上川管内は空知郡南富良野町字幾寅にある、JR北海道の幾寅(いくとら)駅。
幾寅の市街地には南富良野町役場があるため、幾寅駅は実質的な同町の代表駅と言えます。
なお、自治体の名を冠した「南富良野駅」は存在しません。
幾寅という地名の由来は市街地の南に流れる「ユクトラシュベツ川」だと言われています。
アイヌ語の「ユㇰ・トゥラシ・ペッ」を意訳すると「鹿が越える川」となります。
当地に和人が初めて入植したのは1899年で、山口県人の森本京蔵が開拓の先駆者でした。
本格的な開拓に至ったのは2年後の1901年。
ユクトラシュベツ原野の区画測量を経て未開地の貸付が始まり、伊勢団体(代表:木村幸次郎)、岐阜団体(代表:坂井儀之助)などの団体移民や単身移民が入植します。
そして松井農場・内藤農場・辻村農場・原谷農場・村上農場なども開かれて開拓が活発化。
幾寅は南富良野きっての農耕地帯となりました。
幾寅への一斉入植から1年後の1902年12月6日、幾寅駅は既に開業していた北海道官設鉄道十勝線鹿越~落合間に一般駅として開設されました。
当初は現在位置より少し落合寄りに駅を建設する予定でしたが、内藤農場の主である内藤正義が官設鉄道に300円を寄付し、自身の農場の入口付近に駅の位置を変更させたと言われています。
駅西を流れる小川も内藤農場に因んで「内藤の沢川」と名付けられており、往時を偲ぶ事ができます。
幾寅駅の付近には市街地が形成され、鉄道の開業は開拓の急速な進展に繋がりました。
越中団体(代表:中川幸次郎)の入植に加え、浅野農場・山畔農場・久住農場などの農場が開業したほか、水口牧場・浅野牧場・篠崎牧場・尾崎牧場など牧畜を始める箇所も現れました。
また、これらの開拓事業には伐採作業を伴うため造材事業も盛んになり、幾寅の産業は畑作・牧畜・林業の3本柱を為しています。
十勝線は1905年4月1日、国鉄に移管。
その後は1909年10月12日に釧路線、1913年11月10日に釧路本線と2度に渡る改称を経て、1921年8月5日の全通により現名称の根室本線となりました。
JR北海道 国鉄 JR貨物 臨時列車 ローカル線 キハ40系 キハ40形 ヨンマル
具体的な日付は不明ですが1921年、旭川営林局幾寅営林署が原木輸送の効率化を図るべく幾寅森林軌道(森林鉄道幾寅幹線)を敷設しました。
幾寅森林軌道は湯ノ沢から幾寅川に沿って南西へ下り、国鉄幾寅駅構内の貯木場に至る14.8kmの路線でした。
しかしぬかるんだ土壌に機関車はしばしば足を取られ、設備投資をするにも採算が合わないとして1928年に廃止されてしまいました。
稼働期間は僅か7年、短命な森林鉄道です。
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新狩勝トンネル内には上落合信号所があり、安全輸送とスピード化が図られていた。同じ南富良野町内にありながら、幾寅駅と落合駅の間は約9粁の距離があり、森林鉄道の貯木場も両駅にそれぞれ設けられていた。原木輸送の研伐地域が大きく異なることから、幹線も幾寅幹線と落合幹線の2つの線区で運用されてきた。
旭川営林局の幾寅営林署が管轄するこの広大な山岳地帯のうち、寒帯の南限に属する森林の殆どは、針葉樹と広葉樹の混合天然林によって占められていた。明治41年(1908年)に旭川営林区署が創設された当時から、幾寅、落合、トマムの3地域で官行研伐事業として原木の生産が行なわれてきたが、原木の搬出は専ら流送と積雪期の馬曳きや人力橇による搬出が主であった。そのため、搬出と輸送効率の改善に向けて、森林鉄道の設置が必要とされるようになった。大正10年(1921年)、根室本線幾寅駅の構内に設置された貯木場から空知川支流の幾寅川の流れに沿って、上流域の湯ノ沢まで、森林鉄道幾寅幹線の軌条が敷設された。以後、研伐現場の山土場と貯木場の間を、6噸の蒸気機関車が運材車を牽引して原木を搬出するようになったが、上流部の一帯は湿地が多く、機関車が軌条と共に地中に沈み込んでしまうことが多かった。そのため、路盤整備や採算の面から見直しが図られた結果、昭和3年(1928年)に幾寅幹線軌条は廃止された。幾寅幹線の軌条は約14.8粁に達し、年間約2万石の原木を幾寅駅の貯木場へ搬出していた。
