空知管内は岩見沢市有明町南にある、JR北海道の岩見沢(いわみざわ)駅。
南空知の中心都市にして、北海道庁空知総合振興局の本拠地でもある岩見沢市の中心部に設けられた駅です。
道庁の前身である開拓使は幾春別川の川辺に1878年、札幌~幌内間の道路開削工事に従事する人達のために官設休泊所を開設しました。
この休泊所には浴場があり、土木作業員達が湯浴みをして体を癒したと伝わっています。
彼らは工事現場で唯一の憩いの場を次第に「浴澤」(ゆあみさわ)と呼ぶようになり、これが転訛して「岩見澤」という地名になった訳です。
それから5年後の1883年、新潟県人の狩野末治が官設休泊所を借り受けて住み着き、宿屋と渡し守を営むようになりました。
土木作業員達は道路工事が終わると岩見沢を去ったため、狩野氏こそが岩見沢に定住した初の和人だと言われています。
ただしこの時は集落を形成するに至っておらず、本格的に開拓が始まったのは1884年からです。
移住士族取扱規則の公布に応じて10県の士族が小樽に上陸し、官設鉄道幌内線の列車に乗り込み開業したばかりの岩見沢駅まで移動してきました。
岩見沢に入植した士族は277戸、1,503人に上り、このうち136戸は山口県人、105戸は鳥取県人でした。
1884年10月6日には設村の告示によって岩見澤村が開村となり、戸長役場と郵便局も開設されています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 岩見沢駅 鉄道の街 鉄道の町 鉄道のまち 中継ヤード 岩見沢操車場 炭鉱 炭鉄港
1892年8月1日に北海道炭礦鉄道室蘭線室蘭~岩見沢間が開業すると、岩見沢は空知地方における交通の要衝となりました。
特に空知炭田の各炭鉱(万字・幌内・美唄・茶志内・奈井江・上砂川・歌志内・赤平・芦別など)で産出した石炭の輸送における中継地点として栄え、駅の南西には広大な操車場が設けられました。
駅の周辺には岩見沢車掌区、岩見沢第一機関区、岩見沢第二機関区、岩見沢客貨車区、岩見沢保線区、同岩見沢保線支区、同東岩見沢保線支区(※西岩見沢保線支区は無い)、岩見沢電気区、同岩見沢電力支区、同岩見沢信号支区、同岩見沢通信支区、札幌建築区岩見沢建築支区、岩見沢レールセンターといった現業機関が集結。
これらの業務を監督する岩見沢運輸長室もあり、他に国鉄職員の福利厚生施設として岩見沢診療所と岩見沢配給所が置かれていました。
様々な職種の国鉄職員が大勢暮らし、弘済美装㈱や札建工業㈱、㈱猪股組など協力会社の社員も共に働く岩見沢はまさしく国鉄の企業城下町といった趣きで、「鉄道の町」としてその名が知れ渡りました。
国鉄末期~JR北海道初期の合理化によって職場が減り、大勢の鉄道職員が岩見沢を去りました。
しかし岩見沢駅、岩見沢運転所、岩見沢保線所、同岩見沢保線管理室、岩見沢電気所、岩見沢レールセンターの各現業機関に加え、北海道クリーン・システム㈱札幌鉄道支店JR岩見沢営業所、北海道軌道施設工業㈱岩見沢出張所・岩見沢機械センター、㈱ドウデン岩見沢メンテナンスセンターといった子会社の事業所が健在。
かつての活気こそ失われましたが「鉄道の町」らしさは健在です。
JR北海道 国鉄 岩見沢フラグステーション 木造駅舎 岩見澤駅
開業当時の岩見澤駅(移転前?)
