岩手県は奥州市水沢東大通り1丁目(旧:水沢市東大通り1丁目)にある、JR東日本・JR貨物の水沢(みずさわ)駅。
県南の流通拠点・旧水沢市の中心部に置かれた駅です。
水沢は奥州の小京都としても有名な町ですが、古くは蝦夷の英雄・阿弖流為(アテルイ)が一族と共に暮らす巣伏村(すぶしむら)がありました。
788年12月、朝廷は征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)に胆沢遠征の命を下しました。
和人の軍勢は52,800人に上ったといい、翌788年3月には多賀城を出発し胆沢へ進軍。
対してアテルイ達は他部族と連合軍を編成し同年6月、北上川を北上してきた朝廷軍を迎え撃ちました。
ここに「胆沢の合戦」が勃発したのです。
その後、13年間は無敗だったアテルイ軍でしたが801年2月、坂上田村麻呂が第3回胆沢遠征に臨むと戦況は一転。
田村麻呂は同年10月までの間に蝦夷の反乱を殆ど制し、更に諸国から浪人4,000人を集めて胆沢城を造営し追い討ちをかけました。
為すすべが無くなったアテルイは802年4月、蝦夷500人を連れて投稿。
同年7月、田村麻呂はアテルイら2人を従えて上京し、朝廷に対し2人の助命を願い出ました。
しかし朝廷はアテルイ達を生かせば再び反乱を起こすだろうと考え、同年8月に河内国椙山で斬刑に処しています。
それから1192年後の1994年10月20日、水沢市役所はアテルイを顕彰するべく水沢駅の約650m東に「アテルイ像」を建立。
JR東日本も2001年12月1日ダイヤ改正を機に、水沢始発・盛岡行きの快速列車を「アテルイ」と名付けました。
水沢駅は1890年11月1日、日本鉄道奥州線一ノ関~盛岡間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
書籍『水沢市史4 近代(Ⅰ)』によると日本鉄道は当初、水沢駅を当時の繁華街だった立町の裏手に開設する予定だったそうです。
立町は現在の水沢駅から北北西に約740m離れた土地です。
ところが住民の猛反対に遭い、町の外れの杉林の東側に建設するに至ったとの事。
しかも駅前商店街は鉄道の開業当初、墓地だったというから驚きです。
以下に『水沢市史4 近代(Ⅰ)』の記述を引用しましょう。
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水沢停車場の設置に当り当初は鉄道当局の考えとして、町の中心をなし殷賑を極めていた立町裏に設置する予定であったという。しかし住民は強く反対した。その理由として、
一、水田を多く潰すことになる。
二、作物は汽車の振動によってよく実らない。
三、汽車の火煙が多く振りかかる。
四、他国の人々が多く入り込み、火事や泥棒が横行する。
五、住民の利益が少ない。
結局は寺院の並ぶ杉林の東側にあたる全くの町裏(常盤字曲畑)に設けられることに決定したものである。その後も土地の買収、道路の建設でも反対があり、いろいろ議論を醸し出すことにもなったが、このため真直に通すべき駅前道路は曲りくねった。しかも両側には墓地のある淋しい駅前への道路ができてしまった。現在のマルサン、ホワイトショップ、ダイコー、まんぞくや等この辺一帯は墓地であったところ、大安寺、大林寺間の竹藪を切り開いて道路をつくったもので、37、8年を経た昭和の初めでさえ、破損した板塀の間から墓地の墓石や塔婆が見え、白い旗がヒラヒラ見えたりして、淋しいところで夜は街灯とてなく一人歩きできないところであった。
《出典》
水沢市史編纂委員会(1985)『水沢市史4 近代(Ⅰ)』(水沢市史刊行会)p.p.666,667
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水沢駅に乗り入れた森林軌道の貴重な写真
水沢市史編纂委員会(1985)『水沢市史4 近代(Ⅰ)』(水沢市史刊行会)p.691より引用
我が国初の私鉄だった日本鉄道は1906年11月1日に国有化。
1909年10月12日、明治42年鉄道院告示第54号の公布によって国鉄の路線名称が制定される事になり、野辺地駅を含む秋葉原~上野~青森間が「東北本線」と名付けられました。
やがて水沢営林署が水沢駅に隣接して木材置き場、薪炭倉庫などを建設。
1924年6月には森林軌道が敷かれ、西方の防沢から水沢駅の貯木場まで約40kmを結びました。
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大正13年6月水沢駅構内に隣接する貯木場を起点とする専用の森林軌道が敷かれ、大鐘、福原、松岩寺橋、広岡、出店、馬留を経て防沢まで約40キロの軌道があった。
