宮城県は石巻市渡波町1丁目(旧:牡鹿郡渡波町根岸)にある、JR東日本の渡波(わたのは)駅。
1959年5月の編入合併によって消滅した自治体、渡波町の中心部に置かれた駅です。
駅から約336m南に石巻市役所渡波支所があり、この場所にかつては渡波町役場があったようです。
渡波町は「万石浦」という入江の西岸、太平洋との境界に位置する漁師町です。
万石浦は古来より「奥の海」と呼ばれ、牡蠣や海苔、アサリの養殖が盛んに行なわれてきました。
北上川から注がれる豊富な植物プランクトンは養殖漁場に恵みを与え、特に牡蠣は1年という短期間で出荷できるほどに成長します。
江戸時代には宿場町として栄え、入浜塩田法による製塩も行なわれていたそうです。
また、町中には宮城県立としては唯一の水産高校である宮水(宮城県水産高校)があります。
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渡波という地名の由来ですが、以下の2説が提唱されています。
①万石浦の入江口で、波が折り渡していたために砂丘が生じ、それが陸地化していった。当初は「波折渡之渚村」と呼んでいたが、あまりに長いので次第に略されて「渡波」になった。
②かつては本州東部(東北・関東・甲信越・北陸)にも多くのアイヌが住んでおり、当地の事をアイヌ語で「ワッタリ」(和訳:入江を渡る)と呼んでいた。それが転訛して「渡波」になった。
そんな渡波に鉄道が開通したのは1915年8月3日の事。
柴山英三ら地元有志によって創立された私鉄の牡鹿軌道が、石巻市湊町と渡波町大字根岸字浜曽根を結ぶ3.4kmの併用軌道を敷設しました。
社名から察するに牡鹿半島まで線路を敷く計画を立てていたのでしょう。
当初は人車軌道とする予定でしたが、計画途中で馬車軌道に変更。
1919年10月にはガソリンカーを導入しました。
しかし他社が乗合自動車の運行を開始した事で競争が激化。
1924年には乗客数がピーク時の半分に落ち込み、施設老朽化によるマクラギの大量交換など費用増加も経営を圧迫していきました。
そして同年5月5日、臨時株主総会で金華山軌道への吸収合併が決定。
同年7月29日に合併し牡鹿軌道は解散となりました。
木造駅舎 渡波駅 石巻線 業務委託駅 無人駅
一方、金華山軌道は1922年8月27日に設立された私鉄で、渡波~女川間の軌道敷設を目指していました。
ところが役員の顔ぶれは柴山英三をはじめ牡鹿軌道の取締役会と酷似していたのです。
この事について石巻市役所が発行した書籍『石巻の歴史第五巻 産業・交通編』(1996)は「営業不振の牡鹿軌道の女川延長計画を実現し、資本の強化によって輸送力を増強し、低迷した軌道輸送の主役を自動車から奪還することにその目的があった」(p.821)との見解を示しています。
つまり金華山軌道は最初から牡鹿軌道の事業承継会社として発足した訳ですね。
それにしても牡鹿まで延びていないうちから「牡鹿軌道」と名付けた上に、今度は牡鹿半島の南東に浮かぶ霊島・金華山まで社名に使うとは…。
柴山氏は高い目標を設定するきらいがあったのでしょうか?
そもそも本土から金華山まで如何にして線路を敷くつもりだったのやら。
先述したとおり金華山軌道は1924年7月29日、牡鹿軌道を吸収合併。
同社の軌道事業を継承しつつ、渡波~女川間における軌道敷設工事を開始。
車両もガソリン機関車4両、客車8両、貨車15両を増備しています。
そして1926年7月15日、渡波~女川間の延伸開業が実現。
石巻湊~渡波間と合わせて総延長13.9kmの路線が完成しました。
地方交通
しかし大部分が併用軌道なので速度を出せず、車両も小さいため思うように水産物を運べませんでした。
おまけに旧北上川の東岸で線路が途切れており、対岸の国鉄石巻駅と連絡できず不便を託っていました。
すると次第に沿線では、国鉄石巻線の女川延伸を求める運動が激化。
強い要望を目の当たりにした国鉄当局は1936年2月から石巻線石巻~女川間の延伸工事を開始し、足掛け3年半の1939年10月7日に延伸開業。
旧北上川での一時下車を挟まず石巻以西へ直接行けるようになり、旅客も貨物も一斉に金華山軌道から国鉄に鞍替えしました。
結局、金華山軌道は国鉄石巻線の延伸から約2週間後の1939年10月29日、これ以上の運行が困難として全線休止。
ただし国鉄の開業が客離れの原因だったので補償を受けられる事になりました。
そして1940年5月2日、軌道事業を廃止してバス会社の金華山自動車に転身。
それでも会社の終焉は思いのほか早く訪れ、1945年6月4日に国の戦時統合で仙北鉄道に吸収されてしまいました。
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前置きが長くなりましたが、ここからはJR渡波駅について取り上げましょう。
渡波駅は1939年10月7日、先述した石巻線石巻~女川間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
1969年10月1日、駅員による手荷物・小荷物の配達を廃止。
1974年10月1日、営業範囲改正により小口扱貨物の取扱いを終了し、貨物取扱いは車扱のみとしました。
1982年6月、石巻線石巻~女川間が単線自動閉塞化。
これに伴い渡波駅でのタブレット交換を廃止しました。
1984年1月15日、貨物フロントを廃止。
これに伴い一般駅から旅客駅に種別変更しました。
1985年3月14日、小荷物フロントを廃止。
窓口営業は旅客フロント(出改札・案内)のみとなりました。
