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2021-06-27 (Sun) 11:40

函館本線江部乙駅[1] 屯田兵の林檎畑と「江部乙まちコミ隊」の駅カフェ

江部乙駅a01

空知管内は滝川市江部乙町西12丁目(旧:空知郡江部乙町西12丁目)にある、JR北海道の江部乙(えべおつ)駅。
1971年4月1日付で滝川市に合併・消滅した江部乙町の中心部に駅があります。
滝川市の中心街とは約7km離れていますね。
江部乙駅から約670m南東には、江部乙町役場の庁舎を再利用した滝川市役所江部乙支所(農村環境改善センター)があり、戸籍、市税、水道料金、国民年金などの窓口を設けています。
函館本線を挟んで東側に市街地を形成しており、駅前にある米屋の「新関商店」をはじめ、坪田金物店、浮穴米穀店、新山電器、石川家具店、小林精肉店(小林ジンギスカン)、野田呉服店、佐藤時計店、坂口化粧品店などの個人商店が点在しています。
国道12号線沿いには「道の駅たきかわ」があり、滝川産の合鴨を使った限定販売の「アイガモカレー」が人気を集めています。

江部乙という地名はアイヌ語に由来しますが、その語源は「ユペ・オッ」と「イペ・オッ・イ」の2説が提唱されています。
ユペ・オッ「チョウザメがたくさんいる所」、イペ・オッ・イは「鮭がたくさんいる所」という意味です。
どちらも江部乙町の西に流れる石狩川を指しています。
漫画『ゴールデンカムイ』の24巻で主人公の杉元佐一ら3人が、「海賊房太郎」の異名を持つ脱獄囚・大沢房太郎と石狩川の渡船で合間見えるエピソードを思い出しますね。
杉元と房太郎が水中でもみくちゃになっていると、突如としてチョウザメの大群が勢いよく遡上していきました。
同じ石狩川沿いの江別もユペ・オッに由来する地名で、野田サトル先生もそれを題材としたシーンを描いたという訳ですね。


江部乙駅 駅名板 駅名標 駅名看板 JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 林檎 リンゴ りんご
江部乙駅a04

江部乙に和人が入植したのは1894年5月。
区画を南北に二分して南江部乙兵村に第二大隊第五中隊200戸、北江部乙兵村に第二大隊第六中隊200戸、合計400戸もの屯田兵が一斉に移住しました。
集結した屯田兵達は何れも士族ではなく、募集に応じてやって来た一般平民でした。
南江部乙兵村は岩手県人6戸、千葉県人1戸、富山県人2戸、石川県人20戸、福井県人14戸、愛知県人1戸、大阪府人1戸、和歌山県人24戸、鳥取県人38戸、岡山県人2戸、山口県人2戸、徳島県人17戸、愛媛県人7戸、高知県人12戸、福岡県人42戸、佐賀県人3戸、大分県人3戸、熊本県人7戸、鹿児島県人1戸が入植。
江部乙兵村は岩手県人2戸、宮城県人1戸、茨城県人4戸、千葉県人1戸、富山県人14戸、石川県人28戸、福井県人15戸、愛知県人4戸、和歌山県人14戸、鳥取県人34戸、島根県人15戸、岡山県人4戸、徳島県人8戸、愛媛県人24戸、高知県人7戸、福岡県人21戸、佐賀県人1戸、大分県人4戸、熊本県人2戸が入植。
南北両兵村の内訳を見ると、鳥取県人と福岡県人が非常に多いですね。

士族出身者で構成された滝川の屯田兵村は中空知の警備という任務を負いましたが、対照的に一般平民が集う江部乙の屯田兵村は内陸部の開発・殖産に力を注ぎました。
中でも盛んだったのは林檎の栽培です。
江部乙に先駆けて1891年、滝川屯田兵は「寒冷地でも栽培しやすく、苗木の代金は給料から月賦で支払えば良い」という事で林檎を栽培し始めました。
その3年後に江部乙屯田兵が入植した訳ですが、江部乙は土壌が重粘土質のため畑作に適さない反面、林檎畑には適していたため彼らもまた林檎作りに着手するように。
試行錯誤を重ねて育て上げた林檎に「江部乙りんご」と名付け、地場の特産品として大々的に売り込みました。
すると1902年頃から道内各地の商人達が林檎の買い付けに訪れるようになり、1905年には北海道農産物品評会で一等賞を勝ち取るなど、江部乙は林檎の一大生産地へと急成長を遂げました。


