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2022-12-04 (Sun) 18:38

花輪線荒屋新町駅[5] 花輪線の保線と電気を担った「荒屋新町工務区」

荒屋新町駅a415

引き続き岩手県は八幡平市荒屋新町(旧:二戸郡安代町字荒屋新町)にある、JR東日本の荒屋新町(あらやしんまち)駅を見ていきましょう。
駅の大まかな歴史と待合室は第1回、駅舎の風除室と構内諸施設は第2回・第3回で取り上げました。
第4回では駅裏にあった「盛岡機関区荒屋新町支区」を紹介しています。
今回も荒屋新町の鉄道スポットを取り上げましょう。



荒屋新町駅a402

こちらは島式ホーム(2・3番線)から構内南方(好摩方)を眺めた様子。
写真左手の線路脇に、一目で鉄道関連と分かる施設がありますね。



荒屋新町駅a401

3棟の建築物が並んでいます。
左のコンクリートブロック建築は危険品庫。
中央の平屋は電気機器室。
右の2階建ては現業事務所です。


JR東日本 国鉄 JR貨物 JR北海道 車両基地 保線区 電気区
荒屋新町駅a403

ここは2000年代初頭まで「荒屋新町工務区」という現業機関が入居していました。
工務区とはJR東日本が1990年前後、主にローカル線区の保線区と電気区を統合した組織です。
荒屋新町工務区は花輪線の線路、土木構造物(橋梁・トンネル・プラットホーム等)、電力設備(電灯・配電盤等)、信号設備(信号機・継電連動装置等)、通信設備(鉄道電話・ケーブル等)の保守管理を担当しました。



荒屋新町駅a404

せっかくなので荒屋新町における施設・電気部門の大まかな歴史を辿ってみましょう。
荒屋新町は1934年6月1日の花輪線全通を期に、同線の中核拠点と位置づけ現業機関の拡張が為されました。
その頃に開設されたのが「荒屋新町保線区」だったそうです。

一方、電気部門のルーツは不明。
少なくとも1957年以前の花輪線では、強電関係を「盛岡電力区十和田南電力分区」、弱電関係を「盛岡信号通信区荒屋新町信号通信分区」「盛岡信号通信区十和田南信号通信分区」が受け持っていました。
荒屋新町に置かれた電気部門は信号通信分区のみで、電力設備の担当部門は所在しなかったそうです。



荒屋新町駅a416

1961年2月15日、荒屋新町駅構内に「花輪線管理所」が開設されました。
戦後の国鉄は非採算線区の経営改善を目的とし、駅・乗務員・保線・電気・建築・検修など線区に関わる現業部門を統合する「総合管理方式」を全国各地に導入しており、花輪線管理所もその一つでした。
同管理所の発足に伴い盛岡電力区から十和田南電力分区が、盛岡信号通信区から荒屋新町信号通信分区・十和田南信号通信分区が切り離され、「花輪線管理所施設科」に組み込まれました。
この改組に伴い各分区は「十和田南電力詰所」「荒屋新町信号通信詰所」「十和田南信号通信詰所」に改称しています。
なお、詳細な時期は不明ですが開設後しばらくして、施設科から電気部門が分離し「花輪線管理所電気科」に改組したそうです。

