引き続き上川管内は空知郡南富良野町字幾寅にある、JR北海道の幾寅(いくとら)駅を見ていきましょう。
既に書いたとおりですが2022年1月28日、遂に沿線自治体が当駅を含む根室本線富良野~新得間のバス転換に合意しました。
今後は当該区間の廃止に向けて議論を進める事になりますので、訪問はお早めに。
第1回では幾寅駅の大まかな歴史と駅前のロケセット、第2回では待合室などを見ました。
今回はプラットホームを見ていきましょう。
1面1線の単式ホーム。
20m車7、8両分ほどの長さです。
国鉄時代は交換設備を有しており、ホームも2面2線の相対式でした。
現存する単式ホームが1番線、駅裏側に存在したホームが2番線ですね。
また、第1回で触れた初代駅舎は駅裏の平地に建っていました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 岩見沢地区駅
ホーム上の駅名標。
その隣に立っている名所案内は酷く劣化しており、左側のイラストが潰れてしまいました。
第2回で解説した、駅舎とホームを結ぶ階段。
階段の頂上には古びた方面案内の看板があります。
「富良野 滝川 札幌方面」と上り列車の行先を書いていますね。
逆に下り方向(新得・帯広・釧路・根室方面)の看板は残っていませんでした。
駅構内東側(新得方面)の線路沿いには腕木式信号機が立っています。
この腕木式信号機は映画『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影に使うため設置された物です。
幾寅駅は劇中において、廃止間近のローカル線・幌舞線の終着駅である「幌舞駅」として登場。
幌舞駅には高倉健さん演じる主人公・佐藤乙松が駅長として勤務しており、列車の着発時には必ずホームに出て運転取扱業務を遂行しました。
乙松が腕木式信号機を操作する時は、ホーム中間のテコ小屋(信号扱所)にある巨大なレバー(信号テコ)を動かしていました。
信号テコを倒すと信号機は出発現示(青信号)となり、逆に起こすと停止現示(赤信号)になります。
映画のロケセットが多く残る幾寅駅ですが、残念ながらテコ小屋については取り壊されてしまいました。
写真右側の砂利の辺りがテコ小屋の跡地ですね。
旧2番線の軌道は少しだけ残っています。
交換設備の廃止後しばらくは保守用車の留置線に使われていたようです。
線路の末端には3種甲車止めが付いています。
そんな旧2番線ですが駅構内西側の転轍機は撤去済み。
ホームの西端から駅構内西側を眺めると、1棟の平屋が目に映ります。
この平屋は国鉄時代、新得保線区金山保線支区幾寅検査班の詰所として使われていた物です。
幾寅検査班は新得保線区が合計9ヶ所を構えた「軌道検査班」の一つで、鹿越・幾寅周辺の線路の検査を担当していました。
新得保線区 職制 国鉄 区長 助役
かつて国鉄の保線区は換算軌道キロ5~6kmおきに、10名前後の線路工手から成る「線路班」を1班ずつ置き、2~4班の取りまとめ役として「線路分区」を構えていました。
換算軌道キロは本線軌道延長に側線軌道延長の1/3を加えたものですね。
線路班が担ってきた人力保線は随時修繕方式と言い、ツルハシを持って担当する区間を巡回し、レールやマクラギ、道床を見たり触ったりして検査を行い、異常を発見したら直ちに修繕を施すものでした。
しかし高度経済成長期に鉄道の輸送量が増大すると、それに伴い列車本数も増便された事により、保線作業の出来る列車間合が減少。
おまけに列車の速度も向上したために線路破壊が早まり、それでも運転回数が多いせいで十分な修繕の出来る時間が少ない…というジレンマを抱えてしまった訳です。
そこで国鉄施設局は「軌道保守の近代化」を計画し、線路分区に代わる現業機関として1963年4月から「保線支区」の設置を進め、限られた時間の中で集中的に検査・補修を行う「定期修繕方式」に移行していきました。
従前は混同していた検査と作業も完全に分離。
換算軌道キロ10~15kmおきに設置した「検査班」が支区長に報告した検査結果を元に、計画担当(計画助役および技術掛)が作業計画を策定し、作業助役を通じて「作業班」に修繕をさせるという業務体制に移行しています。
新得保線区でも「軌道保守の近代化」を図るべく、1966年10月1日に新得保線支区、1967年11月15日に金山保線支区を設置。
段階的に新体制へ移行し、山部検査班・金山検査班・幾寅検査班・落合検査班・新狩勝検査班・新得第一検査班・新得第二検査班・十勝清水検査班・御影検査班の計9班と、金山・新得の2作業班を設けました。
国鉄施設局は1982年3月より「線路保守の改善」を敢行。
釧路鉄道管理局でも1983年11月1日に新体制へ移行しており、作業班は保線機械業務に特化した「保線機械グループ」、検査班は軌道検査に加えて工事計画と外注工事の監督を担う「保線管理グループ」に改組しました。
職名についても保線機械グループは重機保線長・重機副保線長・重機保線係の3段階、保線管理グループは保線管理長・保線副管理長・保線管理係・施設係の4段階としています。
保線管理グループは「管理室」とも称しており、「新得保線区金山保線支区幾寅管理室」というような呼び方になりました。
しかし国鉄施設局は分割民営化を間近に控えた1986年度、保線支区・保線駐在・分駐所(管理室)の大規模な統廃合に踏み切ります。
釧鉄局管内でも同年8月1日に支区制から管理室制に移行・縮小し、なおかつ保線区の統廃合も実施。
新得保線区は帯広保線区(現:JR北海道帯広保線所)に統合される事となり、金山保線支区は「帯広保線区金山保線管理室」、新得保線支区は「帯広保線区新得保線管理室」に改組されました。
この組織改正では換算軌道キロ10~15kmおきに分散配置していた管理室(旧検査班)も廃止の対象となり、幾寅管理室はおよそ19年半の歴史に幕を下ろしました。
詰所は常駐する係員こそいなくなりましたが、幾寅周辺で保線作業を行う際の休憩所として活用されています。
こちらは単式ホーム背面の様子。
傾斜は駅舎まで一直線という訳ではなく、中間に意味深な平地があります。
この平地には国鉄時代、1本の貨物積卸線が敷かれていました。
2番線ホームの裏手にも貨物側線がありましたが、どちらも線路は完全に撤去されています。
木造駅舎
木造駅舎
ホーム上から駅舎を見下ろした様子。
木造駅舎
ホーム上から改札口を眺めた様子。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
根室本線幾寅駅[3] 高倉健が立ったホームと金山保線支区幾寅検査班
※写真は全て2021年4月17日撮影
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最終更新日 : 2022-02-13