タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2020-09-28 (Mon) 22:50

根室本線赤平駅[1] 炭鉱都市の代表駅は赤平三山のお膝元

赤平駅a01

空知管内は赤平市美園町1丁目にある、JR北海道の赤平(あかびら)駅。
当駅は空知炭田の一翼を担う炭鉱都市だった赤平市の中心街に位置します。
赤平で初の大型炭鉱は茂尻駅に隣接し、1918年7月に開坑した大倉鉱業㈱茂尻炭礦ですが、赤平市街の付近では更に前から石炭の採掘が始まっていました。

坂市太郎氏は岐阜県美濃国安八郡大垣田町(現:岐阜県大垣市)出身の士族で、北海道庁に技師として就職し来道。
アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンから指導を受けつつ道内の石炭資源を調査し、北海道炭礦鉄道への出向も経験しました。
1893年の退職に伴い北海道炭礦鉄道が放棄した上歌志内炭鉱(後の坂上赤平炭礦)を取得し、石狩石炭㈱への経営委託などを経て1917年に炭礦㈱を創立しています。
山下鉱業㈱も1919年1月、坂上赤平炭礦に隣接して山下上赤平炭礦を開坑しました。

坂・山下の両炭礦は昭和を迎えてから、北海道での炭鉱開発に本腰を入れた住友財閥に買収されています。
同財閥は坂炭礦の未開発鉱区だった赤平地区と山下上赤平炭礦をまとめて開発するべく、1937年4月から鉱業用地の買収に乗り出しました。
1937年6月には住友鉱業㈱(後の住友石炭鉱業㈱)を設立し、翌1938年8月に約63万5千坪の大規模炭鉱となった住友赤平炭鉱が操業を開始しました。
住友赤平炭鉱は赤平駅の南東に位置し、従業員数は1965年時点で4,787名に上りました。


住友赤平炭砿 JR北海道 国鉄 JR貨物 石炭列車 運炭列車 貨物列車 トロッコ
赤平駅(赤間炭鉱坑内軌道)
豊里炭鉱一坑坑口から現れた坑内軌道のバッテリーロコ
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.210より引用

赤平市街の近辺では他にも、豊里炭鉱、北炭赤間炭鉱といった大規模炭鉱が開坑しており、市内では茂尻・住友と合わせて「大手4炭鉱」、「赤平四大炭鉱」などと呼ばれています。
茂尻を抜いて住友・豊里・赤間の3ヶ所で「赤平三山」と呼ぶ事もありますね。
豊里炭鉱は昭和肥料㈱が石炭コークスの自給を目的に橋本炭礦(1922年11月開坑)を買収したもので、大正期に閉坑した長嶋炭礦の鉱区をも継承し1937年7月に開坑しました。
昭和肥料は富山県小矢部市にある同名企業とは無関係で、1939年6月に日本電気工業㈱と合併して昭和電工㈱となり、暫く「昭和電工豊里炭鉱」の名が近隣住民に定着していたといいます。
しかし炭丈が不十分かつガスの多い豊里炭鉱は不安定な経営が続き、戦後は労働争議の激化もあって昭和電工が炭鉱経営から手を引いてしまいました。
その後は1950年8月に東海産業㈱、1951年7月に同社から炭鉱部門を分離した東海鉱業㈱と事業主を転々としました。
1955年10月からは明治鉱業㈱の傘下となり、ようやく経営が安定に向かったといいます。
豊里炭鉱は赤平駅の西側に位置し、1952年時点で1,907名の従業員を抱えました。

もう一つの大規模炭鉱は北炭赤間炭鉱。
こちらは北海道炭礦汽船㈱が明治期に僅か1年で閉坑した奈江炭山を取得し、1938年12月に開坑しました。
赤間炭鉱は赤平駅から北東、空知川を越えたところにあり、その炭層は空知炭田の最北端だと言われています。
当たり前ではありますが、夕張炭田を含めた石狩炭田の中でも最北端です。
従業員数は1951年時点で1,712名でした。

