引き続き上川管内は空知郡南富良野町字幾寅にある、JR北海道の幾寅(いくとら)駅を見ていきましょう。
既に書いたとおりですが2022年1月28日、遂に沿線自治体が当駅を含む根室本線富良野~新得間のバス転換に合意しました。
今後は当該区間の廃止に向けて議論を進める事になりますので、訪問はお早めに。
これまでの3回に渡り、幾寅駅の大まかな歴史と駅前のロケセット、待合室、プラットホームなどを眺めました。
今回はいよいよ駅事務室に足を踏み入れます。
駅事務室は南富良野町役場が東映の協力を得て「鉄道員(ぽっぽや)ロケーション記念展示コーナー」に改装しており、毎日9:00~17:00の開放中は自由に入室できます。
劇中では幌舞駅の事務室として登場しますが、現実の幾寅駅も1984年12月1日の無人化まで国鉄の駅員達が常駐していました。
室内には映画『鉄道員(ぽっぽや)』にまつわる品々が展示されています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 幾寅駅事務室 ローカル線 根室本線
衝立で仕切られたエリアには2つの事務机と金庫、キャビネット等が置かれており、駅事務室の臨場感が保たれています。
手前の事務机が駅長の席ですね。
机の上には綺麗な生花と高倉健さんの顔写真が飾られています。
中小駅では駅長が出納員を兼ねているので、駅長の席のすぐ近くに金庫が置かれていますね。
国鉄時代、上野駅など特に大規模な駅では助役の中から1名を「分任出納役」に指定し、駅長に代わって金銭・物品の出し入れをさせる場合もありました。
出札窓口の内側。
高倉健さんの死後、事務机には3枚の遺影が置かれ、その周りを沢山の花で彩るようになりました。
出札窓口には乗車券類を仕舞う引き出しが残されています。
手小荷物窓口のチッキ台も健在。
台の上にはブラウン管のテレビが置かれ、待合室に向けて映画のプロモーションビデオを流しています。
無人化後の幾寅駅では、地元の奥さん達が集う「幾寅婦人会」が駅構内の美化活動を引き受けてきました。
幾寅婦人会は『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影当時(1999年1月)、俳優陣やスタッフを炊き出しでもてなしました。
待合室や駅事務室に花を飾っているのも婦人会の方々です。
2017年11月9日にはJR北海道が長年の功労を讃え、感謝状を贈呈しています。
駅事務室の片隅に置かれたカーキャッチャー。
これは主に駅構内で入換車両が誤って停止位置を通り過ぎ、本来走行すべきでない線路に逸走してしまった時に使います。
具体的には逸走車両が向かう先の線路に取り付け、車輪を受け止めたらレール上を滑らせ、それによって生じた摩擦で車両を停止させるという訳です。
カーキャッチャーは1970年11月15日に発生した湯前線多良木~東免田間の列車衝突事故を受け、北海道総局管内の狩勝実験線で実車試験を重ねて1972年1月に開発されました。
ちなみに狩勝実験線は根室本線落合~新得間の旧線のうち、新内~新得間の線路を転用したものです。
幾寅駅から約20km東方でカーキャッチャーの研究開発が行なわれていたんですね。
室内にはロケ当時の写真も多く見られます。
こちらは撮影スタッフが線路の除雪をしているのでしょうか?