森林軌道による輸送は1日2回から3回の往復であった。原木や薪炭類の輸送は相当なもので、地域の発展に大きく寄与していた。昭和36年(1961)末、森林軌道による輸送は廃止され、経済的な理由からトラック輸送に切替えられ、森林道の整備に重点がおかれるようになった。
《出典》
水沢市史編纂委員会(1985)『水沢市史4 近代(Ⅰ)』(水沢市史刊行会)p.692
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水沢駅の2代目駅舎は木造建築で、駅事務室を2階建てとしていた
水沢市史編纂委員会(1985)『水沢市史4 近代(Ⅰ)』(水沢市史刊行会)p.680より引用
初代駅舎は次第に老朽化が進み、1935年秋に取り壊されました。
そして1936年2月26日、木造の2代目駅舎が竣工しています。
書籍『水沢市史4 近代(Ⅰ)』では当時の駅構内を詳しく描写していますので、以下に引用しましょう。
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開業以来の駅庁舎は腐朽甚しく昭和10年(1935)秋には取毀され建替えられた。貨物室など一部には改造が加えられてはいたが、大体旧態を残す軒の低い駅舎であった。第2回目の駅舎は昭和11年(1936)2月26日完成している。
下り本線には機関車に対する給水設備があり、大正末期までは機関車給水を行ない、今の保線支区の東北に当る位置に昭和初年まで使用できる状態で残っていた。もとのプラットホームは現在より15センチは低く、長さも客車の連結両数が多くなると共に約60メートル長くなった。従って線路の有効長も延びている。
昭和10年頃には荒荷線と呼ばれた貨物線の南端には簡易計量装置が設けられ、貨車1輌毎の計量により過重な積載を防止するようになっていた。又その付近にはアーム式起重機も整備され積込の便を図るようになっていた。
今の駅舎の北には「テルファー」と称し、貨物線にある貨車の1、2番線移動ができる設備もあった。
開業当時からの駅舎は、北側に貨物取扱署と湯呑所が増築されてあった程度で、余り手を加えない駅舎であった。当時の駅売店は個人経営で駅舎から離れ、南西にあった。
それが昭和11年(1936)2月第2回目の新築のとき、ホーム側からも買えるようにと、駅舎の南東の隅に設けられた。第3回目新築(コンクリート駅舎)のとき、中ホーム、玄関の2ヶ所に設けられ、併せて3ヶ所が鉄道弘済会が経営した。
《出典》
水沢市史編纂委員会(1985)『水沢市史4 近代(Ⅰ)』(水沢市史刊行会)p.p.679~681
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1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。
男手ばかりの国鉄職員も次第に徴兵されるようになり、その補充として各地で女子職員が採用されました。
水沢駅も例外ではなく1942年5月、女子職員の大量採用に対応するべく臨時の養成機関を開設。
助役や掛主任が講師となって女子駅員の養成に当たりました。
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昭和12年(1937)7月7日、日華事変が勃発した。更に昭和16年(1941)12月8日真珠湾攻撃によって大東亜戦争が開始された。鉄道輸送による物資兵員の輸送、その他軍需品の輸送も激増し、これに対処すべく鉄道設備も増大強化されていった。従ってその補充として新規採用もまた多くなる。新規採用はしたものの直ちに各職場に配置し、実務につかせることは出来なかった。職員の応召等の補充に女子職員の採用によって出札掛、改札掛、車掌等の営業職のみでなく、機関区の機関車掃除の庫内手、保線区の線路工手までも女子職員を充てざるを得なくなっていた。
一方職員を養成する機関が青森、盛岡にあり、仙台には鉄道教習所があった。然しそれらのみでは職員養成が間に合わず、昭和17年(1942)5月初め水沢公園地内にあった消防会館を借上げ、臨時の養成機関とした。講師には水沢駅の助役や主任が当り、主席助役の高橋千英は主任担当官として、全寮制であったため、責任者として寮生と共に生活をした。寮生は起床、国鉄体操、講義、就寝まで規律正しく行われ、勿論開講式、閉講式には盛岡運輸事務所から責任者が臨席している。
《出典》
水沢市史編纂委員会(1985)『水沢市史4 近代(Ⅰ)』(水沢市史刊行会)p.p.678,679
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太平洋戦争末期の1945年8月10日、水沢駅は米軍の戦闘機「グラマン」に空襲されました。
この空襲で上下本線、貨物線は蜂の巣のように穴だらけとなり、レール交換工事が終わるまで不通となってしまいました。