江部乙駅 駅名板 駅名標 駅名看板 JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅
江部乙駅a03

その後、大正時代から昭和の戦後にかけて潅漑溝の整備が進み、これによって石狩川沿いの泥炭地が広大な水田に生まれ変わりました。
そして良質な米が獲れるようになると稲作農家が増加し、逆に林檎畑を営む果樹農家は減少の一途を辿っていきます。
最初はたった1人で菜の花畑20haを営んでいましたが、翌春に咲く黄色い花の美しさが評判になり、近隣の農家もこぞって菜種の栽培に勤しむようになりました。
そして現在、滝川市全体の菜種の作付面積は約180haを記録し、「日本一の菜の花畑」の絶景を求めて多くの旅行者が訪れます。


江部乙駅 国鉄 JR北海道 旧駅舎 開業式典
江部乙駅a02
江部乙駅(移転前)の開通式にて撮影された写真
滝川市史編さん委員会(1981)『滝川市史 下巻』(滝川市長 吉岡清栄)p.655より引用

前置きが長くなりましたが、江部乙駅の大まかな歴史を見ていきましょう。
江部乙駅は1898年7月16日、北海道官設鉄道上川線空知太~旭川間の延伸開業に伴い、一般駅として開設されました。
なお、この延伸開業と共に空知太駅が廃止になりましたが、以南の幌内線と以北の上川線の接続点として書類上は駅名を残したといいます。

開業当初の江部乙駅は現在地よりも約750m南方、西10丁目と西11丁目の中間やや北(現在の江部乙11丁目踏切付近)に設けられていました。
しかしこの場所が道路開削や家屋の建築に適さない泥炭地で、駅周辺の開発が期待できなかったため、1901年に現在地へと移転しています。

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 明治21年に鉄道用地が測量されて以来、10ヵ年を経た明治31年7月16日に上川線が開通し、江部乙駅が西10丁目と西11丁目の中間地点の西11丁目寄りに、滝川駅から4マイル63チェーン(約7.7キロメートル)に設置された。
 総建て42坪の木造平屋建ての江部乙駅であるが、この位置は飲料水も悪く、道路の開削や家屋の建築に適さない泥炭地帯で、駅周辺の発展に期待がもてないことから、明治34年に西12丁目の北側にある現在地に移転した。

《出典》
滝川市史編さん委員会(1981)『滝川市史 下巻』(滝川市長 吉岡清栄)p.655
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駅舎 鉄筋コンクリート造り JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 簡易委託駅
江部乙駅a05

1905年4月1日、北海道官設鉄道が国鉄に移管されました。
1926年2月には初代駅舎の老朽化により、そのすぐ北側に2代目駅舎を新築。
床面をコンクリート打ちにし、更に旅客増加を見越して2面のホームを繋ぐ跨線橋を建設しました。

1953年2月27日、現駅舎となる3代目駅舎が竣工。
ただし書籍『滝川市史 下巻』によると、竣工より17日前の1953年2月10日に「新駅舎での業務を開始」とあり、駅事務室だけ一足早く使用を開始していた事が分かります。

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 終戦後、江部乙町の人口もしだいに増加し、通勤通学に、またりんごの出廻期には買出しなど旅客が多く、駅が混雑するところから駅舎・跨線橋が狭く、また危険な状態であるので改築請願が関係方面になされ、漸く昭和27年10月新駅舎の建築着手となった。
 翌28年2月10日新駅舎での業務を開始、同月27日鉄筋コンクリート・総建て坪58坪(約191.5平方メートル)、〔事務室18.24坪、待合室33.42坪、休憩室その他6.34坪〕が工事費430万円をもって竣工した。

《出典》
滝川市史編さん委員会(1981)『滝川市史 下巻』(滝川市長 吉岡清栄)p.655
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駅舎 鉄筋コンクリート造り JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 簡易委託駅
江部乙駅a06

1954年9月26日、台風15号が北海道に襲来。
「洞爺丸台風」と呼ばれる事からも分かるとおり、青函連絡船最大の悲劇である「洞爺丸事故」を引き起こした台風です。
江部乙駅も被災し、跨線橋が崩壊しました。
新たな跨線橋は鉄骨コンクリート造りで建設し、1955年2月1日に完成しました。