高倉健さんがしゃがんで一息入れているようです。
「幌舞駅」の看板を掲げた木造駅舎を背にする高倉健さん。
『鉄道員(ぽっぽや)』の主人公・佐藤乙松は盲腸線の終着駅において、出札から運転取扱までをワンオペでこなす「一人駅長」でした。
ところで気になるのは佐藤乙松の経歴です。
彼の45年間に渡る鉄道人生の振り出しは蒸気機関車のカマ焚き(つまり機関助士)。
その後は機関士見習を経て機関士となり、客車や石炭車などを牽引する蒸気機関車の運転に携わってきました。
愛妻・静枝と結婚したのは機関士時代ですが、子宝を授かる事は暫くありませんでした。
動力近代化後の1976年、幌舞駅に駅長として着任します。
夫婦生活17年目の1977年10月、遂に一人娘の雪子が誕生しますが、僅か3ヵ月後の1978年1月に急死してしまいました。
1993年には静枝も病に冒され他界。
そして1995年(劇中における現在)、乙松は同年3月末の定年退職を間近に控える年齢となり、廃止間近の幌舞駅と運命を共にしようとしていました。
ちなみにJR北海道は1990年4月1日に60歳定年制を導入しているので、乙松も1995年で還暦を迎えようとしていた、或いは既に還暦を迎えていた事が窺えます。
まず驚きなのが1976年から1995年までの19年間、乙松が幌舞駅の駅長を続けているという事です。
鉄道ファンなら御存知の方も多いと思いますが、駅長の着任期間は概ね2、3年ほどで、長くても5年で転勤になるか定年退職を迎えます。
それこそ僅か1年で転勤になるケースもあります。
駅長より格下の管理職である助役でさえ、10年も20年も同じ駅で働く事は無いのです。
営業係や輸送係などの係職だったら、10年も20年も同じ駅に務めているのはよくある話ですが、幹部の駅長や助役であればそうもいきません。
営業系統と運転系統の昇進経路を示した「進路図」
日本国有鉄道職員局・中央鉄道学園(1974)『わたくしたちの国鉄』(第2版)p.97より引用
更に引っかかるのが駅長に昇進するまでの流れ。
国鉄時代の人事制度を紐解けば、機関士から駅長になったというのが出鱈目な話だと分かります。
私鉄やJRでは駅員→車掌→運転士→助役→駅長というキャリアパスが当たり前だという意見もあるでしょう。
しかし国鉄では営業系統(駅・車掌区・鉄道公安室)と運転系統(機関区・電車区・気動車区・運転所など)は昇進経路を分断していたのです。
つまり駅員から機関士になるというのは有り得ませんし、逆に機関士を経験した人が駅に転属するというのも有り得ませんでした。
(※ただし例外として、客貨車区や運転所で列車掛のマネジメントをしてきた運用助役が車掌区に転属したり、逆に車掌区の操縦助役が列車掛を配置している運転関係区所に転属する事はありました)
おまけに最初にやった仕事が機関助士というのもおかしい。
何故なら機関助士は入社してから最短12ヶ月の受験資格月数と、3ヶ月間に渡る鉄道学園での養成、果ては機関助士見習として3~5ヶ月間に渡る職務練習を経なければ拝命できない職名だからです。
佐藤乙松は1995年時点で鉄道人生45年というので、逆算すると1950年に国鉄に入社した訳ですね。
もし国鉄の実態に則した話にするならば、佐藤乙松は機関区内の雑務を担当する庫内手(後の整備掛→構内整備係)からスタート。
それから機関助士見習、機関助士、機関士見習、機関士と昇進を重ね、その先は機関区の運転助役や指導助役、更に上がって運転総括助役・・・という話ならフィクションとしても自然だと思います。
でも、そうなると乙松が幌舞駅に着任する事は無くなってしまうので、やはり元機関士という設定自体を変えた方が良かったですね。
多分、原作者の浅田次郎さんは東京生まれの東京育ちですから、鉄道員のキャリアパスと言えば私鉄のイメージが強かったのかも知れませんね。
そこに「何となく」な国鉄のイメージが加わり、非現実的な経歴になってしまったんだろうかと思います。
・・・とまあこんな感じで名作にケチをつけてしまいましたが、個人的には『鉄道員(ぽっぽや)』は寧ろ好きな作品です。
石破茂さんが『シン・ゴジラ』を「面白い」と言いつつ、「自衛隊に防衛出動が下令されるのはおかしい」などと突っ込みを入れたようなものだと受け止めてくださいw
浅田次郎さんの小説は『プリズンホテル』や『オー・マイ・ガアッ! 』も好きです。
駅事務室には2020年3月に逝去された志村けんさんの追悼コーナーもあります。
「けんさん」と「健さん」の貴重なツーショット写真も見られます。
一番下の写真は高倉健さんと田中邦衛さんのツーショットですね。
佐藤乙松が寝食をした宿直室は大幅に改装され、資料館の様相を呈しています。
ロケの際、改札口に置かれていたパイプのラッチ。
現在は駅事務室と宿直室の間に置かれています。
旧宿直室に入室すると、真っ先に視界に飛び込んでくるのが「だるま食堂」の暖簾。
その下には撮影計画に使われた幌舞駅のミニチュア模型が置かれています。
入って左手にはポスターがでかでかと貼り出されています。
来訪記念に作られた「幌舞行き」のサボ。
実車に掲出された事はあるのかなあ?