駅構内東側の通信電線もズタズタに切断され、駅舎は天井の一部が落下し室内に土煙が蔓延する有り様だったといいます。
戦後の1956年10月2日、東北本線水沢~金ケ崎間が複線化。
1958年9月12日、東北本線前沢~水沢間が複線化し、水沢駅の複線化工事が完成しました。
1960年10月29日、下りホームの旅客上屋を増築。
当時は列車本数・急行停車の増加により上屋の短さが悩みの種となったため、494㎡の上屋を完成させたという事です。
1965年10月1日、水沢駅を含む東北本線仙台~盛岡間が電化。
1966年3月31日、駅事務室の一画を占めていた手小荷物扱所を駅本屋北側に移転。
ここに別棟を建設してオープンしました。
どうやら現在の「奥州市営自転車等駐車場」に手小荷物扱所が建っていたようです。
1969年2月17日、駅構内東側にコンテナ基地を開設。
この基地は東北本線花巻~一ノ関間、大船渡線をも営業圏内とし、トラックとの連絡により各駅の貨物を一気に集約しました。
1970年12月1日には貨物事務室がコンテナ基地に移転しています。
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44・2・17 コンテナ基地設置 県南随一の貨物取扱量を誇る水沢にコンテナ基地をとの声は以前からあり、国鉄内部でも色々と検討されてきた。市側、或いは荷主側からの国鉄に対する陳情もあり最終的に基地決定の朗報に接し、一同喜んで開業と相成ったのである。当基地は花巻・一ノ関間、気仙沼・大船渡方面も圏内に有し、収入源の一つとなっている。
※※中略※※
45・12・1 貨物事務室移転 東北本線複線電化完成と共に、貨物設備の駅東側充実が進められてきたがコンテナ基地の指定もあり、作業能率向上と障害事故防止の見地から貨物事務室を駅東側に移転、ここで業務を開始した。通運業者、荷主からも非常に喜ばれた。
《出典》
日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1976)『盛岡鉄道管理局25年史』p.423
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1972年3月15日、ダイヤ改正と共に「みどりの窓口」が営業を開始しました。
当時の水沢駅は昼行特急や寝台列車の利用が多く、地元では「みどりの窓口」を開設するよう求める声が上がっていたそうです。
そこで国鉄盛鉄局は利用客の希望に応え、BV型端末機を設置し「みどりの窓口」の看板を掲げるに至りました。
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やや小柄の、みるからに実直そうな大坂さんは、きれいに整備されたオープンカウンターの窓口で、とつとつと次のように語ってくれた。
「東京からみえたお客さんから、東北の職員は一般に無口で動作が緩慢だという評価をよく受けますが、逆に言えば、それは東北と言う厳しい風土に鍛えられた人間の勤勉・実直さを表わしたものであるといえると思います。旅客サービスは結局、職員各自のモラルといいますか、利用者に応える姿勢が一番大切だと思いますので、私達職員も“愛される駅”を合言葉に頑張っていきたいと思っています。具体的には、大口の指定券申し込みの事業所などに指定券の申し込み方をPRに行ったりして、できるだけ地元の方々と接触して駅というものを町の人に理解してもらうよう努めています」
――みどりの窓口担当者として、何か希望はありませんか。
「座席予約の端末が旧型のもので、お盆や年末年始の繁忙期の需要に応じきれませんので、新型のN形に変えるか、またはもう1台端末をつけてもらいたいと希望しています。そうすれば、駅の収入が増えることはもちろんですが、職員の増収意欲が大いに盛り上がると思うのですが・・・・・・」
《出典》
国鉄線編纂委員会(1977)「われら第一線 水沢駅(東北本線)」,『国鉄線』1977年2月号(財団法人交通協力会)p.29
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1974年3月31日、上りホームの旅客上屋を増築。
ホームのほぼ全面を覆う260㎡の上屋が完成しました。
1974年5月1日、小荷物積卸作業が業務委託化。
受託者は日本通運㈱水沢支店で、駅員の業務は窓口営業に絞られました。
水沢駅3代目駅舎(コンクリート造り)の平面図
水沢市史編纂委員会(1990)『水沢市史5 近代(Ⅱ)』(水沢市史刊行会)p.670
1976年10月7日、鉄筋コンクリート造りの3代目駅舎(現駅舎)が竣工。
この駅舎は総面積761.5㎡の平屋で「みどりの窓口」を1ヶ所増設しています。
北側にあった手小荷物扱所も南側に移転し、こちらは153.7㎡の鉄骨造平屋となりました。
