青森県は上北郡おいらせ町境田(旧:上北郡下田町字境田)にある、青い森鉄道の下田(しもだ)駅。
2006年3月1日に百石町と合併した旧下田町の代表駅でした。
とはいえ駅前は代表駅のイメージから凡そかけ離れた様子の鄙びた集落。
最寄りの商店街は旧百石町の上明堂・下明堂ですが、そこまで約2.3kmの道程を移動しなくてはなりません。
ちなみに百石町はMONKEY MAJIKのヴォーカル、メイナード・プラントさんがALTとして1年間暮らした町でもあります。
下田町のルーツを辿ると慶長年間(1596~1614)に築かれた下田館(しもだだて)に遡ります。
その前の1591年には九戸政実の乱が勃発しており、討伐軍の南河内守直政が九戸氏の一味であった七戸彦三郎を征伐するも命を落としました。
南部氏の第26代当主・信直は亡き直政の武功を讃えて下田二千百石を授けました。
そして直政の嫡男・南治太夫直勝が家督を継ぎ、父の所領である下田に館を築いて居住すると、自ら下田氏を称するようになったのです。
1624年、直勝は弟の直徳に三百石を分地し、ここに下田将監家が興る事となりました。
その後、1633年に盛岡城が完成すると下田将監家は南部氏に従って盛岡に移り、下田館も廃館に至ったそうな。
それでも下田谷地と呼ばれる低湿地の開発に取り組んだり、家臣17人が暮らして半農生活を送るなど地域との関係は続きました。
なお、「下田」という地名は「奥入瀬川の下流に開かれた田畑」が由来だと言われています。
奥入瀬川の上流を辿っていくと生内川から用水を引いた「太田」、沢水を利用して開いた「沢田」といった地名があります。
JR東日本 国鉄 青い森鉄道 木造駅舎
下田駅は1891年12月20日、既に開業していた日本鉄道奥州線の尻内(現:八戸)~沼崎(現:上北町)間に一般駅として開設されました。
我が国初の私鉄だった日本鉄道は1906年11月1日に国有化。
1909年10月12日、明治42年鉄道院告示第54号の公布によって国鉄の路線名称が制定される事になり、下田駅を含む秋葉原~上野~青森間が「東北本線」と名付けられました。
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下田駅所在地は旧南部領であった青森県上北郡下田町字三本木にあり、元日本鉄道株式会社が建設し明治24年12月10日に開業している。開業当時の駅附近一帯は荒寥たる原野でところどころに10戸、20戸と部落が点在するのみであったが、鉄道の開通によりその恩恵を受け、附近が開田されて駅周辺に人家が建ち、現在の繁栄を見ている。昭和25年8月1日組織改正により盛岡鉄道管理局となり、その後25年間には単線自動化、複線電化、営業近代化に伴う貨物集約化などが行なわれた。
《出典》
日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1976)『盛岡鉄道管理局25年史』p.440
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1953年4月30日、野辺地保線区下田営林班が駅西側上りホームに沿って、風到木として桜を植樹しました。
営林班とは営林工手長・営林工手が所属し、鉄道林(防風林・防雪林・土砂崩壊防止林など)の保全作業を担う班の事です。
分割民営化後にJR東日本の営林技術者が「環境保全林」として都市部の線路沿いに植樹をしていましたが、まさか1950年代にも風到目的の植樹をしていたとは驚きです。
JR東日本 国鉄 青い森鉄道 木造駅舎
1955年2月16日、駅構内にスイッチャー(貨車移動機)が配置されました。
1962年3月5日、東北本線盛岡~浦町間で連査閉塞の運用を開始。
下田駅でも従前のタブレット閉塞器は御役御免となりました。
1965年7月25日、東北本線陸奥市川~野辺地間が単線自動閉塞化。
下田駅でも連査閉塞器に代わり継電連動装置が導入されています。
戦後の1950~1960年代は東北本線で小刻みに複線化工事が重ねられました。
1968年7月29日には下田~三沢間が複線化し、2日後の7月31日には陸奥市川~下田間も複線化。
同時に複線自動閉塞式が施行されています。
JR東日本 国鉄 青い森鉄道 木造駅舎