ショーウインドウの中には高倉健さんが着用した制服、持ち歩いたフライ旗や懐中時計などが展示されています。
制服はJR北海道の旧制服(使用期間:1988年4月~2009年3月)。
左胸ポケットには「幌舞駅 駅長 佐藤(乙)」と書かれた名札を付けています。
こちらは高倉健さんが被った駅長制帽。
赤い鉢巻に2本の金線を付け、動輪の内側を緑色に塗装しています。
JR北海道の旧制帽はツバとアゴ紐の表面をエナメル質に加工していますが、『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影に使われたのはツバ・アゴ紐ともに実物とは材質が異なります。
表面の輝きが無いので「本物の制帽じゃない」と簡単に見分けられますね。
展示室の奥に進みましょう。
左側には浅田次郎さん、高倉健さん、大竹しのぶさんのサインが並んでいますね。
他に広末涼子さんや志村けんさんのサインもありました。
劇中において「キハ12-23」(実際の車号はキハ40-764)が掲出していた「幌舞⇔美寄」のサボ。
国鉄時代の回想シーンで使われた発車時刻表。
旅客列車は1日わずか7本で、このうち2本は旭川行きでした。
1990年4月1日、JR北海道本社が幌舞駅に贈呈した表彰状。
1年間無事故だった事を讃えています。
ところで最後の署名にある「代表取締役社長 倉石 泰宏」は架空の人名ですね。
大森義弘・初代社長と北鉄労の小田裕司・2代目執行委員長による新春対談記事
北海道旅客鉄道労働組合『JR北海道労組新聞』1990年1月1日付第2面より引用
実際に1990年当時、JR北海道の社長を務めていたのは大森義弘さんです。
大森さんは1929年10月17日生まれで、1955年に東京大学法学部を卒業し国鉄に「本社採用」で入社しました。
本社採用は今で言う総合職で、国鉄経営の旗手になる事を嘱望された幹部候補生でした。
そして千葉鉄道管理局長、北海道総局長などを務めた後、1987年4月1日の分割民営化に伴いJR北海道の初代社長に就任。
リゾート車両の導入、札幌駅の高架化と駅ビル開発、新千歳空港駅の建設など大事業を主導し、1996年5月31日で社長を退任しました。
北海道経済同友会の代表幹事も務め、2016年11月10日に逝去されています。
部屋の奥にも貴重な写真や台本などが展示されています。
前回記事で触れたテコ小屋が見切れている写真。
取り壊されてしまったのが残念ですね。
美寄駅長・杉浦仙次を演じた小林稔侍さんとの絡み。
そういえば杉浦仙次も機関士から駅長になった人でしたね(白目
以上、4回に渡り幾寅駅を取り上げました。
劇中で廃止対象だった幾寅駅が現実でも廃止になろうとしているのは何とも寂しい限り。
《ブログ内関連記事リンク》
根室本線幾寅駅[4] 駅事務室は映画『鉄道員(ぽっぽや)』の資料館
※写真は全て2021年4月17日撮影
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最終更新日 : 2022-02-13