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 わが国の経済は、朝鮮動乱後躍進を続け、経済5ヵ年計画の下にその躍進が期待された。しかしこの計画達成の上で隘路として最も重要視されたのは、鉄道の輸送力であった。国鉄もまた国鉄5ヵ年計画を策定し32年度を初年度として総予算5,790億の下に推進することとなった。国鉄の体質改善の計画は「老朽資産の取替え」「輸送力の増強」「動力の近代化」を3本の柱として開始されたが、当然きびしい経営合理化が要請されたのである。
 すなわち、非採算線区の経営改善を全国的に徹底し経営合理化をいっそう推進するため、支線区は原則として一つの線区経営単位として管理する方式を基本方針とし、支社長は所管の鉄道管理局について、少なくとも一つ以上の線区を選定して、管理所、運輸区もしくはこれに準ずる管理方式を実施することになった。 管内にこの管理所・管理長制度が採用されたのは、33年10月20日、大湊・大畑線管理所の設置が最初である。
 同管理所を設置するに当って、次のような諸点が考慮された。それは、
1 赤字が多い線区で、普通の合理化では成果をあげ得ないこと。
2 増収効果を講じても、客貨とも期待出来ない線区であること。
3 地理的に局の直接管理が困難であること。
などであり、組織としては、所長の下に総務科(総務経理)、運輸科(営業・運転)、施設科(施設・電気)がおかれ、大湊・大畑線の現業機関を解消して総合的な現業管理機構とし、局長の権限を大幅に委譲してこの線区を経営の一単位とした。これによってこの地方の実情に応じた経営を一任することになった。管理所組織の機能を発揮する方策としては、列車運行の改正、駅員無配置化、保守作業の合理化、諸設備の合理化、作業の機械化などが実施され、管理方式の一体化、事務能率の向上、人件費の節約等がはかられた。
 その後、34年5月20日、青森に津軽線管理長が、同年12月1日盛岡に橋場線管理長が設置された。35年7月4日、尻内に八戸線管理長が設置され、同年10月10日一ノ関に一ノ関管理所が設置された。36年2月15日荒屋新町に花輪線管理所が設置され、7月6日八戸線管理長を廃止し、尻内に尻内管理所が設置された。
 この結果、盛鉄管内の線区経営単位の設置数は、管理長3(営業㌔138.9㌔)、管理所4(営業㌔379.5㌔)、計7箇所(営業㌔518.4㌔)となり、釜石・山田・小本線を除いた全支線に及び、管内営業㌔の46%になった。

《出典》
日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1976)『盛岡鉄道管理局25年史』p.19
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荒屋新町駅a405

鳴り物入りで設置された花輪線管理所でしたが、経営改善に効果を発揮したのは最初のうちだけ。
その後は思うように経営成績を上げられず1969年2月9日に廃止。
管理所体制は8年という短命に終わり、一体化した花輪線の各部門は再び散り散りになりました。



一戸保線区の指揮命令系統図(1969年4月~)

花輪線管理所施設科は一戸保線区の管轄となり、暫くは荒屋新町線路分区・陸中花輪線路分区として稼働していたようです。
そして管理所廃止から約2ヶ月後の1969年4月1日、随時修繕方式から定期修繕方式への脱皮(軌道保守近代化)に伴い「一戸保線区荒屋新町保線支区」「一戸保線区陸中花輪保線支区」に改組しています。
このうち荒屋新町保線支区は大更駅・岩手松尾駅・荒屋新町駅・田山駅の4ヶ所に軌道検査班を配置しました。

なお、一戸保線区は他に好摩保線支区、一戸保線支区を設置。
区全体としては東北本線の滝沢・渋民間550k700m地点~北福岡・金太一間610k600m地点と、花輪線の好摩起点0k~東大館・大館間104k700m地点を担当区域としました

一方、電気科はどのような変遷を辿ったのか?
書籍『盛岡鉄道管理局25年史』を読んでいると、衝撃的な事実が書かれていました



盛岡信号通信区の指揮命令系統図(1969年2月~)

何と管理所廃止に伴い盛岡信号通信区に組み込まれ、「盛岡信号通信区荒屋新町電気支区」に改組したというのです!
・・・こう書いても「何が衝撃的なのかさっぱり分からない」と言われるかも知れませんね

まず、鉄道の電気保守業務は強電系と弱電系に二分できます。
強電は電灯・架線(電車線)・配電線・変電所といった電力設備を指します。
弱電は信号機・継電連動装置・電気転轍機・踏切警報機などの信号設備と、鉄道電話機・電話交換機・電信機・通信ケーブルなどの通信設備を指します。
国鉄では電気系統に属する現業機関のうち、強電系は電力区・給電区・変電区の3種類、弱電系は信号区・通信区・信号通信区・無線区の4種類に分担してきたのです。

鉄道開業以来、長らく強電系と弱電系で保守体制は棲み分けられていました。
そこに戦後、新たに加わったのが「電気区」です。
第一号は1959年4月14日開設の飯田電気区で、飯田線の電力設備・信号設備・通信設備の保守管理を一手に引き受けました。
つまり強電・弱電の各現業機関を統合したのが電気区という訳ですね。
この飯田電気区を皮切りとして、全国各地で電気区の開設が相次ぐようになりました。