これら赤平三山も例に漏れず、エネルギー革命によって閉山の道を辿る事になりました。
まずは1967年3月に豊里炭鉱が閉山。
次いで1972年2月に北炭赤間炭鉱が閉山。
住友赤平炭鉱は技術開発による採炭能率の向上、深部開発による生産力の底上げに努めましたが、1990年代に入ると深度採炭が限界に達し、1994年2月を以って55年間の歴史に幕を下ろしました。
各炭鉱が閉山して久しいですが駅前には「あかびら商店街」が今なお健在で、東大通に沿って数多の看板建築が軒を連ねる光景にかつての盛況を感じさせます。
あかびら市立病院や赤平市役所も駅の徒歩圏内です。


JR北海道 国鉄 JR貨物 赤平駅 旧駅舎
赤平駅(国鉄時代)a01
大勢の旅客で賑わう赤平駅プラットホーム(1951年撮影)
写真右手には住友赤平炭鉱の選炭場が見える
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.585より引用

赤平駅は1913年11月、国鉄釧路本線滝川~下富良野(現:富良野)間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
釧路本線は1921年8月に現路線名の根室本線に改称されました。
当初の駅名は「上赤平駅」で、この頃は空知川の下流に位置する幌岡を「下赤平」、上流に位置する赤平市街を「上赤平」と称したのだとか。
開業から1年後の1914年5月には、至近の地崎赤平炭礦(1913年開坑)が輸車路(坑外馬車軌道)を建設中で、上赤平駅まで専用線を敷設する計画である事が判明しました。

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 大正3年5月15日付『小樽新聞』が、地崎赤平炭礦の近況を報道している。それによると、過日、鉱主地崎宇三郎が来山、一般の視察を終えてから、更に技手・事務員も炭礦に配置が済んでおり、輪車路を建設中の土工夫達を励ました。採炭の準備も進めていて、5月中には出炭の準備は整う。地崎赤平炭礦は、上赤平駅にも近く、将来同駅より専用線を敷設する計画で、このほど当地方の鉱区及び炭層調査に出張中の三菱鉱山稲村篤太氏に依頼して一層の精密な調査を進めている。
 地崎赤平炭礦は、輸車路を使用して馬搬により、下富良野線が開通して間もない上赤平駅の貯炭場に搬出、地方にも販売したようである。

《出典》
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史』(赤平市)p.205
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どうやら地崎赤平炭礦の専用線は直後に完成し、国鉄線に連絡しての石炭輸送を展開していた可能性があるようです。
なお、地崎赤平炭礦は1917年5月に橋本信次郎氏へ譲渡され、1922年11月に橋本炭礦として生まれ変わりました。


豊里炭鉱専用線 豊里炭鉱選炭場 選炭機 JR北海道 国鉄 JR貨物
赤平駅(豊里炭鉱選炭場)
豊里炭鉱が赤平駅の西に開設した、選炭場の構内風景
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.210より引用

橋本炭礦は先述の通り、昭和肥料㈱に買収されて1937年7月に豊里炭鉱として開坑しました。
豊里炭鉱は上赤平駅の西側に大規模な選炭場を構え、専用線を介して石炭の鉄道輸送を行いました。


豊里炭鉱専用線 豊里炭鉱選炭場 地図 選炭機 JR北海道 国鉄 JR貨物
赤平駅(豊里炭鉱建築物配置図)
豊里炭鉱の建築物配置図(1956年)
地図の左手(南)に選炭場があり、赤平駅方向から専用線を敷いている
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.220より引用

ちなみにこちらは豊里炭鉱の建築物配置図。
地図の下上が東西、左右が南北となっており、根室本線の南側に選炭場を構えていました。
選炭場構内には坑外軌道の電車庫が併設されています。

