岩手県は八幡平市荒屋新町(旧:二戸郡安代町字荒屋新町)にある、JR東日本の荒屋新町(あらやしんまち)駅。
かつての自治体「安代町」の中心部に置かれた駅です。
安代町は2005年9月1日の3町村合併まで存在。
町内全域が奥羽山脈系の山々に囲まれており、江戸時代には鹿角街道が東西に貫く交通の要衝として栄えました。
この鹿角街道は南部藩鹿角郡の鉱山から産出された金や銅を、牛馬を使い城下町・盛岡まで輸送する重要な道路でした。
盛岡に辿り着いた銅は河川舟運によって石巻や野辺地に移動した後、これら港町から海路で江戸や大阪へと輸送されていました。
また、鹿角街道は幕府巡見使や盛岡藩主が領内巡視の際に使う道でもあったため、鹿角郡の住民達からは「殿様街道」と呼ばれていたそうです。
さて、駅の所在地である荒屋は、古くから木地挽きが家内手工業として根付いていました。
木地挽きとは木材をろくろや旋盤で回転させ、それに刃を当てる事で器の形に削り出す作業です。
荒屋には近世初頭から「左衛門四郎」という木地挽きの頭領が存在し続けたといい、大名からは御用木地挽師として厚遇され、幕末まで御免地(無税地)や帯刀などの特権を与えられてきたそうです。
木材は安比川上流から荒屋まで流送し、木地挽きを施した器には浄法寺から仕入れた漆を塗りました。
こうして生産した漆器は当地の属した荒沢村の名に因んで「荒沢漆器」と呼ばれました。
明治時代に最盛期を迎え、約500人もの職人達が漆器生産に携わったと言われています。
JR東日本 JR貨物 国鉄 JR北海道 木造駅舎 車両基地 盛岡運輸区 盛岡車両センター
ところが戦後はプラスチック製品や陶磁器の普及、低廉な輸入漆の造花が逆風となり、荒屋漆器の生産は衰退しました。
昭和の一時期は途絶えてしまった荒沢漆器でしたが、1983年に地元の漆器文化を復興させようという気運が高まりました。
そして地元の漆掻き職人や塗師が連帯し、荒沢漆器の伝統を後世に伝えるべく「安比町漆器センター」を開設し若い塗師の育成に注力します。
更に1999年には卒業生の受け入れ先として「安比塗漆器工房」を開設。
そこでは荒沢漆器の伝統を守りつつ、現代の食生活に合わせた実用的かつシンプルな「安比塗」の生産に取り組んでいます。
安比塗漆器工房は荒屋新町駅から北へ徒歩11分、八幡平市叺田(かますだ)にあります。
また、安代町は竜胆の栽培が盛んな土地で、荒屋新町駅周辺でも花卉農家が丹精込めた竜胆畑を見かけます。
1971年に地元の4Hクラブ(農業青年クラブ)の手で、水田に竜胆の種を巻いたのが事の発端。
1972年には19名の生産者で花卉生産部会を設立し、岩手県園芸試験場などの指導を得て1973年に初出荷に漕ぎつけました。
当初、4Hクラブ会員の親達は「食べ物でないものを水田に植えるとは何事か!」と猛反発したそうです。
しかし彼らは逆境に負けず竜胆栽培を継続。
それから12年で売上高は1億円を突破し、1985年には岩手県の総生産量が長野県を抜いて日本一になりました。
1999年には売上高が10億円を突破し、安代町単独で日本一の生産量を誇るほどになりました。
地元で栽培した竜胆は「安代りんどう」と称し、そのブランドに磨きをかけ続けています。
ここからは荒屋新町駅の大まかな歴史を辿りましょう。
当駅は1927年10月30日、国鉄花輪線赤坂田~荒屋新町間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
駅前には他所からの出店に加え、鉄道建設工事の作業員も定住し個人商店を開いた事で、商店街が形成されていったそうです。
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大正11年8月27日好摩・平館間が開業し、大更と平館に駅が新設された。大正15年11月10日に赤坂田駅、昭和2年(1927)10月30日荒屋新町駅まで開業した。荒屋新町駅開業の日には、駅前広場に杉の葉で奉祝門を造り、『機関車を見ようと近郷近在からの人々が群集をなし機関車の到着を待ち、その勇姿を見てただただ驚嘆せり』(荒沢村郷土教育資料)とあるように、村民の喜びはすこぶる大きかった。
それまで荒沢村の人々は、明治24年に青森まで開通していた東北本線を利用するため、繋沢から田代平を経て奥中山駅を利用していたと伝えられているが、車の走り峠から寺田村に出て、沼宮内に達し鉄道に乗った者も少なからずあったと、荒沢村郷土教育資料では述べている。工事に伴って、衣類などの日用品や米、魚、野菜などを販売する業者も流入し、工事後も荒屋新町にとどまり駅前から続く商店街の一角に店を構える者も現れ、街は急速に活気付いていった。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.337
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安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』巻頭カラーp.15より引用