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1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が渡波駅を継承。
2005年4月1日には子会社の東北総合サービス㈱(現:JR東日本東北総合サービス㈱)に業務委託化しました。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。
石巻線石巻~女川間も大津波の直撃により被災しました。
その後は復旧工事が進められ、2012年3月17日に石巻~渡波間、2013年3月16日に渡波~浦宿間が段階的に営業を再開しています。
2013年4月1日、東北総合サービス㈱がJR東日本東北総合サービス㈱に改称。
同社は「LiViT」を公式の愛称に定めており、渡波駅は同社古川営業所の管轄(石巻ブロック)に入りました。
2016年8月6日、仙石東北ラインの一部列車が石巻線石巻~女川間への直通運転を開始。
渡波駅にも仙台行きの快速が停車するようになりました。
2020年3月14日にはLiViTとの業務委託契約を解除し完全無人化。
現在は石巻駅の管理下に置かれています。
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駅舎は1939年の開業当時から存在する木造モルタル建築の平屋です。
縦長の窓と、緩やかに傾斜した寄棟屋根が特徴的。
新駅舎は円筒型の鉄筋コンクリート造りで、延床面積は初代駅舎の約125㎡に対し約48㎡というコンパクトな建物になります。
2023年3月末には新駅舎の共用を開始する予定ですが、味わい深い木造駅舎が消滅するのは何とも寂しい限り。
駅舎の西隣には妙に意味深な上屋があります。
どうやらここは集札口として使われていた名残のようです。
渡波駅の近くには125年の歴史を持つ水産高校があり、昔から同校生徒の通学利用が多いそうです。
集札口も通学客が殺到する朝ラッシュ時に活躍していたのでしょう。
駅前広場に設置されたサン・ファン館(宮城県慶長使節船ミュージアム)への案内マップ。
渡波駅から徒歩25分のルートでサン・ファン館まで行く事ができます。
1613年、仙台藩主・伊達政宗は海外貿易を目論み、家臣の支倉常長(はせくら・つねなが)ら使節をスペイン、ローマに派遣しました。
この使節は「慶長遣欧使節」と呼ばれ、牡鹿半島・月の浦から「サン・ファン・バウティスタ号」というガレオン船に乗って長い航海に出たのです。
サン・ファン館は1996年、その史実を伝承するべく開業した臨海の博物館です。
構内には当時の姿を復元したサン・ファン・バウティスタ号が係留されていましたが、老朽化に伴い2021年12月より解体工事に着手。
サン・ファン館自体は2024年度のリニューアルオープンを目指し改修工事中で、後継船も繊維強化プラスチック(FRP)で製造する事が決まっています。
私も石巻に住んでいた少年時代、家族や親戚とサン・ファン館を見学しに行った事があります。
実際に乗る事も出来るサン・ファン・バウティスタ号と、本館から係留場に目掛け下っていく長大なエスカレーターは今も脳裏に焼きついています。
それに石巻は小学校の校歌にも支倉常長の名が出てくるような土地柄ですから、サン・ファン・バウティスタ号の解体を知った時は大変ショックでしたね。
待合室の様子。
天井が高く開放的です。
壁の大部分は板を羽目張りにしています。
出札窓口は無人化に伴い板で塞がれましたが、左隣の自動券売機は稼働を続けています。
右手には液晶型の運行情報表示機も。
自動券売機側には低めの棚が伸びていますが、国鉄時代は手小荷物窓口のチッキ台だったのでしょう。
ホーム側から駅舎を眺めた様子。
軒下に車掌用ITVがありますが、これはツーマン運転の仙石東北ラインで使用している設備ですね。
改札口にラッチは残っておらず、東北地方の無人駅に多く見られる細長い集札箱(きっぷ・運賃入れ)があります。
改札口の脇にはサン・ファン館のポスターを掲げています。
昭和の木造駅舎に相応しく、ホームに向けて出っ張った運転事務室もあります。
かつてはこの運転事務室にタブレット閉塞器を置き、当務駅長が構内を見回しつつ運転取扱いに当たっていました。
ブラインドで室内の様子がよく見えませんが、現在はタブレット閉塞器に代わり継電連動装置が収まっているようです。
2面2線の相対式ホーム。
駅裏が内側になるようにカーブを描いており、下り信号機が見づらいためホーム中間に中継信号機を設置しています。
駅舎側が1番線で上り列車(石巻・小牛田/仙台方面)、駅裏側が2番線で下り列車(女川方面)が発着します。
ホーム全長は20m車4~5両分ほどです。
基本的に盛り土式ですが、石巻方の一部だけ開業後しばらく経ってからの増床らしく桁式となっています。
両ホームを繋ぐ構内踏切。
遮断機こそありませんが、アスファルト舗装で横幅も広いので立派に見えます。
踏切警報機は常に「横断注意」のLED表示を上下交互に点滅させています。
石巻方の1番線脇には貨物ホームの線路が残っています。
現在は仙建工業㈱が保守用車の留置線として活用しているようです。
か細い30kgレールを敷いていますね。
1番線に入線する小牛田行きのキハ110系。
2番線を出発した女川行きのキハ110系。
ホーム上の駅名標。
これにもサン・ファン・バウティスタ号の勇壮な姿が見られます。
※写真は全て2022年5月3日撮影
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最終更新日 : 2022-10-05