1964年7月には函館本線滝川~深川間の複線化を目指し、下りホームの増設工事に着手。
翌8月に増設したホームの使用を開始しました。
1965年9月29日には深沢(信)~江部乙間、1966年9月24日には江部乙~妹背牛間が相次ぎ複線化しています。
1969年10月1日には滝川~旭川間が電化し(交流電圧20,000V)、江部乙駅にも電車が発着するようになりました。

1982年11月15日にはダイヤ改正に伴い、近郊の妹背牛駅や納内駅と共に貨物フロント業務が廃止されました。
同時に一般駅から旅客駅に格下げとなっています。

国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
これに伴い全国各地の小駅で荷物フロントを一斉に廃止する事となり、江部乙駅も例に漏れず小荷物扱いを終了しました。


駅舎 鉄筋コンクリート造り JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 簡易委託駅 簡易委託化
江部乙駅a07

1984年11月10日、旭川鉄道管理局が函館本線、深名線、宗谷本線、石北本線の4路線において営業体制近代化を実施。
これによって江部乙駅は改札業務を廃止し、出札業務と運転取扱業務のみ執行する体制に切り替わりました。
ちなみに書籍『滝川市史 続巻』(1991年)によると、貨物・小荷物の両フロント業務が健在だった1981年度は駅長1名、助役3名、職員10名の計14名が勤務。
ここで言う「職員」とは運転主任・営業管理係・営業係などの係職ですね。
それが拠点間直行輸送への転換が為された1984年度は職員3名の削減となり、国鉄解体を間近に控えた1986年度には助役1名を削減して10名体制に縮小しました。

1987年4月1日の分割民営化に伴い、JR北海道が江部乙駅を継承。
『滝川市史 続巻』によると1987年度の在籍駅員は駅長1名、助役2名、職員1名の計4名となり、一気に6名もの削減を為しています。
更に1990年度には助役2名を削減する代わりに職員2名を増やし、駅長1名、職員3名の計4名に改めています。
1997年12月19日、旭川市の近文駅と共に駅員無配置となり、同時に出札を近隣住民が引き受ける簡易委託駅となりました。



江部乙駅除雪作業員死亡事故a021
『北海道新聞』2001年2月5日付朝刊第1面より引用

2001年2月4日、除雪作業員2名が上り特急にはねられて死亡する事故が発生。
この時、作業員達は札幌CTCセンターから「転轍機の凍結により下り特急が動けない」との連絡を受け、3名1組で駅構内南側の現場に急行する途中でした。
道新の報道によると、死亡した2名のうち1名は江部乙町在住のパート作業員。
もう1名は作業監督兼列車見張員として旭川市から来ていたJR関連会社の社員で、40年以上に渡ってマクラギ交換やレール交換などの保線作業に携わってきたベテランだといいます。
どうやら北海道軌道施設工業㈱旭川支店の現業部門、旭川出張所に所属する軌道技術員(工事総括主任・工事技術主任・工事技術係・工事係など)だったようです。
何と2人は上り列車に対し背を向けた状態で、上り線路を歩いていたとの事。
降雪による視界不良に加え、「急いで処置しなければ」という焦りから注意力が散漫になり、列車の接近に気付けなかったようです。
以下に道新の報道を引用しましょう。

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滝川 特急にはねられ2人死亡
JR函館線 ポイント除雪に向かい

 【滝川】4日午後6時5分ごろ、滝川市江部乙町西12、JR函館線江部乙駅南側の踏切付近で、ポイント点検に向かう途中の旭川市永山町11、会社員五十嵐政春さん(63)と滝川市江部乙町1822、パート作業員高橋卓二さん(69)が旭川発札幌行き上り特急「ライラック22号」(4両編成、乗客120人)にはねられ死亡した。滝川署は事故状況について一緒にいたパート作業員(58)から聞くとともに、作業の安全確認にミスがなかったかどうか調べている。
  (関連記事社会面に)
 滝川署とJR北海道によると、五十嵐さんら3人は午後6時ごろ、札幌発旭川行き下りL特急がポイント装置故障のため江部乙駅手前で停車しているとの連絡をJR側から受け、同駅から約330㍍滝川寄りのポイントに向かった。
 事故現場はポイントから江部乙駅80㍍の滝川雨竜線踏切付近。五十嵐さんと高橋さんは上り線の線路上を歩いていて、はねられたらしい。残り1人の作業員は下り線にいて、無事だった。事故当時は雪が降っていて視界が悪かった。ポイントは雪が詰まったため作動しなかったらしい。同踏切の遮断機、警報機は作動していたという。
 五十嵐さんはJR関連会社の社員で作業を監督する立場、残る1人はポイントの除雪作業を担当する予定だった。
 事故の影響で、函館線の深川ー滝川間で特急2本、普通列車4本の計6本が運休したほか、他の列車に最大3時間30分の遅れが出た。下り線は午後7時9分、上り線は同9時20分に、それぞれ運転を再開した。