1929年10月25日、花輪線荒屋新町~田山間が延伸開業。
更に1931年10月17日には田山~陸中花輪間が延伸開業し、1934年6月1日に私鉄の秋田鉄道(陸中花輪~大館間)を国有化し花輪線に編入。
すると荒屋新町は花輪線の中核駅として存在感を強めていき、盛岡機関区荒屋新町支区(元は駐泊所)や荒屋新町保線区なども併設されました。
地元住民も多くが国鉄職員として働くようになり、荒屋新町は「鉄道の町」の様相を呈しました。
1940年には駅構内に売店が開業。
1951年4月1日には盛岡客貨車区荒屋新町派出所が開設され、夜間滞泊する貨車の検修を行なうようになりました。
しかし盛岡客貨車区荒屋新町派出所は1956年3月14日に廃止され、僅か5年という短命に終わっています。
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荒沢村から物資の移出は、ほとんど全部が汽車を以ってなされた。特にも、木炭、木材、馬、豚、大豆が主なものであった。移入は、衣類、食料品、酒類等であった。田山村も同様であったが、移出では花輪鉱山の鉱石が首座を占めていた。
昭和6年9月8日、満州事件勃発、中国大陸に戦火が拡大する昭和9年(1934)6月1日、国は秋田鉄道を買収し、国有化した。花輪線の中核駅であった荒屋新町には、盛岡機関区荒屋新町支区や花輪線管理所が置かれ、多くの地元住民が機関士や機関助士、保線工夫など職員として採用された。職員の中でも特に蒸気機関車の機関士は花形で、給与も高かったが、石炭の燃え盛る運転室は、夏は酷暑、釜が煙ると真冬でも窓を開けて走らなければならず、決して楽な仕事ではなかったという。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.338
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安代は花輪線全線開通以来鉄道の町として栄え、荒屋新町駅は花輪線の保線区や機関区がある重要駅になると共に、8620形蒸気機関車などが所属し扇形機関車庫や転車台が設置された。これらの施設は一般的には「操車場」と呼ばれていた。また、荒屋新町駅は昭和15年から駅弁やお菓子、子ども向けのお土産、新聞等の販売駅となった。昭和26年には構内に「盛岡客貨車区荒屋新町派出所」が置かれた(昭和31年廃止)。荒屋新町駅前には、旅館2軒のほか、飲食店、食料品店、鮮魚店、理容・美容店、製材所、日本通運の営業所、交番、銀行、タクシー業者が軒を連ねていた。増加した国鉄職員のために、機関区に共同浴場が設けられ、職員のみならず家族も利用することが可能だった。また、国鉄共済組合による「物資部」も営業し、缶詰や乾物などが市価より安く販売されていた。赤坂田駅、田山駅、兄畑駅にも貨物の引き込みヤードが設けられ、木炭や鉱石などが貨車で積み出された。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.p.564,565
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1961年2月15日、荒屋新町駅構内に「花輪線管理所」が開設されました。
戦後の国鉄は非採算線区の経営改善を目的とし、駅・乗務員・保線・電気・建築・検修など線区に関わる現業部門を統合する「総合管理方式」を全国各地に導入しており、花輪線管理所もその一つでした。
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わが国の産業は朝鮮戦争を契機として徐々に復興発展していったが、国鉄は戦後の荒廃からの立ち直りが遅れ、急増する輸送需要に対応するだけの十分な輸送力を行いえず、また投資不足などから諸設備の近代化についても著しく立ち遅れていた。しかし、今後の人口増加や産業経済の伸展、生活水準等を考えると、国鉄の輸送力を大幅に増強し、また設備の近代化を図らなければならなかった。人員要員については、極力合理化と能率向上によって業務量増加に対処し、不増の方針を堅持してきたが、それにもかかわらず給与水準の上昇により人件費の膨張が著しく、国鉄経営を圧迫する度合は年を追って強まっていった。このような財政状況に対処すべく、車両定期修繕期間の延長により修繕費節約、作業の外注化、付帯業務の廃止、あるいは合理化・簡素化を図っていった。
このため、地方閑散線区については、その線区に適した「総合管理方式」を採用して人員及び経費の節約に努めることになった。この「総合管理方式」とは、管理所、運輸区及び管理長を設置し、非採算線区の経営改善を図ることであった。具体的には次のとおり。
管理所:線区内の全ての現業機関を統合したもの
運輸区:線区内の駅と車掌区(場合によっては機関区も)を解消統合したもの
管理長:規模の小さい線区については独立した管理機構を作らず、その線区に関係
している主要駅長などが管理長を兼ねて線区の管理を行うもの