他にも1920年2月、兵庫県人の木下成太郎氏によって木下炭礦が開坑されています。
木下炭礦は上赤平駅の南西に位置し、書籍『赤平市史 下巻』によると同駅まで馬車軌道を敷設して石炭を搬出しました。
1924年2月には帯広の高倉安次郎氏に採掘権が譲渡され、炭鉱名も新赤平炭礦に改称。
1934年5月に北海道拓殖㈱に譲渡されて寿炭礦、1939年9月に東洋鉱業㈱に譲渡されて東洋赤平炭礦・・・と採掘権者を転々とした後、戦時下の1942年5月に交付された企業整備令を受けて1943年5月に閉山となりました。
馬車軌道の詳細な歴史は不明ですが、少なくとも東洋赤平炭礦の閉山まで使用されたものと思われます。


ロープウェイ 索道 北炭赤間炭鉱 北海道炭礦汽船
赤平駅(赤間炭鉱索道)
北炭赤間炭鉱が赤平駅への石炭輸送に使用した索道
この索道は後年、坑道電車軌道に置き換わった
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.338より引用

一方、1938年12月に開坑した北炭赤間炭鉱は赤平駅裏に選炭場を開設。
本坑から空知川を横断して上赤平駅に至る索道(ロープウェイ)も敷設し、1939年7月に完成しました。
赤平市役所が発行した書籍『赤平八十年史』によると、赤間炭鉱索道の総距離は2,000mに及んだとの事です。


北炭赤間炭鉱 赤間橋 空知川 坑外軌道 坑外電車軌道 有線電車路 トロッコ
赤平駅(赤間炭鉱坑外軌道)
空知川の赤間橋(現在の赤間橋とは無関係)を渡る、北炭赤間炭鉱の炭車編成
北炭赤間炭鉱は坑外軌道に電車を導入しており、写真でも架線電柱を視認できる
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.338より引用

その矢先、1941年12月には赤間炭鉱の本坑と上赤平駅を結ぶ坑外電車軌道が敷設され、トロリーポールを装備した架空線電車が多くの炭車を牽引して石炭を搬出するようになりました。
どうやら索道は敷設されて直ぐにキャパシティの限界を迎えたらしく、電車の運行開始と共に廃止されました。
赤間炭鉱は現在の坑口神社跡付近(赤平市エルム町)に本坑の出入口があり、そこから電車軌道が空知川に沿って西に伸びていました。
そして電車は現在の赤平パークゴルフ場付近に架かっていた赤間橋を渡り、根室本線と交差して上赤平駅南側の選炭場まで石炭を輸送したのです。
ただし電車軌道はここが終点ではなく、更に西へ伸びて北炭赤間炭鉱末広坑(1939年10月開坑/旧:末広炭礦)に乗り入れており、同坑からも石炭を搬出しました。

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 赤間炭鉱の本坑以外の事業箇所は、赤平駅裏に設置された選炭機で、着業時に選炭機と本坑間までの鉄索工事も着手され、14年7月に完成をみた。また空知川に延長142.6㍍、幅員4.9㍍の赤間橋が15年に着工し16年12月1日に完成した。有線電車路も完成し、石炭の輸送は飛躍的に増加した。なお同赤間橋は閉山後、老朽のため使用禁止のまま長年放置されていたが、石狩川開発建設部により平成11年3月中旬、ようやく解体された。

《出典》
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.p.98,99
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1938年8月に開坑した住友赤平炭鉱も、1940年6月に選炭場と上赤平駅を結ぶ専用線の使用を開始。
国鉄線への直通列車による石炭輸送に取り組んでいます。



赤平駅(明豊炭鉱索道)
明豊炭鉱が石炭の搬出に使用した索道
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.232より引用

1943年6月、上赤平駅が現駅名の赤平駅に改称されました。
戦後の1958年1月には赤平駅の西方に明豊炭鉱が開坑しました。
同炭鉱は豊里鉱業㈱の租鉱炭鉱で、寿炭鉱(1951年7月開坑)、武田の沢炭鉱(1951年8月開坑)の租鉱権を明治鉱業㈱の子会社・明豊炭業㈱が引き継いだものです。
親会社の明治鉱業㈱は1960年3月、能率向上およびガス爆発事故防止を目論んで明豊炭鉱を水力採炭のテスト炭鉱に指定。
実験に伴う設備として石炭搬出用の索道を建設しており、赤平駅まで運び出していたようです。


