引き続き岩手県は八幡平市荒屋新町(旧:二戸郡安代町字荒屋新町)にある、JR東日本の荒屋新町(あらやしんまち)駅を見ていきましょう。
駅の大まかな歴史と待合室は第1回、駅舎の風除室と構内諸施設は第2回・第3回で取り上げました。
今回は荒屋新町を語る上で欠かせない鉄道施設を紹介しましょう。
1970年代前半まで花輪線の中核拠点として栄え、「鉄道の町」と呼ばれるほど多くの国鉄職員が暮らした荒屋新町。
駅構内北側(大館方)には往年の「鉄道の町」を象徴するスポットがあります。
JR東日本 国鉄 JR貨物 JR北海道 荒屋新町機関区 車両基地 扇形機関車庫 扇形庫 扇形車庫
それがこちら。
SL時代を今に伝える扇形庫と転車台(ターンテーブル)が残っています。
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』巻頭カラーp.15より引用
国鉄時代、荒屋新町の駅裏には「盛岡機関区荒屋新町支区」が置かれていました。
荒屋新町支区は花輪線を走る8620形蒸気機関車と、動力車乗務員(機関士・機関助士)や検修員(車両検査長・車両検査掛・車両掛など)といった人員が所属した現業機関です。
書籍『安代町史(下巻)』に掲載された写真を見ると、3番線の向かいに同支区の事務所棟や給水塔などの施設も存在した事が分かります。
盛岡車両センター 盛岡運輸区
ここからは盛岡機関区荒屋新町支区の大まかな歴史を辿りましょう。
1927年10月30日、国鉄花輪線赤坂田~荒屋新町間が延伸開業しました。
当初、荒屋新町に車両基地の類はありませんでしたが、1ヶ月半が経過した1927年12月12日に「盛岡機関庫荒屋新町分庫」が開設されています。
しかし荒屋新町分庫は約2年後の1929年10月25日、花輪線荒屋新町~田山間の延伸開業に伴い廃止されてしまいました。
車庫そのものは田山駅に移設されたそうです。
更に2年後の1931年10月17日、花輪線田山~陸中花輪間が延伸開業。
すると田山駅の車庫は廃止され、荒屋新町駅構内に「盛岡機関庫荒屋新町駐泊所」、陸中花輪駅(現:鹿角花輪駅)構内に「盛岡機関庫陸中花輪駐泊所」が開設されました。
駐泊所とは車両の配属をせずに、蒸気機関車の燃料補給と折り返し整備、夜間滞泊を行なうための出先機関で「機関車駐泊所」とも呼ばれます。
1934年6月1日には私鉄の秋田鉄道(陸中花輪~大館間)を国有化し花輪線に編入。
ここに106.9kmの奥羽山脈縦貫ルートが全通を見ました。
すると荒屋新町は花輪線の中核駅として存在感を強めていき、1940年12月15日には荒屋新町駐泊所も「荒屋新町機関支区」に格上げされています。
この改組によって車両と動力車乗務員(機関士・機関助士)が配置されました。
なお、盛岡機関庫は1936年9月1日、国鉄当局の機構改革に伴い「盛岡機関区」に改称しています。
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昭和11年9月には、職制の大改正が行われた。主な改正点は次のとおりである。
◇ いわゆる管理職である「主任」の名称を「長」(区長あるいは場長)に改め、助役を一本化したこと。これは、一定の権限を有し、独立の業務単位をつかさどるべき地位にありながら、その職名のために、他の現場長の配下のように誤解されることがあるため、対社会的な考慮が払われたものである。
◇ 組織名の「所」「庫」を「区」または「場」にしたこと。例えば第4表のとおりである。
(第4表)組織名称の移行
車掌所→車掌区
自動車所→自動車区
機関庫→機関区
電車庫→電車区
検車庫→検車区
発電所→発電区
通信所→通信区
用品試験所→用品試験場
印刷所→印刷場
◇ 支所・分庫・分所を支区と改め、それらの長は支区長としたこと。なお、所管区域を数箇所に分けて、責任者をおく場合は分区長をおくこととした。
《出典》
国鉄職制研究会(1978)『国鉄における職制の構造』(鉄道研究社)p.17
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1959年3月1日、花輪線の旅客列車が全て気動車に置き換わりました。
以降、線内における蒸気機関車の運行は貨物列車のみとなりました。
1961年2月15日、荒屋新町駅構内に「花輪線管理所」が開設されました。
戦後の国鉄は非採算線区の経営改善を目的とし、駅・乗務員・保線・電気・建築・検修など線区に関わる現業部門を統合する「総合管理方式」を全国各地に導入しており、花輪線管理所もその一つでした。
同管理所の発足に伴い荒屋新町機関支区は盛岡機関区から切り離され、「花輪線管理所運輸科」に改組されました。
もちろん荒屋新町機関支区の出先機関である陸中花輪駐泊所、十和田南転向給水所も管理所に組み込まれています。