荒屋新町駅a406

電気区は下部組織として電力支区・変電支区・信号支区・通信支区・信号通信支区・無線支区の6種類に加え、これまた強電・弱電を1ヵ所に集約した「電気支区」を設けました。
電気支区には電気検査長・電気検査掛を配置し、電力設備・信号設備・通信設備の検査業務を融合化しました。

そして荒屋新町に置かれたのも電気支区という訳ですが、ここで引っかかるのは所属元の現業機関が電気区ではなく信号通信区だという事。
本来、信号通信区は信号設備と通信設備に保守範囲を絞り、電力設備の保守管理を引き受ける事はありません。
したがって配下に設ける支区も信号支区・通信支区・信号通信支区・無線支区の4種類に限られます。
ところが盛岡信号通信区の場合は、電力設備も併せて検査する「荒屋新町電気支区」を設置したのです。
おまけに同時期には一ノ関管理所の廃止に伴い、同電気科も統合して「気仙沼電気支区」に改組しています。
信号通信区の配下に電気支区が2ヶ所もあるなんて、実にイレギュラーな組織体制ですね。
これにはビックリしました。

多分、盛岡電力区も盛岡信号通信区も、電気区に統合するには規模が大き過ぎたのでしょう。
しかし閑散線区である花輪線・気仙沼線に各区が個別に支区を設置するのも無駄が多くなると判断し、盛岡信号通信区に電力設備保守を分担するという妥協案を採用したのかも知れません。



荒屋新町駅a409

1985年4月3日、国鉄電気局は「電気新保全体制」の施行を開始。
これにより全国の電気関係区所が支区制を廃し、1ヵ所につき30名前後の小編成に再編しました。
荒屋新町電気支区については盛岡信号通信区から独立し「荒屋新町電気区」に改組
従来は分担していた「検査」と「技術管理」を一元化し、設備点検・データ処理・工事設計・工事発注・工事監督等の業務を一貫して行なう体制に変わりました。

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が盛岡保線区荒屋新町保線支区、荒屋新町電気区を継承。
保線支区については1988年度、支区制の撤廃により保線区を小編成化する「小保線区制」の導入により、盛岡保線区から独立し「荒屋新町保線区」に改組しました。

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 保線のメンテナンス体制は、保線区本区、保線支区、保線管理室の体制を引き継いで当社発足を迎えた。その後、組織の簡素化を図ると同時に、円滑で効率的な業務執行体制を確立する観点から、保線区組織のあり方について次の点を考慮して検討を行った。
・現場の実態が迅速かつ確実に把握でき、現場実態に適合した方法でタイムリーな保守が計画・実施できる体制でなければならない
・機械グループおよび管理グループにより直営で行う軌道保守作業が、円滑で効率的にできる体制でなければならない
・社員管理、線路管理、予算管理および工事管理が、きめ細かくできる体制でなければならない
このため、より現場の実態にマッチしたきめ細かい管理を実施すること、および本区と支区の重複作業を解消して効率的な業務運営を行うことを目的として、保線支区を廃止した上で保線区の規模を小さくする「小保線区制」を導入することとした(図1)。
 小保線区制は、1987年度に新潟支社および千葉支社の一部で実施し、その他の箇所は1988年度に実施した。

《出典》
東日本旅客鉄道株式会社(2007)『東日本旅客鉄道株式会社二十年史』p.322
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キハ110系 荒屋新町工務区
荒屋新町駅a417

それから間髪入れず1989年、JR東日本は地方線区において保線区と電気区を統合した「工務区」の設置を開始。
ちょうど前年の1988年3月にはJR北海道が保線・電気・機械を集約した「青函トンネル工務所」を開設しており、それをJR東日本も参考にしたものと思われます。
荒屋新町でも保線区と電気区が統合し「荒屋新町工務区」に改組しました。

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 当初は会社発足以来、基本的に部門別の組織形態での保守管理を行ってきたが、設備レベルや保守密度が低い線区の場合には、部門別組織形態では保守エリアが広くなり、移動ロスによる作業効率の低下や、部門間相互の境界部分での調整割合が高くなる等の問題も生じていた。
 このような観点から、それぞれの線区における設備レベルや保守密度等の特性を考慮し、施設・電気部門を統合した工務区、施設各部門を統合した施設区、電気各部門を統合した電気区を設立した。
 また、土木、建築、機械設備については、日常保守業務を施設区、工務区等で実施し、高度な技術判断や大規模な設備改良等を要する業務は、専門技術者を集中配置した、土木、建築、機械の各技術センターを原則各支社1箇所設置して対応することとした。