国鉄赤平駅の運輸実績 貨物列車 貨物取扱量 乗車人員 降車人員
赤平駅(国鉄時代の運輸実績表)
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.582より引用

国内屈指の炭鉱都市・赤平に設けられた赤平駅は、国鉄時代に全道トップの貨物発送量を誇り、なおかつ全国的に見ても高水準の実績をキープしてきました。
1959年度の貨物発送量は全国2位となる1,506,958tを記録し、更に1960年度には梅田駅(現:JR貨物梅田信号場)を押しのけて全国1位の栄冠に輝きました。
この年の貨物発送量は1,784,160tで、しかも翌1961年度には1,973,180t、1963年度には2,326,873tと2回も自駅記録を更新しています。

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 赤平駅の貨物発送㌧数は、常に全道一を誇ってきた。全国一を争うのは大阪の梅田駅で、34年度は梅田駅に次いで全国2位となった。35年度は前年度の大阪梅田駅の発送㌧数の162万㌧を一躍16万㌧オーバーしたのである。赤平駅が抱えている住友赤平炭鉱、赤間炭鉱、豊里炭鉱は専用線を持っており、中小炭鉱、租鉱炭鉱など15炭鉱の出炭好調が、赤平駅の実績を押し上げたのである。国鉄営業局がまとめた全国収入番付でも、赤平は小結格であり、道内では横綱で、大関の浜釧路駅を1日平均80㌧も引き離している。
 36年度も全国一を目指していたが、浜川崎駅(神奈川・鉄鋼製品)、氷川駅(東京・セメント)が1、2位になったため、赤平駅は3位という地位に下がった。
 他の駅との発送㌧数との比較記録はさておいて、赤平駅の最高発送㌧数は、38年度に232万㌧を記録した。1日の発送㌧数8400㌧を7月に記録した。住友赤平鉱の立て坑完成による近代化、深部開発が進められ、9月からは斜坑ベルトが完成して更に出炭増が望まれた。この1日当たりの発送㌧数は、39年1月14日には8718㌧という最高記録を出した。しかしこの発送㌧数も、炭鉱のストライキ、冬期では吹雪による貨車繰りの悪化などが支障となる。

《出典》
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.p.581
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住友石炭鉱業赤平鉱業所 住友赤平炭鉱専用線 9600形蒸気機関車 さよなら運転 臨時列車
赤平駅(住友専用線ラストラン)
住友赤平炭鉱の閉山に伴う専用線ラストランでの花束贈呈
9600形19667号機の炭水車をよく見ると、側面に白い塗料で「さよなら赤平」と書かれている
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.586より引用

しかしトラック輸送の台頭やエネルギー革命が仇となり、赤平駅の貨物フロントも苦境を強いられました。
1967年3月に豊里炭鉱、1969年9月に北炭赤間炭鉱末広坑、1972年2月に北炭赤間炭鉱本坑が相次ぎ閉山すると、これら炭鉱の専用線も廃止されてしまいました。

一方、住友赤平炭鉱は逆境に負けじと採炭を継続。
選炭場の専用線では1975年12月、滝川機関区所属の9600形19667号機がラストランに臨みました。

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 このように順調そうに見えた石炭の鉄道輸送は、45年度を境にトラックに押されだした。45年度の場合、石炭のトラック輸送量が月平均4300㌧に達し、赤平駅からの石炭発送量も、全道3位に転落することになった。中小炭鉱の閉山が続き、大手炭鉱の豊里炭鉱も42年に閉山し、更に44年の茂尻炭礦閉山で茂尻駅が取扱量を減少させた。48年には赤間炭鉱が続き、唯一残った住友赤平炭鉱の専用線のSLも、50年12月8日をもって廃止された。赤平駅から2.04キロメートルの住友赤平炭鉱選炭機まで、岐線が敷設されたのは14年で、石炭輸送が開始されたのは15年6月からであった。この日住友赤平炭鉱の選炭機前では、住友の川島技師長、職員達と国鉄側から道総局滝川運輸長付の渡辺補佐、溝口赤平駅長等が出席して、32車のセキ車を連結した9600型SLに別れを告げた。最後の運転をする滝川機関区の山崎機関士、藤谷機関助士、赤平駅の楠田係の3人に、住友赤平炭鉱女子職員から花束が贈られた。出発は午後3時45分で、「さようなら赤平、5481列車」「SLさようなら」の看板を前にした19667号機関車が、一声、汽笛を残して動き出すと、集まっていた人達から期せずして、一斉に「ご苦労さん」の声が出た。赤平駅構内までの沿線には、機関車最後の勇姿を見ようとSLファンが詰めかけており、詰めかけたカメラマン達がしきりにシャッターを押す姿が見えた。

