていました。
灯油ストーブが出火の原因と見られますが、JR関係者は「火は消した。鍵もかけた」と話しているとの事です。
通報を受けて消防車24台が駆けつけ、11:22頃に消火完了。
警察と消防が出火の原因を調べています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 苗穂工場 苗穂車両所 苗穂駅 函館本線 千歳線
この会議所ですが、苗穂駅北口から苗穂工場正門へと向かう途中の道路沿いにあります。
火災のニュースを見た鉄道ファンの中には「知ってる建物だ!」と思った方も多いのではないでしょうか?
かなり年季の入った木造建築なのでインパクトがありますね。
苗穂工場百年史編集委員会(2010)『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』p.2より引用
こちらは苗穂工場の平面図。
赤丸で囲んだ箇所が、出火した会議所です。
近隣には苗穂工場の中枢である計画科事務所に加え、事務所分室と電話交換室があります。
日本国有鉄道苗穂工場(1981)『70年のあゆみ』p.8より引用
遡る事94年、1928年3月に苗穂工場会議所は落成しました。
現存する苗穂工場内の建築物としては大変な古参で、落成当初は「職員集会所」という名称でした。
「職員集会所」と称した事からも分かるとおり、落成当初の会議所は「会議」に用途を限定している訳ではありませんでした。
国鉄の鉄道工場は何処も1,000~4,000人が従事するほどの巨大組織だったので、職員達が親睦を深めるクラブ活動も盛んに展開されたのです。
苗穂工場とて例外ではなく、職員集会所は各種クラブ活動の場としても利用されました。
寧ろクラブ活動に供するべく建設されたといっても過言ではありません。
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職員倶楽部組織ができたのは大正8年12月であるが、同時に札幌鉄道職員倶楽部規則が定められ、これにより大正9年1月に札幌鉄道職員倶楽部苗穂支部内規が制定され、修養、運動、娯楽の各部が設けられて、苗穂工場に苗穂支部が置かれた。その後、各部の同好者が年々増加し、大正12、3年頃札幌鉄道職員倶楽部と分れて、初めて苗穂工場職員倶楽部が創立された。
昭和3年3月、職員集会所が新設され、同年5月には苗穂工場倶楽部規則が制定され、次の各部が設けられた。
野球部、庭球部、卓球部、排球部、陸上競技部(スケートを含む)、
山岳部(スキーを含む)、剣道部、柔道部(相撲)、弓道部、謡曲部、
囲碁部、撞球部、園芸部、書画部(写真、彫刻、篆刻を含む)、
音楽部、庶務部
当工場の倶楽部活動は隆盛を極め、ほとんどの職員がいずれかの部に入会するという盛況ぶりだったが、特筆すべきことに、昭和10年当工場の排球部が北海道代表として第8回明治神宮体育大会に出場したことがある。当時の「週刊なえぼ」に、「スポーツ躍進の北海道を背負って天晴れ栄ある神宮競技場に出現する我苗工軍の北市英哉君を監督とする一行は、来る27日その征途につく予定。実に苗工有史以来の精華であり、我等の誇りである」と書かれてあるのを見ても、当時の喜びがうかがわれる。
このように隆盛を極め、同好者も年と共に増加の一途をたどり、部員相互の親睦と心身の修養に貢献してきたが、国家総動員法が公布され、堅忍持久、銃後後援等が実践項目として強調される時勢のなかでスポーツ競技も影をひそめ、当工場倶楽部名称も苗穂工場報公会地区倶楽部と改称され、倶楽部組織はそれに吸収され、終戦とともにその幕を閉じた。
《出典》
苗穂工場百年史編纂委員会(2010)『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』p.p.51,52
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苗穂工場百年史編集委員会(2010)『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』p.4より引用
戦時中に鳴りを潜めたクラブ活動でしたが、戦後復興期には復活を遂げました。
上に引用したのは1959年3月当時の平面図ですが、集会所の周辺に弓道場、排球コート、庭球コート、体操場などが置かれており、クラブ活動の活発さを垣間見られますね。
このうち弓道場は正式名称を「豊蓉館」といい、1959年6月21日に道場開きとなりました。
しかも面白い事に観賞池まで造成し、さながら「工場職員達のオアシス」の様相です。
東側には大浴場もあるので、終礼後にクラブ活動を楽しみ、風呂で心身を癒してから帰宅する職員もさぞかし多かった事でしょう。
1965年12月には職員集会所に「ふしこ荘」という愛称が付きました。
そんな「ふしこ荘」ですが分割民営化後、JR北海道が会議所に転用。
課外活動には使われなくなり、会議が無い時は閉鎖されるようになってしまいました。
そして鉄道ファンにもかつての賑わいが知られる事はありません。今回の火災では屋内およそ150㎡が焼けたそうです。
歴史ある建築物の被災は残念ですが、怪我人が出なくて本当に良かったと思います。
それにしても豊沼駅で起きた特急とホイルローダーの衝突事故といい、JR北海道で立て続けに起きる災難は如何なものか・・・。
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SKKの受託業務に「苗穂工場輸送職場」の面影を見る※写真は特記を除き2022年10月22日撮影
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最終更新日 : 2022-12-16