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わが国の経済は、朝鮮動乱後躍進を続け、経済5ヵ年計画の下にその躍進が期待された。しかしこの計画達成の上で隘路として最も重要視されたのは、鉄道の輸送力であった。国鉄もまた国鉄5ヵ年計画を策定し32年度を初年度として総予算5,790億の下に推進することとなった。国鉄の体質改善の計画は「老朽資産の取替え」「輸送力の増強」「動力の近代化」を3本の柱として開始されたが、当然きびしい経営合理化が要請されたのである。
すなわち、非採算線区の経営改善を全国的に徹底し経営合理化をいっそう推進するため、支線区は原則として一つの線区経営単位として管理する方式を基本方針とし、支社長は所管の鉄道管理局について、少なくとも一つ以上の線区を選定して、管理所、運輸区もしくはこれに準ずる管理方式を実施することになった。 管内にこの管理所・管理長制度が採用されたのは、33年10月20日、大湊・大畑線管理所の設置が最初である。
同管理所を設置するに当って、次のような諸点が考慮された。それは、
1 赤字が多い線区で、普通の合理化では成果をあげ得ないこと。
2 増収効果を講じても、客貨とも期待出来ない線区であること。
3 地理的に局の直接管理が困難であること。
などであり、組織としては、所長の下に総務科(総務経理)、運輸科(営業・運転)、施設科(施設・電気)がおかれ、大湊・大畑線の現業機関を解消して総合的な現業管理機構とし、局長の権限を大幅に委譲してこの線区を経営の一単位とした。これによってこの地方の実情に応じた経営を一任することになった。管理所組織の機能を発揮する方策としては、列車運行の改正、駅員無配置化、保守作業の合理化、諸設備の合理化、作業の機械化などが実施され、管理方式の一体化、事務能率の向上、人件費の節約等がはかられた。
その後、34年5月20日、青森に津軽線管理長が、同年12月1日盛岡に橋場線管理長が設置された。35年7月4日、尻内に八戸線管理長が設置され、同年10月10日一ノ関に一ノ関管理所が設置された。36年2月15日荒屋新町に花輪線管理所が設置され、7月6日八戸線管理長を廃止し、尻内に尻内管理所が設置された。
この結果、盛鉄管内の線区経営単位の設置数は、管理長3(営業㌔138.9㌔)、管理所4(営業㌔379.5㌔)、計7箇所(営業㌔518.4㌔)となり、釜石・山田・小本線を除いた全支線に及び、管内営業㌔の46%になった。
《出典》
日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1976)『盛岡鉄道管理局25年史』p.19
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鳴り物入りで設置された花輪線管理所でしたが、経営改善に効果を発揮したのは最初のうちだけ。
その後は思うように経営成績を上げられず1969年2月9日に廃止。
管理所体制は8年という短命に終わり、一体化した花輪線の各部門は再び散り散りになりました。
この時、運輸科の運転・検修担当は再び盛岡機関区の傘下に入り「盛岡機関区荒屋新町支区」を再結成しました。
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』巻頭カラーp.14より引用
ところが新生・荒屋新町機関支区も長くは続きませんでした。
花輪線では1971年10月1日に動力近代化が完了したのですが、これに伴い動力車区の機能を盛岡機関区の本区に集約する事となったのです。
つまりSLに代わり導入されたDLは荒屋新町に配置されず、折り返し検修さえ設定されなかったという訳ですね。
もちろん動力車乗務員も本区に移管。
そして荒屋新町支区は同日付で廃止となり、多くの国鉄職員が荒屋新町を去りました。
これによって町内在住の国鉄職員は1/3に減り、「鉄道の町」の活気は失われてしまいました。
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花輪線は県内支線のトップを切って1959年3月1日、ディーゼルカーが運転された。急勾配区間にも耐えられる高性能のキハ52形で、普通列車なら5時間近くかかる盛岡・大館間が2時間近く短縮された。沿線町村待望のディーゼル列車は、当時荒屋新町駅に2~3分程度の停車になるため、蒸気機関車に慣れた町民に「列車が来てから、おいでになっては間に合わない」と駅員が説明をしている。また、当時のディーゼルカーは龍ヶ森の難所と豪雪地帯を走るには出力不足等のため、冷房装置が無い列車が近年まで走っていた。
ハチロク形蒸気機関車は、昭和30年3月末には637両が残っていたが、ディーゼル機関車実用化が進展した昭和35年には491両、昭和40年には118両に激減した。荒屋新町機関支区の職員も合理化や職場配置転換で減らされ、安代を去っていった。黒煙をあげ生き物のようにあえぎながら33.3パーミルの急勾配を登り、全国の鉄道ファンの注目をあつめた花輪線龍ヶ森のハチロク三重連の勇姿も最後の日を迎えようとしていた。