《出典》
『北海道新聞』2001年2月5日付朝刊 第1面
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JR死亡事故 ベテラン作業員がなぜ
近くの踏切、警報機作動

 【滝川】滝川市江部乙町のJR函館線江部乙駅近くで4日、列車にはねられ死亡した作業員2人のうち、五十嵐政春さん(63)は作業経験の長いベテランで、今回は「見張り員」の役割だった。事故はなぜ防げなかったのか―。2人の家族らは突然の訃報(ふほう)にがく然とし、悲しみに包まれた。
 JR北海道によると、ポイント装置などの除雪作業で線路内に立ち入る場合、作業員は事前に打ち合わせをして作業の場所や内容、開始時刻、列車の運行状況を把握した上で現場に向かうことになっている。
 事故は、直前まで3人がいた待機所から250㍍滝川寄りで起きた。事故当時、現場から30㍍ほど離れた踏切の遮断機、警報機は作動していたというが、悲劇は防げなかった。今回は3人1組で、五十嵐さんが見張り員の役割だったのに対し、残る2人が除雪を担当するはずだった。
 夫がJRの除雪作業員で、事故現場近くに住む主婦は「作業には必ず見張り役がいるのに、なぜ事故が」と驚く。また、近くの米穀店経営者も「電車が来るときは近くの踏切で放送が入るのに、気づかなかったのだろうか」と話す。
 五十嵐さんは40年以上線路のまくら木やレール交換などにあたってきた大ベテラン。長女の岸本あけみさん(34)は「正月に孫を連れて里帰りしたときに話したのが最後になってしまいました」と涙声で話した。
 事故後、高橋卓二さん(69)が運ばれた滝川市立病院に駆けつけた作業員仲間は「経験4年目の高橋さんはもう1人の作業員をリードする立場だった。早く除雪をしなければという責任感から急いでいたのではないか」と沈痛な表情で話した。

《出典》
『北海道新聞』2001年2月5日付朝刊 第33面 第3社会
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安全対策など関係者を聴取 JR死亡事故

 【滝川、旭川】滝川市江部乙町西12、JR函館線江部乙駅近くの線路上で4日夜、ポイントの点検に向かっていた作業員2人が特急列車にはねられ死亡した事故で、北海道運輸局は5日午前、事故原因を調査するため、鉄道部の職員3人を現地に派遣、関係者から事情を聴いている。JR北海道幹部らは同日午後死亡したパート作業員高橋卓二さん(69)=同市江部乙町1822会社員五十嵐政春さん(63)=旭川市永山町11=の自宅を弔問に訪れた。
 運輸局鉄道部職員3人は午前11時半ごろ、江部乙駅に到着。同駅構内でJR旭川支社職員、同駅を管理する深川駅の駅長などから事故当時の事情を聴いた。午後に事故現場を訪れる。
 一方、滝川署はJR関係者から事情を聴き、どのような安全対策を講じていたかなどについて調べを進めている。

JRが事故対策本部

 滝川市江部乙町のJR函館線江部乙駅近くで4日、作業員2人が列車にはねられ死亡した事故で、JR北海道は同日、事故対策本部を本社内に設置、5日午前、助かった臨時作業員(58)から事故現場周辺で事情聴取を行った。同本部はなぜ、通過列車が接近しているにもかかわらず、線路に入っていたかなど事故発生時の状況について確認を急いでいる。

《出典》
『北海道新聞』2001年2月5日付夕刊 第11面
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JR作業員2人死亡 雪深く?線路上歩く
規則違反、講習では指導