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.8より引用
ここからは岩見沢駅の大まかな歴史を辿っていきましょう。
岩見沢駅の公式見解によると1882年11月13日、官設幌内鉄道札幌~幌内間の延伸開業に伴い開設されたといいます。
岩見沢駅は国鉄時代に『岩見沢駅七十年史』(1953)、『岩見沢駅80年史』(1962)、『岩見沢駅90年史』(1972)、『岩見沢駅100年のあゆみ』(1982)と計4冊の記念誌を発行しており、一貫して「明治15.11.13 岩見沢駅開設(当時職員1名)」と年表に記しています。
これら記念誌は北海道立図書館と岩見沢市立図書館に蔵書がありますので、興味のある方はご覧いただくと良いでしょう。
私は『七十年史』を除く3冊を所持しています。
ただし国鉄北海道総局が編纂した書籍『北海道鉄道百年史 上巻』(1976)は岩見沢駅の開設時期を1884年8月15日とし、なおかつ「岩見沢フラグステーション」という簡易停車場だったとしています。
これに関連して道立図書館北方資料デジタルライブラリーで公開中の『幌内鉄道敷地並用地図. 4 自江別至幌内』(布施義方・米山熊次郎/1883)という巻物を見ると、現在の岩見沢駅の位置に「技手詰所 岩見澤用地」と書かれています。
技手詰所から西へ線路を辿ると「幾春別川」と明記された小川がありますが、幾春別川の本流は鉄道の北方を流れているので、これはすぐ南の利根別川に繋がる「旧幾春別川」を指しています。
そして旧幾春別川のすぐ西側に「停車場用地」があり、現在の住所で言うと上幌向南1条1丁目、つまりスターゼンミートプロセッサー㈱石狩工場の辺りに駅が存在したらしいという事が読み取れるのです。
要するに1882年11月13日の延伸開業時は旧幾春別川の畔に岩見沢駅が存在し、1884年8月15日に現在地へ移転したという事なのではないかと考えられます。
この頃は移住士族取扱規則の公布に伴い札幌県勧業課岩見澤派出所が開設され、入植者の受け入れを開始したので駅移転もタイミングを合わせて実施したのでしょう。
しかし気になるのは移転前の岩見沢駅が、あの立地ではたして利用者がいたのだろうかという事。
先述したとおり岩見沢の本格的な開拓が始まったのは1884年の事で、しかも開拓地は現在の岩見沢市街だったため、旧駅付近はそもそも無人地帯だったはずなのです。
おそらくですが職員1名が勤務したという事なので、実際は駅というより信号場的な存在だったのではないかと思います。
或いは札幌県勧業課が元々、旧駅付近を開拓地として入植者を誘致する予定だったものの、すぐ傍を流れる利根別川の氾濫を懸念して計画を変更したのかも知れません。
岩見沢駅構内 旧駅舎 国鉄 JR北海道 跨線橋
1905年頃の岩見沢駅
岩見沢駅90年史編さん委員会(1972)『岩見沢駅90年史』(岩見沢駅長 竹田小太郎)p.11より引用
1889年12月11日、官設幌内鉄道は北海道炭礦鉄道㈱に譲渡され、手宮~岩見沢~幾春別間が同社の幌内線となりました。
1891年7月5日、北海道炭礦鉄道空知線岩見沢~砂川~歌志内間(後の歌志内線を含む)が新規開業すると共に、岩見沢駅に隣接して岩見沢機関庫(後の岩見沢第一機関区→岩見沢運転所)を開設。
同年11月5日には札幌~岩見沢間に電信機(現字機)を導入し、鉄道電報の取扱いを開始しました。
1892年8月1日、北海道炭礦鉄道室蘭線室蘭~岩見沢間が開業。
1893年には岩見沢駅の駅舎が移転改築となりました。
1900年10月、岩見沢駅に隣接して車両工場の岩見沢工場が開設。
苗穂工場が発行した記念誌『百年のあゆみ 鉄輪を護り続けて一世紀』(2010)によると、岩見沢工場は組立職場・木工職場・旋盤職場・鍛冶職場・製罐職場・鋳物職場などから成り、約400~500人もの職員が勤務したといいます。
1904年3月4日、北海道炭礦鉄道は本社を札幌から岩見沢に移転しました。
JR北海道 国鉄 岩見沢駅 駅員 出札助役 旅客掛(出札担当) 営業掛(出札担当) 出札掛
岩見沢駅出札室で働く駅員達(出札助役・営業掛・旅客掛)の記念写真
岩見沢駅90年史編さん委員会(1972)『岩見沢駅90年史』(岩見沢駅長 竹田小太郎)p.65より引用
1906年10月1日、北海道炭礦鉄道は鉄道国有法の適用を受けて国有化。