《出典》
東日本旅客鉄道株式会社(2007)『東日本旅客鉄道株式会社二十年史』p.322
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荒屋新町駅a407

そして2001年10月1日、JR東日本は「設備部門におけるメンテナンス体制の再構築」を開始しました。
この施策は「設備21」とも呼ばれており、従前の保線区・電気区等を統廃合した上で大幅に改組。
社員の常駐箇所を極限まで削減すると共に、施工を全面的に外注化して直轄作業を原則廃しています。
荒屋新町工務区も「設備21」の実施によって廃止され、保線業務のうち線路は盛岡保線技術センター鹿角花輪派出、土木構造物は盛岡土木技術センターが継承。
電気関係は盛岡電力技術センター、盛岡信号通信技術センターが継承しています。
今や旧工務区にJRの保線社員・電気社員は1人も常駐していませんが、仙建工業㈱花輪出張所が周辺で保線作業をする際の詰所として活用しています。



荒屋新町駅a408

荒屋新町駅の構内踏切から工務区方面を見ると、「指差喚呼確認」の安全標識が設置されています。
JR東日本の制服とヘルメットを着用した熊のキャラクターが可愛らしいですね。
昔は工務区員が線路巡視や列車巡視を終えると、この場所から線路を横断して事務所に戻っていたのでしょう。



荒屋新町駅a420

ちなみに2022年12月現在、Googleストリートビューでは2014年5月当時の荒屋新町工務区を見る事が出来ます。
すると解体済みの鉄道施設が写り込んでいるのです。



荒屋新町駅a421

当時、工務区北端にはコンクリートブロック造りの平屋がありました。
おそらくは国鉄時代、盛岡保線区荒屋新町保線支区荒屋新町検査班の詰所だったのでしょう。
保線支区の検査班は換算軌道キロ10~15kmおきに1ヵ所ずつ置かれ、軌道検査長・軌道検査掛3~5名が担当区域内の線路を検査して回りました。



荒屋新町駅a422

工務区南側にも長々とした平屋が建っています。



荒屋新町駅a423

2階建ての事務所棟からは櫓のような建屋が延びていました。



荒屋新町駅a425

荒屋新町駅a424

更に南には平屋の木造建築も。
こちらは国鉄官舎だったのでしょうか?
工務区周辺の景色にも「鉄道の町」と呼ばれた時代の面影を感じさせます。


JRアパート 国鉄アパート 社宅
荒屋新町駅a410

工務区の線路向かいにも貴重な鉄道施設が残っています。


JRアパート 国鉄アパート 社宅
荒屋新町駅a411

それは2階建てのJRアパート。
元々は1970年代に建設された「国鉄アパート」だったのだとか。


JRアパート 国鉄アパート 社宅
荒屋新町駅a412

屋外は雑草だらけ、しかも玄関脇の格子に蔦が絡まっており、まるで廃墟かのような荒れ具合。
しかし2階に目を向けるとレースカーテンが綺麗に閉じた状態なので、今なお現役の社宅である事が窺えます。
とはいえ現在の荒屋新町にJR社員の勤務箇所は無く、駅業務も子会社のLiViT(JR東日本東北総合サービス)が受託しています。
するとJR東日本の社宅でありながら、住人は本体ではなく子会社の社員という事になりますね。


JRアパート 国鉄アパート 社宅
荒屋新町駅a413

線路向かいの公道からJRアパートを眺めた様子。



荒屋新町駅a414

線路向かいから駅舎を眺めた様子。


キハ110系 盛岡車両センター
荒屋新町駅a418

1番線に停車したキハ110系。
花輪線は全列車に車掌が乗務します。


以上、5回に渡って荒屋新町駅を取り上げました。


《ブログ内関連記事リンク》
花輪線荒屋新町駅[5] 花輪線の保線と電気を担った「荒屋新町工務区」


※写真は特記を除き2022年9月24日撮影
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最終更新日 : 2022-12-04

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