上川管内は富良野市住吉町。
富良野駅本屋から約260m南南東に2階建てのコンクリート建築があります。
外壁はアイボリーを基調とし、パッチワークのように配した亜麻色のガルバリウムが目を惹きます。
北国に相応しい二重構造の玄関。
暴風雪が館内に直撃しないよう、外側の出入口を正面ではなく左脇に設けています。
表札には「岩見沢保線所富良野保線管理室」と書かれています。
富良野保線管理室は岩見沢保線所の下部組織で、「所長代理」の担務指定を受けた助役1名を筆頭に保線係員(施設技術主任・施設技術係・施設係)が勤務。
芦別・富良野近郊において根室本線の軌道検査とこれに伴う簡易な修繕作業、集めた検査データに基づく工事計画の策定、外注工事の立会い・監督を担当しています。
JR北海道 国鉄 車両基地 岩見沢保線所富良野保線管理室 根室本線 富良野線 保線区 JR貨物
この表札の右上にはもう一つ、別の表札がありまして・・・
・・・何と「富良野機関区休養所」と書かれているではありませんか!
富良野機関区 乗務員宿泊所 乗泊
そう、実はこの富良野保線管理室ですが、国鉄時代に富良野機関区の乗務員用宿泊施設として使われた建物を再利用しているのです。
元々、富良野保線管理室の所在する住吉町には富良野機関区が広がっており、その構内に休養所も設けていたという訳ですね。
窓は個室1部屋ごとに1ヶ所ずつ配置しており、如何にも乗務員宿泊所の風格。
この特徴だけでも保線管理室などのいわゆる「現業事務所」とは一線を画していますね。
富良野保線管理室に転じた現在は流石に個室の壁をいくつか取り払って、広々とした事務室に改装しているだろうとは思いますが。
往年の富良野機関区を捉えた写真
富良野市史編纂委員会(1968)『富良野市史 第二巻』(富良野市役所)p.605より引用
せっかくなので富良野機関区の大まかな歴史を辿ってみましょう。
富良野機関区は1913年11月10日、国鉄釧路本線滝川~下富良野(現:富良野)間の延伸開業に伴い「落合機関庫下富良野分庫」として開設されました。
翌1914年6月1日には落合機関庫から独立し「下富良野機関庫」に改組。
1936年9月1日には国鉄当局が実施した機構改革に伴い「下富良野機関区」に改称しています。
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富良野機関区は北海道の中央に位するので、札幌鉄道管理局、旭川鉄道管理局、釧路鉄道管理局を分岐し、機関車は室蘭機関区、釧路機関区に乗り入れる。
開区当時の区は7500形式の機関車で、10輌が配置され、主任1、助手2、機関手13、火夫13、機関夫2、機関車掃除夫4、炭水夫6、合図方2、機関方1、職工5、事務員2、諸品番1、小使1、計53名だった。
《出典》
富良野市史編纂委員会(1968)『富良野市史 第二巻』(富良野市役所)p.605
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昭和11年9月には、職制の大改正が行われた。主な改正点は次のとおりである。
◇ いわゆる管理職である「主任」の名称を「長」(区長あるいは場長)に改め、助役を一本化したこと。これは、一定の権限を有し、独立の業務単位をつかさどるべき地位にありながら、その職名のために、他の現場長の配下のように誤解されることがあるため、対社会的な考慮が払われたものである。
◇ 組織名の「所」「庫」を「区」または「場」にしたこと。例えば第4表のとおりである。
(第4表)組織名称の移行
車掌所→車掌区
自動車所→自動車区
機関庫→機関区
電車庫→電車区
検車庫→検車区
発電所→発電区
通信所→通信区
用品試験所→用品試験場
印刷所→印刷場
◇ 支所・分庫・分所を支区と改め、それらの長は支区長としたこと。なお、所管区域を数箇所に分けて、責任者をおく場合は分区長をおくこととした。
《出典》
国鉄職制研究会(1978)『国鉄における職制の構造』(鉄道研究社)p.17
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戦後、国鉄当局が動力近代化計画を開始すると、全国各地で機関区の統廃合問題が起こりました。
これは蒸気機関車を気動車・ディーゼル機関車に置き換える事で、機関助士や燃料掛などの人員や車両整備に係る諸施設の削減が可能となったためです。
1968年2月15日、DD51形が根室本線滝川~釧路間に投入されると、富良野機関区でも検修部門の廃止、機関車の無配置化に傾いていきました。
これに対して富良野市長や商工会などが反対運動を展開し、最終的に検修部門の廃止については免れる事となりました。
その渦中の1968年10月1日、旭川駅から富良野駅に向かう途中の貨物列車が鉄橋もろとも富良野川に転落する事故が発生。
この事故で富良野機関区所属の動力車乗務員3名(指導機関士・機関士・機関助士)が犠牲になりました。
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40年4月1日、根室本線でATS(自動列車停止装置)が使用開始され、同年5月1日と翌41年3月25日の二次にわたって、根室本線の客貨分離が行われ、また、41年3月27日には釧路機関区にDD51601号が配置されるなど、根室本線の近代化、合理化がすすんだ。特に、41年9月30日、落合―新得間新狩勝線が運輸営業を開始し、難所の狩勝峠越えの急勾配、急曲線を緩和したことは、この傾向に一層の拍車をかけた。同日CTC2型を配備した狩勝、広内、西新得信号場が設置され、翌10月1日には、根室本線富良野―新得間の自動信号化並びにディーゼル化が実施に移された。