1909年10月12日、明治42年鉄道院告示第54号の公布によって国鉄の路線名称が制定される事になり、岩見沢駅関連では函館~旭川間が「函館本線」、岩見沢~幌内・幾春別間が「幌内線」と名付けられました。
同年12月6日には函館本線江別~岩見沢間が複線化されています。
1910年2月3日、岩見沢工場の木工職場を苗穂工場に移管し、木工職43名が転勤となりました。
岩見沢工場は1915年8月21日を以って廃止となり、同日付で苗穂工場岩見沢派出所が発足しましたが、それも長続きせず同年10月11日付で廃止。
以降は岩見沢で車両の製造・修繕を行わなくなりました。
1923年12月20日には函館本線岩見沢~東岡(信)間、1924年5月31日には同東岡(信)~美唄間が複線開通しています。
岩見沢操車場 岩見沢駅輸送本部 岩見沢駅構内 貨物列車 貨車ヤード 石炭輸送 大規模操車場
運転事務室、信号扱所、てこ扱所、転轍手詰所が構内各所に点在する岩見沢操車場
写真左手前に建つ大きな木造平屋が岩見沢駅輸送本部で、ヤードの中枢機能を担った
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.8より引用
1926年8月15日、駅南西に岩見沢操車場が開設されました。
岩見沢操車場は独立した現業機関ではなく、岩見沢駅に属する貨車ヤードとして機能。
操車場構内東側に岩見沢駅輸送本部が置かれ、外勤総括助役(後の輸送総括助役)を筆頭に計画助役、輸送助役、配車助役、運転掛(後の運転主任)、車号掛(後の配車掛)などが詰めて運転整理、構内作業ダイヤ・作業内規の策定、構内各詰所に勤務する駅員(信号掛・操車掛・転轍手・連結手など)への作業指示、貨車の配車事務、勤怠管理といった業務を処理しました。
輸送本部以外に設置された詰所は操東運転事務室、操東信号扱所、操東てこ扱所、操南信号扱所、操南踏切警手詰所、操西運転事務室、操西信号扱所、操西てこ扱所、操西転轍手詰所の計9ヶ所。
開設当時の操車能力は1日平均1,617両で、道内外各方面に向かう貨物列車の組成・仕訳を一手に担いました。
特に空知炭田で産出した石炭を全国各地に届ける重要な中継地点として、岩見沢操車場は計画助役の下で構内設備の改良を重ねていきました。
ちなみに国鉄時代の岩見沢駅では岩見沢操車場と区別するため、駅本屋(駅長室のある駅舎)が置かれた一般駅構内を「本屋」と呼んでいました。
駅本屋のみならず隣接する旅客ホーム、貨物ホーム、中央運転事務室、駅東運転事務室、駅西運転事務室などもひっくるめて「本屋構内」と称したので若干ややこしいですね。
これが根室本線帯広駅なら1968年9月30日にオープンしたコンテナ基地を「帯広貨物駅」、従前からある旅客ターミナルの方を「本駅」と呼び分けていました。
本屋より本駅の方が分かり易い表現だと思いますが如何でしょうか?
本駅構内にあった跨線橋テルファー
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.33より引用
1930年3月25日、新しい荷役設備として本駅構内に跨線橋テルファーを設置しました。
これまで岩見沢駅では旅客ホームで荷物車の積卸作業を行う際、プラットホーム間における小荷物の運搬に渡線車(鉄道線路を横断する手押し車)を使用していました。
しかし渡線車を押す荷扱手は触車事故のリスクと隣り合わせになるため、労災を未然に防ぐべく設備改良を施したという訳です。
1931年6月16日、本駅構内に旅客案内用放送装置を設置しています。
岩見沢駅 旧駅舎 3代目駅舎 ギャンブレル屋根 木造モルタル建築
岩見沢駅の3代目駅舎
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)表紙より引用
1933年12月24日、3代目駅舎としてギャンブレル屋根を持つ大型木造モルタル建築の駅本屋が完成。
しばしば「マンサード屋根」と呼ぶ鉄道ファンが見受けられますが、それは四方が腰折れになった屋根を意味するので間違っています。
岩見沢駅の場合、切妻面の左右を腰折れ屋根としているのでギャンブレル屋根(gambrel roof)が正解です。
さて、岩見沢駅の記念誌4冊には「昭和16.5.1 覆布修繕場、経理部から岩見沢駅に移管」と書かれています。
駅業務として布の補修をやっていたというのが意外です。
しかしこの「覆布修繕場」ですが、具体的にどのような用途の覆布を修繕していたのか判然としません。
