上川管内は空知郡南富良野町落合にある、JR北海道の落合(おちあい)駅。
落合は幾寅市街から約9km南東に離れた山間の集落です。
同名の「落合駅」が東京メトロ東西線にありますが、あちらとはあまりにもかけ離れた環境ですね。
駅の東では空知川の本流であるシーソラプチ川と、支流のルウオマンソラプチ川・ペンケユクルペシュペ川・パンケユクルペシュペ川が合流して空知川となります。
これら河川の合流地点がある事から、当地に入植した和人達が「落合」と名付けたのが地名の由来です。
元々、ルウオマンソラプチ川は古くから界隈に暮らすアイヌの人々にとって交通の要路でした。
この川を上流に向かい、山を越えると十勝や鵡川に出られるのです。
更に空知川を下流に向かえば石狩平野まで移動できるので、落合がアイヌにとって重要な交通結節点だった事は想像に難くありません。
そんな落合に和人が定住するようになったのは1899年8月の事。
砂金採取のために来た岩手県人・藤原長次郎が駅逓を開設したのです。
翌1900年には原野の区画測定が為され、1901年から落合市街地の建設が開始されました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 木造駅舎 ローカル線
落合駅は1901年9月3日、北海道官設鉄道十勝線旭川~落合間の開業に伴い一般駅として開設されました。
駅には落合機関庫が併設され、市街地を中心に周辺の開拓が本格化しました。
書籍『新得町七十年史』(1972年/新得町役場)によると、落合機関庫は富良野~落合間の機関車運転と整備・給水を担当。
まだ市街地には人家が少なく宿舎もあまりなかったため、給水所の従事員達は農業を本分としつつ、副業として機関庫に通勤していたそうです。
1902年から大正期にかけて、落合には単独の農業移民や小作人が次々と入植し、小出農場、富士製紙㈱直営牧場、尾張牧場、本間牧場、郷田農場、森本農場などが開業しました。
主な作物は大豆、小豆、菜種、トウモロコシ等で、農地開拓と並行して林業も著しく発展しました。
十勝線は1905年4月1日、国鉄に移管。
1907年9月8日には落合~帯広間が延伸開業しました。
その後は1909年10月12日に釧路線、1913年11月10日に釧路本線と2度に渡る改称を経て、1921年8月5日の全通により現名称の根室本線となりました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 木造駅舎 ローカル線
時系列が前後しますが1911年7月8日、札幌に本社を置く伊藤組木材㈱が落合工場を開設し、当地での製材を開始しました。
同工場は落合駅裏にあり、0.1kmの専用線を敷いて貨物列車で木材を発送していました。
1917年4月16日には落合機関庫が新得に移転し、新得機関庫に改称。
乗務範囲も延長し富良野~池田間を担当するようになりました。
更に1936年9月1日、国鉄当局が実施した全国的な機構改革によって新得機関区に改称しています。
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昭和11年9月には、職制の大改正が行われた。主な改正点は次のとおりである。
◇ いわゆる管理職である「主任」の名称を「長」(区長あるいは場長)に改め、助役を一本化したこと。これは、一定の権限を有し、独立の業務単位をつかさどるべき地位にありながら、その職名のために、他の現場長の配下のように誤解されることがあるため、対社会的な考慮が払われたものである。
◇ 組織名の「所」「庫」を「区」または「場」にしたこと。例えば第4表のとおりである。
(第4表)組織名称の移行
車掌所→車掌区
自動車所→自動車区
機関庫→機関区
電車庫→電車区
検車庫→検車区
発電所→発電区
通信所→通信区
用品試験所→用品試験場
印刷所→印刷場
◇ 支所・分庫・分所を支区と改め、それらの長は支区長としたこと。なお、所管区域を数箇所に分けて、責任者をおく場合は分区長をおくこととした。
《出典》
国鉄職制研究会(1978)『国鉄における職制の構造』(鉄道研究社)p.17
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JR北海道 国鉄 JR貨物 木造駅舎 駅名板
落合駅では1928年、北落合までの約20kmを結ぶ落合森林軌道が開業。
駅構内には貯木場が置かれ、国鉄線への積み替えにより木材を各地に搬出しました。
しかし戦時下の1943年に廃止されてしまいます。