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(3) 新駅舎の特徴点
ア 全体計画
駅舎は従来の規模の約2倍の広さで、付属施設にアーケードが建設され、地下道と駅舎をつなぐとともに、タクシー乗降場をとり込んで、雨天時のドライブ・アンド・レールがはかられた。ホームも従来より2㍍広げられ、ゆったりとしている。さらに、駅舎横にミニ公園を配し、旅客及び市民の目をなごませる緑地帯とされている。
全体として、利用者本位に考え、駅の機能だけでなく食堂・売店等も配置して、旅客に限らず、市民にロビー的開放感をもった駅舎に計画されている。
イ デザイン
駅舎デザインは、平城であった胆沢城を現代に引き戻したイメージを原形としている。縦線と曲線で稲穂たる田園を表現。立ち上がった部分は伸びる都市と水沢の地に輩出した偉人を表わし、全体のデザインを瀟洒な街並にマッチさせるよう工夫されている。
外装は、東北の真夏の空の透きとおるブルーのページェントに映えた雲の優しさと晩秋から初夏にみられる奥羽山脈と北上山系に連綿と続く冠雪の厳しさを語る色として白色が採用された。
《出典》
水沢市史編纂委員会(1990)『水沢市史5 近代(Ⅱ)』(水沢市史刊行会)p.669
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1986年11月1日、ダイヤ改正に伴い荷物フロントを廃止。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本・JR貨物の2社が水沢駅を継承。
ただし貨物駅業務については受委託契約によりJR東日本が受託しました。
なお、書籍『JR貨物10年のあゆみ』によると、この受委託は1996年3月を以って解消。
現在、水沢駅の貨物駅業務は㈱ジェイアール貨物・東北ロジスティクスの水沢事業所が受託しています。
2015年12月1日には水沢駅の旅客フロント(出改札・案内)が業務委託化。
既に東北ロジスティクスに委託されていた貨物フロントともども完全な業務委託駅となりました。
旅客駅についてはLiViT(JR東日本東北総合サービス㈱)が受託しており、一ノ関駅の被管理駅となっています。
窓口営業時間は6:00~20:00ですが、8:25~8:45は朝礼のため窓口を閉めています。
水沢はメジャーリーガー・大谷翔平選手の故郷でもあります。
駅前は大谷選手を応援する掲示物が目に付きますね。
国立天文台のある水沢。
駅前ポストにもパラボラアンテナの模型が乗っかっています。
駅舎の北側には駅員用の駐車場がありますが、この日は1台も停まっていませんでした。
駅事務室の玄関。
ドアにはボタン式の暗証番号錠を取り付けています。
不自然に飛び出した駅事務室。
こちらは半室構造の自販機コーナー。
元は降車専用の集札口だったのでしょうか、ホームとは透明のアクリル板で仕切っています。
自販機コーナーのお隣はトイレ。
リフォームされており綺麗です。
駅舎の南側にはカウンター付きの小屋があります。
まるで売店のような佇まい。
屋根は緩やかに傾斜した「片流れ」です。
小屋は「駅前整理員詰所」との表札を掲げています。
かつては駅前ロータリーで交通整理を行なう巡視員が詰めていたようです。
駅前整理員詰所の裏にはアコーディオンフェンスで仕切られた空間があります。
巡視員が自転車置き場にでも使っていたのでしょうか?
駅前整理員詰所の隣には水沢駅の東西を結ぶ中央地下道の西口があります。
駅前整理員詰所の更に南には「くつろぎの里 庄や水沢店」という居酒屋があります。
写真を取りそびれたのでGoogleマップのストリートビューから拝借。
一見すると何の変哲も無い居酒屋に見えますが、この建物について調べてみたら国鉄時代の水沢駅手小荷物扱所だと判明しました!
水沢駅3代目駅舎(コンクリート造り)の平面図
水沢市史編纂委員会(1990)『水沢市史5 近代(Ⅱ)』(水沢市史刊行会)p.670
前掲の3代目駅舎平面図を再掲しましょう。
赤く丸を付けた場所が手小荷物扱所なのですが、この位置がまさしく「庄や水沢店」と一致しているのです。
左上に描かれた手小荷物扱所の平面図と見比べてみても、正面玄関や北面勝手口の位置が「庄や」の建物と一致します。
更に驚いたのがGoogleマップ。
何と「庄や水沢店」の位置が「水沢駅構内」と表示されているのです!
まさか国鉄時代の手小荷物扱所が居酒屋に転用されているとは・・・。
一応は貸し店舗なんでしょうか?
旅を終えてから気付く事って案外多いですね。
先にこの事実に気付いていれば「庄や水沢店」の写真を撮ったのになあ。
長くなったので今回はここまで。
※写真は特記を除き2022年5月2日撮影
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最終更新日 : 2022-09-08