《出典》
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.p.581,585
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なお、ラストランにて花束贈呈を受けた駅員は「楠田係」とありますが、動力車乗務員は2人とも「山崎機関士」、「藤谷機関助士」と正式な職名を付しており、駅員だけ「係」の1文字のみというのは妙な話だと思います。
しかし『赤平市史 下巻』掲載の写真ではヘルメットに作業服着用の駅員が花束を抱えているため、おそらくは操車担当の運転係(旧:操車掛)か、その上級職の輸送管理係だったのでしょう。





そして余談ですが『赤平市史 下巻』の引用文ではこの後、「この日を期して、住友赤平鉱の岐線は廃止になり、石炭の輸送は全面的にトラックに切り替わったのであった」(p.585)と書かれています。
この記述は間違いで、実際の住友赤平炭鉱は1989年3月まで鉄道を石炭輸送に利用しています。
末期の専用線の様子はプロカメラマン・工藤裕之さんの著書『追憶の鉄路―北海道廃止ローカル線写真集』(2011/北海道新聞社)や、Youtubeで公開されている「石炭列車」の動画で見る事が出来ます。
この頃は三井芦別炭鉱の石炭ともども、貨物列車に載せて北海道電力江別火力発電所まで輸送していたのだとか。


JR北海道 駅舎 JR貨物 国鉄 赤平市交流センターみらい 公民館 業務委託駅
赤平駅a02

国鉄末期の1982年3月、赤平駅の荷物フロント業務と清掃業務が㈱日本交通観光社に委託されました。
日本交通観光社は1955年12月に発足し、国鉄の自動車駅業務・鉄道駅業務の受託や駅構内への飲料自販機の設置・管理などを営んだ民間企業です。
公式の略称は「日交観」。
同社が創立30周年を記念し1985年に発行した書籍『30年史(年表)』には、「昭57.3 札幌鉄道管理局管内の次の6駅の荷物フロント業務・清掃業務を受託 様似 静内 清水沢 栗山 芦別 赤平」(p.30)と記録されています。
日交観は翌1983年5月、赤平駅の貨物フロント業務も受託しています。

赤平駅では1984年2月ダイヤ改正に伴い、専用線発着貨物を除く貨物の取扱いを廃止しました。
つまり住友赤平炭鉱専用線の石炭発送だけ取り扱うようになったのです。
1984年4月には旅客フロント(出改札・案内)も日交観に委託され、営業上は完全に業務委託駅となりました。
ただし委託業者の駅員には運転取扱資格が無いため、専用線発着貨物に附帯する操車・信号扱いは引き続き国鉄職員が受け持っています。


JR北海道 駅舎 JR貨物 国鉄 赤平市交流センターみらい 公民館 業務委託駅
赤平駅a27

1985年3月、荷物フロント業務が廃止されました。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道・JR貨物が継承し、2社間の受委託契約によりJR貨物が駅業務全般を引き受ける事になりました。
つまりJR貨物の駅員は貨物列車の構内入換のみならず、出改札業務や本線の信号扱いを一通りこなす契約とした訳です。
分割民営化当初はこのような受委託を適用する駅がチラホラと見られ、『鉄道ジャーナル』1996年3月号でも関西本線富田駅でJR貨物の駅員が切符を売る様子を取材しています。
新会社発足に伴い規定された職制でも、営業係の職務内容1行目に「旅客、貨物の取扱い及びこれらに附帯する業務」と記しており、受委託契約を前提にして駅員の役割を定めている事が分かります。
一方、これまで赤平駅の業務を受託してきた日交観は契約解消となりました。

