タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2022-05-22 (Sun) 06:23

青い森線野辺地駅[1] 御用銅や俵物を出荷した南部藩きっての商港

野辺地駅a01

青森県は上北郡野辺地町字上小中野にある、青い森鉄道・JR東日本の野辺地(のへじ)駅。
青い森鉄道線を所属線とし、JR大湊線も乗り入れる共同使用駅です。
かつて野辺地は蝦夷(えみし)の集落が点在する地域だったと言い、その地名もアイヌ語の「ヌップペッ」(和訳:野を流れる川)が由来だと伝えられています。
1535年には越前の三国湊から「久星(きゅうぼし)」こと五十嵐屋甚右衛門家が移住し船宿を始めており、以降は近江や堺からも移住者が集まり港町を形成していきました。
特に江戸時代は大阪と北海道を日本海経由で結ぶ「北前船」の中継地点として栄えました。

秋田の二大鉱山、白根金山の金や尾去沢鉱山の銅も野辺地港に集荷した後、北前船に載せて大阪まで輸送したそうです。
中でも尾去沢鉱山の銅は「御用銅」と呼ばれ、江戸幕府が長崎貿易で取り扱うべく大阪の吹屋で精錬されました。

他にも南部藩が二戸・三戸・五戸・七戸の農民達から大豆を買い上げ、野辺地港から大阪まで積み出し販売していました。
これら大豆は上方に送る大豆という意味で「為御登大豆(おんのぼせだいず)」と呼ばれました。
また、野辺地港は干しアワビ、いりこ、フカヒレなど海産物も輸出しており、これら海産物は俵に積めて輸出する事から「俵物」と呼ばれたそうな。
俵物の主な輸出先は中国でした。

明治維新後の1872年、「朝敵」と見做され戊辰戦争で敗北した会津藩士達が北奥羽に追いやられました。
青森県には17,327人もの会津藩士族が移住しており、野辺地に定住した人達もいたそうです。
故郷の会津に比べて寒冷な土地で、食糧自給には並々ならぬ苦労があったといいます。


JR東日本 国鉄 JR貨物 青い森鉄道 北海道新幹線 東北新幹線 第三セクター 鉄道林
野辺地駅a02

野辺地駅は1891年9月1日、日本鉄道奥州線盛岡~青森間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
先述したとおり野辺地は商港として栄えた町ですが、駅は港のある中心街から大きく離れた内陸部に置かれました。
そのため旅客・貨物の船舶との連絡で不便を託つはめになりました。

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 東北鉄道の全線開通で、野辺地駅も開業した。これまでは畜力に頼ってきた物資輸送が、鉄道により短時間で、しかも運賃も安く安全に行なえるようになった。人々の旅行も快適となり、近代化に向けて一歩前進した。しかし、駅舎位置をめぐって、当時の民情として青森町と同様、さまざまな思惑が行きかったのであろう、野辺地駅は町の中心部から数キロも離れた現在地に決定した。「東奥日報」は、この疑問を次のように指摘した。
 
 ●停車場の位置と利用の不便 東北鉄道開通して、三戸・上北・東津軽の三郡は、其の便によることいと厚く、輸出入の数も日増に加はることなるべきも、停車場の位置は其の町村を去ること遠く、乗客の上下・荷物の運輸に不便なること又た少なからず。東津軽郡なる青森・浅虫・小湊の三停車場は、何づれもその町村端にありて直ちに村里に入ることを得るも、小湊停車場は愈々海上より荷物を積載する場合に至らば、浅所よりレールを敷きあるも、直ちに船より移すの便利なるに至らず。
 上北郡の境に入りては、野辺地停車場の如きは同村を去ること七~八町、七戸街道より停車場まで三町許りの新道は、地盤の堅まらざるより少しく雨の降りしきりては、泥濘車軸を没して歩行の足のつけやうなく貨物運搬の不便嘸かしと思はる。沼崎停車場に至れば、小川原沼辺茫々たる荒野に四~五棟の停車場附属舎と思しきものを見るのみ。旅宿は素より休憩所もない。〔以下略〕
(「東奥日報」明治24・9・22)

 それでも野辺地駅が開業すると、同駅を核として運送会社が設立される。そのはじめがウロコマル経営の北海道運送店であった。同店は大正3年、50円の資本で合資組織となり、その後公認制度が施行されると、野坂與治兵衛個人経営の北進運送店となった。