《出典》
松野郷俊弘(2017)『北海道の森林鉄道』(北海道新聞社事業局出版センター)p.72
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国鉄の話に戻りましょう。
書籍『南富良野町史 下巻』(1991年/南富良野町役場)によると、1933年2月に幾寅駅の初代駅舎が全焼する事件が起きています。
本書によると初代駅舎は「駅乗降口が旧市街(現栄町)方向であったが」「再建時に現在の方向に乗降口を変更した」(p.92より抜粋)といいます。
ここで言う「乗降口」はホームの事ではなく、実際には駅舎の正面玄関を指しているものと思われます。
「現栄町」というのは「幾寅栄町」の事で、かつて駅南側の集落に付けられていた旧住所ですね。
つまり初代駅舎は線路の南側に建っていた事が読み取れる訳です。
それが再建によって1933年6月、反対の北側に現駅舎(2代目駅舎)が落成。
駅の表と裏がそっくり入れ替わってしまいました。
幾寅駅構内には市街地の南北を結ぶ跨線橋や構内踏切も無いため、駅南の住民達にとっては寝耳に水だった事でしょう。
何せ列車を利用する時は遠回りを強いられるはめになった訳ですからね・・・。
1938年4月23日、駅構内における立売営業が鉄道弘済会に吸収されました。
1966年9月30日、根室本線落合~新得間において狩勝峠越えのルートを変更し新線が開業(地元では“新狩勝線”と呼ばれる)、同時に富良野~新得間が自動信号化しています。
これに伴いタブレット閉塞が御役御免になり、幾寅駅におけるタブレット交換も廃止されました。
1981年10月1日に石勝線が開通すると、道央と道東を結ぶ特急・急行の大半が石勝線経由に変更されました。
1982年11月15日には幾寅駅の貨物フロントが廃止されています。
国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
これに伴い全国各地の小駅で小荷物フロントを一斉に廃止する事となり、幾寅駅も例に漏れず小荷物扱いを終了しました。
1984年12月1日には遂に無人化。
翌1985年4月1日には簡易委託駅となり、『南富良野町史 下巻』によると近隣住民の渋谷宏さんが乗車券類の販売と駅構内の清掃などを受託していました。
1987年4月1日、分割民営化によりJR北海道が幾寅駅を継承。
1999年6月5日には浅田次郎さんの短編小説を原作とする映画『鉄道員(ぽっぽや)』が公開。
幾寅駅は『鉄道員』の劇中において、架空の駅である「幌舞駅」として登場します。
幌舞駅は高倉健さん演じる主人公・佐藤乙松が駅長を務める終着駅で、かつては炭鉱町・幌舞の玄関口として賑わいましたが、閉山後は所属線である幌舞線ともども廃止寸前まで追い詰められてしまいました。
『鉄道員』はそんな幌舞駅を主な舞台とし、仕事一筋に生きた佐藤乙松の鉄道人生を顧みる物語です。
ちなみに劇中には根室本線の起点である滝川駅も、これまた幌舞線の起点である「美寄駅」として登場します。
現実の幾寅駅では2003年4月1日、18年間に及ぶ簡易委託営業が終了しました。
2016年8月31日には台風10号が北海道に上陸し、根室本線富良野~音別間が甚大な被害を被ります。
このうち新得~音別間は同年12月22日までに順次復旧し、富良野~東鹿越間も同年10月17日に運行を再開。
しかし東鹿越~落合間は土砂災害のダメージが深刻で、この区間では列車代行バスを運行する事になりました。
不通区間は一向に復旧されず、2017年3月28日には列車代行バスの運行区間を新得駅まで延長。
その後は不通区間の在り方を巡り、廃止したいJR北海道と復旧したい沿線自治体の間で平行線を辿り続けます。
そんな中、2018年9月に簡易委託営業がひっそりと復活しました。
以前は一個人が乗車券類の販売を受託していましたが、此度の再開では南富良野まちづくり観光協会が新たに受託。
幾寅駅に隣接する「南富良野町情報プラザ」と、国道38号線沿いにある「道の駅南ふらの」の2ヶ所で軟券を販売しています。
JR線の利用促進を図るつもりで始めたのでしょうか?