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大正4年に落合消防組が設立され、同14年には落合電燈株式会社が設立された。昭和3年、落合・北落合間に森林軌道(馬鉄)が敷設され、シーソラプチ川流域で伐採された木材が、この軌道で落合に運ばれるようになり、昭和12年には、この地方の御料林の木材生産事業を統括するため落合作業所が設置された。18年には落合森林軌道が撤去され、一時、流送が行われた。
《出典》
南富良野町史編纂委員会(1991)『南富良野町史 上巻』(南富良野町役場)p.p.50,51
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昭和3年以降、森林鉄道は北落合の空知川本流清水沢沿いに年々延長され、昭和10年には延長約20キロメートルに達した。その間、年平均3~4万石を落合駅土場まで輸送したのである。清水沢流域の伐採事業が一応終結したので、昭和11年には、この沢の施設を逐次撤去して、本流奥地に架設替えした。昭和18年には、延長27キロメートルに及んだのであった。
使用された機関車は、SE6~10トン車で3台充当されてきたが、昭和18年全施設が、上川営林作業所に移管されたのである。
その後、森林鉄道の路床は、そのまま放置されていたが、昭和32年度において、落合駅土場寄りの2キロメートルが自動車道に改修され、空知川本流にも永久橋が架設された。
《出典》
南富良野町史編纂委員会(1991)『南富良野町史 上巻』(南富良野町役場)p.571
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1966年9月30日、根室本線落合~新得間において狩勝峠越えのルートを変更し新線が開業(地元では“新狩勝線”と呼ばれる)、同時に富良野~新得間が自動信号化しています。
これに伴いタブレット閉塞が御役御免になり、落合駅におけるタブレット交換も廃止されました。
1981年10月1日に石勝線が開通すると、道央と道東を結ぶ特急・急行の大半が石勝線経由に変更されました。
1982年11月15日には落合駅の小荷物フロント・貨物フロントが廃止され、同時に簡易委託駅となりました。
1986年10月31日には簡易委託営業も廃止しています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 木造駅舎 ローカル線
1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が落合駅を継承。
2016年8月31日には台風10号が北海道に上陸し、根室本線富良野~音別間が甚大な被害を被ります。
このうち新得~音別間は同年12月22日までに順次復旧し、富良野~東鹿越間も同年10月17日に運行を再開。
しかし東鹿越~落合間は土砂災害のダメージが深刻で、この区間では列車代行バスを運行する事になりました。
不通区間は一向に復旧されず、2017年3月28日には列車代行バスの運行区間を新得駅まで延長。
その後は不通区間の在り方を巡り、廃止したいJR北海道と復旧したい沿線自治体の間で平行線を辿り続けます。
そして2022年1月28日、遂に沿線自治体が根室本線富良野~新得間のバス転換に合意。
今後は当該区間の廃止に向けて議論を進めていく事になりました。
現在の落合駅は岩見沢駅を拠点駅とする岩見沢地区駅(担当区域:室蘭本線栗沢~岩見沢間、函館本線幌向~滝川間、根室本線滝川~落合間)に属し、地区駅長配下の管理駅である富良野駅が管轄する完全無人駅です。
駅舎は木造モルタル建築の平屋で、外壁窓下にダークグレーのサイディングが施されています。
正面玄関にある集札箱(きっぷ受箱)と運賃表。
これらは列車代行バスの運行開始に伴い設置された物ですね。
駅舎の東隣には五角形の屋根を持つ個性的なトイレが建っています。
駅舎内の間取りはやや特殊で、正面玄関からホームまで1本の通路が延び、右手に待合室と駅事務室の出入口が設けられています。
駅事務室側には室内窓もありますね。
有人駅時代はどのように改札をしていたのか気になるところ。
列車の発車時刻が迫るまでホーム側の引き戸に施錠し、改札の時は駅員が脇の出入口から姿を現した・・・という事なんでしょうね。
改札口の引き戸には「これより先は足元が危険なため出入りをご遠慮願います」との貼り紙。
6年近く放置し続けた事により、プラットホームが崩落寸前まで劣化してしまったのです。
もちろん引き戸は施錠されており、全くビクともしません。
列車が来なくなって久しい落合駅ですが、少なくとも岩見沢保線所の土木テーブルや富良野保線管理室は施設の見回り点検を続けている様子。
鉄道施設は路線を廃止するまで鉄道会社に管理義務がありますからね。
待合室の様子。
駅事務室側の室内窓は待合室にも設けられています。
出札窓口はベニヤ板で塞がれており、出札棚の上に駅ノートが置かれています。