《出典》
野辺地町史編さん刊行委員会(1997)『野辺地町史 通説編第二巻』p.279
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我が国初の私鉄だった日本鉄道は1906年11月1日に国有化。
1909年10月12日、明治42年鉄道院告示第54号の公布によって国鉄の路線名称が制定される事になり、野辺地駅を含む秋葉原~上野~青森間が「東北本線」と名付けられました。



野辺地駅a03

1917年8月、予備助役が配置されると共に駅員も増員されました。
1919年8月、大湊軽便線(現:大湊線)の開通が決定した事により駅構内の拡張工事に着手。
駅舎も現在の位置に移転しています。

1921年3月20日、大湊軽便線野辺地~陸奥横浜間が新規開業。
同時に駅舎内に電話交換機を設置し、駅員(交換手)が電話交換業務を行なうようになりました。

1938年9月、駅本屋の増築部分が完成すると共に、電話交換室が新築移転しました。
1940年1月、運転室(駅構内の運転取扱業務を司る事務室)を上りホーム東端に移転。
同年3月には下りホームを延長すると共に、貨物突込線を新設しました。
更に同年12月には上りホームも延長しています。



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1961年7月1日、野辺地駅の電話交換業務が青森電務区(後の青森情報区)に移管されました。

1962年3月5日、東北本線盛岡~浦町間で連査閉塞の運用を開始。
野辺地駅でも南信号扱所・北信号扱所の2ヶ所にあったタブレット閉塞器を連査閉塞器に取り替えました。

1962年7月19日には駅本屋が新築落成し、当日に開業70周年記念式典と駅舎新築落成祝賀会を開催しました。

1964年9月20日、第一種継電連動装置の使用を開始。

1965年7月25日、東北本線陸奥市川~野辺地間が単線自動閉塞化し、連査閉塞器は御役御免となりました。

1966年9月22日、東北本線石文信号場~野辺地間が複線化。
続いて1968年7月8日、東北本線野辺地~清水川間も複線化しました。
更に8月5日、東北本線乙供~石文信号場間が複線化すると共に石文信号場が廃止されています。
また、同日付で私鉄の南部縦貫鉄道が西千曳~野辺地間の延伸を果たし、野辺地駅での国鉄線との接続が実現しました。



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1968年8月22日、東北本線盛岡~青森間が交流電化し、東京~青森間の全線電化完成という大躍進を遂げました。

1974年10月1日、貨物の受付を車扱貨物のみに縮小しました。
同年12月26日、駅本屋で「みどりの窓口」の営業を開始しました。

国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
これに伴い全国各地の中小駅で貨物フロントを一斉に廃止する事となり、野辺地駅も例に漏れず貨物取扱いを終了しました。
同時に種別を一般駅から旅客駅に変更しています。

1986年11月1日ダイヤ改正では小荷物フロントも廃止。
旅客フロント(出改札・旅客案内)のみ営業する体制に移行しました。



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1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が野辺地駅を継承。
1998年12月8日には大湊線の票券閉塞を廃止し、特殊自動閉塞(軌道回路検知式)の運用を開始しました。

1997年5月5日には南部縦貫鉄道が営業休止に追い込まれました。
実は同線の千曳~野辺地間は東北本線の路盤を借用していたため、1995年12月に国鉄清算事業団から路盤の買い取りを要求されました。
買い取りに必要な金額は約5100万円でしたが、慢性的な赤字に喘ぐ南部縦貫鉄道には到底支払えるものではなく、鉄道事業の継続が最早困難な状況に追い詰められてしまったのです。
そこに沿線自治体が調停に入って1998年6月、当初の提示額よりも大幅に安い約450万円で買い取れる事になり一応は決着を見ました。
ところが1年以上の休止期間中に鉄道施設は大きく荒廃してしまい、結局は復旧費を捻出できず2002年8月1日付で泣く泣く廃線となっています。

2010年12月4日、東北新幹線八戸~新青森間の延伸開業に伴い、並行在来線である東北本線八戸~青森間が第三セクターの青い森鉄道に移管されました。
野辺地駅は青い森鉄道とJR東日本の共同使用駅ではありますが、駅業務全般を青い森鉄道が管轄しています。
駅長を筆頭に助役、一般駅員(営業主任・営業係)が勤務する直営駅(社員配置駅)で、管理駅として乙供~小湊間の各駅を管理しています。