 4日午後、滝川市のJR函館線江部乙駅付近の線路上で作業員2人が特急列車にはねられ死亡した事故でJR北海道の柿沼博彦・事故対策本部長(鉄道事業本部長)は5日、同社内で記者会見し、作業員たちが同社の事故防止マニュアルに従わないで線路上を歩いたことが事故につながった可能性があるとの見方を示した。
 同社の調べによると、作業員は札幌列車集中制御装置(CTC)センターからの要請を受け、3人1組でポイント点検に向かった。
 3人は事故現場付近の滝川雨竜線踏切から線路敷地に入り、死亡した2人は上り線路上を歩いていて後方から来た列車にはねられた。列車の運転士は事故直前、線路上に人影を認め、警笛を鳴らして急ブレーキをかけたが間に合わなかったという。事故当時、線路の周辺は雪が深く歩きにくい状態だった。
 同社の触車事故防止マニュアルでは、ポイント点検など線路周辺の作業の際は、線路上を歩く、列車に背を向けて歩く―などの行為は禁止されている。同社は臨時作業員らに対しても、講習会で指導していたという。同社は、2人がなぜ線路上を歩いていたか引き続き調査する。
 また、死亡した見張り役の作業員は、音声で列車の接近を知らせる携帯式列車接近警報装置を持たずに作業に向かっていた。
 柿沼本部長は死亡した2人に哀悼の意を示すとともに、「基本的な作業手順、動作の遵守や作業現場と運行管理部署のより密な連絡を徹底するなどして再発防止に努めたい」と話した。

《出典》
『北海道新聞』2001年2月5日付朝刊 第16面 第2社会
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2003年4月1日、簡易委託窓口が廃止となり、江部乙駅での乗車券販売に終止符が打たれました。
普通列車のみ停車し、特急は全て通過します。


駅舎 鉄筋コンクリート造り JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 簡易委託駅
江部乙駅a08

駅舎は木造モルタル建築・・・と思われがちですが、先述したとおり実は鉄筋コンクリート建築です。
築60年を超えて外壁の塗装が剥がれ落ちるなどの老朽化が目立ったため、2016年に改修工事を行ない、同年12月12日に竣工しました。
江部乙町に広がる菜の花畑をイメージし、外壁を黄色と緑のツートンカラーに彩っています。
屋根のトタン板も「江部乙りんご」をイメージして赤く塗り直していますね。


駅舎 鉄筋コンクリート造り JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 簡易委託駅
江部乙駅a09
Googleマップのストリートビューより引用(2021年6月27日閲覧)

ちなみに改修前の姿はこんな感じ。
正面玄関前の階段には手すりがありませんでした。


江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 出札窓口 無人駅
江部乙駅a12
江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 出札窓口 無人駅
江部乙駅a11
江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 出札窓口 無人駅
江部乙駅a13
江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 出札窓口 無人駅
江部乙駅a14

待合室の様子。
駅舎の半分以上を占めており、広々としています。
掃除が大変行き届いており、「下手すれば有人駅の方が汚い所もあるな・・・」と思うほどです。


江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 出札窓口 無人駅
江部乙駅a15

簡易委託駅時代まで使用されてきた出札窓口。
現在は板で封鎖されていますが、出札棚が綺麗な形で残っています。


江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 出札窓口 無人駅
江部乙駅a22

出札棚には㈱中広が毎月発行する地域情報誌『SORA』をはじめ、中空知地方に関わる雑誌やパンフレットが並べてあります。


江部乙駅 待合室 コンクリート駅舎 JR北海道 国鉄 手小荷物窓口 無人駅
江部乙駅a16

一方、手小荷物窓口は跡形もありません。
2つの窓口の間には駅事務室の出入口があり、冬場は除雪作業員の詰所として活用されています。


江部乙駅カフェ 軽食喫茶店 江部乙まちづくりコミュニティー行動隊女子部
江部乙駅a18

江部乙駅待合室では2015年11月15日から、市民団体「江部乙まちづくりコミュニティ行動隊」(略称:江部乙まちコミ隊)の女子部が毎月第2日曜日、11:00~14:00に「駅カフェ」を開いています。
駅カフェの原点は國學院大學北海道短期大学部の舛井ゼミが、2013年秋から始めた江部乙駅の清掃活動。
これに江部乙町の主婦達から成る行動隊女子部が連携し、地元で作ったパンやコーヒーといった軽食に加え、野菜などを販売するようになりました。
そして女子部メンバー各々が持つ特技を活かし、ミニコンサートやワークショップも駅カフェに取り入れています。


江部乙駅カフェ 軽食喫茶店 江部乙まちづくりコミュニティー行動隊女子部
江部乙駅a17

2021年6月13日の駅カフェは、舛井ゼミの学生による『ゆうべおっと』の朗読、ヨガ教室に加え、ワークショップとしてシャボン玉づくりを開催しました。
駅カフェの予定は正面玄関窓の貼り紙や、待合室内の黒板を使って告知されます。