国鉄は昭和33年8月2日、日本国有鉄道組織規程の一部を改正し、「鉄道管理局に支社長の定めるところにより、管理長を置くことができる」ことになった。その後、鉄道管理局の現業機関として「管理所及び運輸区」が追加された。この結果、「総合管理方式」と名づけて、管理長、管理所及び運輸区を設置して、全国的に非採算線区の経営改善を強力に図ることになった。
《出典》
村上心(2008)『日本国有鉄道の車掌と車掌区』(成山堂書店)p.64
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なお引用文にある「運輸区」については、分割民営化後に発足した同名の現業機関(運転区と車掌区を統合したもの)とは性格が異なるため誤解の無きように。
たとえば木更津運輸区は1954年9月1日、久留里線における各駅の管理、レールバスの保守管理、車掌人員の運用を目的として設置されたもので、1968年3月31日を以って廃止されています。
一方、分割民営化後の2007年3月18日、千葉運転区木更津支区・館山運転区・千葉車掌区の一部行路および人員を移管した組織が全く同じ「木更津運輸区」という名称で発足していますが、国鉄時代のような駅業務の吸収合併はありません。
また、管理所については国鉄当局が編纂した『鉄道辞典 補遺版』でも、下記の通り解説が為されています。
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かんりしょ 管理所
国鉄の新潟・中国の両支社および鉄道管理局の現業機関。
この現業機関は、非採算線区の経営改善をしていくために、線区単位に設ける経営組織の一種であり、その線区における各職能別の現業機関を解消統合して、総合的現業管理機構とし、所長には支社長権限または局長権限を大幅に移譲したものであるが、実施上支障のある場合を考慮して、例外的に一部の現業機関を存置してもよいことに弾力性をもたせている。
昭和31・10・1仙台鉄道管理局管内の仙石線の経営合理化のため陸前原ノ町に仙石線管理所を設置し、テスト中であったが、改善成果が高く評価されたので、昭和33・7線区経営組織による経営改善の実施について通達された。
線区経営組織としては、このほかに運輸区方式と管理長方式とがあるが、管理所方式は経営改善の施策が実施しやすく、その効果も大きいことが実証されたので、つとめてこの方式によるものとしている。
管理所の設廃権限は支社長にあり、昭和40・12・1現在北海道支社管内に3、東北支社管内に11、新潟支社管内に1、関東支社管内に2、中部支社管内に3、関西支社管内に3、中国支社管内に4、西部支社管内に2置かれている。
(宮坂正直)
《出典》
日本国有鉄道(1966)『鉄道辞典 補遺版』p.63
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花輪線管理所も全27駅を管轄すると共に、全区間106.9kmにおける施設保全(保線・電力・信号)と運転関係(乗務・検修)を統括。
管理所長は盛岡鉄道管理局から花輪線の運営に関する権限を委譲され、これまで職場の違った各職員が経営改善を為すべく一体となりました。
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昭和36年2月15日、荒屋新町駅に「花輪線管理所」が設置された。花輪線106キロメートルの各駅をはじめ、線路、信号、機関車、車両、電力など各機関を統括して一体となり、円滑な運営を図るためのいわば「小型鉄道管理局」であった。初代所長には、沼宮内、遠野各駅長を歴任し、国鉄遠野自動車営業所長から昇格した小岩忠一氏が就任した。総務、運輸、施設の課を置き、所長以下33名の職員が配置され、線内440名の職員を統括した(昭和44年に廃止)。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.p.568,569
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なお、上の引用文には「総務、運輸、施設の課を置き・・・」と書かれていますが、厳密には間違っています。
管理所は地方機関ではなく現業機関なので、非現業部門である「課」を置く事はなく、実際には各部門の助役の中から1名ずつを科長に指定する「科長制」を採っていました。
つまり総務・運輸・施設の各部門も、正しくは「総務科」「運輸科」「施設科」と称したのです。
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管内にこの管理所・管理長制度が採用されたのは、33年10月20日、大湊・大畑線管理所の設置が最初である。
同管理所を設置するに当って、次のような諸点が考慮された。それは、
1 赤字が多い線区で、普通の合理化では成果をあげ得ないこと。
2 増収効果を講じても、客貨とも期待出来ない線区であること。
3 地理的に局の直接管理が困難であること。