1968年8月22日、東北本線盛岡~青森間が交流電化し、東京~青森間の全線電化完成という大躍進を遂げました。
しかし駅の営業体制は先細りつつあり、下田駅でも1969年10月1日に手小荷物の配達を廃止。
続く1970年10月1日には「営業近代化」という名目で貨物フロントを廃止しました。
これに伴い一般駅から旅客駅に種別変更となり、下田町内における鉄道貨物の窓口は向山駅に集約されています。
以降は旅客と手小荷物(不配達)の取扱いのみとなった下田駅ですが、1983年2月1日には遂に小荷物フロントを全廃。
同時に下田駅長を廃止し、三沢駅の被管理駅となりました。
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR東日本が下田駅を継承。
2010年12月4日、東北新幹線八戸~新青森間の延伸開業に伴い、並行在来線である東北本線八戸~青森間が第三セクターの青い森鉄道に移管されました。
以降は6:40~17:00を窓口営業時間としていましたが、2017年3月4日ダイヤ改正に伴い6:40~14:30に短縮しています。
経営移管後も下田駅に駅長は配置されておらず、引き続き三沢駅管理の直営駅(社員配置駅)として機能しています。
JR東日本 国鉄 青い森鉄道 木造駅舎
JR東日本 国鉄 青い森鉄道 木造駅舎
駅舎は下見張りの外壁を白く塗装した木造平屋。
どうやら1942年に落成した2代目駅舎だそうです。
待合室の様子。
リフォームは必要最小限に留めているようで、昭和のムードを色濃く感じます。
ストーブは部屋の中心に常に置いた状態です。
出札窓口の様子。
先述したとおり窓口営業時間は6:40~14:30です。
なお、営業時間中でも改札業務は行なっておらず、改札口の頭上に「発車時刻の5分ほど前になりましたらホームでお待ちください」との案内を貼っています。
窓口には「あさむし水族館きっぷ」と「青い森ワンデーパス」を宣伝する手書きポスターを貼り付けています。
出札窓口の右上をよく見ると、このようにポップな室名札を掲げています。
その上には3人のモーリーが立っていますが、もしかして下田駅に配置されている駅員の人数を示しているのでしょうか?
手小荷物窓口は壁と化していますがチッキ台は健在。
端っこの方は本棚が並び、文庫本や漫画を集めています。
出札窓口と手小荷物窓口の間には綺麗な生け花を飾っています。
近隣住民が手がけた作品のようです。
ホーム側から改札口を眺めた様子。
JR東日本 国鉄 青い森鉄道 木造駅舎 下田駅事務室 運転事務室 下田駅構内
駅事務室の玄関。
出っ張った運転事務室は窓が塞がれ、代わりに2枚ドアが設置されています。
ホーム側から駅舎全体を眺めた様子。
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を組み合わせた、いわゆる「国鉄型配線」の駅構内。
駅舎側の単式ホームが1番線で上り列車(八戸・目時方面)が発着します。
内側の2番線は列車の発着が無く、外側の3番線は下り列車(野辺地・青森方面)が発着します。
ホーム全長は20m車8両分はありそうです。
両ホームを繋ぐ跨線橋。
島式ホームの跨線橋前には待合室があります。
室内の様子。
3番線側に長椅子を配置しています。
701系 マルチプルタイタンパー マルタイ バラストレギュレーター 保線機械 保守用車
駅構内北側には保守用車の留置線があります。
ちなみに国鉄時代は野辺地保線区三沢保線支区下田検査班が置かれ、周辺の線路の検査を担当していました。
そして下田検査班が集めた検査データを基に支区の計画助役・技術掛が工事計画を策定し、それに従って作業班の保線機械掛が保守用車を運転していたのです。
現在、青い森鉄道では線路の検査と工事計画を設備管理所が行ない、保守用車の運転を含む保線作業を仙建工業㈱に発注しています。
1番線に滑り込む青い森703系。
駅裏の公道にて、3番線を出発するキハ100系「快速しもきた」を撮影。
野辺地駅からは終点の大湊駅までJR大湊線を走行します。
※写真は全て2022年5月1日撮影
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最終更新日 : 2022-05-16