41年11月、根室本線赤平、芦別、富良野に第一種継電連動装置が設備され、42年10月1日、根室本線新得―帯広間が自動化するという中で、かねてから根室本線のディーゼル化に備えて体勢を整えてきた国鉄釧路管理部では、43年2月15日を期して、最強力のディーゼル機関車DD51型を投入し、根室本線富良野―釧路間の大幅なディーゼル化、富良野―滝川間のディーゼル化への転換を図った。富良野機関区では、早くから機関車乗務員の転換教育、ディーゼル機関車の運転技術の習得を行い、この日のために準備を整えていたのである。
そして、43年には所属の機関車の廃止、検修部門の廃止による富良野機関区の縮小、廃止問題が現実化し、6月の市議会で先にみたような特別対策委員会の設置をみたのである。また、富良野市長は、商工会議所、地区労、農協など各種団体と協議会を設け、阻止運動を展開し、国鉄本社を訪れて善処法を要望したが、44年2月には検修部門の全員を含む36人の減員が提示された。これを受けて、市では、2月22日に市民総決起集会が開かれ、また、動力車労組が順法闘争を重ねて国鉄当局と交渉を重ねた結果、所属機関車は廃止するが、構内入換作業のために回ってくる機関車の修理のために検修員を置くということで妥協がなり、最低限の減員で食い止めることができた。
※※中略※※
この間、昭和43年(1968)10月1日の早朝、旭川方面からやってきた富良野駅着午前8時19分の4両編成貨物列車が、富良野駅手前1.3キロメートルの富良野川第一鉄橋で、鉄橋ごと富良野川に転落した。機関車に乗っていた指導機関士、機関士、機関助士の3人全員が即死するという痛ましい事故となった。いずれも富良野機関区所属であった。また、車掌として乗務していた旭川車掌区の3人は、泥水の中を窓を破って脱出した。鉄橋のすぐ下流で河川改修工事が行われていたうえ、前日からの豪雨で川底が削られ、橋脚の安定が失われたためであった。
それから3年目の45年10月1日、同僚たちの発起により立派な慰霊碑が事故現場に建立され、第3回追悼法要がしめやかに執り行われるとともに、関係者の見守る中で慰霊碑の除幕式が行われた。
《出典》
富良野市史編纂委員会(1994)『富良野市史 第三巻』(富良野市役所)p.p.453,454
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1981年10月1日に石勝線が開通すると、道央と道東を結ぶルートは大いに短縮されました。
それと引き換えに根室本線滝川~新得間はローカル線化を免れず、合理化の更なる促進を招く事となりました。
富良野周辺の各駅は無人化・簡易委託化が進み、貨物の取扱いも大幅に削減。
1965年頃には200人以上の職員を抱えた富良野機関区も、1984年、1985年の2度に渡って大幅な人員削減が為されました。
そして1986年3月3日、ダイヤ改正と共に富良野機関区はとうとう廃止。
最後まで残った一般職員57人のうち15人が退職したほか、27人が滝川機関区、10人が札幌運転区(現:札幌運転所)、5人が苗穂機関区(現:苗穂運転所)にそれぞれ配転されました。
富良野機関区の用地は大半が払い下げられ、富良野病院、富良野市地域福祉センターいちい、老人保健施設ふらの、その他住宅地などに転じました。
廃止から36年が経過し富良野機関区の遺構は殆ど失われましたが、休養所だけは保線管理室へと用途を変えつつ現存しています。
しかしここで気になるのは、一体どうして富良野保線管理室が休養所に入居したのかという事。
どうやら富良野保線管理室は1994年4月1日、岩見沢保線所芦別保線管理室を富良野に移転した組織らしいのです。
この移転当日はJR北海道の本社・支社境界が変更となり、根室本線布部~落合間の7駅が釧路支社から本社鉄道事業本部に移管されました。
境界が変わった理由は帯広工務所金山保線管理室が同日付で廃止され、その担当区域を岩見沢保線所富良野保線管理室が継承したから。
従来の芦別に拠点を置いたままでは金山・落合方面が若干遠いので、より効率良く保線管理が出来る富良野に管理室を移したという訳ですね。
富良野保線管理室の北側には、とって付けたように車庫や資材倉庫が設置されています。
車庫はトタン板を張った簡素な物。
社用車を3台収容できます。
JR北海道の保線管理室は大抵、1960年代に建設された「保線支区」の事務所棟を流用しています。
保線支区は2階建てが多いのですが、1階を資材倉庫、2階を事務室に割り振るパターンが基本です。
しかし富良野保線管理室の場合はそもそもが保線と異なる用途に供した建物なので、資材倉庫も「離れ」として新たに建てるしかありませんでした。
南側にも車庫が1棟。
「踏切通行止め」などの工事標識も置かれていますね。
構内南端には百葉箱(気温計・湿度計を入れた木箱)が設置されています。
保線を遂行するには気象情報を得るのも重要です。
零号歩道橋から富良野保線管理室を遠巻きに眺めた様子。
保線管理室でありながら線路からやや離れているのもなかなか奇妙。
富良野保線管理室の道路向かいには、ふらのバス㈱の本社営業所があります。
その近くには富良野駅の照明塔が立っています。
※写真は特記を除き2022年7月2日撮影
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最終更新日 : 2022-07-30