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現在の駅舎(駅本屋)は1962年7月19日に落成した平屋のコンクリート建築。
東半分(写真左側)が駅事務室となっています。



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駅本屋の西端にトイレがあります。


駅事務室 貨物事務室 野辺地駅貨物扱所 駅舎
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その西隣には薄緑色の招き屋根を持つ2階建てコンクリート建築が1棟。


駅事務室 貨物事務室 野辺地駅貨物扱所 駅舎
野辺地駅a09

どう見ても駅前交番ではありません。


駅事務室 貨物事務室 野辺地駅貨物扱所 駅舎
野辺地駅a10

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その玄関には何と「野辺地駅貨物扱所」の表札が残っています。
野辺地駅に貨物列車が発着した国鉄時代、貨物の受付や集荷手配などを担当する駅員達が働く事務所だった訳ですね。
わざわざ駅本屋とは別に事務所を建てるほどですから、当時は部門長として貨物助役を置き、その配下で多くの貨物掛が働いていたのでしょう。


駅事務室 貨物事務室 野辺地駅貨物扱所 駅舎
野辺地駅a12

ちなみに玄関引き戸の窓ガラスには「トレン太くん」のステッカーが貼られていました。
分割民営化後しばらくは駅レンタカーの店舗に転用していた事が伺えます。


駅事務室 貨物事務室 野辺地駅貨物扱所 駅舎
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野辺地駅a14

2022年現在、野辺地駅貨物扱所はもぬけの殻。
寄り添うように建つ貨物倉庫にも哀愁が漂っています。


駅事務室 貨物事務室 野辺地駅貨物扱所 駅舎
野辺地駅a15

貨物事務室の東脇には電話ボックスがあります。



野辺地駅a17

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駅本屋コンコースの様子。
床のタイルには黒い滑り止めが付いています。
自動券売機は1台だけ。



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出札窓口は2つのカウンターを設けていますが、右側は完全に締め切っています。
窓口営業時間は6:00~22:00です。



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出札窓口の左手には「青い森たびショップのへじ」があります。
2013年4月5日に営業を開始した店舗です。
「青い森たびショップ」は青い森鉄道が運営する旅行センターで、野辺地駅と三沢駅の2ヶ所に設けています。
しかしコロナ禍で広まった旅行自粛が仇となり、野辺地駅では2021年3月31日から営業休止中。
三沢駅でも2022年1月14日から営業休止になりました。


待合室 駅舎
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待合室 駅舎
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待合室 駅舎
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こちらは駅本屋西側の待合室。
天井には2台のシーリングファンが付いています。


待合室 駅舎
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キヨスクの旧店舗は自販機置き場と化しています。


待合室 駅舎 立ち食い蕎麦屋 立ち食いそば屋
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一方、こちらはバリバリ営業中の「駅そばパクパク」。
閉店した立ち食い蕎麦屋「こけし亭」の店舗を引き継ぎ、地元の奥さん達が元気よく切り盛りしています。
蕎麦・うどんの注文は食券制です。



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待合室のホーム側にイートインを設けています。



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「駅そばパクパク」では野辺地駅の名物駅弁「鳥めし」も販売しています。
鳥めしは元々、仙台に本社を置く駅弁製造業者・㈱伯養軒(現:㈱ウェルネス伯養軒)の青森支店野辺地営業所が製造し、駅構内の「こけし亭」が販売する駅弁でした。
しかし「こけし亭」は2014年3月に閉店。
以降はキヨスクが鳥めしを販売していましたが、こちらも2017年9月付で閉店しました。
それから暫く野辺地駅で鳥めしが買えない状況が続きましたが、同年12月に「駅そばパクパク」で取り扱うようになったという訳です。

ところが2019年9月、鳥めしの製造を手がけるウェルネス伯養軒青森支店が閉鎖されてしまいました。
では今売っている鳥めしは何なのかというと、「駅そばパクパク」の系列店である「やきとりパクパク」が製造しているのです!
「やきとりパクパク」は野辺地駅前、しかも駅本屋の正面玄関の真向かいにあります。
ごく普通の焼き鳥屋さんが長年親しまれた駅弁を再現するという面白い展開です。

弁当の具はホタテの醤油煮、鶏の照り焼き、卵そぼろ、鶏そぼろ、柴漬け。
意外と塩気は控えめで、素朴で優しい甘味が印象的です。


長くなったので今回はここまで。




※写真は全て2022年5月1日撮影
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最終更新日 : 2022-06-04

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