覆布(おいふ)は読んで字の如く「覆う布」なので、おそらくは無蓋貨車の積荷を雨風から護るために被せる布を修繕していたのだろうとは思いますが…。
JR北海道 岩見沢駅本屋構内配線略図 岩見沢駅構内配線略図 配線図
岩見沢駅の本屋構内における構内配線略図
PCの右クリックまたはスマホのタップで拡大画像を表示できます
岩見沢駅90年史編さん委員会(1972)『岩見沢駅90年史』(岩見沢駅長 竹田小太郎)p.49より引用
1943年10月25日、函館本線苗穂~岩見沢間が自動信号化されました。
1944年6月1日には函館本線岩見沢~美唄間が自動信号化、同年9月30日には室蘭本線志文~岩見沢間が連動閉塞化されています。
太平洋戦争の戦局悪化が続く中、1945年7月1日には「旅行統制官」が配置されました。
戦時中の日本では1944年2月から「決戦非常措置」を発令し、国民の遊覧旅行を「不要不急の旅」として厳しく制限しようとしていました。
特に鉄道は軍需物資の輸送が第一として乗車券の販売制限を強化する事になり、長距離旅行については「旅行証明書」を提出しなければ切符の購入を認めないものとしました。
しかし実際には警察のチェックが困難で制度が麻痺し、結局は駅長の判断に委ねる事になってしまったのです。
そんな中で生まれた職種が旅行統制官で、駅長からの業務分担によって緊急要務者に対する乗車券販売の特別承認などを引き受けました。
岩見沢操車場構内配線略図 岩見沢駅操車場 JR北海道 国鉄 JR貨物 岩見沢駅構内配線略図
岩見沢操車場の構内配線略図
PCの右クリックまたはスマホのタップで拡大画像を表示できます
岩見沢駅90年史編さん委員会(1972)『岩見沢駅90年史』(岩見沢駅長 竹田小太郎)p.48より引用
終戦後の1945年12月24日、岩見沢駅に進駐軍のRTO(Railway Transportation Office/鉄道司令部)が置かれました。
RTOは連合軍専用列車の運行に携わる部門で、国鉄・私鉄に対して専用列車を運転するよう指令を発していました。
言わば進駐軍専用の輸送指令ですね。
全国各地の鉄道職員がRTOの将校から高圧的かつ理不尽な扱いを受けたと聞き、その心労たるや戦後生まれの我々には想像を絶するものでしょう。
戦後の混乱期は治安が悪化したため、岩見沢駅も構内の警戒・取締りを担う警備掛を23名配置。
警備掛の勤務は1948年11月25日を以って終了し、その職務は鉄道公安室に移行しました。
1951年5月7日、駅舎正面に駅名ネオンを掲出しました。
1952年4月18日、岩見沢駅覆布修繕場が鉄道弘済会の請負となりました。
鉄道弘済会は勤務中の事故で身体障害を負った国鉄職員の救済を目的として設立された財団法人で、障害者の雇用創出にも取り組んでいます。
覆布修繕場は公益事業に要する財源を確保するために受託したという事なのでしょう。
ちなみに北海道クリーン・システム㈱の前身に当たる弘済美装㈱も、元々は障害者の就労支援を果たすために鉄道弘済会が設立した会社です。
国鉄 JR北海道 岩見沢駅貨物事務室 岩見沢駅貨物扱所 貨物掛 貨物助役 駅員
岩見沢駅貨物事務室で働く駅員達(貨物助役・貨物掛)の記念写真
玄関右手には「貨物扱所 FREIGHT OFFICE」との看板を掲げている
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.56より引用
1952年9月1日、小口扱貨物積卸作業の請負を開始しました。
同年10月13日、岩見沢市内の浄土真宗願王寺で岩見沢駅殉職者慰霊祭を執行。
その1ヶ月後の11月13日に開駅70周年記念祝典を挙行し、1953年1月1日に初の記念誌となる『岩見沢駅七十年史』を発刊しました。
国鉄 営業関係職員の職制 駅員 指揮命令系統図 職名 岩見沢駅 組織図
資料と聞き取り情報を基に作成した岩見沢駅の職制・組織図
PCの右クリックまたはスマホのタップで拡大画像を表示できます
1953年6月9日、駅連区規程により「岩見沢駅連合区」(岩見沢連区)が発足しました。
駅連合区とは営業活動の中心を従来の「駅単位」から、複数駅が連帯する「地域単位」に改め、共同で定めた収入目標の達成を目指して孝動するために編成された組織です。
連区に属する駅のうち大規模な箇所を「幹事駅」とし、そこの駅長を「連絡駅長」として連区の代表を任せました。