花輪線が全線ディーゼルカー化になったのは、昭和46年10月1日だった。前日の9月30日、荒屋新町駅最後の蒸気機関車出発には、町内や町外から鉄道ファン約300名が押しかけ、カメラの放列のなか、米川勝巳町長や国鉄関係者、保育園児等が参集し、昭和6年全線開通以来40年間活躍したSLの最後の勇姿に目を潤ませながら別れを惜しんだ。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.p.566,567
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現存する扇形庫は1955年12月に落成した物で、小規模ながらも勇壮なコンクリートブロック建築です。
しかし建設当時は動力近代化計画の準備を進めていた頃だったはず。
近い将来にSLを全廃すると決めておきながらSL用の車庫を建て替え、余計な経費を支出した辺りに国鉄当局の詰めの甘さが伺えます。
転車台(ターンテーブル)は1928年10月の竣工で、6本の線路と接続できるようになっています。
ピット(転車台坑)をよく見ると石垣になっているのが分かりますね。
集電装置の支柱は薄緑色に塗装されています。
転車台 ターンテーブル
こちらは転車台電動牽引機、すなわち転車台の運転室です。
外板は黄色に塗装され、部分的にトラ柄が施されています。
国鉄時代の動力車区では「諸機掛」という掛職が転車台の運転を担当していました。
かつて蒸気機関車が入庫した扇形庫は、仙建工業㈱盛岡支店が保守用車庫として再利用しています。
この日は軌道モーターカーが1両だけ入庫していました。
なお、仙建工業盛岡支店は鹿角花輪駅の近くに「花輪出張所」を設けており、JR盛岡保線技術センターから花輪線の軌道検査と保線作業(軌道補修工事・踏切改良工事など)を受注しています。
旧荒屋新町機関支区の構内には仙建工業が設置した「車輪止」も見られます。
保守用車は線路閉鎖手続きをしなければ本線上を走行できず、逸走を防ぐためにこのような車輪止めを設置するのです。
転車台の線路向かいには、周囲から切り離したかのように整備されたスペースがあります。
ここには「旧盛岡機関区荒屋新町支区扇形機関庫・転車台」の解説板が設置されています。
明記こそされていませんが、設置者は八幡平市役所だそうな。
以下に解説文を抜粋しましょう。
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岩手県の好摩と秋田県の大館を結ぶ花輪線の中間に位置する荒屋新町駅(岩手県八幡平市)には、かつて盛岡機関区荒屋新町支区があり、花輪線で運行されていた8620型(14両程)のSLが所属していました。
当時の盛岡機関区荒屋新町支区には機関士・機関助士・機関士見習い・炭水士・合図士の合計98人が所属しており、花輪線で一番の急こう配である龍が森を上るため、ここの転車台を利用してSLを連結(三重連)しておりました。
現在は夜間に使用する保守用車の基地として現役で使用しており、現存する扇形機関庫と転車台は全国でも珍しい建物となっております。
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花輪線は奥羽山脈を縦貫するため急勾配が多く、解説文にあるとおり蒸気機関車の三重連で峠越えに挑んできました。
奥羽山脈の真っ只中にある荒屋新町支区は、峠越えの拠点として重要な役割を果たしてきた事が窺えますね。
なお、解説文にある「炭水士」「合図士」は間違いで、正しくは「炭水手」「合図手」です。
戦前は機関士・機関助士をそれぞれ「機関手」「機関助手」と称していたので、そのイメージで炭水手・合図手も「士」だと勘違いしたのかも知れません。
昭和の大歌手・三橋美智也も「俺は機関手」という楽曲を唄っていましたね。
ちなみに炭水手・合図手は1957年1月1日、運転関係職員を対象とした職制改正に伴い「誘導掛」「燃料掛」に改称。
現業職員達にとって長年の悲願だった手職の撤廃を果たしました。
旧荒屋機関支区構内にはオーソドックスな三角屋根の車庫も残っています。
扇形庫の線路向かいには盛岡保線技術センターの産業廃棄物置き場があります。
数ある産廃の中でもマクラギの一時的な保管場所に指定されています。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
花輪線荒屋新町駅[4] 保守用車庫に転じた「荒屋新町機関支区」の扇形庫
※写真は特記を除き2022年9月24日撮影
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最終更新日 : 2022-12-04