などであり、組織としては、所長の下に総務科(総務経理)、運輸科(営業・運転)、施設科(施設・電気)がおかれ、大湊・大畑線の現業機関を解消して総合的な現業管理機構とし、局長の権限を大幅に委譲してこの線区を経営の一単位とした。これによってこの地方の実情に応じた経営を一任することになった。管理所組織の機能を発揮する方策としては、列車運行の改正、駅員無配置化、保守作業の合理化、諸設備の合理化、作業の機械化などが実施され、管理方式の一体化、事務能率の向上、人件費の節約等がはかられた。
その後、34年5月20日、青森に津軽線管理長が、同年12月1日盛岡に橋場線管理長が設置された。35年7月4日、尻内に八戸線管理長が設置され、同年10月10日一ノ関に一ノ関管理所が設置された。36年2月15日荒屋新町に花輪線管理所が設置され、7月6日八戸線管理長を廃止し、尻内に尻内管理所が設置された。
この結果、盛鉄管内の線区経営単位の設置数は、管理長3(営業㌔138.9㌔)、管理所4(営業㌔379.5㌔)、計7箇所(営業㌔518.4㌔)となり、釜石・山田・小本線を除いた全支線に及び、管内営業㌔の46%になった。
《出典》
日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1976)『盛岡鉄道管理局25年史』p.19
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鳴り物入りで設置された花輪線管理所でしたが、経営改善に効果を発揮したのは最初のうちだけ。
その後は思うように経営成績を上げられず1969年2月9日に廃止。
管理所体制は8年という短命に終わり、一体化した花輪線の各部門は再び散り散りになりました。
この時、運輸科の運転・検修担当は盛岡機関区荒屋新町支区を再結成。
施設科の保線担当は一戸保線区の傘下に入り(線路分区になった?)、同年4月1日に「一戸保線区荒屋新町保線支区」を旗揚げしています。
しかし先述したとおり花輪線管理所は運転関係だけでなく、駅業務や施設保全をも統合した現業機関だったため、このような記述は実態に則していません。
鉄道趣味の世界は往々にして車両に興味が偏りがちなので、これも現業機関を「車両基地」としか認識しない視野の狭さが招いた勘違いなのかも知れないですね。
花輪線管理所の活動末期、1968年5月16日には十勝沖地震が発生。
この地震で東北本線に甚大な被害が出たため、復旧工事が完了するまで上野~青森間の特急「はつかり」を花輪線に迂回させる措置が取られました。
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昭和43年(1968年)5月16日、荒屋小学校では普段どおりの2校時目の授業が行なわれていた。その直後、校庭で体操をしていた低学年の児童が次々と転び、猛烈な揺れが学校を襲った。机の下に潜り込むどころではなく、教師は「全員逃げろ」とあわてて叫ぶのが精一杯であった。校庭に地割れができ、通学路の坂の石垣が崩れた。震源地は北海道襟裳岬南東約120キロメートル、地震の規模を示すマグニチュードは7.9、最大震度5の強震であった。夜にも震度5の余震があり、町民は恐怖に怯えた。
東北北部から北海道に深刻な被害をもたらしたこの地震は「十勝沖地震」と名づけられた。死者52人、負傷者330人、住家は全壊673棟、半壊3004棟、一部損壊15697棟、特に青森県三八上北地方は、がけ崩れが24ヵ所、道路損壊375ヵ所、鉄道被害34ヵ所で、交通は麻痺状態、東北本線を始め鉄道はずたずたに寸断された。花輪線も路盤沈下・陥没3ヵ所、路盤亀裂12ヵ所の被害を受けたが、保線工夫たちの昼夜を徹した尽力で早期に復旧した。東北本線復旧が長期化したため、花輪線を経由して弘前・青森方面へ列車が運行されたので、荒屋新町駅にディーゼル特急が停車した。早朝、特急列車を見たことのない子どもたちが物珍しさに釣られてホームに入り込み、中には乗客から駅弁やお菓子をもらうちゃっかり者もいた。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.p.563,564
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1971年10月1日、花輪線の動力近代化が完了しました。
盛岡機関区荒屋新町支区も同日付で廃止となり、多くの国鉄職員が荒屋新町を去りました。
これによって町内在住の国鉄職員は1/3に減り、「鉄道の町」の活気は失われてしまいました。
荒屋新町駅では1973年3月31日、貨物フロントを廃止。
当時、安代周辺では道路整備の進展によってトラック輸送が台頭したため、荷主を奪われつつあったのです。
貨物取扱いの終了に伴い、荒屋新町駅の種別は一般駅から旅客駅に変更。
営業範囲は旅客・手荷物・小荷物(不配達)に縮小しました。
1974年10月1日、手荷物の取扱いを廃止。
駅業務執行体制が縮小する中、沿線自治体は起死回生を狙ったのか「国鉄花輪線複線電化促進期成同盟会」を設立し、花輪線の利便性・快適性向上を求めていきました。