連絡駅長の配下には営業推進担当として「連区助役」を置き、連区に属する各駅の収入管理や広報活動、業務委託駅に対する営業指導、無人駅の管理に当たらせていました。
この駅連合区は戦後の公共企業体設立を契機に全国的な設置に至ったもので、岩見沢連区においても岩見沢駅長を連絡駅長に指定しました。
なお、岩見沢連区の担当区域は函館本線幌向~茶志内間、室蘭本線志文~岩見沢間、万字線全区間、幌内線全区間です。
JR北海道 国鉄 岩見沢駅構内 岩見沢駅操車場 岩見沢駅操西運転事務室
岩見沢操車場の西側にあった「岩見沢駅操西運転事務室」
岩見沢駅100年史編さん委員会(1982)『岩見沢駅100年のあゆみ』(岩見沢駅長 佐藤英夫)p.35より引用
1953年12月15日、岩見沢操車場構内にある操西運転事務室の改増築が竣工しました。
同年12月20日には本屋において改札事務室の新設工事が落成。
年が明けて1954年2月27日には小荷物室の改修工事が竣工、更に同年3月23日には出札室・乗客掛室の模様替え工事が完成するなど、駅構内建築物の改良が相次ぎました。
岩見沢操車場 岩見沢駅構内 操北ヤード 操北受渡線 仕訳線
建設工事が佳境となり、まもなく使用開始になろうとしている操北ヤード(1956年9月撮影)
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.25より引用
1956年9月10日、岩見沢操車場の構内北側に「操北ヤード」がオープンしました。
これによって岩見沢操車場は操東ヤード・操西ヤード・操南ヤード・操北ヤードの4ブロックで構成される事になりました。
操北運転事務室 岩見沢駅操北運転掛事務室 岩見沢操車場 駅員 輸送助役 操車掛 信号掛 転轍手 連結手
岩見沢駅操北運転掛事務室で働く駅員達(運転掛・信号掛・操車掛・転轍手・連結手)の記念写真
構内職でありながらヘルメットではなく制帽を着用している点に時代を感じる
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.63より引用
操北ヤードには同構内で操車・信号扱い・連結作業等を担当する「岩見沢駅操北運転事務室」が設けられました。
同運転事務室が管轄する詰所は操北信号扱所、操北てこ扱所の2ヶ所がありました。
1957年12月22日には操北受渡線の改良工事が完成しています。
少し遡りますが1957年6月1日、本屋構内東側に4本の検炭線と1本のガス線が新設され、使用を開始しました。
検炭線には1棟の検炭場が建っており、ここで石炭車に積んだ石炭の検査を行っていたそうです。
1958年10月16日、室蘭本線志文~岩見沢間が単線自動閉塞化されました。
岩見沢駅西運転事務室 岩見沢駅構内 本屋構内
岩見沢駅の本屋構内西側にあった「岩見沢駅西運転事務室」
岩見沢駅100年史編さん委員会(1982)『岩見沢駅100年のあゆみ』(岩見沢駅長 佐藤英夫)p.35より引用
1958年11月29日、本屋の駅西構内に開通表示灯が新設されました。
駅西は岩見沢機関区(後の岩見沢第一機関区→岩見沢運転所)の出入区線や機待線がある一角で、運転事故の無い確実な構内作業の遂行を目指して設備改良を図った事が覗えます。
同年12月27日にはこれまた駅西構内で雪捨線の増設が為され、第一入換線が191m延伸しました。
翌1959年12月16日、駅西運転事務室は中央運転事務室と共に改築工事が完成しています。
岩見沢駅操北第一運転事務室 岩見沢操車場 岩見沢駅構内 貨車ヤード 駅員 操車掛 構内作業掛
岩見沢操車場の操北ヤードに置かれた「岩見沢駅操北第一運転事務室」の記念写真
岩見沢駅90年史編さん委員会(1972)『岩見沢駅90年史』(岩見沢駅長 竹田小太郎)p.77より引用
1961年9月28日、大所帯だった操北ヤード構内の操北運転掛事務室が2つに分離し、「操北第一運転事務室」と「操北第二運転事務室」が発足しました。
操北第一運転事務室は岩見沢操車場の北西に置かれ、操北第二運転事務室は輸送本部に程近い仕訳0番線沿いに置かれました。
同年10月1日には室蘭本線志文~岩見沢間の線路容量不足を解消するため、操車場西側を経由する5.3kmの新線が開通。
操南ヤード経由の旧線と共に使用されました。
1962年5月15日、操西ヤード構内の操西信号扱所が火災により全焼。