1989年3月、住友赤平炭鉱の合理化に伴い選炭場の専用線が廃止されました。
同時に赤平駅における貨物取扱も消滅しましたが、JR貨物の駅員は暫く残って旅客フロント業務を続け、同年4月の受委託契約解消に伴い赤平から撤退しました。
この事はJR貨物が会社発足15周年を記念し、2003年に発行した書籍『JR貨物15年の歩み』にも書かれています。

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(8)平成元年4月1日
●現業機関の見直し
●北海道支社「赤平駅」の廃止
 旅客業務について、北海道旅客鉄道の直営とするため。
●関西支社「姫路駅」の新設
 貨物業務について、当社の直営とするため。
●関西支社「梅小路貨車区」の廃止
 梅田貨車区へ業務を移行するため。

《出典》
日本貨物鉄道株式会社(2003)『JR貨物15年の歩み』p.191
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JR貨物の撤退に伴い、旅客フロント業務はJR北海道の直営に移りました。
なお、住友赤平炭鉱は専用線廃止から5年後の1994年2月に採掘を終了。
同時に480名の従業員を解雇し、1994年5月を以って正式に閉山となりました。

1998年には近郊の芦別駅と共に業務委託化され、子会社の㈱日交観北海道が駅営業(出改札・旅客案内)を受託したため非運転駅となりました。
㈱日交観北海道は2001年3月、㈱北海道ジェイ・アール・サービスネットに社名変更しています。

2016年3月、北海道ジェイ・アール・サービスネットの業務委託契約が解消されました。
これに伴い同年4月を以って簡易委託化され、赤平市役所の職員が出札業務を担当しています。


JR北海道 国鉄 赤平駅 赤平市交流センターみらい 公民館 駅舎
赤平駅a03

現在の駅舎は赤平市役所が建て替えた、まるでホテルのような装いのコンクリート造り6階建て。
建物自体は「赤平市交流センターみらい」という公民館になっており、その館内にJR北海道の赤平駅が入居しています。
1999年3月の開館当初は赤平市役所が直轄で管理していましたが、2003年7月からNPO法人赤平市民活動支援センターに管理運営を委託。
同法人は2006年4月に指定管理者制度の適用を受けており、2020年現在に至るまで交流センターみらいの運営を続けています。


JR北海道 国鉄 赤平駅 赤平市交流センターみらい 公民館 駅舎
赤平駅a04

正面玄関の様子。
「JR赤平駅」の切り抜き看板よりも、「交流センターみらい」の筆文字の方がでかでかと躍ります。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a05
駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a06

1階ロビーの様子。
3階まで吹き抜けになっており、広々と開放感があります。
テレビの前には多数の椅子が置かれているので、列車やバスの待ち時間にもってこいですね。


交流センターみらい管理室 受付
赤平駅a24

テレビと向かい合わせの交流センターみらい管理室。
基本的に平日・土日祝の別なく毎日、NPO法人赤平市民活動支援センターの職員が常駐しています。
なお、交流センターみらいの休館日は毎年12月31日~1月5日です。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a08

ロビー頭上には大きなオルゴールからくり時計が設置されています。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a09

1階ロビーの西側には展示室があり、赤平市に縁のある品々を閲覧できます。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a10

こちらは交流都市紹介コーナー。
赤平市と交流協定を結んでいる友好都市の工芸品等が展示されています。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a12

国内では石川県加賀市と友好都市提携を結んでいます。
赤平には1895年4月、石川県江沼郡動橋(現:加賀市動橋町から寺西幸三郎氏率いる団体が入植したといい、後年に入植者の子孫らが動橋の人々と交流を持った事がきっかけで交流協定の調印に至ったそうです。
ショーケースの左手には加賀市の特産品である九谷焼、山中漆器が並んでいます。
その他、中国湖南省の汨羅市、韓国江原道の三陟市とも交流しています。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a13

