引き続き2021年11月23日に開催された「旭川駅新駅舎グランドオープン10周年記念イベント」の模様を取り上げましょう。
今回も1階南コンコースのパネル展を観覧します。
この写真パネル展は旭川市博物館・旭川市中央図書館の協力を得ており、初代駅舎から現在の4代目駅舎に至るまで、旭川駅の歴史を写真で辿れるようになっています。
2008年7月に撮影された3代目駅舎の全景。
駅舎に直結して左側にHBC(北海道放送)旭川放送局、右側に旭川エスタが建っていますね。
HBC旭川放送局は前回記事で触れたとおり、1991年9月に旭川駅で移転オープンしました。
旭川エスタはJR北海道の子会社・旭川ターミナルビル㈱が運営していた駅ビルで、旭川ターミナルホテルとの合築でした。
HBC旭川放送局は4代目駅舎の建設工事に伴い2010年10月、旭川市1条通8丁目に再度移転。
4代目駅舎完成後の2012年7月31日に閉店し、旭川ターミナルホテルも同年9月30日に閉館しました。
旭川ターミナルビル㈱も解散に至り、その用地は北海道ジェイ・アール都市開発㈱が継承。
そして旭川市役所の都市計画「北彩都あさひかわ」に合わせ、イオンモール㈱との共同により「イオンモール旭川駅前」を2015年3月27日に開業しています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 函館本線 石北本線 宗谷本線 臨時列車
晩年の3代目駅舎における象徴だった三角格子の「大時計」。
この大時計は2005年頃に設置されたそうです。
その前は駅名を大きく示すネオンサインが立っていました。
3代目駅舎の正面玄関には大きな2体のニポポ人形が置かれていました。
ニポポとは元々、樺太アイヌの言葉で「小さな木の子供」を意味します。
しばしば「網走の民芸品」と言われるニポポ人形ですが、元々は樺太に住むアイヌの人々が作る人形だったんですね。
太平洋戦争末期にはソ連の侵攻から逃れるべく、樺太の先住民である樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタの人々が北海道や青森県などに命からがら移住しました。
ニポポ人形もその頃に北海道へと伝わり、特に樺太先住民の移住者が多かった網走に定着したそうです。
1954年には網走刑務所でも刑務作業の一環としてニポポ人形の製作を開始し、2年後に網走市の観光土産として販売するようになりました。
旭川駅のニポポ人形は子供ではなく、高齢の夫婦を模した姿です。
これらは旭川市大町2条15丁目で「中村工芸」を営む彫刻家・中村流和さんが製作しました。
中村工芸は1988年に設立された工芸品店です。
ニポポ人形は駅舎建て替え後に中村工芸が引き取り、暫く同社の社屋前にて展示公開していました。
その後、隣町の上川郡東川町にある道の駅ひがしかわ「道草館」に譲渡され、現在はショーウィンドウの中から来客を出迎えています。
3代目駅舎1階にあったツインクルプラザ旭川支店。
そのルーツは国鉄旭川鉄道管理局が1965年9月、旭川駅を含む管内主要8駅に配置した「鉄道渉外主任」です。
札幌鉄道管理局が1963年6月に配置した「鉄道セールス主任」と同様、旅客掛・貨物掛の中から担務指定を行ない増収活動に当たらせました。
1972年8月には全国的な駅販売機構(旅行センター・営業センター・観光センター等)の整理・統一化により「旭川駅旅行センター」が発足しました。
分割民営化後の1991年3月20日には「旅行業本部」の新設に伴い、駅長の指揮管理下から独立した現業機関である「旅行センター旭川支店」に改組。
同時に「ツインクルプラザ」の愛称が定められ、より機動的なセールスを展開していきました。
しかし旅行商品のインターネット直販が普及する等の要因により、2010年代は売上の減少に歯止めが利かなくなりました。
そして2021年2月28日、鉄道渉外主任時代から通算して56年の販売活動に終止符を打ちました。
旭川駅改札口に設置された日本最北端の自動改札機。