江部乙駅a19

旧手小荷物窓口には「まちづくりの始発駅に」と題して、駅カフェの歴史をまとめた模造紙を貼り出しています。



江部乙駅a20

その頭上には江部乙出身の日本画家、岩橋英遠(いわはし・えいえん)が手がけた「道産子追憶之巻」の一部が飾られています。
岩橋英遠は熊本県から入植した江部乙屯田兵・岩橋浅次の息子として、1903年1月12日に生まれました。
本名は英遠と書いて「ひでとお」と読み、「えいえん」は画家としての有職読みという訳です。
地元にいた頃は畑仕事を手伝いながら油絵を描いていたという英遠ですが、1924年に日本画家を志して単身上京し、「金剛山」や「渓山秋色図」などで知られる山内多門の画塾に入りました。

1934年には「新宿うら」で院展に初入選。
1950年には「明治」で日本美術院賞・大観賞、1954年には「庭石(月)(水)(雨)(雪)」で芸能選奨文部大臣賞、1972年には「鳴門」で日本芸術院賞・・・と数々の受賞に輝いています。
1979年には第20回毎日芸術賞を受賞すると共に、勲四等旭日小綬章を受章、更に故郷・滝川市の名誉市民となりました。

1994年には文化勲章を受章。
1999年7月12日に96歳で他界するまで洋画の手法を取り入れつつ、自然風景を写実的かつ幻想的に描写した日本画を数多く発表しました。
「道産子追憶之巻」は1978年に発表した超大作で、故郷を離れてなお抱き続けた北海道への郷土愛が全長29mの絵巻に注ぎ込まれています。



江部乙駅a23

玄関脇には地元住民が寄贈した本を集めた「ゆうべおっと他 江部乙の本いろいろ文庫」があります。
江部乙町文化団体協議会がかつて発行していた文芸誌『ゆうべおっと』をはじめ、『町村金五伝』(北海タイムス社)、『市制と発展の軌跡』(滝川市)、『滝川江部乙屯田兵屋』、『石狩川上流地域に於ける公害闘争史』といった貴重な書籍を読む事が出来ます。


江部乙まちづくりコミュニティ行動隊女子部 駅ノート
江部乙駅a25

改札口脇のテーブルには駅ノートが置かれています。
この駅ノートも江部乙まちコミ隊女子部が管理しており、「想い出つづりノート」の愛称が付いています。


江部乙まちづくりコミュニティ行動隊女子部 駅ノート
江部乙駅a26

「想い出つづりノート」は古いカレンダーの裏紙を活用しており、ファイルを開いて右側に裏紙を出すように綴っています。



江部乙駅a27

「想い出つづりノート」とは別に、鉄道ファンが置いていった駅ノートもあります。
そしてこんな所にまで「秘境駅同好会会員募集中」の紙が。
秘境駅同好会を名乗る割には、秘境駅認定の基準がガバガバすぎませんかねえ?
無人駅とはいえ江部乙駅は市街地にありますし、秘境駅とはとても言えない環境だと思うんですけど。
田舎にある無人駅なら何でも秘境駅呼ばわりしてんじゃないか?



江部乙駅a28

待合室の北側に倉庫があり、その手前には駅カフェ開催時に使用するカウンターが置かれています。


Mr.ゲーム&ウォッチ 江部乙駅 任天堂 男子トイレ 待合室
江部乙駅a29
Mr.ゲーム&ウォッチ 江部乙駅 任天堂 男子トイレ 待合室
江部乙駅a30

男子トイレのドアには何と、Mr.ゲーム&ウォッチがいます!


駅舎 鉄筋コンクリート造り JR北海道 国鉄 JR貨物 無人駅 簡易委託駅
江部乙駅a10

撮影当時は駅カフェ営業日ではありませんでしたが、それでも江部乙駅には江部乙まちコミ隊女子部の方々が姿を見せていました。
駅構内の花壇の手入れをしたり、待合室の掃除に精を出していました。


江部乙まちづくりコミュニティ行動隊女子部
江部乙駅a24

江部乙まちコミ隊は江部乙駅の美化活動や駅カフェ等が評価され、滝川市役所から2018年7月8日に表彰状を受けています。
駅カフェは2021年11月に6周年を迎えます。
これからも江部乙駅の活性化に尽力して頂きたいですね!


長くなったので今回はここまで。


※写真は特記を除き2021年5月22日撮影
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最終更新日 : 2021-07-04

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