こちらは地場産品紹介コーナー。
赤平市の特産品が陳列されています。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a14

上段やや右には茂尻興産㈱の木彫に加え、同社が近年展開している「妖怪メロッキモッ」のグッズが展示されています。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a18

その隣には赤平製紙㈱が製造している、エリエールのティッシュやトイレットペーパー。
赤平製紙は石炭産業に代わる新事業を開発するべく、大王製紙㈱と赤平市、北海道が一体となって1989年9月に設立した第三セクターでした。
2003年8月に第三セクター方式を解消しましたが、その後も大王製紙グループの一員としてエリエールのブランドに携わっています。
驚く無かれ、道内に流通しているエリエールは全て赤平製紙製!
炭鉱の閉山後も地元を盛り上げようと頑張っている会社があるのは嬉しいですね。


駅舎 待合室 赤平市交流センターみらい 公民館 エントランス
赤平駅a17

茂尻にはビジネスシーンを支える洋裁工場もあります。
手前のスーツは大阪に本社を構えるスーツメーカー・大賀㈱の子会社、北海道大賀クロージング㈱の赤平工場で製造されたもの。
同工場は東京や札幌のデパートで受けたオーダーを元に、職人が手作業で紳士服・婦人服を製造しています。
奥のキャリーバッグとビジネスバッグは、茂尻炭礦の跡地に工場を構えるエースラゲージ㈱が手がけたものです。


鉄道模型 C58形蒸気機関車
赤平駅a19

展示室にはC58形の1/12模型も飾られています。



赤平駅a20

1階ロビーの東側には「あかびらインフォメーション」というコーナーもありますが、こちらの展示物はごく少数。



赤平駅a21

中央には赤平市出身の立行司、34代式守伊之助(本名:棚田好男)から寄贈された装束が展示されています。


住友赤平炭鉱 塊炭 石炭 立て坑
赤平駅a23

その右手には住友赤平炭鉱の立坑を緻密に描いた絵画と、地下770mから産出された塊炭が展示されています。
塊炭のツヤ具合が実に見事。
石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれたのも肯けます。



赤平駅a25

1階東端のエレベーターホール。
正面の自動ドアを進むと駐車場に出ます。



赤平駅a26

エレベーターホールに掲示された1階の見取り図とフロア案内。
研修室や和室などを利用するには、利用日の3ヶ月から3日前までに使用許可申請書を提出する必要があります。
提出先は赤平市役所の社会教育課交流センターみらい管理係です。


長くなったので今回はここまで。


※写真は特記を除き2018年10月27日撮影
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最終更新日 : 2020-10-02

感謝 * by Daichan
父は昭和60年代まで赤平駅に勤め、私自身、駅に隣接した官舎で生まれ育ちました。こんなに詳しい解説を初めて読ませていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。ほんとうに、ありがとうございます。

Re: 感謝 * by 叡電デナ22
Daichanさん


どうも、返信が遅れまして申し訳ございません。
拙い文章ですがご感想を頂きありがとうございます。

昭和60年代という事は窓口営業が日交観に委託された頃ですね。
お父様は運転取扱に携わっていらしたのでしょうか?

また宜しければ当ブログをご笑覧ください。

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感謝

父は昭和60年代まで赤平駅に勤め、私自身、駅に隣接した官舎で生まれ育ちました。こんなに詳しい解説を初めて読ませていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。ほんとうに、ありがとうございます。
2021-09-07-08:46 * Daichan [ 編集 * 投稿 ]

叡電デナ22 Re: 感謝

Daichanさん


どうも、返信が遅れまして申し訳ございません。
拙い文章ですがご感想を頂きありがとうございます。

昭和60年代という事は窓口営業が日交観に委託された頃ですね。
お父様は運転取扱に携わっていらしたのでしょうか?

また宜しければ当ブログをご笑覧ください。
2021-09-11-21:56 * 叡電デナ22 [ 編集 * 投稿 ]