ただし、この観光協会はどうもPR下手なようで公式サイトにすら切符の販売に関する書き込みは無く、簡易委託窓口の存在はあまり知られていません。
2022年1月28日、遂に沿線自治体が根室本線富良野~新得間のバス転換に合意。
今後は当該区間の廃止に向けて議論を進めていく事になりました。
現在の幾寅駅は岩見沢駅を拠点駅とする岩見沢地区駅(担当区域:室蘭本線栗沢~岩見沢間、函館本線幌向~滝川間、根室本線滝川~落合間)に属し、地区駅長配下の管理駅である富良野駅が管轄する簡易委託駅です。
先述したとおり駅舎は1933年6月に落成した2代目で、緑色のギャンブレル屋根を持つ木造下見張りの平屋です。
正面玄関の右脇には「鉄道員ロケ地」の看板が立っています。
正面玄関に掲げた「幌舞駅」の駅名板。
ロケから四半世紀が経とうとしていますが、未だに本来の駅名ではなく架空の駅名を掲げています。
ちなみに駅舎の正面右側をよく見ると・・・
・・・小さくて目立ちませんが「幾寅駅」の駅名板も掲げています。
正面玄関にある集札箱(きっぷ受箱)と運賃表。
これらは列車代行バスの運行開始に伴い設置された物ですね。
駅舎の東隣には駐輪場があります。
通学に列車代行バスを使う高校生などが、ここに自転車を停めているのでしょう。
駅前広場には『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影に供するため、苗穂工場で車体改造を施したキハ40-764が静態保存されています。
改造の内容はヘッドライトの1灯化、パノラミックウインドウの平面化、側面窓の「バス窓」化などで、1999年1月8日に落成。
劇中では引退間近の国鉄型気動車「キハ12-23」として登場し、乙松や杉浦仙次(小林稔侍さん演じる美寄駅長)は「キハ」と呼んでいましたね。
一応はキハ12形のつもりだそうですが、実際のキハ12形とはあまりにもかけ離れた姿ですw
しかもキハ12形は22両しか製造されていないため、キハ12-23という車号も実在しませんでした。
前面には「ぽっぽや号」のヘッドマークを掲出。
映画の公開が終わった後も「キハ12-23」は劇中の姿のまま営業運転に就きました。
車内には出演した俳優達のサインが飾られ、臨時快速ぽっぽや号として走る事もありました。
しかし改造によって車体の強度に問題が生じ、老朽化が進んだために2005年6月24日付で廃車。
前面窓の小型化により、運転士からは「視認性が悪い」と不評を買ってもいたそうです。
営業線上で「キハ12-23」の姿が見られたのは僅か6年半の事でした。
2005年10月には幾寅駅前で隠居生活を開始。
移設に伴い車体はカットされています。
後に回ればご覧のとおり。
「キハ12-23」の裏手には「鉄道員記念植樹」の針葉樹がどっしりと構えています。
これは映画『鉄道員(ぽっぽや)』の完成を記念し、高倉健さん、小林稔侍さん、降旗康男監督らが植えたプンゲンストウヒ(コロラドトウヒとも)です。
「キハ12-23」の隣には、これまた劇中に登場した「だるま食堂」が残っています。
ここで志村けんさん演じる炭鉱夫・吉岡肇が飲んだくれていましたね。
高倉健さんも志村けんさんも亡くなり、寂しくなったものです。
「だるま食堂」の裏側は窓一つ無い波トタン板。
この建物は当地に元から建っていた訳ではなく、映画の撮影に使うために建てられたロケセットです。
駅前広場には『映画「鉄道員」ロケセット』と書かれた看板が立っており、いくつか映画用の建物が残っています。
こちらは「井口商店」の平屋。
店名の看板は残念ながら紛失しています。
「ひらた理容店」は看板も健在です。
レースカーテンのおかげで、今も誰かが暮らしているかのような臨場感がありますね。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
根室本線幾寅駅[1] 内藤農場と『鉄道員(ぽっぽや)』の「幌舞駅」
※写真は全て2021年4月17日撮影
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最終更新日 : 2022-02-13