「総合案内所」の札が懐かしいですね。
こちらは旭川エスタ・旭川ターミナルホテルへと続く連絡通路。
自動ドアの手前にある微妙な坂が若干煩わしかった記憶がありますね。
生まれ変わった駅ビルのイオンモール旭川駅前は、駅舎からビル内までずっと平坦なので気楽です。
古き善き「民衆駅」の情緒を感じられたコンコース。
左右に飲食店、ベーカリー、お菓子屋、宿泊案内所など様々なテナントが集まっていました。
旭川駅内郵便局とレストラン「サンレスト」。
4代目駅舎の竣工後も駅内郵便局は健在ですが、サンレストは残念ながら3代目駅舎の閉鎖と運命を共にしました。
3代目駅舎の待合室。
4代目駅舎は待合室とコンコースを融合していますが、3代目駅舎時代はガラス戸で仕切っていました。
室内では立ち食い蕎麦屋が営業していました。
こちらは地下にあった旭川ステーションデパート。
1960年6月3日、3代目駅舎の一次開業と共に開店しました。
ラッチ内の地下通路と連絡する改札口もあり、エルダースタッフ(定年再雇用)と思しき初老の駅員達が交代で改札業務に当たっていたそうです。
そう言えばついこの前、秋田駅に足を運んだのですが、そこも駅ビル改札口に初老の駅員が立っていましたね。
ステーションデパートには旭川ラーメンの有名店「蜂屋」が支店を設けていました。
蜂屋は豚骨とアジ節で取った白湯スープに、焦がしたラードをドロリと浮かべた醤油ラーメンが人気のお店です。
もちろん道内ラーメン店の例に漏れず、醤油・味噌・塩の3味を揃えています。
店名の由来は1946年の創業当時、蜂蜜入りの黄色いアイスクリームや、コムハニー(蜂蜜入りの蜂の巣)を砕いて載せたソフトクリームを作って販売していたから。
その頃はアイスクリーム屋だったという蜂屋ですが、翌1947年にはラーメン屋に鞍替えし75年の歴史を刻んできました。
旭川ステーションデパートは2004年4月30日、44年の歴史に幕を下ろしました。
蜂屋の旭川駅支店は移転する事なく、ステーションデパートと共に閉店。
2022年現在、蜂屋は旭川四条駅近くの本店と、旭川駅北の飲み屋街「5・7小路ふらりーと」にある五条創業店の2店舗を営業しています。
こちらは1番線ホームのラッチ内コンコース。
地下通路の階段とエスカレーターが伸びていました。
旭川駅構内は単式ホーム1面1線、島式ホーム3面6線を配置しており、このうち駅舎側の単式ホームが1番線でした。
各ホームは地下通路で結ばれており、富良野線の6・7番線まで伸びる地下通路は幅員が狭くなっていました。
こちらが富良野線の発着した6・7番線ホーム。
緑色のトタン屋根を持つ平屋が建っており、玄関に「西部運転室」の表札を掲げています。
しかし真昼間にも拘らずカーテンが閉まっており、駅員の気配は全く感じられません。
国鉄時代の大規模駅では運転取扱業務に携わる部門を、輸送本部、東部運転室、西部運転室、南部第一運転室、南部第二運転室・・・といった具合に分散配置するケースが多く見られました。
もちろん中枢は輸送本部で、ここに輸送総括助役、計画助役、指導助役、配車助役、輸送助役、運転掛、配車掛などを配置。
各運転室には操車掛、信号掛、構内作業指導掛、構内作業掛などを配置していました。
駅によっては運転室を「運転事務室」と称する場合もありました。
旭川駅西部運転室は富良野線に係る列車扱い、操車、連結作業などを担当していたのかなあ・・・と推察。
それが国鉄末期~分割民営化後に実施された駅業務執行体制の見直しにより、担当者の常駐を取り止めたという事なのでしょう。
こちらは1番線ホームに面した駅長室。
玄関前に黒々とした巨石が置かれています。
こちらは1番線ホームのキヨスク。
店の頭上には鉄柱が乱立し、手前にも中途半端な門を構えています。
香港の九龍城ほどではないですが、なかなかに混沌としたスポットです。
こちらは2・3番線ホームにあった旭川駅立売㈱の売店。
駅弁や土産などの販売に加え、立ち食い形式によるラーメンと蕎麦の提供をしていました。
懐かしい駅弁の立ち売り。
4代目駅舎の完成後は見かけなくなりましたね。