ベンチには分厚い黄金色の座布団。
室内には木製のミニSLが飾られています。
何故か落合駅から約95km離れた宗谷本線塩狩駅を宣伝するビラがありました。
文責は北海道上川郡が本籍地だったという「愛知県岡崎市在住 井上 洋一」さん。
ボリューミーな文章からは塩狩駅存続に賭ける熱意を感じますが、一体何を思って落合駅にビラを置いたのやら。
駅舎脇のゲートにも「立入禁止」の札が設置され、来訪者の行く手を阻みます。
敷地外から眺める跨線橋。
出入口は板で塞がれてしまいました。
ホームや線路も雑草まみれですね。
遠巻きに撮影したホーム上の駅名標。
駅構内東側には人道跨線橋があります。
この橋は1967年3月20日に竣工した物です。
人道跨線橋から駅構内を俯瞰した様子。
小駅にしては広々とした構内には木材輸送拠点だった頃の面影を感じます。
下り出発信号機はトラス構造のビームに付いています。
右奥に見える建物は保守用車庫ですね。
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を組み合わせた、いわゆる「国鉄型配線」。
駅舎側の単式ホームが1番線で上り列車用(富良野・滝川方面)。
向かいの2番線は下り列車用(新得・帯広・釧路方面)で、外側の3番線は上下共用です。
人道跨線橋から構内東方を眺めた様子。
ここは2016年8月31日に上陸した台風10号の被災現場です。
第1落合トンネルに土砂が流入し、線路がすっかり埋もれてしまいました。
左に見える線路は狩勝峠の旧ルートですね。
空知川スポーツリンクスからプラットホーム方向を眺めた様子。
1番線ホームの東端には緩やかな三角屋根を持つ平屋があります。
貨物輸送が盛んだった頃、操車掛や構内作業掛などが詰める「運転事務室」として使われていたのでしょうか?
そこから更に東の線路脇には、これまた古くて長ーいモルタル平屋があります。
この建物はかつて「落合線路分区」の詰所として使われていたそうな。
そのルーツは1907年9月8日開設の落合保線区で、落合~帯広間の延伸開業に伴い開設されました。
それが1931年11月2日、落合保線区が新得に移転し新得保線区に改称。
新得保線区は落合・狩勝・新得に線路分区を設置し、担当区域を分担していました。
国鉄施設局は1963年4月より「軌道保守の近代化」を打ち出し、線路分区に代わる現業機関として1963年4月から「保線支区」の設置を進めていきます。
従前の組織では人力に依存した「随時修繕方式」を採ってきましたが、新体制では保線機械を活用し迅速に線路を修繕する「定期修繕方式」に移行しました。
新得保線区でも「軌道保守の近代化」を図るべく、1966年10月1日に新得保線支区、1967年11月15日に金山保線支区を設置。
段階的に新体制へ移行し、山部検査班・金山検査班・幾寅検査班・落合検査班・新狩勝検査班・新得第一検査班・新得第二検査班・十勝清水検査班・御影検査班の計9班と、金山・新得の2作業班を設けました。
落合線路分区の詰所だった建物は、落合検査班の詰所として活用されてきたそうです。
国鉄施設局は1982年3月より「線路保守の改善」を敢行。
釧路鉄道管理局でも1983年11月1日に新体制へ移行しており、作業班は保線機械業務に特化した「保線機械グループ」、検査班は軌道検査に加えて工事計画と外注工事の監督を担う「保線管理グループ」に改組しました。
職名についても保線機械グループは重機保線長・重機副保線長・重機保線係の3段階、保線管理グループは保線管理長・保線副管理長・保線管理係・施設係の4段階としています。
保線管理グループは「管理室」とも称しており、「新得保線区金山保線支区落合管理室」というような呼び方になりました。
しかし国鉄施設局は分割民営化を間近に控えた1986年度、保線支区・保線駐在・分駐所(管理室)の大規模な統廃合に踏み切ります。
釧鉄局管内でも同年8月1日に支区制から管理室制に移行・縮小し、なおかつ保線区の統廃合も実施。
新得保線区は帯広保線区(現:JR北海道帯広保線所)に統合される事となり、金山保線支区は「帯広保線区金山保線管理室」、新得保線支区は「帯広保線区新得保線管理室」に改組されました。
この組織改正では換算軌道キロ10~15kmおきに分散配置していた管理室(旧検査班)も廃止の対象となり、落合管理室はおよそ19年半の歴史に幕を下ろしました。
旧詰所は板で塞がれた窓が多く、どうやら廃墟同然の状態に陥っているようです。
この大きな平屋を眺めながら、暫く国鉄時代の職場の活気に思いを馳せました。
※写真は全て2021年4月17日撮影
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最終更新日 : 2022-02-17