火事の原因は不明だといいますが、建て替え工事は猛スピードで進み、同年6月29日に新築落成しました。
紆余曲折ありましたが10月3日、岩見沢市内の曹洞宗禅洞寺で岩見沢駅殉職者慰霊祭を執行。
10月10日に2冊目の記念誌となる『岩見沢駅80年史』を発刊し、10月13日には開駅80年記念祝典を挙行しました。
1965年1月8日、歩行者専用跨線橋の工事開始と引き換えに中央通り踏切道(第一種)が廃止になりました。
この跨線橋は「東1丁目人道橋」と言い、同年8月に完成しています。
岩見沢駅電話交換室 電話掛 国鉄 女性駅員 女性職員
岩見沢駅電話交換室における女性駅員(電話掛)の執務風景
岩見沢駅80年史編さん委員会(1962)『岩見沢駅80年史』(岩見沢駅長 斎藤好男)p.33より引用
1965年3月15日、国鉄当局の機構改正により駅の電信電話部門を全て、専門の現業機関である電務区へ移管する事になりました。
岩見沢駅にも鉄道電報の送受信を取り扱う「電信室」と、鉄道電話の回線を接続する「電話交換室」がありましたが、これらの業務も例に漏れず札幌電務区へと移行しています。
これにより部門長である電信電話助役をはじめ、電信掛5名、電話掛14名が岩見沢を去りました。
1966年11月10日、千葉県の内房線館山駅と姉妹駅になりました。
11月15日、操南ヤードの幌向通り踏切道が立体交差化。
12月21日には本屋構内の跨線橋テルファーの交換工事が完成し、使用を再開しました。
岩見沢駅輸送本部 岩見沢操車場 運転取扱業務
岩見沢操車場の東側にあった「岩見沢駅輸送本部」
岩見沢駅100年史編さん委員会(1982)『岩見沢駅100年のあゆみ』(岩見沢駅長 佐藤英夫)p.35より引用
1967年6月15日、岩見沢駅輸送本部新庁舎の新築工事が完成。
新しい輸送本部は鉄骨造りの2階建てで、面積は1,010㎡です。
この庁舎には輸送本部に加えて操北第二運転事務室、操東運転事務室も移転入居しました。
8月には駅員用の浴場も完成。
1967年度の岩見沢駅には延べ511名もの駅員が所属し、その内訳は駅長1名、助役26名、予備助役9名、営業掛2名、庶務掛13名、旅客掛29名、小荷物掛14名、貨物掛14名、運輸掛8名、運転掛10名、配車掛36名、操車掛54名、信号掛79名、駅務指導掛2名、駅務掛30名、荷扱掛(小荷物担当)19名、構内作業掛160名、踏切保安掛5名でした。
長くなったので今回はここまで。
《ブログ内関連記事リンク》
函館本線岩見沢駅[1] 空知炭田を支えた北日本最大級の操車場
※写真は特記を除き2020年11月24日撮影
スポンサーサイト
最終更新日 : 2021-11-03
1883年2月に定められた「札幌県下幌内鉄道賃銭表」(https://www.digital.archives.go.jp/img/3630347)には、「幌向太」と「岩見沢」の間に「郁春別」が存在しています(『北海道鉄道百年史 上巻』には、1883年2月設定の賃銭表として「郁春別」「岩見沢」を除去したものが掲載されているのですが、これは札幌以東開通時点でフラグステーションであったのは「白石」「幌向太」の2か所だとする同書の記述に沿ったものと思われます)。「郁春別」は1886年4月改定の賃銭表(https://www.digital.archives.go.jp/img/2461013)でも確認できますが、1888年1月の改定(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944572/6)では「白石」とともに見られなくなっています。
また「幌内鉄道敷地並用地図」の旧幾春別川西側「停車場用地」および「技手詰所岩見沢用地」周辺をよく見ると、どちらも線路用地内に四角形が描かれており、これが簡易停車場をあらわしているとすれば賃銭設定当初から「郁春別」「岩見沢」が存在することと矛盾しなくなります(『北海道鉄道百年史 上巻』によると1882年6月に郁春別休泊所、同年8月に岩見沢休泊所が起工されており、このうち岩見沢は1885年11月に新築の停車場が竣工しています)。
岩見沢への士族移住開始は1884年9月であり、これと前後して県勧業課派出所・戸長役場・巡査派出所・郵便局などが開設され市街地が形成されたことをふまえれば、同年8月にフラグステーションが設置されるというのはきわめて不自然であり、一般停車場への昇格が真相なのだろうと思いますが確証がありません。