2010年2月の「旭川冬まつり」における一コマ。
駅前に何かの建物を模した氷像が築かれました。
大時計のライトアップとよく合います。
2009年7月、3代目駅舎の裏で建設工事が進む4代目駅舎を捉えた1枚。
この2年後に新旧駅舎はバトンタッチを果たす事になります。
写真パネルに混じって「旭川の想い出 メッセージボード」が置かれています。
新駅舎10周年を記念し、旭川市民や元JR北海道社員、鉄道ファンなどが綴った「思い出カード」が集まりました。
読んでみると「3代目駅舎の頃は地下通路の移動が大変だった」というエピソードが多いですね。
中には東日本大震災の直後、被災地から旭川に移住したと思しき人の書き込みも。
以下に一部を抜粋しましょう。
高校を卒業した18歳の暑い夏
岩見沢にあるグリーンランドから帰って来た時に地下にあるステーションデパート(まごころタウン)でごはんを食べプリクラを撮った思い出があります。早いもので23年の月日が流れましたが今も鮮明に覚えている印象深い旧旭川駅。
現在の新しい旭川駅では、駅裏のガーデンでお茶をのみながら景色をみるのが好きです!夕日はすごくきれいです。時と共に周辺景色の変化を楽しむ様になりました。
旭川出身のある方を旧旭川駅まで車で送った際、当時地下1階にあった蜂屋でラーメンを食すのが定番でした。食券で前払いシステム。駅舎とラーメンの味わいが、どこかひなびた雰囲気で発車時刻を待ったものです。今、その思い出を胸に現駅舎を歩いています。今から20年前のハナシです。
“富良野線7番ホーム”は中富良野から旭川に通学していた私には恐怖のホームでした!
乗り遅れそうになり地下通路を走った事・・・忘れません!61才になった今でも時々夢を見ます・・・ 冷や汗かいて目が覚めます 笑
今から57年も前になりますが駅で清掃、給水、放送等の見習いとして仕事をしておりました。その時色々と国鉄の業務についてご指導を頂きました。その後転勤を重ね、駅近くの関連会社で退職をしました。今でも当時を思い出しております。
新駅舎が出来た際にも、近くの職場で仕事をしながら、感動して涙を流していたのを思い出として駅周辺を散歩している毎日です。(――OBです)
旧駅舎の時から列車をよく使用していました。
以前は、入口から入っていくつもある所を時間と出発時間と戦いながら走っていた記憶が今でも残っています。
そして、昔は窓ガラスもなく、冬はとても寒かったので、今は違って良いと感じました。
時々、昔今の写真展示がされるので、色々な思い出がよみがえり、嬉しくなります。
今から50年程昔に友達4人と年に2回旭川に遊びに行くのが何よりの楽しみでした。丸井今井デパート、ボーリング場があり、名寄から朝1番5時半の汽車にのって1日遊んで帰った青春の私と汽車と旭川駅の思い出です。(T.N 70代)
旧旭川駅の地下に床屋があった。
行事の前、祖父がよく通っていて、買い物帰りに祖母とむかえに寄っていた。
床屋さんがくれるパラソルチョコレートやスティックキャンディ、今、スーパーなどでみかけると、とてもうれしいなつかしさがわいてくる。
東日本大震災の直後に転職して旭川に来ました。
旭川駅は、ちょうど前駅舎がとりこわし中で昔のホームの間をつっきって、改札口を出たことを覚えています。(ひょっとしたら転職試験、前半11月の記憶かも)
ということで、今の駅舎しか知りませんがデザインがすばらしく、全国に誇れる駅舎だと思います!
ふと記念入場券売り場に目を向けると・・・。
朝一番の大行列とは裏腹に、入場券の在庫がまだまだ多い様子。
旅行者と思しき男性が、並ぶ手間なく営業助役から入場券を受け取っていました。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
旭川駅新駅舎10周年記念パネル展を観覧する[2]
※写真は2021年11月23日撮影
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最終更新日 : 2022-01-23