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昭和49年町では沿線市町村と共同して「国鉄花輪線複線電化促進期成同盟会」を設立した。この組織は、花輪線の利便性と快適性の向上のため、必要な整備等について関係機関に対し要望活動を行い、老朽化した駅舎の改築、新車両の導入、ダイヤの改善等一定の役割を果たしてきた。しかし、昭和57年東北縦貫自動車道が安代インターチェンジまで開通し、高速バスが競合路線の運行を開始したため、同盟会をとり巻く情勢が大きく変化した。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.571
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国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
荒屋新町駅も小荷物フロントを廃止し、窓口営業は旅客フロント(出改札・案内)のみとなりました。
1986年11月1日、ダイヤ改正により田山駅が交換設備の撤去と合わせて駅長を廃止。
以降は荒屋新町駅が田山駅を管理下に置き、窓口営業担当の駅員を派遣するようになりました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が荒屋新町駅を継承。
1999年7月には花輪線大更~荒屋新町間が特殊自動閉塞(軌道回路検知式)化しました。
そして同年12月4日、ダイヤ改正に伴い荒屋新町~大館間が特殊自動閉塞(軌道回路検知式)化し、同時に花輪線全区間がCTC化しています。
すると荒屋新町駅では運転取扱要員の配置を取り止め業務委託化しました。
窓口営業は㈱ジャスターが受託し、同時に田山駅への駅員派遣を廃止しています。
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平成11年荒屋新町駅長が廃止され、大更駅長管理の業務委託駅となった。委託業務は盛岡市に本社を置きJR東日本盛岡支社の子会社である株式会社ジャスターが実施している。同時に、田山駅は荒屋新町駅からの駅員派遣が廃止され無人駅となり、大更駅長の管理下に属している。この年から運行管理はCTCにより盛岡輸送指令が管理している。CTCとは、「列車集中制御装置」のことであり、鉄道において路線・一定区間の単位で信号や分岐器の連動装置を1ヵ所で遠隔操作できるようにしたシステムのことである。CTCが導入される前は列車交換がある駅では必ずタブレットを受け渡し、タブレット受け渡しがないと閉塞区間を列車が通れない仕組みであったが、CTCが導入されて以降はこの動作が不要になり、閉塞が自動化された。
《出典》
安代町史編纂委員会(2011)『安代町史(下巻)』p.p.572,573
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なお、ジャスターは2015年7月1日のJR東日本グループ再編に伴い、仙台に本社を置くLiViT(JR東日本東北総合サービス㈱)に吸収合併されました。
荒屋新町駅の受託業務もLiViTが継承しています。
2018年6月1日には大更駅の業務委託化に伴い、盛岡駅の被管理駅となり現在に至ります。
駅舎は開業当初から存在する、羽目張りの木造建築です。
国鉄時代は外壁が木板そのままの色でしたが、現在は白く塗装されています。
駅舎は北側の一部だけ2階建てとしています。
2階は信号扱所が入居していたのでしょうか?
現在はもぬけの殻になっているようです。
駅舎の正面には赤々とした花壇が並んでいました。
これら花壇は荒屋婦人会が管理しており、地元の奥さん達が花の手入れをしています。
待合室の様子。
駅舎の規模に対して狭く感じられます。
出札窓口(みどりの窓口)は狭い待合室に大きく出っ張るように設けています。
窓口営業時間は8:00~15:40。
時間外は駅員がいないため、代わりに車掌が集札・運賃精算を行ないます。
また基本的にワンオペなので、営業時間中でも駅員がすぐに対応できない事がありますのでご注意を。
早朝・夕方以降の無人時間帯に使用する乗車駅証明書発行機。
駅員の不在中は、この装置から乗車駅証明書を受け取りましょう。
改札口は防寒のため引き戸を二重に配置しています。
待合室には安代町立中央公民館が「ふるさと文庫」を設置しており、列車やバスの待ち時間中に読書できます。
読み終わった本は必ず本棚に戻しましょう。
「ふるさと文庫」の隣には、中古の集札箱を再利用した「お客様の声メールボックス」があります。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
花輪線荒屋新町駅[1] 奥羽山脈の中に築かれた「鉄道の町」
※写真は全て2022年9月24日撮影
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最終更新日 : 2022-12-04